火遊びはよくない 作:竹藪焼けた
現実では絶対にありえない事だってのも含めて、とっても夢があると思います。
生物の原始的欲求。
それは、睡眠欲・食欲・安全欲求そして、生殖欲求。
この現代社会では、大多数の人間が社会の荒波に揉まれながらも、これらの欲求とうまく付き合っている。
しかし、中には…。欲求に突き動かされた挙句に、取り返しのつかないことになってしまう人もいる。
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ある所に、学園に勤める教師がいた。
趣味は可憐な女の子と一夜を共にすること。一夜だけだ。
非常勤でもない、担任も務めることもある教師。
学生たちには、人間とは何かと語りながら。夜にはSNSを駆使して繁華街で不埒で非倫理的行為に走るカス。
それが彼だった。
今まで、ずっとうまくやってきた。性病にかからないように様々な対策をして。
どれだけ好みの子でも、一夜だけの関係を貫き。後腐れのないように普通よりも高めの額を支払う。
それで、色々と楽しんで、これからもずっと。自分の欲求が枯れるまで続けようして。
倹約しながら、多くの金をそこに注ぎ込み。
とても楽しんでいた…のだが。
まぁ、そんな事をしていれば。
巡り巡って、咎が来ることもあるのだ。
ある意味で言えば、これはその代償なのかもしれない。
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破滅のきっかけは、入学シーズンよりも少し前。大体卒業予定の生徒が各々学校に来なくて良くなった時期の事だ。
仕事終わりに約束をしていた人物から話をすっぽかされた挙句、ブロックをされてイラついていた時。
路地裏で一人スマホの前で舌打ちをしていたら。
男は視界の端。こちらを見ている、可愛らしい女性がいることに気づいた。見てくれからおおよそ…高校生くらいだろうか?制服を着ていなかったが、何度も繰り返していれば、おおよその目星はくらいはつくという物だ。
かなりの童顔で、こんなところに居るのが不思議だった。
この路地は、沢山の街娼がうろついている。
その中でも一際可憐で初心そうに見えた。メイクはかなり軽めで、元の顔がかなり整っている。
さっきまではいなかったから、男が来たのと同時刻くらいにここに立ち始めたのだろう。
…んー、なんかどっかで見たことがあるような…?まぁいいか。
そんな彼女に既視感を抱きながらも、深く考えることもせず。
約束をすっぽかされて、溜まるものも溜まっていた男は、ほんの僅かな好奇心と。少しばかりの期待を抱きながら、その女性に話しかけることにした。
なるべく気取られないように、様子から見てとても初心そうに見えたし…もしかしたらそもそもここを街娼が溜まる路地だと知らずに待ち合わせをしている可能性もある。そんな相手に、最初からいつものノリで話しかけたら…きっと面倒なことになる。
そんな考えを浮かべながら、男は歩き始める。
そして、男が自分に視線を向けている彼女に話しかけると。
「ふぁ、ふぁい!?な、なんですか!?」
余りにも大げさに驚くものだから、思わず男の方もびっくりしてしまう。
ビクビクとした様子から、間違いなく場慣れしていないことが読み取れた。初めて街娼をした子か…間違って並んでいるかの二択だな。
前者の場合は最高、後者だったら最悪だ。
まぁ、この感じは後者な気もするけど…。
男は内心そう思いながら、彼女と会話を始めた。
男は心配する様子を取り繕い、目の前の少女にやんわりと、ここが非合法な活動が頻発している場所である事を伝える。
もしもここで待ち合わせをしているようなら、面倒な輩に絡まれる前に今すぐ場所を変えるようにとも。
しかし、帰ってきた答えは意外な物だった。
「…あ、あの。分かってます…そ、その。ここが…そういう人が集まっている場所だって、事くらいは…」
「わ、私も。その…そういうことの為に…来たので…」
おや、話が変わってきたぞ?
男は興奮をひた隠しにしながら、話を続ける。もしかしたら、目の前の綺麗で若々しい美少女と出来るかもしれない。
そんな興奮が、男の精神を昂らせる。
おや、そうなのかい?お金がないとか?
