[Time: 2004年 2月3日 午前8:15]
[Location: 穂群原学園 2年A組 教室]
冬の朝、暖房の効き始めた教室は、生徒たちの他愛のない談笑と、結露した窓ガラスから差し込む鈍色の光に満ちていた。
遠坂凛は、いつもと変わらぬ「完璧な優等生」の仮面を被り、自身の席に座っていた。だが、彼女の視線は無意識のうちに、教室の後方――窓際から一つ廊下側の、あの「空白」へと向いていた。
今日は、席にいた。
竜胆茜。
教科書もノートも出さず、ただ頬杖をついて窓の外を眺めている。その横顔は、昨日の屋上で見た時よりもさらに青白く、まるで透き通って消えてしまいそうなほどに精彩を欠いていた。
(……昨日、あんなに血の匂いをさせていたんだもの。当然よね)
凛の胸の奥が、ちりりと焼ける。
彼が「階段から落ちた」という嘘を吐いてまで、自分から何かを隠し、独りで泥を被ろうとしている。その確信に近い疑念が、凛の魔術回路をじりじりと焦がしていた。
(あいつ、本当に何を考えているのよ。私の「背景」になんてならなくていい。ただ、平穏な日常の中にいてくれれば、それで……)
凛が意を決して立ち上がり、彼に歩み寄ろうとした、その時だった。
「……遠坂!」
廊下側の扉が勢いよく開き、場違いなほどの緊迫感を纏った少年が教室に飛び込んできた。
C組の衛宮士郎だ。
彼は真っ直ぐに凛の元へ駆け寄ると、周囲の目も憚らず、その肩を掴まんばかりの勢いで口を開いた。
「遠坂、昨日の夜の話なんだが!」
その瞬間、凛の全身の毛穴が逆立った。
教室には数校の生徒が残っている。誰もがこちらを「優等生の遠坂さんに衛宮が何の用だ?」と好奇の目で見ている。何より、そのすぐ後ろの席には、凛が最もこの「殺し合い」から遠ざけたいと願っている竜胆茜が座っているのだ。
「っ……衛宮くん、声が大きいわよ!」
凛は電光石火の速さで士郎の襟首を掴み、その口を強引に掌で塞いだ。
「ちょっと来なさい! ここでする話じゃないでしょ!」
「むぐっ、んんっ!?」
抗議する士郎を、凛は文字通り引きずるようにして教室の外へと連れ出す。
去り際、凛は一瞬だけ背後を振り返った。
茜は、騒動など全く目に入っていないかのように、無関心に空を眺めていた。その完璧なまでの「無関係な第三者」としての佇まいに、凛は言い知れぬ寂しさと、奇妙な違和感を覚えた。
だが、今は士郎だ。
凛は士郎を廊下へ放り出し、そのまま人気のない屋上へと続く階段の方へ、早足で突き進んだ。
[POV Shift: 竜胆茜]
(……Tier 0《可変存在解像度》、出力3%で維持。……周囲の認識優先度を「背景の遮蔽物」へと固定)
茜は、窓の外を眺めたまま、自身の脳内システムを駆動させていた。
隣で遠坂凛が衛宮士郎に引きずられていく騒ぎは、彼の五感に鮮明に記録されているが、茜のシステムはそれを「非重要ノイズ」として隔離している。
(遠坂の情緒不安定を確認。原因:衛宮士郎の不適切な情報開示プロセス。……対処不要。彼女が彼を隔離したことで、神秘の秘匿は維持される)
茜の瞳は、空を流れる雲を見てはいなかった。
彼の視界の隅には、L4《環境並列演算網》を介した、メディア・リリィからの「リアルタイム・ログ」が流れている。
『マスター。あの方たち、階段を上っていきました。……あ、廊下の向こうから、昨夜「処理」した間桐の少年が来ますよ』
「……観測を継続しろ。L5《整合性管理層》による結果の定着を確認する」
茜は微かに口唇を動かし、念話で応じる。
教室の入り口から、一人の生徒が入ってきた。
間桐慎二。
昨日まで、学園の王者を気取って周囲を威圧していたその少年は、今や見る影もなかった。
顔色は悪く、視線は地面を這い、誰かと目が合うたびに「ひっ」と短い悲鳴を上げて肩を震わせる。
昨日、茜がL2《論理矛盾の意図的生成》によって、彼の脳内から「魔術」「聖杯戦争」「支配欲」に関わるすべての論理構造をエラーとして切り離した結果だ。
今の彼は、自分がなぜ怯えているのかすら理解していない。ただ、原因不明の「巨大な恐怖」という結果だけを精神に刻まれ、牙を抜かれた小動物へと成り下がっていた。
茜は、慎二が自分の席に辿り着き、ガタガタと震えながら座り込むのを、感情のない瞳で見届けた。
(……間桐慎二の再バグ化の確率は0.003%以下。処理完了。……メディア、ライダーの方はどうなった?)
