悪魔学園バビルスで働く養護教諭ミリアは家系能力である変身魔法が使えるが、その能力を披露してしまったがために同僚であるバラム先生の『観察対象』になってしまう。
悪魔学校バビルスの保健室は、他の教室とは少し違う空気をしている。医薬品と紙と、ほんのわずかな甘い香り。
その空間の主であるミリアは、書類の束を整えながら小さく息をついた。
「……また噛まれてますね」
ベッドに座る教師へと視線を向ける。
「すみません……魔物の観察中に、少し油断を」
静かに頭を下げたのは、バラム・シチロウ。
彼は相変わらず、どこか申し訳なさそうにしている。
「“少し”ではないと思いますが」
淡々と返しながら、ミリアは手際よく傷口に薬を塗る。
バラムは少しだけ肩をすくめた。
「ミリア先生は……手当てが上手ですね」
「職務ですので」
短い返答ののち、沈黙が落ちる。保健室の時計が、こつん、と時を刻んだ。
「そういえば・・・」
ミリアがふと口を開いた。
「この前、バラム先生が『羽が無い!』と騒いでいた生徒、あれからどうですか?」
それはほんの3日前、一人の生徒を抱えてバラムが職員室に駆け込んだ日の事だった。ミリア自身は保健室にいたので噂で聞いただけだったのだ。
「あ!えっと!その、入間君?えっと・・・」
バラムはしどろもどろになって目を泳がせた。「羽が無いと思ったのは勘違いで、実際には小さな羽があった。」という筋書きは分かっているが、バラム本人が入間の秘密、つまり“人間である”という事実が彼の動揺を助長した。
「ハァ・・・バラム先生。生徒たちはまだ幼いです。思春期にそんな公衆の面前で恥ずかしい思いさせたら、不登校になったっておかしくないんですからね。ちゃんと気を付けてくださいよ」
「えっ、あ、あぁ、そうだね。本当にすみません。彼とはきちんと話をして謝罪しました」
「・・・当然です!」
ミリアは包帯や薬を片付けながらため息をつく。
「いいですか。この際だから言いますけど、その生き物を無粋に触る癖も気を付けてくださいね。新入生は特に、『バラム先生に絞め殺されかけた!』なんて言って保健室に駆け込んでくることも少なくないんですから」
「あぁ・・・本当にすみません・・・」
バラムは頭を垂れて申し訳なさそうに謝った。
「はぁ。じゃあ処置はこれで完了です。お大事に」
無造作に伸びた長髪の隙間から、肩をトンと叩いてミリアは立ち上がって自身の席に戻った。
「ありがとうございます。ミリア先生。それでは」
バラムは2メートルはあろうかという大柄な体躯を立ち上げて、のっそりと保健室のドアまで来て立ち止まった。
「あ、そうだ。今日の終末テスト決起会はミリア先生もご参加されるんですか?」
終末テスト決起会とは、バビルス教師陣がテスト前に集まりモチベーションを最大化するイベント・・・つまりは飲み会である。
「あぁ・・・そうですね。私も参加します。バラム先生も?」
「はい。じゃあ、また決起会でお会いしましょう」
バラムは申し訳なさそうな顔をやめて、少し微笑んで見せた。口枷と長髪のせいであまり分からないが、優しい眼差しが髪の毛の隙間からちらりと見えた。
「えぇ。決起会で」
ミリアはバラムを向いて少しだけ会釈すると、すぐ書類の整理に取り掛かった。
(あんまり飲み会は得意じゃないけど、普段保健室にいるからこういうイベントに参加しないと他の教師と関わらないのよねぇ)
時計を見ながらミリアは仕事に集中した。
その夜、バビルス学園の教師陣は珍しく外に出ていた。週末テスト決起会。なにかと問題の多いバビルス生徒をまとめるための会議と教師陣のストレス解消を兼ねた飲み会である。
「いやぁ、たまにはこういうのもいいですねぇ!」
陽気な声が店内に響く。居酒屋の暖簾をくぐれば、香ばしい匂いと賑やかな笑い声。仕事の顔を外した教師たちが、それぞれの席でくつろいでいる。
ミリアはというと――
「……騒がしいですね」
湯気の立つグラスを手に、静かに呟いた。
その向かいには、バラム・シチロウ。さらに隣には、鋭い視線のナベリウス・カルエゴもいる。
「騒がしいのは苦手ですか」
バラムが気遣うように尋ねる。
「いえ、嫌いというよりは・・・ただ、慣れていないだけです」
淡々とした返答。だがその頬は、ほんの少しだけ赤い。
酒のせいか、それとも空気のせいか・・・。
しばらくして誰かの一声が響いた。
