空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【Prologue】観測者の春、あるいは孤独の共鳴

[Time: 2000年 4月上旬 午前7:45]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 穂群原学園中等部への通学路]

 

 

春の冬木市は、特有の湿気を帯びたぬるい風が吹く。

 

アスファルトを撫でるように吹き抜けるその風は、沿道に咲き誇る桜の枝を揺らし、無数の花びらを重力と気流の網目の中へと放り出していた。

 

 

 

 

竜胆茜は、真新しい穂群原学園中等部の制服に身を包み、その花びらの一つが地面に到達するまでの「軌跡」を視界の端で処理していた。

 

魔術回路は一切駆動していない。ただ、彼の脳内に常時稼働している第一階層──《確率演算》が、風速、湿度、花びらの質量と空気抵抗、そして歩行者たちが生み出す微小な気流の乱れを自動的に計算し、その一枚が「3.2秒後に前方2.4メートルのマンホールの縁に着地する」という未来を弾き出しているだけだ。

 

 

 

「……うん。まあ、どうでもいいか」

 

 

 

 

茜は小さく呟き、気怠げに半眼を細めた。

 

口元には、咥えタバコならぬ、棒状の安価なチョコレート菓子が一本、無造作に咥えられている。甘い匂いが鼻腔を抜ける。

 

 

 

 

 自分が世界からどう見えているか。答えは明白だった。路傍の石、あるいは背景の一部。

 

 

 彼の深層緩衝領域《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》は、意識せずとも彼という個体の「存在の解像度」を周囲のノイズと同化させている。道ゆく同級生たちも、すれ違う大人たちも、誰も茜という少年の特異性に気づかない。ただの「少しぼんやりした、目立たない少年」として視線を滑らせていく。

 

 

それが心地よかった。自己評価が底を抜けている茜にとって、何者かとして世界に観測されることほど億劫なことはないのだから。

 

 

 

 

 

「──相変わらず、寝癖がついてるわよ。竜胆」

 

 

 

不意に、背後から凛とした、それでいてどこか呆れを含んだ涼やかな声が鼓膜を打った。

 

振り返らなくてもわかる。声の波形、足音の周波数、そして何より、周囲の空気が彼女を中心に「整列」していくような微かな魔力の残り香。

 

 

「……おはよう、遠坂。寝癖じゃないよ、これはエントロピーの増大に伴う自然な散逸だ」

 

 

「それを世間では寝癖って言うの。中学に上がったんだから、少しは身だしなみに気を使いなさい」

 

 

 

隣に並んだのは、遠坂凛だった。

 

真新しい中等部の制服を完璧に着こなし、黒髪のツインテールを揺らす彼女の姿は、春の陽光の下でひときわ鮮やかな色彩を放っていた。誰もが振り返るような美貌と、名門の令嬢としての隙のない立ち振る舞い。茜のような「背景」とは対極にある、世界の「主役」側に立つ少女。

 

 

 

だが、茜の《構造解析》に紐づく常時の観察眼は、彼女の完璧な外面の裏にある「微かな綻び」を見逃さない。

 

 

 

歩幅のわずかな硬さ。

 

 

視線の端に宿る、周囲を常に警戒するような冷たい光。

 

そして、呼吸の合間にほんのわずかに混じる、疲労の残滓。

 

 

(……昨夜も遅くまで、魔術の鍛錬か。それとも、あの胡散臭い神父との書類仕事か)

 

 

 10歳の頃にこの街に流れ着き、魔術師の家系から追放された「はぐれ者」である茜にとって、凛は恩人であり、唯一の「観測対象」でもあった。彼女が先年の聖杯戦争で肉親を失い、たった一人で遠坂という巨大な看板を背負い込んでいることを、茜は知っている。

 

 

泣き言を一切言わず、血の滲むような努力で己を律し、孤独の中で立とうとする彼女の背中は、自己評価の低い茜から見れば「眩しすぎる」ものだった。

 

 

 

「どうしたのよ。人の顔をジロジロ見て」

 

 

「いや。制服、似合ってるなって思っただけ。……僕みたいなモブとは違って、ちゃんと『主人公』の装いをしてる」

 

 

「はあ? 何よその言い回し。相変わらず卑屈ね、貴方」

 

 

 

凛は呆れたようにため息をついたが、その声のトーンは決して冷たくなかった。むしろ、肩の力が少しだけ抜けたような、安堵の響きが混じっていた。

 

 