男は彼女にそう話しかける。まだ、がっついてはいけない。そう思いながらも、期待が隠せていなかった。
彼の語尾は若干上ずっており、その時点でだいぶメッキが剥がれていた。
「えと、その…あの。…はい、そうなんです…」
「ちょっとした、事情で…」
「…その、支払いが…足りなくなってしまって」
言葉の節々から幼さが透けて見える彼女はそんなことを言う。
男はその時、興奮と昂ぶりからその言葉を馬鹿正直に信じた。
実に都合がいい、初めてで?お金が足りてなくて?支払い額を超過してて払えない?
わー、なんて都合の良い得物!カモがネギ背負ってきた!
男は内心そう思いながら、寄り添うように様々な事を聞き出そうとする。
なるべく相手に、警戒心を抱かせないようにしながら…。
数多の街娼を買ってきた男は、そういう時には行動が早かった。
手が出るのも早かったし、頭が欲求に支配されていた。
幾ら足りてないんだい?…こういった事の経験は?
優しさを見せながら、男は彼女に詰め寄る。
「…えと、えーとですね…その、5…5000円くらい?」
「それで…は、初めてです…。その、男の人とそういう行為をすること自体が…」
わぁ!なんて都合の良い!最高だな!
男はもう止まらない、こんな上玉を他の誰かに渡すわけにはいかない。そんな思考で話をさっさと進める。
5000円かぁ。じゃあ、俺が代わりに払ってあげようか。一桁挙げて、5万円でどうかな?
初めてだし、ホテル代も交通費も、何なら食事を奢ってあげるよ。
しかし…よくよく考えてみたら、この時点で止まるべきだったのだ。クレジットカードで支払いできない額で5000円?親に借りればよくない?だいたい、高校生くらいの見た目でクレジットカードを使うのなら3年生だ。
三年の卒業シーズン、親から金をせびる理由なんて幾らでもある。なのに初めて?ちょっとおかしくない?
さらに言うのなら、童顔とは言っても外見からして3年生には全く見えなかった。かなり幼く、何なら一年生くらいに見えた。思い返してみれば、何もかもが可笑しかったのだ。手を出すべきではなかったのだ。
そもそも本人はクレジットカードの話なんて一言も言って無かったから、こっちが勝手に勘違いしただけなのはそうなのだが。
しかし、まぁ。どれだけ後で悔やんだとて。欲求に頭を支配された男にそんな思考をする余裕はない。
ふーん、そうなんだ!で終わりである。これが破滅の一歩とも知らずに、流れるように足を踏み入れてしまった。
初心に見える彼女は、男の話に流されるように、全て了承してしまう。男にとって、とんとん拍子で話が進んでとっても気分が良かった。
この後の事を楽しみに思いながら、男は女性の名を聞いた。
彼女は恥ずかしそうにしながら、本名ではなく、愛称を教えてくれた。
「イロって呼んでください。…とっても気に入っている、愛称なんです」
楽しそうに笑顔で、両手の指を絡めながら、少女は男にそう言う。
男はそんな言葉を聞いて、何か引っかかるような感触を覚えた。
なーんか、引っかかるんだよな。どっかで聞いたことがあるような…。
いやまぁ、どうでもいいか。そんな事よりホテルに…先に食事かな。
まぁ、思うところはあると言っても。結局のところ、そこまで重要な話でもないだろうと。勝手に考えて。
どうでもいい事は忘れて、今を楽しむ方がいいだろう。
先に食事にする?
