王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
麦冠王国の夏、その昼下がり。
王宮の謁見の間に、不穏な緊張が走っていた。
その原因は、長年国境を接し、冷戦状態に近い緊張関係にある「鉄鋼山脈王国」から届いた、一通の親書と一樽の木樽であった。
鉄鋼山脈王国は、その名の通り質実剛健、無骨な職人と荒くれ者の鉱夫たちが支配する国だ。彼らが「和解の印」として寄越したものが、何らかの罠ではないかと疑うのは、警護兵として当然の反応だった。
「…っ! な、何だ、この臭いは!?」
樽の栓を抜いた瞬間、広間に立ち込めたのは、およそ王宮には似つかわしくない強烈な臭気だった。
それは、広大な山林が火災に見舞われた直後のような、あるいは、何百キロもの肉を一気に燻し続けている燻製小屋の奥底のような、重厚で、逃げ場のない「煙」の臭い。
「毒ガスか!? 暗殺の煙か!?」
「総員、武器を構えろ! 殿下をお守りしろ!」
警護兵たちが剣を抜き、窓を叩き割らんばかりの勢いで空気を入れ替えようとする。
滞在中の清泉王国の王女クララも、豪華なドレスの裾で鼻を覆い、顔を顰めて叫んだ。
「ちょっと! 麦冠王国を火の海にするつもり!!」
阿鼻叫喚の渦中、ただ一人。
第一王子レオンハルトだけは、狂おしいほどの悦びに満ちた表情で、煙の立ち上る樽に自ら顔を突っ込んでいた。
「…静まれ、愚か者共。これはテロではない」
レオンハルトは、煙を全身で浴び、恍惚とした吐息を漏らしながら顔を上げた。
「これこそが、鉄鋼山脈王国の至宝…。ブナの木を燃やして麦芽を直接燻し、火の魂を液体に宿らせた伝説のスタイル。…ラオホではないか!」
混乱する周囲を余所に、レオンハルトの「変態的講義」が幕を開けた。
「いいか。通常、ビールの原料となる麦芽は、熱風で乾燥させる。だが、このラオホは違う。燃え盛る炎の煙そのものを麦芽に吸わせるのだ! かつて醸造所が火事になり、焦げた麦芽を勿体ないからと使ってみたら驚くほど旨かった…という、怪我の功名から生まれたとも言われる『火の芸術』なのだよ!」
「火事の燃えカスを飲もうなんて、やっぱり鉄の国の人間は正気じゃないわ…!」
クララがドン引きするのを無視し、レオンハルトは震える手で黒褐色の液体をグラスに注いだ。
「嗅げ、この香りを! これは『液体の焚き火』だ。人類が火を手に入れ、文明を築いたその瞬間が!この一杯に凝縮されている。…さあ、鉄の国の無骨な握手を、私の喉で受け止めようではないか」
レオンハルトは一気にラオホを煽った。
その瞬間、彼の背後には、荒れ狂う高炉の炎と、槌を振るう巨人たちの幻影が浮かび上がる。
「…っ! おおお…。苦い。いや、苦いのではない。これは『焦げ』だ! 喉の奥を煙の軍勢が駆け抜け、鼻から抜けるのはブナの森の吐息。…だが、その暴力的な煙の奥に、しっかりとしたモルトの甘みが隠れている。…これだ、このギャップこそがラオホの真髄!」
「…信じられない。王子、あなた本当に飲んでいるの?」
呆れ果てるクララに対し、レオンハルトは挑戦的な笑みを浮かべてグラスを差し出した。
「ふん、無知なラガー王女よ。君の愛するピルスナーが『清らかな水のドレス』なら、このラオホは『戦士の鎧』だ。一口、飲んでみるがいい。君の平坦なビール人生に、火を灯してやろう」
「…言ってくれるじゃない。いいわよ、そこまで言うなら、その煙たさごと飲み干してあげるわ!」
クララは覚悟を決め、勢いよくラオホを一口含んだ。
刹那、彼女の表情が劇的に変化する。
「…っ!? げほっ、ごほっ! な、なにこれ、正気!? 灰皿の水を飲んでるみたい! 喉の奥でキャンプファイヤーが起きてるわよ! これ、飲み物じゃないわよ!」
「ははは! そうだろう、そうだろう! その拒絶こそがラオホへの第一歩だ。一度この煙の虜になれば、通常のビールでは物足りなくなる『ラオホ・ジャンキー』への道が開かれるのだよ」
