空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第五章】真紅の焦燥と、屋上の空白

[Time: 2004年 2月1日 午前7:30]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸から穂群原学園への通学路]

 

 

冬の朝の空気は、肺を刺すように冷たく、そして澄み切っていた。

 

遠坂凛は、いつもと寸分違わぬ完璧な優等生の足取りで、霜の降りたアスファルトを踏みしめていた。見慣れた通学路。すれ違う生徒たちの他愛のない笑い声。昨日までと何も変わらない冬木の日常。

 

だが、彼女の視界に映る世界は、すでに決定的な変容を遂げていた。

 

 

(……聖杯戦争。魔術師同士の、血みどろの殺し合い)

 

 

凛は、右手の甲を黒い手袋で覆い隠していた。その下には、昨夜アーチャーを召喚した証である三画の令呪が、熱を帯びて刻み込まれている。

 

 

『──気にかかるか、凛。誰か、特定の人物のことが』

 

 

 

不意に、脳裏に低い男の声が響いた。

 

霊体化して彼女の背後に付き従っている、昨夜召喚したばかりのサーヴァント──アーチャーからの念話だった。

 

皮肉めいた、それでいてすべてを見透かしているかのような響き。凛は歩調を崩さないまま、内心で鋭く言い返した。

 

 

(……何の話よ。私はただ、これからの戦いの組み立てを考えていただけよ)

 

 

『ほう。ならば、なぜ交差点を曲がるたびに無意識に背後を振り返ろうとする? 君のその態度は、まるで……自分の半歩後ろを歩いているはずの「誰か」がいないことを、心細く思っているように見えるがね。召喚されて数時間の私から見ても、君のその落ち着きのなさは明らかだ』

 

 

「……ッ、うるさいわね!」

 

 

凛は思わず声に出して怒鳴りかけ、周囲の生徒が怪訝な顔で振り向いたのを見て、慌てて咳払いをし、澄ました顔を取り繕った。

 

 

(いいこと、アーチャー。彼……私の同級生は、魔術とは無縁のただの一般人よ。私が巻き込まないように、昨日の夜にしっかり言い含めておいたの。だから、今日彼が隣にいないのは当然だし、私の目論見通りなのよ)

 

 

『なるほど。無関係な者を盤面から遠ざけたいという君の意志は立派だ。……だが、そうして冷たく突き放した自分の選択に、君自身が割り切れていないようだがな』

 

 

 

アーチャーの言葉は、凛の胸の奥にある柔らかな部分を的確に突いていた。

 

昨夜の夕食での茜の無機質な言葉が、棘のように引っかかっている。

 

 

『了解した。俺は背景だからね。主人公の邪魔はしない』

 

 

 

 

あいつは、いつもそうだ。

 

 

圧倒的な才能の片鱗を見せながらも、絶対に自分を誇らず、ただ凛が歩きやすいようにと後ろから影を踏むだけ。

 

「私の前に現れるな」と突き放した時、彼がどんな顔をしていたか。無表情の裏で傷ついていたのではないかという後悔が、凛の胸をチクチクと刺し続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前8:15]

 

[Location: 穂群原学園 2年A組 教室]

 

 

教室のドアを開けると、暖房の効いた生ぬるい空気が凛を包んだ。

 

友人たちの挨拶に完璧な笑顔で応えながら、凛の視線は無意識に、教室の最後列──窓際から一つ廊下側の、最も目立たない席へと向かっていた。

 

 

 

空席だった。

 

鞄もない。机の上は綺麗に片付いている。

 

 

(……休んだの?)

 

 

普段、どれだけ不健康な生活をしていても、学校だけは無遅刻無欠席でフラリと現れる茜が、いない。

 

 

「……おはよう、遠坂さん。どうしたの、ぼーっとして」

 

友人の蒔寺楓が、不思議そうに顔を覗き込んできた。

 

 

「え? あ、ううん。なんでもないわ。ちょっと寝不足なだけ」

 

 

凛は笑顔で誤魔化し、自分の席に着いた。

 

 

 

だが、胸のざわめきは収まらない。

 

(私が現れるなと言ったから? だからって、学校まで休むなんて……。まさか、聖杯戦争の余波に巻き込まれたんじゃ……!)

