王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます   作:高校ジャージ10年目

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ラガーの原点 デュンケル

 麦冠王国の午後は、黄金色の陽光に包まれていた。

 王宮のテラスでは、涼やかな風が吹き抜け、グラスの中で弾ける炭酸の音が心地よく響いている。

 

 その穏やかな空気を切り裂くように、第一王子レオンハルトが、ごく自然な、しかし致命的な一言を放った。

 

「そういえば、クララお前…いつまでいるんだ?」

 

「…ぶっ!?」

 

 喉を潤していたはずの黄金色の液体が、クララの口から噴水のように吹き出した。

 彼女は激しくむせ返り、涙目でレオンハルトを睨みつける。

 

「な、ななな、なんて失礼なことを聞くのよ、この変態ビール王子! 淑女に向かって『いつ帰るんだ』なんて、外交問題に発展しても知らないわよ!」

 

「いや、外交も何も、お前がここに来てからもう季節が一つ変わりかけているからな。客分として迎えたはずが、今や我が物顔でテラスの特等席を占領し、勝手に持ち込んだ冷蔵魔石でビールを冷やしている。…気になっただけだ」

 

 レオンハルトが視線を向けると、そこには影のように立つ補佐官アルフレッドが、待機していたと言わんばかりに一束の書類を掲げた。

 

「お気になさらないでください、殿下。クララ様の滞在費、および消費された高級ビールの請求書、さらには魔法触媒の維持費。……これらを積み上げると、すでに小規模な地方都市の年間予算に匹敵しつつあります。私も、そろそろお帰りの準備を伺おうと思っていたところです」

 

 アルフレッドの眼鏡の奥で、計算尺のような冷徹な光が走る。

 

 クララは一瞬、言葉に詰まったように視線を泳がせたが、やがて力なく肩を落とし、手元のグラスをじっと見つめた。

 

「…帰りたくないのよ。あんな『白湯(さゆ)男』のところなんて」

 

「白湯男だと?」

 

 レオンハルトが眉をひそめる。クララは忌々しそうに、本国から届いている縁談相手について白状し始めた。

 

「家柄だけは最高なんだけど、とにかく潔癖で退屈なのよ! 『酒は理性を狂わせる毒だ。これからの知的な貴族は、朝も夜も沸騰させた白湯を飲むべきだ』なんて真顔で言い放つのよ!? そんな男の妻になったら、私の人生から『キレ』も『コク』も消えて、ただの温い無味乾燥な余生になっちゃうわ!」

 

「…白湯、か。確かに健康には良いだろうが、人生の伴侶としては刺激が足りんな」

 

「刺激どころか、私のビール愛まで否定されたのよ! あんな白湯男のところへ帰るくらいなら、一生ここでアンタの変態的なビール講釈を聞いているほうが百倍マシよ!」

 

 クララの悲痛な(?)叫びに、レオンハルトは小さく鼻で笑った。

 

 彼は立ち上がり、棚から一本のボトルを取り出した。

 

「変態とは心外だが……まあいい。お前の『ラガーへのこだわり』は尊重してやろう。だが、ピルスナーのような鋭いキレだけがラガーの魅力だと思っているなら、お前はまだ、自分の『帰るべき場所』を見失っていると言わざるを得ないな」

 

「…何よ、その思わせぶりな言い方」

 

 レオンハルトがグラスに注いだのは、深い琥珀色……あるいは艶やかな栗色をした、落ち着いた輝きを放つ液体だった。

 

「これはデュンケル。以前飲ませたシュバルツ(黒ラガー)よりも、さらに歴史の深いスタイルだ」

 

「…デュンケル? また黒っぽいわね」

 

「シュバルツのような焙煎の苦味を強調した黒とは成り立ちが違う。ピルスナーという黄金の革命が起きるまで、『ビール(ラガー)』と言えば、この色だった。いわば、ラガーの原点だ」

 

 レオンハルトは、愛おしそうにグラスを揺らした。

 

「このビールの魂は、ミュンヘンモルトという特別な麦芽にある。じっくりと時間をかけて丁寧に加熱された麦芽が、パンの耳や焼きたてのトーストのような、香ばしくも優しい甘みを生み出すのだ」

 

 クララはおずおずとグラスを口に運んだ。

 

 ピルスナーのような、舌を刺す鋭い苦味はない。代わりに、温かみのある麦の旨味が、波のように静かに口の中に広がっていく。

 

「…。なんだか、すごく落ち着く味ね」

 

「だろう。これは『デコクション法』という、麦汁の一部をわざわざ煮沸して戻す、非常に手間のかかる伝統的な製法で造られている。効率を求める現代では敬遠されがちだが、その手間こそが、この幾重にも重なる奥深いコクを生む。……派手さはない。だが、いつまでも飲み飽きない。まさに、一日の終わりに帰るべき『家』のようなビールだ」

 

 クララは、デュンケルの穏やかな風味に包まれながら、少しだけ素直な声を出した。

 

「家、か。…私の国も、ピルスナーみたいにキラキラしてて、刺激的で。でも、あの白湯男みたいな退屈な『正論』を押し付けられると、息が詰まっちゃうのよね。…このデュンケルみたいに、自分らしく、ゆったりしていられる場所があればいいんだけど」

 

 レオンハルトは、夕日に照らされたテラスの向こうを見つめながら、静かに告げた。

 

「いいかクララ。ビールには、自分を奮い立たせるためのものもあれば、傷ついた魂を癒やすためのものもある。このデュンケルのように、お前が『自分らしくいられる場所』がここだと言うのなら…まあ、気が済むまでいろ。変態王子の講釈も、お前が帰るまではサービスしてやる」

 

「王子、たまには良いこと言うじゃない。…惚れないけど。絶対に惚れないけど、今日だけは感謝してあげるわ」

 

 二人の間に、デュンケルの色に似た、穏やかで温かい時間が流れた。

 不器用な歩み寄り。それは、ビールを通じた一つの「調和」の完成かに思えた。

 

 …が、その背後で、アルフレッドが冷たく帳簿を閉じる音がした。

 

「…殿下。今、はっきりと『気が済むまでいろ』と仰いましたね? 承知いたしました」

 

 アルフレッドは、どこか楽しげな手つきで羽根ペンを走らせる。

 

「クララ様の滞在を『公認』の長期滞在へと切り替えます。つきましては、清泉王国への請求名目を『王女の安全確保および、我が国の高度醸造文化に関する特別研修費』として、来月から三倍に跳ね上げておきます。…クララ様、おかわりは一杯ごとに金一貨の追加料金となりますので、あしからず」

 

「ええっ!? 三倍!? それに、おかわり有料ってどういうことよ! さっきの感動を返しなさいよ、この眼鏡執事!」

 

「私は王家の財布を守る番人ですから。感動で腹は膨れませんが、外貨は国を潤します」

 

 アルフレッドの冷徹な正論に、テラスの情緒は一瞬で霧散した。

 

「…やっぱり、ここも安住の地じゃないわ! この守銭奴執事を黙らせて、ビールをタダで飲めるようになるまでは、絶対に帰らないんだから!」

 

「ほう。ならば、さらなる追加の請求書が必要になるな。アルフレッド、彼女にふさわしい『高価な』ビールをもう一本持ってこい」

 

「かしこまりました、殿下。…清泉王国の国庫が底をつくのが先か、殿下のコレクションが尽きるのが先か、楽しみですね」

 

 夕暮れの王宮に、二人の言い争いと執事の冷ややかな笑い声が響いた。

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