『はい、マスター。間桐邸へ逃げ込もうとする彼女を捕捉し、予定通り完全に消滅(デリート)させました』
その報告は、十数時間前──茜が路地裏で慎二を処理した直後の、深夜の出来事へと遡る。
[Time: 2月3日 午前2:15]
[Location: 冬木市 深山町 ── 間桐邸周辺]
深夜の閑静な住宅街を、這うように進む影があった。
《偽臣の書》を失い、マスターとのパスを切断されたサーヴァント、ライダー。
彼女は強制的に霊体化させられながらも、微かに繋がった真のマスター──間桐桜からの魔力供給の糸だけを頼りに、間桐の屋敷へと帰還しようとしていた。
だが、限界だった。セイバーの痛撃を受け、魔力はすでに底をつきかけている。視界は霞み、霊基の輪郭すら維持できない。
『……桜……』
主を案じる悲痛な呟きが夜風に溶けた、その時だった。
「お可哀想に。もう、休んでいいんですよ」
頭上から、鈴を転がすような無邪気な声が降ってきた。
ライダーが顔を上げるより早く、夜空に純白のローブを纏った少女──メディア・リリィがふわりと舞い降りる。
「な……キャスター、のサーヴァント……!?」
ライダーが最期の力を振り絞り、鎖付きの短剣を構えようとした。だが、神代の大魔女はすでに無慈悲な魔術のタクトを振り下ろしていた。
「さようなら。──『降り注げ、天の星よ(エトワール・フィラント)』」
神言と共に、一条の極大の紫電が空から撃ち下ろされる。
逃げ場などなかった。防御するだけの魔力も残されてはいない。
圧倒的な神代の熱線が、間桐の門に辿り着く直前のライダーを正確に捉え、その霊基を跡形もなく焼き尽くした。
断末魔の悲鳴すら上げる暇もない。紫の装束の反英雄は、一瞬にして光の粒子へと還元され、冬の夜空へと完全に消滅した。
「……ふぅ。ライダーの消滅、確認しました」
メディア・リリィは杖を下ろし、ふと、目の前にそびえ立つ間桐邸へと視線を向けた。
その屋敷の地下から、這いずり回る無数の虫のような、おぞましく不浄な魔力の気配が漏れ出している。
「……なんて嫌な気配。マスターの指示がなければ、このまま屋敷ごと浄化してしまいたいところですが……今は待ち、ですね」
少女はくるりと踵を返し、その場からふっと姿を消した。
『……あの屋敷の地下、とても不気味な気配がします。私一人で踏み込むのは、マスターの指示通り控えています』
「……それでいい。あの老人、間桐臓硯の処理は僕が直接行う。今はまだ、その段階ではない」
茜は、自身の胸の奥で微かに軋む「黄金球体」の律動を感じ取った。
昨夜の無理な出力の代償は、神代の魔女の治癒をもってしても、まだ完全には消えていない。
「……遠坂の道から、石ころを一つどかした。それだけだ」
茜は再び、意味のない空へと視線を戻した。
彼にとって、この教室も、慎二の絶望も、すべては美しい絵画を成立させるための「不必要な余白」に過ぎなかった。
[Location: 穂群原学園 ── 屋上]
「……な、なあ遠坂、そんなに怒こることか?」
士郎は首をすくめながら、凛の剣幕にタジタジとなっていた。
屋上の鉄扉を閉め、周囲に誰もいないことを確認した凛は、腕を組んで士郎を鋭く睨みつけた。
「当たり前でしょ! 教室であんな話を始めて、もし魔術師じゃない人間に聞かれたらどうするつもりだったの? 貴方、自分の立場を分かってるわけ!?」
「それは……悪かった。でも、それどころじゃないんだ」
士郎の顔が、一気に深刻なものへと変わった。
「昨日の夜、帰り道で……美綴が慎二に襲われてたんだ。ライダーってサーヴァントを使って」
「……美綴が?」
凛の瞳が、驚愕に揺れる。美綴綾子が今日欠席なのは知っていたが、それが慎二の仕業だったとは。