 

 

魔術師としての冷徹な思考が、私情によって急速に乱されていくのを凛は感じていた。アーチャーが霊体化のまま小さく鼻で笑う気配がしたが、凛はそれを無視して、祈るような気持ちで午前中の授業を耐え忍んだ。

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午後0:30]

 

[Location: 穂群原学園 ── 屋上]

 

 

昼休みを告げるチャイムが鳴り終わると同時に、凛は鞄から弁当箱を取り出し、足早に教室を後にした。

 

 

 

ピンク色の、小ぶりな二段重ねの弁当箱。

 

「もうお弁当は作らない」と昨夜宣言したはずなのに、今朝、無意識のうちに卵焼きを焼き、タコさんウインナーを炒め、二人分の弁当を仕上げてしまっていたのだ。

 

 

(……馬鹿みたい。私、あいつの母親じゃないんだから)

 

 

自己嫌悪に陥りながらも、捨てるわけにはいかない。

 

凛は冷たい風が吹き抜ける屋上への階段を上り、重い鉄扉を押し開けた。

 

冬の曇り空。殺風景なコンクリートの屋上には、誰もいない……ように見えた。

 

 

 

だが、凛の足は止まった。

 

彼女の魔力感覚が、貯水槽の陰から漏れ出す、極めて微弱な「世界のノイズ」を捉えたからだ。

 

 

凛がゆっくりと貯水槽の裏側に回り込むと、そこには。

 

コンクリートの床に背を預け、膝を立てて座り込んでいる、竜胆茜の姿があった。

 

 

 

「……竜胆」

 

 

凛が声をかけると、茜の身体を覆っていた《可変存在解像度》のモザイクがフッと解け、その存在が世界に明確に輪郭を結んだ。

 

 

「……おはよう、遠坂。今日は風が冷たいね」

 

 

茜は、口に棒状のチョコレート菓子を咥えたまま、気怠げに半眼を向けた。

 

学校を休んだわけではなかった。登校はしていたものの、完全に気配を消し、誰にも認識されない「背景」として屋上に潜伏していたのだ。

 

 

 

だが、凛は茜の挨拶に応えるよりも先に、息を呑んだ。

 

 

 

茜の顔色は、死人のように青白かった。

 

黒いタートルネックを着ているため外傷は見えないが、その布地の下から、強烈な鉄の匂い──血の匂いが、わずかに漏れ出している。

 

さらに、彼の呼吸は浅く、普段の彼が周囲の環境と完璧に同調させているはずの「自然なリズム」が、所々で致命的に欠落していた。

 

 

「……貴方、その顔色……血の匂い……! なにがあったの!?」

 

 

凛は弁当箱を横に置き、茜に詰め寄ろうとした。

 

 

 

だが、茜はスッと手を前に出し、凛を制止した。

 

 

「なんでもないよ。ちょっと昨日、アパートの階段から落ちてね。……打撲と、少し切っただけだ。たいしたことない」

 

 

茜は平坦な声で言い放つ。

 

もちろん、嘘だ。昨夜、バゼットとランサー、さらにアトラムとキャスターを相手に死闘を繰り広げ、神代の魔術と因果の呪いによって内臓から神経までズタズタに引き裂かれた代償が、一晩で癒えるはずもない。

 

 

「嘘よ……! そんな血の匂いがして、ただの怪我なわけないじゃない! 傷を見せなさい!」

 

 

凛が茜の袖を引こうとするが、茜は静かに、しかし絶対的な拒絶の意志をもってその手を避けた。

 

 

「……遠坂」

 

 

茜の黒い瞳が、凛を真っ直ぐに見据える。

 

 

「僕は、用事が終わるまで遠坂に介入しないと約束した。遠坂の日常の背景に、これ以上不自然なノイズを入れるつもりはない。……だから、見ないでくれ」

 

