空想生物学の準備室に足を入れる者は少ない。
まずは空想生物学の担当教師であるバラム・シチロウ。次にその友人であるナベリウス・カルエゴ。そしてひょんなことから仲良くなった生徒、鈴木入間の三人だ。
しかし、今日はその三人に加え新たな人物が準備室にやってきた。養護教諭のミリアだ。
「お邪魔します…。わぁ、本が沢山。これ全部空想生物学の本ですか?」
ミリアはキョロキョロと見回しながらおそるおそる中に入った。準備室の中は木と花の香りが混ざったような、森の中を思わせるような匂いがした。
「そうだね。違う本もあるけどほとんどが空想生物に関する本ですよ。」
少し緊張した面持ちのバラムが湯飲みに魔茶を注いだ。
「なんか、改めてこうやって会うと緊張しちゃいますね。」
ミリアは照れながら笑った。つられてバラムも恥ずかしそうに笑っている。生ぬるい空気が準備室に流れる。
「で、でもこれは、贖罪なんですからね!」
ミリアは背筋を伸ばして人差し指でバラムの顔を指した。
「はい。とても反省しています。」
バラムは魔茶を机に置いてソファに座った。
「そもそも、なんでなんの予防もせずに煙を出させたんですか?」
「それは…僕は耐性があるから少しくらいなら大丈夫だと思って。」
「でもあの日、私は初めて変身する魔獣でしたし、実際煙もコントロールできず沢山出ちゃいましたよ?!全然少しじゃなかったじゃないですか。」
「はい。本当にすみませんでした。」
バラムは縮こまって頭を下げた。
―ポスッ
「!」
ミリアはバラムの頭に手のひらをそっと乗せ、ゆっくり前へ滑らせた。
「いいですよ。おかげで色々分かりましたし。」
―サラッ
白い短髪を撫でると、光が反射して雪が積もった日の朝みたいだ。
バラムは頬を少し赤く染めて、どこを見るべきか困ったようにキョロキョロしている。
2メートルもあろうかという大男が小さくなっている様を見て、ミリアは少し意地悪な気持ちになっていた。
「バラム先生、最近お疲れみたいですしついでに少し休んでもいいんですよ。」
ミリアはソファのバラムの隣に腰かけ、手招きした。
「?」
「膝に来てください。」
「えっ、ひ、膝ですか。」
バラムは目を白黒させてミリアの膝を見た。ピンと張った紺のタイトスカートのスリットからわずかに足が見える。バラムは体を傾けたままどこに頭を乗せるべきか思案した。
「背が高いから撫でにくいんです。お願いします。」
「…分かりました。」
とりあえず、体をそのまま傾かせてみるも、今度は胸に体が当たりそうで困る。
―グイッ
45度の角度でフワフワしているバラムの体を、ミリアが強制的に膝に付かせた。
「うおっ!」
「早くしてください。」
ミリアの柔らかい太ももの感触がバラムの耳に当たる。柑橘のような爽やかで甘みのある香りが鼻を抜ける。心臓の音が聞こえるくらい脈が早くなって、顔がどんどん熱くなる。
―サラッ
髪の毛にミリアの指が触れた瞬間、バラムは全身の毛が浮き上がるような妙な感覚を覚えた。
「バラム先生の髪の毛って意外と柔らかいんですね。」
「は、はぁ。」
―サラッ
バラムの髪の毛を撫でる度に、ふわっと樹木のような爽やかな、どこか落ち着く香りが漂う。
ミリアは、心臓の鼓動がバラムに伝わるような気がして少し体を離した。
女子生徒がふざけて膝枕をしてくることはよくあるが、成人男性の頭の重さはやはり全然違う。ずっしりとした重みに、筋肉質な肩が当たる。
(そうか。当たり前だけど男の人なんだ。)
ふと、撫でている手を肩に乗せる。白い肌の下にごつごつとした筋肉があるのが分かる。張りがあって、思ったよりも柔らかい。
「バラム先生、ちょっと力こぶ作ってみてください。」
「あ、はい。」
バラムは腕を浮かせて力を入れた。むちっとした二の腕に筋が入り膨れ上がった。
「おおお!力入れてるときと入れてない時ってこんなに違うんですね。」
ミリアは固くなった二の腕をにぎにぎと触った。弾力のあった筋肉が今は石のように固まっている。
「バラム先生が生物に触りたくなる気持ちが今分かりました。他人の体って面白いですね。」
ミリアはバラムの顔を覗き込んで微笑んだ。
「そう!!!そうなんですよ。同じ悪魔でも悪魔それぞれに個性があって違うんです。それが面白い!!!」