彼女にとって、竜胆茜という存在は奇妙な空白地帯だ。時計塔の権力闘争にも、聖杯を巡る血みどろの歴史にも無関係。それでいて、魔術の基礎である魔術をたった数回見せただけで、独自の《関係性抽象式》として完璧に再構築してみせた異常者。

 

 

脅威になり得るはずなのに、茜からは「野心」というものが一切感じられない。ただ「遠坂が困っているなら」という打算のない善性だけで、静かに隣を歩いてくれる。その不器用な気遣いが、孤独な凛にとってどれほど救いになっているか、茜本人は一生気づかないだろう。

 

 

 

「中等部になっても、お昼は屋上だからね。貴方、放っておくとまた購買のパン一個で済ませようとするんだから。私が栄養管理してあげるって言ってるでしょ」

 

 

「……遠坂の弁当は美味いから助かるけど。僕みたいなのに労力割くの、コストに見合ってないと思うぞ」

 

 

「私がそうしたいからしてるの。遠坂の魔術師は、一度借りを作った相手に不義理はしないわ」

 

 

ツンとそっぽを向く凛の横顔を、茜は静かに見つめた。

 

彼女の言う「借り」とは、過去に凛が魔術の実験で魔力暴走を起こしかけた際、茜が《自動修復機構(セーフティ・リセット)》と《魔力視》を用いて、彼女の回路が焼き切れる直前に「因果をショートさせて」物理的に遮断し、事なきを得た一件のことだろう。茜にしてみれば「隣で火事になりそうだったから水桶を投げた」程度の認識だが、凛はそれを重く受け止めている。 

 

 

「……そっか。じゃあ、ありがたくおこぼれに与るよ」

 

 

「おこぼれって言わない。まったく……」

 

 

 

二人は並んで歩く。

 

茜は無意識のうちに、凛の歩調と呼吸に完全にシンクロするように歩幅を調整していた。彼女が最も歩きやすく、かつ周囲の無遠慮な視線から彼女を隠すような絶妙な死角(ベクトルの影)に位置取る。

 

これもまた、茜なりの「静かな善性」の形だった。

 

 

 

 

 

[Time: 2000年 4月上旬 午前8:20]

 

[Location: 穂群原学園中等部 1年A組 教室]

 

 

教室に入ると、瞬く間に凛の周囲には人垣ができた。

 

 

「遠坂さん、おはよう!」「制服、すごく似合ってるね!」

 

 

飛び交う好意的な声に対し、凛は完璧な優等生の笑みを浮かべて応対する。その顔の筋肉の動き、声帯の震え、息の吐き方まで、茜の目は自動的に解析してしまう。

 

 

(……完璧な擬態だ。でも、左手の指先がわずかに痙攣してる。人混みの熱気と、無意識に向けられる他者の感情のベクトルが、彼女の神経に負荷をかけてるな)

 

 

茜は自分の席──教室の最後列、窓際から一つ廊下側という、最も目立たない座標──に座りながら、机の下で密かに指先を動かした。

 

 

 

《関係性抽象式》の極低出力起動。

 

 

 

魔力回路は使わず、外界の魔力をほんのわずかに操作する。

 

 

属性【風】──《気圧操作(バロメトリック・シフト)》。 

 

 

教室内を満たしていた淀んだ熱気が、不自然ではない程度の微風となって窓から外へと抜け出していく。同時に、凛の周囲の空気密度をほんの数パーセントだけ下げ、彼女の呼吸を楽にさせる。

 

 

当然、誰も気づかない。凛自身すら、ただ「心地よい春風が吹いた」としか認識しないだろう。《干渉痕消去(インターフェアレンス・クリア)》が即座に働き、魔術の痕跡を「ただの気象現象」へと偽装する。

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

人垣の隙間から、凛が小さく息を吐き、微かに肩の力を抜くのが見えた。

 

それだけで十分だ。茜は再び棒状のチョコレート菓子を咥え直し、数学の教科書を開くふりをして、窓の外の桜をぼんやりと眺め始めた。

 

 

世界はまだ何も起きていない。

 

聖杯を巡る狂気も、魔術師たちの血みどろの殺し合いも、今はまだずっと先の話。

 

今はただ、この孤独で気高い少女が、少しでも息をしやすい環境を作る。それが、自分のような「背景」にできる唯一の暇つぶしなのだと、茜は静かに目を伏せた。

 

 

 




あとがき 

遠坂凛と歪んでる系のキャラが書きたかった。
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