空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第八章】剣の目覚めと、雪夜の怪物

[Time: 2004年 2月2日 午後10:30]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 衛宮邸 居間]

 

 

古い日本家屋特有の、冷たく張り詰めた空気が漂う居間。

 

 

 

だが、その空間の質は、今や完全に別のものへと変容していた。人間の生活空間に、あってはならない神話の重量がずっしりと居座っている。

 

遠坂凛は、座布団の上に正座し、目の前の光景に微かな頭痛を覚えながらこめかみを押さえた。

 

彼女の背後には、腕を組み、不満げに目を閉じるアーチャー。

 

 

 

 

そして向かいの席には、未だ状況を飲み込めず呆然としている衛宮士郎と、彼を守護するように正座して控える、白銀の甲冑を纏った小柄な金髪の少女──『最優の剣兵(セイバー)』の姿があった。

 

 

「……信じられない。貴方、魔術回路を開くことすら満足にできないのに、このサーヴァントを召喚したっていうの?」

 

 

 

凛の口から、深い、深いため息が漏れた。

 

ランサーの追撃から逃れ、自宅の蔵に追い詰められた士郎は、そこに偶然描かれていた古い召喚陣と自身の内なる「何か」を繋げ、セイバーを喚び出した。彼女の振るう不可視の剣は、あのランサーの猛攻を退け、さらには追いついたアーチャーにまで斬りかかろうとしたのだ。

 

 

 

士郎がセイバーを止め、凛がアーチャーを退かせなければ、この居間で無益な殺し合いが始まっていた。

 

 

「……すまん。俺にも、何が起きたのかさっぱり分からないんだ。殺されかけて、気づいたら彼女が目の前にいて……それに、遠坂が魔術師だったなんて、夢にも思わなかった」

 

 

士郎は、信じられないものを見るような目で凛とセイバーを交互に見つめている。

 

 

「夢じゃないわ。これが現実よ、衛宮くん」

 

 

凛は、姿勢を正し、冷徹な魔術師としての眼差しで士郎を射抜いた。

 

 

「いいこと? 貴方は今、奇跡を叶える願望機『聖杯』を巡る殺し合い──聖杯戦争のマスターに選ばれたの。七人の魔術師が、七騎の英霊(サーヴァント)を使役して、最後の一人になるまで殺し合う儀式。……貴方の手の甲にある令呪が、その証よ」

 

「殺し、合い……」

 

 

士郎の顔が青ざめる。彼は正義感が強く、誰かを助けるために動く人間だ。自らの欲望のために他者を殺すというルールは、彼の根源的な価値観と真っ向から対立する。

 

 

「そうよ。貴方が降りると言っても、他のマスターは貴方を殺しに来る。現に、さっきランサーに心臓を貫かれたでしょ? ……貴方がマスターである限り、戦うか、死ぬかの二択しかないわ」

 

 

 

凛はあえて厳しい言葉を突きつけた。

 

魔術の基礎も知らない一般人が、この狂気の盤面に立つなど自殺行為に等しい。もし彼が「逃げる」と泣き言を言うなら、凛は彼を気絶させてでも記憶を消し、安全な場所へ隠すつもりだった。

 

 

だが。

 

 

 

「……俺が逃げたら、セイバーはどうなる?」

 

 

士郎は、隣に座るセイバーへと視線を向けた。

 

「サーヴァントは、マスターからの魔力供給がなければ現世に留まれない。貴方がマスターの権利を放棄すれば、彼女は消滅するか、別のマスターと再契約するしかなくなるわね」

 

 

「……」

 

 

士郎は、自身の右手に刻まれた赤い令呪をじっと見つめ、やがて、その瞳に強い光を宿して顔を上げた。

 

 

「……逃げない。俺が喚び出したんだ。最後まで、彼女のマスターとして責任を持つ」

 

 

(……この馬鹿。自分の命がかかってるのに、どうして他人のことばかり気にするのよ)

 

 

 

 

凛は内心で悪態をつきながらも、その真っ直ぐすぎる瞳に、ある種の眩しさを感じていた。

 

 

「……わかったわ。貴方が本気なら、私としても放っておくわけにはいかない。とりあえず、聖杯戦争の『監督役』のところへ行くわよ。正式な手続きと、詳しい説明を聞くためにね」

 

 

 

凛は立ち上がり、赤いコートを羽織った。

 

運命の歯車が、音を立てて回り始めている。凛は、自分がその中心に立っていることを、これ以上ないほどの重みとして感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午後11:30]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 冬木教会への坂道]

 

 

 

深夜の冬木市。

 

冷たい風が吹き抜ける坂道を、凛と士郎は並んで歩いていた。

 

アーチャーは霊体化、セイバーは、物理的な実体のまま隠密行動して、彼らの周囲を警戒している。

 

街灯のオレンジ色の光が、二人の影を長くアスファルトに伸ばしていた。

 

 

「……なあ、遠坂」

 

 