バラムは目を見開いてミリアの方を向こうと顔を上げた。
その瞬間―
―パフッ
「あ…。」
バラムの顔がミリアの胸に半分沈んだ。
「ひゃっ…」
全身の血が一気に引いていくのが分かる。
「ごめん!違うんです、わざとじゃなくて‥‥ごめんなさい!!!」
バラムは飛び上がってミリアの体から離れた。
「‥‥!!!」
ミリアは耳まで赤くして黙っている。制止するように片手を前に出して呼吸を整えた。
「だ、大丈夫です。今のは事故です…。」
一度深呼吸して、ミリアはバラムの方を向いた。
気まずい空気をなんとかしようと咄嗟に考えた結果、ふといつも思っていたことを口に出した。
「…私、バラム先生の体で気になってる事があるんです。」
バラムは目を丸くしてミリアを見つめる。
「…な、気になる事?」
「代わりと言っては何ですが、見せていただくことは可能でしょうか?」
ミリアは目を泳がせながら小さな声を絞り出した。
「あの、バラム先生の…肌と鱗の…境目を見せて下さい!」
「うん?」
バラムは赤い顔のまま驚いて目を見開いた。
バラムの体は半分人型だが、半分は恐竜のような体をしている。手足の先は鱗で覆われており、足は踵と甲が合わさった
「そんなことでいいんですか?」
バラムはその場で手袋を外して見せた。
「へぇ、ここから鱗になってるですね。触っても良いですか?」
「あ、はい。どうぞ。」
柔らかい素肌が徐々に固い鱗へと変わっていく。ツルツルとした固い鱗には光沢があり鏡面のように反射している。
「わぁ!…すごく綺麗ですね。宝石みたい。」
「そうですか?」
ミリアは片手でバラムの腕を支えたまま、もう片方の手でそっと肘から指先までゆっくりと触れた。ミリアの手のひらが触れている場所からじんじんと痺れてゆく。指先に近づくほど神経が鋭くなって、バラムは息をするのも忘れていた。
指先には黒く鋭い鉤爪があった。しかしその先端は意外にも丸く削られている。動物をよく触るので普段から手入れをしているのだろう。
「手、冷たいんですね。」
「あぁ、そうだね。僕体温が高いから手足でほどよく冷ましてるんだよ。」
「そんなこと出来るんですか?」
「出来るというか、体の構造がそうなってるだけだけどね。」
「確かに、手以外はすごく暖かいですね。」
ミリアは再び、バラムの頭をゆっくりと撫でた。髪の毛に手を絡めると内側の熱が伝わってくる。まるで雛鳥を抱えているみたいだ。
「…。」
バラムは黙って部屋の壁を見つめていた。
ミリアの細く小さな手が頭を優しく触れる度に緊張して、胸の奥がキュッと締め付けられる。
(こんなに細い手足で、どうやって普段生きているんだろう?)
大きな魔物に襲われたら、悪い悪魔に狙われたら…何故だろうか、急に不安でいっぱいになった。
もしミリア先生を守れるような強い悪魔が現れたら、その人が恋人になるんだろうか…?そう思った瞬間、バラムは胸がずっと重く、辛くなるのを感じた。
「バラム先生?」
ミリアが顔を覗き込んだ。
「ごめんなさい痛かったですか?」
「えっ、あ、いや、ちょっと考え事してただけです!大丈夫です!」
バラムは起き上がって首を振った。
ミリアが心配そうに見つめる。その顔を見ると余計に胸が苦しくなる。
「そろそろ…僕、生徒の所に行かなくちゃいけないので、ここらへんで勘弁してもらえますか?」
バラムは頭を掻きながら目を泳がせた。
「あ、もうそんな時間ですか。早いですね!ふふ。」
ミリアはクスクスと笑いながら立ち上がった。
「人の事撫でるのってこんなに面白いんですね。たまにまた撫でさせてくださいね。」
「それは・・・」
素直に首を縦に振ることは出来なかった。しかし自分が撫でるのに撫でられることを拒否することも出来ず、バラムはなんともいえない表情で斜めに頭を振った。
「じゃあ私は保健室に戻りますね。」
ミリアはスカートの皺を軽く伸ばしてドアに向かった。
「お疲れ様ですミリア先生。」
「お疲れ様ですバラム先生。」
ドアを挟んでお互いにお辞儀すると、ミリアはあっさりと帰ってしまった。
バラムは一人残された準備室で、まだ少し体温の残っているソファに腰を下ろした。口枷を外し冷め切った魔茶を一気に飲むと、火照った顔を手で覆った。
何か考えようとしても、頭の中は砂嵐のようにザラザラとしたままだった。