「ああ。セイバーが止めてくれたけど……その後、慎二が持ってた変な本が急に燃えて、ライダーが消えちまった。そしたら、変な爺さんが出てきて……間桐は負けだ、とか言って」
「……間桐臓硯ね」
凛は忌々しげに名前を吐き出した。間桐の真の当主。綺礼から聞いていた「冬木の吸血虫」
「慎二の様子も、なんだか変なんだ。ライダーが消えた瞬間から、あいつ……まるで魂が抜けたみたいに真っ白になっちまって。さっき廊下ですれ違ったけど、俺の顔も見れないくらい怯えてた」
凛は、先ほど教室を出る際に一瞬だけ視界に入った慎二の姿を思い出した。
傲慢の塊だった彼が、あんなにも惨めに打ち砕かれるなど。
(……ライダーの契約解除によるショック? いえ、それだけであんな風になるかしら。まるで、精神そのものを内側から書き換えられたような……)
凛の脳裏に、ふと、教室の隅で窓を眺めていた茜の姿がよろめく。
(………きっと、臓硯に切り捨てられた反動か何かね)
凛は自身の疑念を無理やり振り払った。
「……分かったわ、衛宮くん。間桐のライダーが脱落したなら、学園の結界もじきに消えるはずよ。でも、油断しないで。聖杯戦争から身を引くなんて、言葉を鵜呑みにはできないわ」
「ああ、分かってる」
士郎は力強く頷いた。
その瞳には、昨夜バーサーカーという絶望を目撃し、それでも「戦う」と決めた者特有の、昏く鋭い光が宿っていた。
「遠坂。……俺、セイバーと今夜から見回りを始める。またあんな風に、誰かが犠牲になる前に、自分にできることをしたいんだ」
「……勝手にしなさい。私もアーチャーと動くわ。……言っておくけど、足を引っ張ったら即座に切り捨てるからね」
凛は背を向け、髪をかき上げた。
士郎には見せない。自身の掌が、昨夜からずっと、冷たい震えを止めていないことを。
「あ、それともう一つ、相談があるんだ」
去ろうとする凛の背中に、士郎が少し言いにくそうに声をかけた。
「……桜のことなんだけど」
凛の背中が、一瞬だけ目に見えて強張った。だが、彼女は努めて冷静なトーンを保ったまま、振り返らずに問い返す。
「……間桐さんのこと? 彼女がどうしたのよ」
「慎二があんな状態だろ。それに昨日の夜、あの路地裏で見たことや、あの不気味な爺さんのことを考えると……どうしても、桜をあの一家の中に置いておくのは不安なんだ。美綴みたいな目に遭わせたくない」
士郎は、自身の抱く純粋な危惧を口にする。
彼は、目の前の少女と桜が、かつて血を分けた姉妹であったことなど夢にも思っていないのだろう。
「だからさ……ほとぼりが冷めるまで、桜を俺の家に泊めようと思うんだ。藤ねえもいるし、その方が安全だと思うんだけど……遠坂はどう思う?」
「…………」
凛は沈黙した。心臓が早鐘を打つのを、魔術師の理性で強引に抑え込む。
妹を、間桐邸から引き剥がす。それは凛が心の奥底で、しかし当主としての立場から決して言い出せなかった望みでもあった。
「……勝手にすれば。貴方の家で何人を養おうが、私の知ったことじゃないわ。……でも、彼女にだけは、絶対に『こっち側』の話を聞かせないこと。いいわね?」
「ああ。分かってる。ありがとう、遠坂」
士郎の真っ直ぐな謝辞を背中で受けながら、凛は逃げるように屋上を後にした。
その頬が、冬の風とは別の熱を帯びているのを、アーチャーだけが静かに見守っていた。
[Time: 同日 午後11:00]
[Location: 冬木市 深山町 ── 衛宮邸 正門前]
夜の静寂が、冬木市を重く支配していた。
雪は止んでいたが、アスファルトには昨夜の残滓が白く凍りつき、月光を浴びて青白く輝いている。
衛宮士郎は、厚手の防寒着を纏い、自宅の門を開けた。
その後ろには、現世の衣服――青いセーターとロングスカートに身を包んだセイバーが、静かな足取りで付き従っている。
「……シロウ。やはり、今夜行くのですか。貴方の体は、まだ癒えきっていない」