沈黙を破ったのは、士郎の方だった。彼は前を見据えたまま、少し言いにくそうに口を開いた。

 

 

「なに?」

 

 

「遠坂が魔術師で、こんな……命懸けの殺し合いに参加してるなんて、本当に驚いた。学校じゃ、あんなに優等生で、みんなの憧れみたいな感じだったからさ」

 

 

「ふん。猫を被るのは魔術師の基本よ。……で? それが言いたかったわけじゃないでしょ」

 

 

 

凛は、士郎の視線の揺れを見逃さなかった。

 

 

「……ああ。なら、もしかして……竜胆も、そうなのか?」

 

 

士郎の口から出た名前に、凛の足がピタリと止まった。

 

 

 

竜胆茜。

 

今日、学園を無断欠席した空白の少年。昨夜の戦いで傷つき、それでも凛の背景に徹しようとする愚か者。

 

凛はコートのポケットの中で、ギュッと拳を握りしめた。

 

 

「……あいつは違うわ」

 

 

凛は、努めて冷たい、突き放すような声を作った。

 

「あいつは魔術師の家系には生まれたみたいだけど、起源の覚醒で回路が変質して、家から追放されたただの落ちこぼれよ。魔術らしい魔術なんて殆ど使えない。……ちょっと変な護身術を持ってるだけの、ただの一般人」

 

 

「……そうか」

 

 

士郎は、納得したようでもあり、腑に落ちないようでもある複雑な表情をした。

 

「でも、あいつ……遠坂の隣にいる時だけ、なんだか『人間らしく』見えるんだよな。普段は、そこら辺の風景みたいに透けてて、。……俺、あいつが遠坂の『影』みたいに見える時があるんだ」

 

 

 

士郎のその言葉は、魔術の知識を持たない純粋な直感ゆえか、はたまた別の理由か、茜の《可変存在解像度》の本質と、彼が凛に対して抱いている異常な献身を的確に言語化していた。

 

 

 

凛の胸の奥が、ギリリと痛む。

 

(……あいつは、私の影なんかじゃない。あいつはあいつの人生を生きるべきなのに、勝手に私の背景になろうとしているだけよ)

 

 

「衛宮くん。これだけは言っておくわ」

 

 

 

凛は、士郎の方を真っ直ぐに振り返り、強い口調で告げた。

 

 

「あいつは、この聖杯戦争には絶対に関わらせない。あいつは馬鹿だから、私がいないと勝手に泥を被ろうとする。……だから、あいつのことは忘れて。あいつの日常は、私が責任を持って守り抜くから」

 

 

 

それは、士郎に向けた言葉であると同時に、凛自身への強烈な誓いでもあった。

 

ランサーが口走った『因果ごとバグらせたガキ』の正体が茜であるなら、彼はすでに盤面に介入している。だが、凛は絶対に彼をこれ以上血に塗れさせるつもりはなかった。

 

 

 

士郎は、凛の鬼気迫る表情に圧倒されながらも、静かに頷いた。

 

 

「……わかった。遠坂がそう言うなら、俺は何も聞かない」

 

 

二人は再び歩き出す。坂を上り切った先に、重苦しい威圧感を放つ冬木教会のシルエットが浮かび上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 翌日(2月3日) 午前0:10]

 

[Location: 冬木教会 ── 礼拝堂]

 

 

セイバーの主張により、彼女を教会の外に待機させ、凛と士郎の二人だけで礼拝堂へと足を踏み入れた。

 

ステンドグラス越しに差し込む月明かりが、祭壇の前に立つ長身の神父の影を床に落としている。

 

 

 

言峰綺礼。

 

彼は、新たに現れた七人目のマスターである士郎を一瞥し、深い愉悦を隠したような笑みを浮かべた。

 

 

「よく来たな凛、ご苦労だった」

 

 

「挨拶はいいわ、綺礼。この素人に、聖杯戦争のルールを叩き込んでやってちょうだい。」

 

 

凛は不快げに顔をしかめ、言峰から距離を取るように腕を組んだ。

 

 

 

言峰は、ゆっくりとした足取りで士郎に近づき、聖杯戦争の真実を語り始めた。

 

手にした者のあらゆる願いを叶える願望機、聖杯。

 

それを手に入れるため、七人の選ばれた魔術師が殺し合う儀式。

 

 

 

士郎は、その血生臭いルールに嫌悪感を露わにし、「そんなふざけた殺し合い」と反発した。彼にとって、奇跡のために他者を蹴落とすなど、到底受け入れられるものではなかったのだ。

 

 

 

だが、言峰は士郎のその言葉を待っていたかのように、暗い瞳の奥に昏い光を宿した。

 

 

「……そうか。君には叶えたい願いがないと。ならば、衛宮士郎。君は『十年前のあの火災』が、なぜ起きたかを知っているか?」

 

 

「……えっ?」

 

 

 

 

士郎の顔から、一瞬にして血の気が引いた。

 

 

 

十年前、冬木市新都を焼き尽くした未曾有の大火災。

 