クララは必死に水を飲みながら、「二度と飲まないわよ、こんな煙突の掃除水!」と罵倒した。この「一度ハマると抜け出せないが、初見は確実に拒絶反応が出る」というラオホの極端な個性が、二人の好みの溝をさらに深めていくかのように思われた。
そこへ、静かに台車を引いたアルフレッドが現れた。
台車の上には、王宮の厨房から運ばれてきたばかりの、厚切りベーコンのグリルと、表面が茶色く色づいた燻製チーズが載っている。
「お二人とも、騒がしいですね。…殿下、ラオホは単体ではあまりに個性が強すぎる暴君。ですが、相応しい『伴侶』を添えれば、その印象は劇的に変わりますよ」
「ほう…。アルフレッド、心得ているな。…クララ、もう一度だけチャンスをあげよう。このベーコンを一口食べてから、ラオホを流し込んでみろ」
「…肉に罪はないわ。でも、ビールがこれじゃあ…」
クララは半信半疑のまま、脂の滴るベーコンを口にし、その濃厚な旨味を堪能した直後、再びラオホを啜った。
「…あ」
クララの動きが止まる。
先ほどまで「灰皿の水」と断じていたはずの煙の香りが、ベーコンの脂と出会った瞬間、魔法のようにその牙を隠したのだ。
「…え? 美味しい…? 嘘、なんで!? 煙の臭さが、肉の脂と混ざると『極上のスパイス』に変わったわ…。むしろ、この煙の香りがあるからこそ、肉の甘みが何倍にも引き立っている…。ええっ、これ、止まらないじゃない!」
「だろう?」
レオンハルトは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「ラオホは、食事とのペアリングにおいて真価を発揮するスタイルだ。特に燻製料理との相性は、この世界の真理と言っても過言ではない。煙と煙が口の中で手を取り合い、巨大な旨味の渦を作るのだ。…クララ、君は今、ラオホという名の深淵に片足を突っ込んだのだよ」
「…くっ、悔しいけど認めるわ。この『焦げ』の魅力、肉と一緒に飲むならアリね…。むしろ、これからはベーコンを食べる時にこれがないと物足りなくなりそうだわ」
和解のビールとして届けられたラオホは、食事という名の触媒を経て、見事に二人の味覚を(一時的にではあるが)繋ぎ止めた。
だが、これで終わらないのがレオンハルトという男である。
「…ひらめいたぞ! アルフレッド!」
「嫌な予感しかしませんが、一応お聞きしましょう」
「王宮内のすべての暖炉の煙突を改造し、その煙をすべて地下の貯蔵庫に引き込め! 王宮で出されるすべての食料、すべての衣類、そしてすべての空気を煙に晒すのだ! 王宮全体を一巨大な『燻製箱』にする! 私は明日から、全身からブナの煙を漂わせる『歩くラオホ』として生きるのだ!」
「…殿下。それは王宮のメイドたちが『服が全部ベーコンの臭いになる』と一斉に辞表を書くでしょうね」
「何を言う! 毎日が焚き火の香り! なんとロマンチックな生活ではないか!」
暴走を始めるレオンハルトに対し、アルフレッドは冷徹にトドメの一撃を放った。
「それと、王女殿下。殿下の計画が実行されれば、あなたのその美しい金髪も、一日で『燻製ニシンの干物』と同じ匂いに染まりますが、よろしいですか?」
「…!?絶対に、絶対に阻止するわよ! 王子、魔法でその樽ごと凍らせてあげましょうか!?」
「待て、クララ! 暴力はいかん! これは芸術への挑戦…ぐわあああ!」
結局、王子の「王宮燻製化計画」は、クララの氷結魔法によって物理的に凍結されるという結末を迎えた。
しかし、その日の晩。
暖炉の前で、静かにラオホを嗜むレオンハルトの横には、いつの間にか厚切りベーコンの皿を抱え、自分専用のラガーの代わりにラオホを啜るクララの姿があった。
「…なんだかんだ、落ち着く香りね。焚き火を見ているみたいで」
「だろう? 人類が火を手に入れ、闇を払った時からの、最も古い安らぎの味なのだから」
煙に巻かれた夜は、いつもより少しだけ、二人の距離を縮めたようだった。
翌朝、王宮全体がどことなく「美味しいベーコンの臭い」に包まれていたのは、きっと気のせいではなかったはずである。
ラオホ編を執筆してみましたが、ラオホなんてどこに売っているんだ?