「よーしっ!余興でもやるかー!」
場の空気が一段と弾む。
「いいですねぇ!」
「そうだ、ミリア先生、変身できるんですよねぇ?」
視線が、自然とミリアへ集まった。
「え、ええまあ……」
「じゃあ何か見せてくださいよ!」
一斉に向けられる期待の眼差し。ミリアは小さくため息をついた。
「……一度だけですよ」
ふわり、と空気が揺れる。
次の瞬間――
そこにいたのは、小さな魔物だった。
手のひらに乗るほどの大きさ。丸い体に、ふわふわの毛並み。つぶらな瞳がきょとんと瞬く。
「おおお……!」
「かわいい……!」
ざわめきが一気に広がる。
ミリアは内心で(早く終わらせて戻ろう)と考えていた。
――その時。
「……これは」
くぐもった低い声。気づけば、バラムがすぐ近くにいた。机に身を乗り出して顔を覗かせている。食い入るように見つめるその目は、完全に“観察対象を見つけた生物学者”のそれだった。
「非常に興味深い形態ですね……」
「バラム先生、近いです」
言ったつもりだった。だが声は小さく、しかも今は小魔物の姿。彼の耳には届いていない。
ふわり――
「……え」
持ち上げられた。
「抱き上げても問題ありませんか」
「問題あります」
即答のつもりだったが、しかし発音は「きゅ…」と子猫のような鳴き声になる。アウトである。
「すごい!毛並みも柔らかい……」
バラムの手が、優しく背を撫でる。
一定のリズム。
丁寧で、どこか慣れている手つき。
「……っ」
ミリアの意識が、じわりと熱を帯びる。
(な、何を……)
逃げようとする。
だが―― 軽く抱き寄せられる。距離が、近い。近すぎる。
「……っ!」
心臓が、変に速い。酒のせい。これは絶対に酒のせいだと言い聞かせるようにミリアは心の中で連呼した。
そう結論づけようとした瞬間。
「……かわいいですね」
ぽつり、と。
バラムの声が落ちる。その言葉が、妙にまっすぐで。
(……今のは、変身先に対してですよね)
分かっているのに。分かっているのに、胸の奥が妙にざわつく。
「ミリア先生、そろそろ戻らないんですか?」
誰かが笑いながら言う。
(そうだ、戻らないと)
意識を集中する。
戻る。
元の姿に。
……戻る。
……戻らない。
「……あれ」
力が、うまく入らない。
酔いが、じわじわと邪魔をする。
「どうかしましたか」
バラムが覗き込む。
距離が近い。長髪に埋もれて視界が遮られる。周りの喧騒が遠くなる。
「……戻れません」
小さな声。もちろん鳴き声。だが何となく伝わったらしい。
「なるほど……魔力制御が不安定に」
納得したように頷くと――さらに撫でる。
大きな手に包まれる。手袋のサラサラとした感触の下に鋭い爪があるのだろう。しかしその爪を立てないよう、優しく撫でてくれているのが感じられた。
「落ち着くまで、このままにしておきましょう」
(よくないです)
(全然よくないです)
撫でられるたびに、変に安心してしまう。
逃げようとしても、動きが鈍い。
「……温かいですね」
バラムのくぐもった声だけが頭に響く。
(お酒……入ってますね……)
ミリアは内心で確信する。
そして同時に。
(……この人、こんなふうに触るんですね)
普段感じる距離感が今日は嘘のように近く、ためらいがない。
優しくて、無防備で。
「……バラム先生」
思わず、名前を呼びそうになる。だが声はまた、か細い鳴き声になるだけ。
それが少し悔しくて、ミリアは目を閉じた。
鼓動がうるさい。
これは酒のせい。
これは状況のせい。
そう思い込もうとして――できなかった。
しばらくして。
ようやく魔力が安定し始める。
「……戻れそうです」
小さく動く。
その変化に気づいたバラムが、少し名残惜しそうに手を止めた。
「もう少し観察したかったのですが……」
「十分です」
バラムが手を離すと、ミリアは自分の席に戻って「コホン」と一度咳払いしたのち元の姿に戻った。
「……すみません。つい癖で・・・。」
バラムが静かに言う。いつもの調子に戻りかけている。
ミリアは一瞬だけ彼を見た。
「いえ……」
ほんの少しだけ、言葉を選ぶ。
「……嫌では、なかったです」
それだけ告げて、視線を逸らした。
「いいなぁー!バラム先生ばっかり!私達もフワフワしたかったのに!」
どこかで他の教師たちが文句を垂れていたが、ミリアには一切聞こえなかった。