士郎が全てを失い、養父である衛宮切嗣に救い出された、地獄の業火。

 

 

「あの火災は、事故などではない。……前回の、第四次聖杯戦争の決着。最後に残ったマスターが、聖杯の中身を現世に溢れさせた結果、あの大火災は起きたのだよ」

 

 

「な……に……?」

 

 

士郎の全身が、カタカタと震え始めた。

 

彼の人生を奪い、彼に「正義の味方になる」という呪いのような理想を植え付けたあの地獄が、魔術師たちの勝手な殺し合いの余波だったという事実。

 

 

「今回も、君が戦いを放棄し、聖杯が下劣な者の手に渡れば、あの地獄が再び繰り返されることになる。……どうする、衛宮士郎? 君はそれでも降りるか?」

 

 

言峰の言葉は、士郎のトラウマを抉り出し、彼の強迫観念とも言える正義感に火をつけるための、極めて悪辣な誘導だった。

 

凛は横で舌打ちをし、「綺礼、アンタ……!」と抗議の声を上げたが、士郎の瞳には、すでに強烈な炎が宿っていた。

 

 

 

「……戦う」

 

 

士郎は、血が出るほど強く拳を握り締め、祭壇を見据えた。

 

 

「俺がマスターになる。あんな地獄、二度と繰り返させない……絶対に!」

 

 

 

その決意の言葉を聞き、言峰は満足そうに口角を吊り上げた。

 

 

「結構だ。これで、七人のマスターが出揃ったことになる。……凛、君も油断しないことだ。昨夜の未知の襲撃者といい、今回の盤面は少々『ノイズ』が多いようだからな」

 

 

言峰の視線が、一瞬だけ凛を射抜く。茜のことを暗に示しているのは明白だった。

 

「アンタに言われる筋合いはないわ。行くわよ、衛宮くん」

 

凛は、士郎の背中を押し、逃げるように礼拝堂を後にした。

 

背後から聞こえる神父の低い笑い声が、背筋に冷たいものを這わせるようだった。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前1:00]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 住宅街への坂道]

 

 

教会を後にし、帰路につく三人。

 

深夜の冬木市は、いつの間にか厚い雪雲に覆われ、粉雪が舞い始めていた。

 

白い雪が、血塗られた聖杯戦争の夜を冷たく覆い隠そうとしているかのようだった。

 

 

「……遠坂。色々と教えてくれて、ありがとう」

 

 

士郎が、白い息を吐きながら凛に頭を下げる。

 

 

「いいわよ。勘違いしないでね、今日だけは特別だから。明日からは、貴方と私も敵同士なんだからね」

 

 

凛はツンとそっぽを向いたが、その内心では、聖杯戦争という狂気のシステムに、また一人不器用な善人が巻き込まれてしまったことへの重苦しい疲労感を抱えていた。

 

 

 

 

──その、瞬間だった。

 

 

 

 

「……シロウ。止まってください。遠坂凛も」

 

 

先頭を歩いていたセイバーが、突然立ち止まり、不可視の剣を構えて前方の暗闇を睨みつけた。

 

霊体化していたアーチャーも、即座に実体化し、双剣を投影して凛の前に立ち塞がる。

 

 

「……なによ、これ。空気が……凍りついてる……?」

 

 

凛は、自身の魔術回路が悲鳴を上げるほどの、圧倒的な『死のプレッシャー』を感じて息を呑んだ。

 

空間そのものが、巨大な鉛の塊に押し潰されているかのような重圧感。雪の降る音が消え、世界からすべての色彩が抜け落ちていくような錯覚。

 

 

 

 

坂道の下。

 

 

街灯のオレンジ色の光が届く境界線に、ひとつの小さな影が立っていた。

 

 

「こんばんは、お兄ちゃん。そして、遠坂の魔術師さん」

 

 

雪の妖精のように白いコートを着た、銀髪の可憐な少女。

 

その無邪気な笑顔の裏には、人間のものとは思えないほどの、無機質で純粋な残酷さが張り付いていた。

 

 

 

イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。聖杯戦争の御三家が一つ、アインツベルンの最高傑作たるホムンクルス。

 

 

「……ッ、アインツベルンの……!」

 

 

 

凛が身構えた次の瞬間。

 

少女の背後の暗闇が、文字通り『膨張』した。

 

 

「やっちゃえ、バーサーカー」

 

 

少女の鈴を転がすような声に応え、神話の巨人が顕現する。

 

身長三メートルを超える、岩山のような筋肉の塊。理性の一切を失い、ただ破壊の権化と化した狂戦士(バーサーカー)の咆哮が、冬の夜空をビリビリと引き裂いた。

 

 

 

 

「ルォォォォォォォォォォォォッッ!!」

 

 

 

 

それは、戦いという概念すら成立しない、純粋な『死』の顕現。

 

凛の瞳に、圧倒的な恐怖と絶望が反射する。

 

運命の夜は終わらない。聖杯戦争の真の恐怖が飲み込もうとしていた。

 

 

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