王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
その朝、麦冠王国の地下深く、静寂が支配するはずの「王立第一貯蔵庫」に、割れんばかりの悲鳴が響き渡った。
「…な、ない! 跡形もなく消えている!」
悲鳴の主は、普段は鉄面皮で知られる補佐官アルフレッドだった。彼の視線の先には、本来あるはずの巨大な木樽が置かれていた台座だけが、虚しく残されている。
そこにあったのは、十年に一度しか開封されない伝説の長期熟成ビール…『オールドエール』。建国記念祭の晩餐会で、諸外国の賓客に披露されるはずの、この国の威信を懸けた至宝である。
知らせを聞いて駆けつけた国王は、顔を真っ赤にして床を杖で叩いた。
「アルフレッド! あれは我が国の外交の要だ! もし見つからぬのなら、記念祭は中止、今日から王宮内は一生禁酒とする!」
「…い、一生禁酒!?」
背後で聞き捨てならない言葉を耳にした第一王子レオンハルトは、弾かれたように飛び出した。その顔は、国家の危機に対する憂慮ではなく、自らの「生命維持装置(ビール)」が絶たれることへの本能的な恐怖に支配されている。
「安心しろ、父上! このレオンハルト、たとえ地の果てまでも追い詰めて、その樽を取り戻してみせる! アルフレッド、現場を保存しろ! 犯人は致命的なミスを犯しているはずだ!」
「…殿下、急にやる気を出されるのは結構ですが、まずはその寝癖を直してください」
レオンハルトはアルフレッドの言葉を無視し、四つん這いになって貯蔵庫の床を這いずり始めた。
「フム…床に引きずった跡はない。魔導運搬具を使ったか、あるいは数人がかりで持ち上げたか。だが、そんなことをすれば衛兵が気づく。…だが、物質は隠せても、香りを隠すことはできん!」
彼は大きく鼻を鳴らし、空気中の目に見えない分子を必死に追い始めた。
「…嗅げ、アルフレッド。この微かに漂う、ダークフルーツのような濃厚なエステル香。そして、シェリー酒を思わせる熟成香と、ナッツのような香ばしさ。…間違いない。十年の歳月が育んだ『オールドエール』が、つい数時間前までここに存在し、そして移動した跡だ!」
「…殿下、人間の鼻でそんなことまで分かるのですか?」
「失礼な。私の嗅覚は、ビールのスタイルを三〇〇種類以上嗅ぎ分けるために最適化されている。…追うぞ。香りの『尾』はまだ続いている!」
レオンハルトは、まるで獲物を追う猟犬のごとき執念で、迷路のように入り組んだ王宮の回廊を突き進んでいった。
レオンハルトが辿り着いたのは、外交特使として滞在中の清泉王国の王女、クララの客室前だった。
「おいクララ! 出てこい! 私の至宝を隠したのは貴様か!」
ドアを激しく叩くレオンハルトに、不機嫌そうな顔をしたクララが姿を現した。彼女の手には、いつものようにキンキンに冷えたピルスナーのジョッキが握られている。
「なんですって? 朝から騒々しいわね。私がそんな、おじいちゃんの革靴みたいな匂いのする古臭いビールを盗むわけないでしょう! 盗むなら、もっとダイヤモンドみたいに輝くピルスナーにするわよ!」
「とぼけるな! ラガー派の陰謀で、エール派の最高傑作であるオールドエールを闇に葬ろうという魂胆だろう! 貴様、部屋の中に樽を隠しているな!?」
「失礼ね! 入って調べなさいよ!」
レオンハルトは部屋に乱入し、隅々まで鼻を利かせた。しかし、そこにあるのはクララが持ち込んだ「冷蔵魔石」によって極限まで冷やされた、彼女専用のラガー樽だけだった。
「…おかしい。香りがここで止まっている。だが、樽はない。クララ、貴様、魔法で香りを偽装したのか?」
「魔法の無駄遣いしないでよ! でも、そういえば…さっき料理長が、台車に大きな荷物を積んで裏口の方へ行くのを見たわよ。なんだか、すごく厳重に毛布を被せてたけど」
「料理長だと…?」
レオンハルトは再び思考を加速させた。
「料理長がなぜ…。いや、待て。香りが消えたのではない。ここには強力な『冷気』がある。冷気は香りの分子の動きを鈍らせるのだ。クララ、お前の冷蔵魔石のせいで鼻が狂った!」