男がそう聞けば、少女は首を縦に振る。
「はい!おすすめのご飯屋さんとかあれば、是非!」
屈託のない笑顔で少女はそう答える。
気をよくした男は、いつもよりも少し高い食事処へ彼女を連れて行ってあげた。
とってもおいしそうに、食事を口に運ぶ彼女を見ているだけでも、なんだか幸せな気持ちになった。
やはり美少女と共に時間を過ごすのは良い。これだからやめられねぇんだ。
そんな気持ちの悪い事を思いながら。食事を終えて。
そして、その後にホテルで一夜を過ごす。
実にいい夜だった。久しぶりにあんなにハッスルしたかもしれない。
その一夜だけで十分5万円の価値はあったな。
美少女を抱いて、彼女の初めてを奪い取って。
やけに甘ったるい、まるで恋人の様な夜を過ごす。
普通初めてだったら、もう少し嫌悪感とかを出すのだが。
そのような事もなく、実に円満な一夜だった。
自尊心や征服欲が満たされる最高の時間だった。
そして、二人はそのまま抱き合って眠りに落ちる。
睡眠の質は兎も角。すごく良い眠りだったように思う。
だが…その後。一夜を明かした後。メイクを全くしていない、眠る彼女の顔を見て。
理性という枷を付け直した男は、ある事を思い出した。
…この子、どこかで見たことがあると思ったら…。
昔…男が大学生から、教員として働き始めるまで家庭教師をやっていた時の…子供にすごい似てる気がする。
色裂 蔡(シキザキ サイ)。男が大学生のころ、家庭教師を持っていた少女。
名字が色裂なので、安直にイロ。読み方と一切結びつかない愛称だったから忘れていたが、そういえばそんな愛称だった気がする。
小学生時代から、中学進学まで家庭教師を持っていた少女。
大体4年くらいの付き合いの後、結局彼女の合格と同時にこちらが引っ越して、特に最後の挨拶もなく分かれた…と記憶している子供。
いや…まさかぁ。本人な訳…ないよな。
男は頭の中に浮かんだ疑念をかき消そうとしていると。
ブーという音と共に、少女のスマホが鳴った。
男が思わずそちらを見ると。彼女の待ち受け画像が見えてしまう。
そこに移っていたのは、若いころの彼と、小学生くらいの少女だった。
あー。これは…昔撮った写真ですねぇ…
……
Oh~…これはまずいぞ~~。
男の背から、冷や汗が噴き出す。
何しろ、男は教員として働き始めてから、だいたい3年しかたってない。
そして、彼が教員として働き始めた時期と彼女が中学に入った時期が一致する。
そう、目の前の彼女。
3年生ではあるのだが…。Kじゃなくて、Cの方だね。
男が記憶している限り、彼女の学校の卒業式は遅い方だ。なので、やっぱりCの方だね。
いや、まだ焦る時間じゃない。焦る時間じゃないと自分に言い聞かせるが。
やっぱりどう考えてもまずい気がする。
いろんな意味で体面が悪すぎる。
今まで何度も似たような行為を繰り返してきておいてなんだが、今回みたいなパターンはちょっと話が変わってくる。
顔も名前も、過去も知られている相手はまずい。それくらいは男にだってわかる。
クソッ、たかだか三年でちんちくりんから、誰もが振り向く美少女になりやがって。気づけなかった…!
彼は自分の欲求と、全く働かない自制心を悔やんだ。
こんなピンチでも、彼の半身は奮い立っているのがイライラする。頭も体も。
そもそも、男が記憶している限り。この子の家はかなり裕福な上、情操教育だってしっかりしていた。
…じゃあなんであそこにいたんだ?いや…というか、あのお金がないという話は完全にでっち上げかよ!
クソッ、やられた!
