甲板・最上部
重い隔壁が、軋みながら開く。
夜風が吹き抜け、
巨大母艦の最上甲板が露わになる。
「……来たか」
曽是の声が、甲板に響く。
「……シズメ」
カエデが、低く名を呼ぶ。
「ええ」
舞い飛ぶ半紙の中心にいる女――
浮世絵師・怨美は、最初からシズメだけを見ていた。
「貴方が、大友の巫女」
重く張り付いた空気にそぐわない、柔らかく、嬉々とした声。
異様な雰囲気に押されながらも、シズメは一歩前に出た。
「あなた方の悪行も…今日この限りです」
「チッ……」
怨美が、不機嫌そうに舌打ちする。
高下駄を鳴らし、一歩前へ。
「お前達は…いつもそうだ。自分達が正義であることを信じて疑わない」
筆を取り出すと、今度はくすりと微笑む。
「そして、悪の存在理由を考えもしない」
大量の半紙が、曽是の背後で揺れる。
「故に」
そして、舞っていた半紙が一枚の大きな紙となり、壁のように空中に制止する。
「有象無象なのですよ、お前達は」
ーーー
曽是は顔を背け、
その視線が、真正面からカエデを捉える。
「で?」
挑発的な笑み。
「貴様が、カエデか」
「…曽是!命を弄んだ、報いを受ける時だ!!」
「ほう、真っ直ぐな良い目だ。……もっとも、そんなものは見飽きているが」
曽是は背中のユニットを構え、射出し、自身の周りへ停滞させた。
カエデも、アタラヨを起動し、踏み出す。
「行こう、アタラヨ!」
二人は、自然と左右に分かれる。
カエデと曽是は、甲板の中央へ。
シズメと怨美は、半紙が舞うその奥へ。
すれ違いざま、
シズメが、カエデにだけ聞こえる声で言った。
「……無理はしないで」
カエデは、ほんの一瞬だけ視線を返す。
「そっちも!」
二つの戦いの火蓋は切って落とされた。
⸻
鋼鉄の甲板に、風が吹き抜ける。
鉄の匂いにわずかに混じる――墨の匂い。
「……ここが、終点ですか」
シズメは弓を構えたまま、一歩、甲板に足を踏み出す。
その視線の先。
夜風に揺れる無数の半紙。
まるで蝶の群れのように舞い、甲板に渦を成していた。
その中心に――
一人の女が、静かに立っている。
墨で描いたような黒髪。
白い着物は紙のように薄く、破れ、重なり、無数の札と一体化している。
シズメは一瞬だけ目を伏せ、静かに言った。
「……あなたが、曽是を縛り続けた者ですね」
「“縛る”?」
怨美はくすりと笑う。
その笑みは、優しく――そして、どこか歪んでいた。
「何を言うのかと思えば…私はただ、あの方が望まれるように描いただけ」
半紙が、ざわりと鳴る。
「徳川の天下を時に美しく時には儚く……“あるべき姿”として」
――甲板が、白く塗り替えられた。
床、空、艦の壁。
すべてが墨線で縁取られ、色を失う。
「そう、例えば……こんな風に」
シズメが一歩引く。
半紙が集まり、一枚の巨大な絵となる。
そこに描かれていたのは――
血に染まった甲板の中央で、弓を折られ、膝をつく巫女の姿。
「――っ!」
シズメの胸が、強く締め付けられる。
「あなたの“失望”
とても綺麗に描けているでしょう?」
怨美が筆を取り、絵を描き足す。
「これは神を信じ、人を信じ
それでも届かなかった時の、貴女の顔」
絵が、動いた。
描かれたシズメが、絵から窓枠を越えるように「こちら側」へと現れ、シズメ自身へと弓を番う。
「貴女に絵は殺せない。けれど…絵は貴女を殺せるの」
「……私は」
シズメは歯を食いしばる。
「…一度はこの世界に失望しました。ええ、確かに」
弓を握る手は、震えていない。
「それでも――私はこの世界の為、戦う事を選びました」
長弓を引く。
弦が、静かに鳴る。
「誰かに望まれたからではなく
かくあるべきと、諭されたからでもなく」
矢先に、淡い光が宿る。
「他でもない、私自身が信じたいと思ったのです。世界の善意を」
放たれた矢は――
シズメの描かれた絵へ突き刺さった。
墨線が、ひび割れる。
紙が散り散りに弾け飛ぶ。
「……何?」
怨美が、目を見開く。
シズメは、もう一本、矢をつがえる。
「あなたは忘れてしまったのですね」
再び放つ。
絵の中の巫女が、砕け散る。
半紙が宙を舞い、悲鳴のような音を立てる。
怨美の胸元に、墨が滲む。