 

その言葉に、凛は凍りついたように動きを止めた。

 

彼がこれほどまでに頑なに自分を遠ざけようとするのは、凛自身が突き放したからだ。彼女が「戦いから遠ざけたい」と願ったからこそ、彼は自らがどれほど傷ついていようと、絶対にそれを見せようとはしない。

 

 

(……この馬鹿。自分が血を流しているくせに、どうしてそんなに平気な顔をしてるのよ)

 

 

 

凛の胸が、ギリリと音を立てて締め付けられた。

 

 

「……そう。階段から落ちたのね。どんくさいわね、貴方は」

 

 

凛は、震えそうになる声を必死に抑え込み、いつもの「遠坂凛」の強気なトーンを装った。

 

そして、持ってきたピンク色の弁当箱を、茜の膝の上にドンッと乱暴に置いた。

 

 

「え……」

 

 

「昨日の残り物を詰めただけよ。捨てるのも勿体ないから、貴方に処理させてあげるわ。……ちゃんと全部食べなさいよ」

 

 

 

茜は、膝の上の弁当箱と、凛の顔を交互に見つめた。

 

その無機質な瞳の奥で、ほんのわずかに、何かが揺らいだように凛には見えた。

 

 

「……いいの? 僕は背景なのに」

 

 

「背景だって、お腹は空くでしょ。……それに、私は私が作ったものを、美味しく食べてくれる人がいる方が気分がいいのよ」

 

 

 

凛はそう言って、ぷいっとそっぽを向いた。

 

茜はしばらく黙っていたが、やがて「いただきます」と小さく呟き、不器用な手つきで弁当箱の蓋を開けた。卵焼きを口に運ぶ彼の横顔を、凛は切なさを押し殺しながら見守っていた。

 

 

 

言葉にすれば、壊れてしまう。

 

互いに重大な秘密と命懸けの覚悟を隠し持ちながら、ただの「同級生」としての温かな時間を演じている。この屋上だけが、狂気に満ちた聖杯戦争の中で、彼らに残された最後の安全地帯だった。 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午後5:30]

 

[Location: 冬木教会 ── 礼拝堂]

 

夕暮れの冬木教会。

 

ステンドグラスから差し込む赤い光が、静寂に包まれた礼拝堂の床に血のような模様を描き出している。

 

凛は、緊張で冷たくなった指先をコートのポケットに隠しながら、祭壇の前に立つ長身の男を睨みつけていた。

 

 

 

「──よく来たな、凛。サーヴァントの召喚、見事だ。これで君も正式に、聖杯戦争のマスターとして盤面に立つことになった」

 

 

 

 

 

言峰綺礼。

 

凛の父親の弟子であり、現在の彼女の後見人であり、そして、誰よりも信用ならない男。

 

漆黒の法衣を纏った彼は、十字架を背負うようにして立ち、感情の読めない暗い瞳で凛を見下ろしていた。

 

 

「監督役への挨拶と、令呪の登録は済ませたわ。……これで用は終わりね。長居する趣味はないの」

 

 

 

凛が背を向けて立ち去ろうとした、その時。

 

 

「待て。君に一つ、伝えておくべき盤面の情報がある」

 

 

言峰の声が、礼拝堂の冷たい空気を震わせた。

 

 

「昨夜のことだ。魔術協会から派遣されたマスターの一人、バゼット・フラガマクレミッツが何者かに襲撃された。彼女は左腕を切断され、瀕死の重傷を負い、聖杯戦争から脱落した」

 

 

「……っ!」

 

 

 

凛の足が止まった。

 

 

「バゼット……? 協会が送り込んできた武闘派の執行者が、初日で潰されたっていうの……?」

 

 

「ああ。召喚されたであろうランサーのサーヴァントの行方は不明。さらには、彼女の工房に張られていた結界には、外部からの侵入の痕跡が一切なかった。まるで、空間そのものから突然現れた死神に、因果ごと刈り取られたようにな」