料理の味がまるでしない。教師たちの会話も分からない。ただ心臓が騒がしく脈打つのを必死に抑え込むばかりだった。
「皆さんお疲れさまでしたー!それでは終末テスト、頑張りましょうー!!!」
「お疲れー!」
夜の空気は、少しだけ冷たい。
居酒屋の灯りから離れた帰り道。ざわめきは遠ざかり、足音だけが静かに並ぶ。
「……ミリア先生、送りますよ。」
隣を歩くバラム・シチロウが、ぽつりと言った。
「一人でも問題ありませんが」
ミリアはそう返す。
「いえいえ、僕はどうせ学校に戻るので、先生のご自宅こっち方面でしょう?」
「ええ」
「あの、ミリア先生・・・先ほどは・・・」
言葉が続かない。しかし“先ほど”が何を指すかミリアには理解できた。
抱き上げられたこと。
撫でられたこと。
そして――あの一言。
「……かわいいですね」
思い出した瞬間、心臓が妙に跳ねる。
(やめてください、今それは)
内心で自分にツッコミを入れるミリア。
「……あれは」
言い淀む。
「不躾でしたね。すみません。」
きっぱりとした謝罪。
ミリアは足を止めた。
「……ええ、まぁ」
バラムも立ち止まる。
夜風が、二人の間をすり抜ける。
「ミリア先生に撫で癖を指摘されたばっかりなのに、無理やり抱き上げてしまい――」
「違います」
ミリアは、少しだけ強めに遮った。
その自分の声に、少し驚く。
だが、もう止まらない。
「……そういうことでは、なくて」
視線を逸らす。
少しだけ、呼吸が乱れる。
(何を言っているんですか、私は)
理性がツッコミを入れる。
でも、酔いがそれを鈍らせる。
「……あの時」
小さく言葉を選ぶ。
「嫌では、ありませんでした」
さっきと同じ言葉。
けれど今度は、少しだけ意味が違う。
「むしろ……」
そこで止まる。
言うべきではない。
分かっている…
分かっているのに。
「……安心しました」
ぽつり、と落ちた本音。
バラムが、わずかに目を見開く。
「安心……ですか」
「ええ」
ミリアはまだ視線を合わせない。
「バラム先生に触れられても、危険ではないと分かっていたので」
それだけではないことを、自分でも分かっている。
沈黙。
長くはないが、やけに重い。
やがてバラムが、ゆっくりと口を開く。
「……そうですか、それなら、良かったです」
その声は、少しだけ低い。
ミリアが顔を上げる。
視線がぶつかる。
「……あの」
バラムが、少しだけ迷う。
「もし、また機会があれば」
言葉を選びながら。慎重に。
「また触れても、よろしいでしょうか」
「……は?」
一瞬、思考が止まる。
何を言っているのか、この人は。
だが次の瞬間、理解が追いついてしまう。
顔が、一気に熱くなる。
「そ、それは……」
言葉が出ない。
理性と何か別の感情が、激しくぶつかる。
(落ち着いてください)
(これはただの確認です)
(そういう意味ではありません)
頭の中で会議が開かれる。
「……状況によります」
結局、出てきたのはそんな無難な答えだった。だが声は少しだけ揺れている。
バラムは静かに頷く。
「分かりました」
それ以上は踏み込まない。その距離感が、逆にずるい。
再び歩き出す。今度は少しだけ、距離が近い。
肩が触れるか触れないかの境界線だった。
さっきまでなら気にならなかったはずなのに――
今はやけに意識してしまう。
「……ミリア先生」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
その一言に、いろいろな意味が含まれている気がした。
ミリアは小さく息を吐いて――
「こちらこそ」
少しだけ柔らかく、答える。
しばしの沈黙ののち、帰路は分かれ道まで着いた。
「では、うちはこっちなので。バラム先生、おやすみなさい」
「いや、自宅前まで送りますよ?」
「いえ!!!!ここで大丈夫です!!!!」
これ以上一緒にいるのは、心臓が持たないというか、なんというか、ミリアは焦ったように断りを入れた。
「そうですか。では、お気をつけて。おやすみなさい。」
バラムは優しく微笑んで手を振り、お互いの帰路へとつま先を向けた。
ミリアは一歩だけ進むと、なんとなく振り返った。いつものようにのっそり歩くバラムの姿があった。
その夜。
ミリアはなかなか眠れなかった。
撫でられた感触。
抱き上げられた温もり。
そして――
「触れても、よろしいでしょうか」
あの言葉が、何度も繰り返される。