「……ふふ」
それでも、彼女は笑った。
「その長弓……そうか、そうか……」
半紙が、再び集まる。
今度は――心臓の位置を覆うように。
「…私は、神に許された絵師だ」
怨美の瞳が、狂気を帯びる。
甲板全体が、再び震える。
「英雄気取りの小娘とは、格が違う!!!」
墨が、空から雨のように降り注ぐ。
シズメは、静かに弓を構え直した。
「……ならば」
その背後に、微かにスメラミコトの影が揺れる。
「試しましょう。
私か、貴方か。――神はどちらを選ぶのか」
怨美が、両腕を大きく広げる。
「描いて……描いて、塗り潰してやる……!」
空間に次々と浮世絵が展開される。
炎に包まれた都市。
祈る民を踏み潰す兵。
血に染まった神殿。
――すべては、失敗した世界の断片。
絵から、具現化した災厄が飛び出す。
炎の獣、墨でできた刃、怨嗟の声を上げる亡霊。
だが。
シズメは一切、退かない。
弓を引き、ただ放つ。
一射。
炎の獣が、中心から消失する。
二射。
墨の刃が、輪郭ごと剥がれ落ちる。
三射。
亡霊が、声を残す間もなく溶ける。
「……な……」
怨美の喉が、ひくりと鳴る。
「どうして……
どうして、どうして……!」
「あなたの絵は」
矢をつがえながら、静かに告げる。
「神に存在を許されているだけの、借り物に過ぎない」
四射。
崩れる神殿。
半紙が、瞬く間に紙屑になる。
「だから――神を否定し、未来を望むこの力には抗えない」
五射。
世界の残骸が、何も残さず消える。
「黙れ……!」
怨美の声が、甲板を震わせる。
「わたしは……
アタシは……!」
一瞬、言葉が途切れる。
「……僕は?」
その隙を突くように、シズメが即座に矢を射る。しかし、怨美の姿は霧のように揺れた。
「……ふふ」
次の瞬間。
怨美の“身体”が、絵へと変わり、
背後から――
本体がシズメの死角に現れる。
「その鬱陶しい弓……それさえ無ければ!!」
白い手が、シズメの背へ伸びる。
だが。
シズメは、振り向かない。
「……そう来ると思っていました」
その声に、怨美が凍りつく。
「あなたは――
必ず、こちらに近づく」
弓は、すでに引き切られている。
「だってあなたは」
矢先が、背後を向いたまま定まる。
「この弓を見るのが辛いのでしょう?」
放たれた矢は、
振り向くより早く――
怨美の本体、その心臓を貫いた。
「――――っ!!」
半紙が弾け、
墨が、血のように宙へ散る。
怨美の身体が、崩れ落ちる。
「……あ……」
胸を押さえながら、膝をつく。
視界が、反転する。
――暗い場所。
――世界が壊れかけていた日。
自分に手を差し伸べてきた、ひとりの男。
スメラミコト。
『君がーーだね?』
『君の絵は世界を救う奇跡の力だ』
『どうか力を、貸して欲しい。』
世界は明るかった。
仲間たちと笑い、
旅をして、
世界を救おうと誓いあった日々。
「……それなのに……」
声が、震える。
「私は……全部……」
世界を。
仲間を。
あの人を。
「わたしが……俺が……僕が……!」
涙が、墨となって零れ落ちる。
最期に浮かぶのは。
鉄格子を開き、眩い光を背に
こちらに微笑んで手を伸ばすスメラミコト。
『共に行こう』
「……ああああ……‼︎」
怨美の喉から、
嗚咽とも叫びともつかない声が溢れる。
「ご、ごめ……!!ごめんなさ……‼︎」
半紙が、風に溶ける。
「……ただ……こ……て…」
怨美の身体は、完全に崩れ落ちた。
甲板に残ったのは、
静寂と、風の音だけ。
シズメは、弓を下ろし、
深く息を吐く。
「…あなたも」
小さく、そう呟いた。
「選べたはずでした」
静寂が、戦場の片隅に訪れる。
そこにはもう、誰もいない。
ただ、一本の大筆だけが地面に突き立っていた。
シズメは、その筆に目をやる。
そして、静かに背を向けると、遠くで再び高まる戦の鼓動へと歩き出す。
――数拍、遅れて。
金属が擦れる音と共に、影が一つ、戦場の煙を割って姿を現した。
巨躯。重厚な甲冑。
無言のまま、大筆の前に立つ。
筆には、墨の滴がまだ残っていた。
それを見下ろし、影は何も言わずにしゃがむ。
そっと筆に触れると、ゆっくりと立ち上がり、そのまま筆を背に収めた。