 

 

 

言峰の言葉の端々に、微かな愉悦の色が混じる。

 

「幸い、彼女は、私が保護した。だが、問題は『誰が彼女を襲ったのか』だ。……凛。君は、心当たりはないか?」

 

 

 

凛の心臓が、早鐘のように打ち始めた。

 

(空間から現れ、因果ごと刈り取る……? まさか。それは……)

 

 

昼休みの屋上で見た、茜の死人のような顔色と血の匂いが脳裏をよぎる。

 

「怪我をした」と彼は言った。だが、もし彼が、凛が聖杯戦争に参加する前に、他のマスターを裏で始末して回っているとしたら? 凛に「背景だから邪魔はしない」と言いながら、彼女の障害となる者をすべて物理的に排除しているのだとしたら。

 

 

「……知らないわね。他のマスターが潰し合っただけじゃないの」

 

 

凛は、表情を完璧にコントロールし、冷徹な魔術師としての顔を作って言峰を振り返った。

 

「そうか。ならばよいのだが」

 

言峰は、ゆっくりと祭壇の階段を降り、凛へと歩み寄った。

 

「実はもう一つ、気になることがあってね。……君の周囲をうろついている、あの得体の知れない少年についてだ」

 

言峰の言葉に、凛の背筋に氷のような悪寒が走った。

 

 

「竜胆茜、と言ったか。……以前から気にはなっていたが、昨夜のバゼット襲撃の現場に残されていた極めて特殊な『事象の歪み』が、あの少年の気配と奇妙に符合するのだ」

 

 

言峰は、凛の目の前でピタリと足を止め、その暗い瞳で彼女を射抜いた。

 

「もし彼が、この聖杯戦争の理を乱すイレギュラーであるならば。監督役として、彼を拘束し、その内側を徹底的に『解剖』しなければならない」

 

 

「──ふざけないで」

 

 

凛の声は、低く、しかし絶対的な殺意を帯びて礼拝堂に響いた。

 

彼女は言峰から一歩も退かず、魔術回路に一気に火を点けた。属性【火】と【土】の魔力が、彼女の周囲で一触即発の火花を散らす。

 

 

「あいつは関係ない。ただの一般人よ。もしあいつに指一本でも触れてみなさい……監督役だろうがなんだろうが、私が貴方を灰にするわよ、綺礼」

 

 

言峰綺礼という怪物を前にして、一切の怯みを見せない凛の覚悟。

 

アーチャーもまた、霊体化を解きはしないものの、いつでも言峰の首を刎ねられるよう、不可視の殺気を礼拝堂に充満させていた。

 

「……くくっ」

 

言峰の喉の奥から、乾いた笑い声が漏れた。

 

「素晴らしい殺気だ、凛。君がそこまで庇うとはな。……安心しろ、証拠もないのに一般人を害することはしない。ただの老婆心からの忠告だ」

 

言峰はゆっくりと背を向け、再び祭壇へと戻っていく。

 

「ゆめゆめ、背後に気をつけろ。……背景に溶け込んだ闇が、いつ君を食い破るか分からんぞ」

 

凛は舌打ちをし、教会の重い扉を乱暴に開けて外へと出た。

 

冷たい夜風が火照った頬を叩く。

 

(……あいつ、絶対に何かしてる。私の知らないところで、とんでもない泥を被ろうとしてる……!)

 

教会の階段を駆け下りながら、凛は強く唇を噛んだ。

 

竜胆茜という存在が、自分を守るために聖杯戦争という狂気のシステムに単身で挑んでいるのだとしたら。

 

「……待ってなさいよ、馬鹿。一人でカッコつけさせてなんて、絶対にあげないんだから」

 

冬木の街は、すでに完全な夜の闇に包まれていた。

 

真紅のヒロインは、自らの背景として消えようとする少年の腕を掴み引き戻すため、戦端の開かれた冬木の暗闇へとその足を踏み出していった。

 

 

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