ていうか、初対面のはずにやけに甘い言葉を囁いてきたのは…。リップサービスだと思ってたけど…。
…寒気がする。しくじった…。男は確信した。
このままイロが起きれば、話はさらにこじれるだろう。
最悪の場合、「責任取って!」みたいなことを言われるかもしれない。
それだけは絶対いやだ、責任取りたくないからこんなムーブしてるのに。色々な女性と、一夜限りの交流をするのが好きなのに。
縛り付けられるのは御免被る。
いつものように寝起きのトークをして円満に別れるつもりだったが、計画変更。置手紙とホテル代金を置いておき、急いでその場を立ち去ろう。
男はそう心に決めて、自分の財布とペンを取り出して、8万円と手紙を置く。
どうか、このお金で全てを忘れてくれるようにと願いを込めて。
彼は仕事があるから、というとってつけたような建前を手紙に書いて逃げ出した。
普通に考えれば、これで終わりである。
SNSで死なば諸共理論で自爆でもされない限り、何も問題は起こり得ないはずだ。
大丈夫、この国にはたくさん人がいる。…どこかでばったり出会うなんて事はありえない…。
逃げ切れるはずだ…。
そんな事を言い聞かせながら、男は電車に乗って家まで向かう。
今日は休日だが、明日は仕事だ…。
結局、彼はその後は何も手につかなかった。
ただ、冷や汗だけが。男の背中を伝っていた。
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結局その後、特に彼女とは何かが起こることはなかった。
SNSで自分の悪行が広まることもなく、学園側からの辞職勧告もなかった。
この件に関しては、なんとか乗り切ったと、男は感じていた。
…入学式のあの日までは。
彼が務める私立学園の入学式。
いつものように、体育館に集まって。
様々な新入生が集っている。各々の期待を膨らませて。自分の将来を夢想しながら、家族や友人と騒ぎ立てる。
そんな学生達を尻目に、男は事前準備を済ませて。
他の先生達が座っている場所に並ぶようにして座った。
学生の親族や新入生達が集ってくる。
そして、入学式が始まった。
校長先生の挨拶、貴賓の言葉…毎年やってるつまらない恒例行事…。
男は少しばかりの眠気を感じながら、ぼーっとしていると。
見覚えのある姿が、壇上に現れる。
【新入生代表からの挨拶です】
そんな言葉が聞こえて、壇上に目をやって。
男の眠気は吹き飛んだ。
「新緑が日に日に鮮やかになる季節の中、私達は――」
そんな、なんてことのない挨拶が響き渡る。
今までなら、適当に聞き流していただろう。たが、今年は違った。
「―以上を以て、新入生代表の誓いの言葉とさせて頂きます」
代表の言葉の一つ一つが、酷く上滑りして聞こえる。
もしかしたら、他人の空似かもしれないと思っていたけれど、声も顔も。男の知っている彼女にそっくりで。
ていうか…この前一緒に寝たあの少女と瓜二つで。
【新入生代表、色裂 蔡さんからのお言葉でした。みなさま、どうぞ盛大な拍手を】
アナウンスが響きわたる。
分かりきっていた、男のちっぽけで淡い期待は打ち砕かれた。
心臓をバクバクさせながら、男の手のひらから空虚な拍手の音が響く。
挨拶を終えた彼女が、壇上から降りていく途中。
チラリとこちらを見やる。
そして、男は彼女と目が合った。
その眼差しは。
名状し難い何かを纏っているような気がして。
男は呼吸ができなかった。
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どうしよう
生徒に弱み
握られた
季語がないから川柳かな。なんて、心底しょうもない思考が男の頭を巡る。
…いや、それどころではない。本当にそんなふざけたことを考えている場合ではないのだ。
まずい、何がまずいって。この現状がまずい。
入学式がどんどんと進む中、男の頭にはほとんど情報が入ってこなかった。彼の思考を支配するのは一つだけ。どうすれば無事にあの爆弾を処理できるのか。
もう処理できないだろとか言われたらそうなんだけど。