「私のせいにするんじゃないわよ!」
「…いや、待てよ。冷気…冷やす…。オールドエールは、本来常温に近い温度で味わうもの。だが、もし誰かがその『劣化』を極端に恐れたとしたら? あるいは、その『熟成』を一時的に止めたいと考えたとしたら?」
レオンハルトは、王宮の厨房のさらに奥にある、ある場所へ向かって走り出した。
「地下の竪穴…『氷の貯蔵庫』だ!」
本来は冬に切り出した氷を一年中保存しておくための、王宮で最も気温が低い場所。その暗がりに、毛布でぐるぐる巻きにされた巨大な樽が鎮座していた。
「見つけたぞ…! 私の、私の愛しきオールドエールよ!」
「…そこまでです、殿下」
暗闇から現れたのは、麦冠王国の誇る老料理長だった。彼は悲しげな瞳を伏せ、レオンハルトの前に立ち塞がった。
「料理長…なぜ君がこんな真似を。君は誰よりもこの国の食文化を愛しているはずではないか。それを盗み出し、こんな氷漬けにするなど…」
「盗んだのではありません、殿下。私は…この子を守りたかったのです」
料理長は、樽を愛おしそうに撫でた。
「今年の記念祭、メインディッシュが急遽、北方から届いた『極上の鹿肉の煮込み』に変更されました。……殿下ならお分かりのはずです。今のままの、この暴力的なまでの個性を放つオールドエールでは、鹿肉の繊細な脂の旨味をすべて殺してしまう!」
「…なんだと?」
「この子は今、熟成のピークを迎えています。しかし、晩餐会までのあと数日で、さらに熟成が進み、酸味が強くなってしまう。それでは料理との調和(マリアージュ)が崩れるのです! 私は、この子を少しだけ眠らせ、香りを落ち着かせ、最高の状態で鹿肉と出会わせてやりたかった…!」
料理長の動機は、私利私欲ではなく、料理人としての究極のこだわりだった。彼はビールの品質を想うあまり、独断で「熟成の停止」を図ったのである。
レオンハルトは、深く、深く溜息を吐いた。
「…料理長。君のビールに対する情熱、そしてペアリングへの執念。それは認めよう。確かに、オールドエールと鹿肉の相性は、王道にして難解なパズルだ」
「分かっていただけますか、殿下!」
「ああ。だが…やり方がいかん。…よし、君の罪は不問に処そう。ただし、条件がある」
「条件、ですか?」
「このオールドエールが、本当に料理長の言う通り『落ち着かせる必要がある状態』なのかどうか、私が今ここで、厳密な毒見(テイスティング)を行う!」
アルフレッドが止める間もなかった。レオンハルトは慣れた手つきで樽の栓を開け、持参していたマイ・グラスに琥珀色の液体を注いだ。
「…ああ、これだ。十年の重圧が、今、解放される…。いただきます」
一口。その瞬間、レオンハルトの脳内で、建国当時の光景から歴代国王の宴までが走馬灯のように駆け巡った。
「…う、うまい。なんてことだ。プラム、レーズン、カラメル、そして木樽のタンニンが、重厚なワルツを踊っている…。料理長、君の言う通りだ。これは…これはあまりにも旨すぎる!」
「殿下、一口と言いましたよね? 二口目、行ってますよね?」
アルフレッドの静止の声は、もはや届かない。
「…いかん、このコクの深さを確認するには、もう一杯、いや、もう二杯だけ検証が必要だ。…ほう、温度が上がってくると、さらにポートワインのような芳醇さが…」
三十分後。
現場に駆けつけた国王とアルフレッドが目にしたのは、幸せそうな顔をして樽の横で大の字になって寝ている王子と、三分の一が空になった伝説の樽だった。
「…レオンハルトォォォ!! 犯人よりも多く飲んでどうする!!」
王宮に響き渡る国王の怒声。
アルフレッドは冷めた目で、泥酔して「麦の神…お迎えにあがりました…」と呟く王子を、荷車のように引きずっていった。
「…殿下。犯人よりもタチの悪い人間を、私は他に知りませんよ。晩餐会の分が足りなくなった分は、殿下の血を樽に詰めて出すしかありませんね」
「…それは…鉄分が強すぎて…不評だと、思う…ぞ」
こうして、王宮の消失事件は「史上最悪の毒見役」による食害という形で幕を閉じた。