しかし、いくら考えても良い考えなど浮かんでこない。
そのまま入学式が終わる。
学生たちがそのまま退室していき、最後には先生たちだけで残される。
動き出した後始末の最中も、どうやってこの問題を切り抜けようかという思考だけが、男の頭を支配していた。
だが、特に何も浮かばない。
結局どこか上の空のまま、先生同士の打ち合わせも終わってしまい、他の教員も家へと帰っていく。
突っ立っていても何も出来ないので、男も同じように帰ることにした。
時刻は夜、空の様子が少し明るくなっているなぁ。
みたいな現実逃避をしながら最寄り駅まで歩く。
そして、駅につき。
駅の窓から空を眺めながら、頭に抑えていると。
後ろに人の気配がして。急に視界が暗くなる。
「せーんせ?…ふふ、だーれだ?」
しなやかな触感の指先が男の視界を遮り、嫋やかな肢体が男の背に触れた。途轍もなく嫌な予感がする。
今一番聞きたくない、数時間前に聞いたばかりの声が、耳元で響く。
何も言わずに言えば、艶やかな吐息が男の耳にかかって。
「…分かりませんか?…おっかしぃな…せんせい?私の名前、知ってますよね…?」
「知ったかぶりしても、ダメですよ?」
「…昔っから、知ってますよね?」
優しい口調で、発言者は耳元で囁く。
けれど、男にはこれっぽちも優しく感じられなかった。
むしろ何か悍ましいものが背後にあるような気がして。
口を開くことが出来なかった。
何も言わなければ、背後の人物の指が動き、男の瞼を撫でる。
そして、どんどんと冷め切った声になってくる。
「…一か月くらい前は、とっても嬉しそうにしてくれたのに」
「あんなに強く、だきしめてくれたのに」
「都合が悪くなったら、すぐにぽいっ、ですか?」
「あの時みたいに、どこかに行って。私を置いてけぼりにするんですか?」
「とっても寂しくて、とっても悲しいですね」
何も言えずにいれば、背中に立っている人物は好き勝手言い始める。
…あの、すいません。瞼を撫でるのをやめてください。めっちゃ怖いです。
男は内心びくびくしながら、絞り出して声を出す。
色裂さん、ですね?
なるべく、波風を立てないように。慎重に…相手の気を立てないように、男は彼女の名を呼ぶ。
けれど、あまりお気に召さなかったみたいで。
「…イロって、呼んでください」
「一か月前、二人で抱きしめあった時みたいに」
「…昔、私に勉強を教えてくれた時みたいに」
そう、じっとりとした声色で、注文が入る。
彼女は男の目を未だに覆い隠しており、男は視界を塞ぐ指先の力が時間が経てば経つほど、強くなっているような気がしていた。
ふー…男は内心深呼吸をする。
色々な意味で、完全に袋小路だ。
ここで逃げたところで、どうせ登校日に鉢合わせる。
逃げることに意味はなく、向き合ったところで勝ち目がない。
どうしようもなかった。
どうしようもなかったので、男は否認するのをやめた。
こうなったら向き直るしかない。
…久しぶりだね、イロちゃん。
男は取り繕いながら、自分の瞼を覆っている指に触れ、下げさせる。
…少女はそれを受け入れ、指の代わりに腕を男の首に巻き付けて。
肩に小さな頭を乗せながら、男の耳元で囁いた。
「一か月ぶりですね。せんせ」
「…私の、初めてを奪っておいて。よくもまぁ、さっさと逃げ出せましたね?」
「起きた時、独りぼっちだった私の気持ち、考えたことがありましたか?」
刺々しい言葉が男を突き刺す。
うーん、言い逃れできない。
「今の私は、小学生のころとは違いますから」
「先生の逃げ癖くらい、ちゃんと対策済みです」
彼女はどこかに吐き捨てるように、男の耳に歯を当てながら。
そんなことを言った。
くすぐったい吐息が彼の耳を撫でる。
小学生のころ、が具体的に何を指しているのかはよく分からなかったし覚えてもなかったが。少なくとも、自分にとって都合が悪い事なのはわかる。
男はそこには触れないことにした。ただ、この場から穏便に話を終わらせて逃げたくて。
彼は話題を変えて、さっさと逃げようと試みる。
あー…そろそろ、電車が来るからさ。行ってもいいかな?
そう、質問を投げるけれど。
「…んー、ダメです。もうちょっとだけ、時間をくださいな」
「感動の、再開ですから。ねぇ?」
当然却下されてしまう。イロは決して男を離すことはなく、首に巻き付けていた腕の力をより強くした。
…かなり息苦しい。いろんな意味で。
「先生、スマホ出してください。連絡先を交換しましょうよ」
さも当たり前の様に、連絡先の交換を要求してくる。
男は自分の立場を理由に断ろうとするけれど。
「…んー?聞こえないですね…」
「いいから、出してくださいよ。…全部バラされたいんですか?せんせい?」
ド直球の脅しだ。近頃の若い子はみんなこうなのかな?
知ってる?脅迫って犯罪なんだよ?
そんな事を思うけれど、まぁ拒否権なんてない。
背中には暖かい人肌が当たってるが、彼の背中と汗は冷え切っていた。
しかし、なんとか誤魔化せないかと。
口先八丁で連絡先を渡さないようにしようとするが。
「じゅー…きゅー…はち…」
男の言葉を無視して、彼女はカウントダウンを始める。
そのカウントダウンが何を示しているかを明言はしなかったが、話の流れ的にきっと男にとって都合の悪いことなのは察せた。
話し合おう…!
そう言ってはみるものの。
少女は止まらない。
『ろく…ごー…よん…』
くっ、わかった!分かったから!
先に折れたのは男の方だった。
仕方なしに男は彼女の前でスマホを揺らせば。
「ふふ…最初からそうしていればいいんですよ」
イロは満足そうに息を吐く。
彼女は自身のスマホに映る男の連絡先を見て、少しの間だけ恍惚としていた。
…これで本当に逃げられなくなってしまった。男は悩みの種が大きく成長していく。
さらに言えば、目の前の少女はまだ満足するつもりがなさそうに見えたことも、彼の胃に穴を開けていた。
「…じゃあ、次は…先生。今、彼女さんっていますか?」
そして彼女から放たれた次なる爆弾発言。
…なんだか凄く嫌な予感がする。
ここで正直に答えて次の話に行けば、きっと面倒ごとは悪化する。
彼は必死に頭を回しながら、周りを観察する。そして、ある活路を見つけた。
…久しぶりに会っておいてなんだが…そろそろ、人が集まってきたから。
…これ以上の話は、またの機会にしないか…?
そんな絞り出すような言葉。
事実、彼らが傍から見ればいちゃつきにも見えるような行動をし始めてから、十数分が経っていたし。
駅の利用者もちらほらと視界に移る。中には訝し気な目で男たちを見ている人もいた。
例えイロと男の関係がバレることが無いとしても、あまり体面は良くないだろう。
勘違いされれば、自分の脅しが通じなくなる可能性もある。
そんな考えがあったからだろうか、少女も大人しく男の提案に応じた。
男はそこで心底安心したが。
彼女は、質問の答えだけは聞こうとする。
「…分かりました…それで。先生?彼女さんはいるんですか?」
「その回答をまだもらってませんね?」
クソッ…こいつ…。
男は苦虫を嚙み潰したような表情のまま、仕方なしに答える。
今はいません…。
男は苦しそうに絞り出す。嘘ではないが、10割本当でもない言葉。
イロはその言葉に少し疑念を抱いたようだったが、追求はしてこなかった。
彼女は首に巻き付けた腕を離して、仄かに微笑みながら一歩下がる。
「…なるほど。では、今日はこの辺にしておきますね」
そう言ったかと思うと。安心していた男に一歩踏み込んできて。
耳元に口を近づけ、キスをしてから囁く。
「…せんせい。逃げようなんて、考えないでくださいね」
「あの時の約束、しっかり叶えてもらいますから」
彼女はそう言って微笑むと。男とは別のホームに流れるように歩いていった。
取り残された男は、頭を抱えることしか出来ない。
約束が何であるかは思い出せなかったが、恐らく自分が望んでいないものであることは間違いないだろうし。
何より、自分の人生の楽しみや設計が無茶苦茶になる事を確信したから。
自分が何をしたというのか。
そんな事を考えながら自宅に戻ろうとして。
男の携帯が鳴った。
メッセージを送ってきた相手は、男のもう一つの悩みの種。
男の事を脅迫している、もう1人の少女からだった。
三角関係っていいですよね