セイバーの、真摯で、どこか憂いを帯びた声が夜気に溶ける。
昨夜、バーサーカーの余波で全身の骨を折るほどの重傷を負った士郎だったが、彼の内にある「アヴァロン」の驚異的な治癒能力により、表面上は動ける程度まで回復していた。
「ああ。じっとしていられないんだ。……美綴みたいな被害者を、もう出したくない。それに、俺たちが動くことで、何か見えてくるものがあるかもしれないしな」
「……先輩」
不意に、玄関の暗がりから控えめな声がした。
そこには、士郎の上着を手に持った間桐桜が、不安げに佇んでいた。
今日から始まった衛宮邸での生活。彼女にとって、ここは唯一の安息の地であるはずだったが、その救い主である士郎が、また夜の危険へと身を投じようとしている。
「これ……冷えますから、持っていってください」
桜は士郎に予備のマフラーを手渡し、縋るような瞳で彼を見上げた。
「……あまり、無理はしないでくださいね。先輩が怪我をして帰ってくるのを見るのは、私……」
「大丈夫だよ、桜。セイバーもついているし、すぐ戻るから。……先に休んでてくれ」
士郎は努めて明るく笑い、桜の頭を軽く撫でた。桜は一瞬だけ、幸せそうに目を細めたが、すぐにまた寂しげな表情に戻って深くお辞儀をした。
「……はい。いってらっしゃい、先輩」
士郎はマフラーを固く巻き直す。守るべきものが増えたという実感が、彼の歩みを昨日よりも確かなものへ変える。
士郎は、自身の右手の甲にある令呪を見つめ想う。
それは、彼が「正義の味方」という呪いのような理想を実現するために手にした、血塗られた鍵。
「よし。まずは学園周辺からだ。行こう、セイバー」
二人は、夜の闇へと足を踏み出した。
その背後で、衛宮邸の古い門が、ギィと音を立てて閉まった。
[Time: 同日 午後11:15]
[Location: 冬木市 ── 深山町の雑居ビル屋上]
士郎とセイバーが夜の見回りを開始したのを、三キロ離れた場所から「観測」している瞳があった。
「……見回りを開始したか。衛宮士郎、そしてセイバー」
竜胆茜は、ビルの屋上の縁に腰掛け、黒いコートを夜風に靡かせていた。
彼の手には、メディア・リリィが作った魔術的な中継デバイスである紫色の水晶体が握られている。そこには、赤外線と魔力感知によって描画された、士郎たちの現在位置がマッピングされていた。
「マスター。あの方たち、無防備すぎませんか? 周囲を警戒するための魔術も使わず、霊体化もせず二人で歩くなんて……まるで『私を狙ってください』と言っているようなものです」
隣に実体化したメディア・リリィが、困ったように眉を下げて囁く。
「……それが彼のやり方なんだろう。自らを囮に、敵を誘い出す。……非効率的で、自殺志願者のような戦術だが、衛宮士郎という個体には、それが最適解なのかもしれない」
茜は、自身の脳内の演算処理を加速させる。
L3《確定未来の選別》。
士郎たちが今夜、どのルートを通り、どの敵と遭遇する確率が高いか。数千通りの分岐が、茜の視界に光の糸として展開される。
「……メディア。彼らの進行方向に、ランサーの残滓はないか?」
「いえ、ランサーは今夜、教会周辺で待機しているようです。……ですが、新都の方に、昨日とは違う魔力の揺らぎがあります。……おそらく、アインツベルンの関係者かと」
「……イリヤスフィールか」
茜の瞳が、一瞬だけ鋭くなる。
昨夜、紫電の熱線でバーサーカーの命を奪った。彼女がそれを黙って見過ごすはずがない。
「……今は、まだ直接介入はしない。……僕は、ただの背景。彼らが描く神話の戦いを、破綻しないように外枠を固めるだけだ」
茜は立ち上がり、コートのポケットに手を突っ込んだ。
彼の左半身は、未だにゲイ・ボルクの残滓による「不確定な痺れ」を抱えている。
「行くよ、メディア。……夜は長い。遠坂が寝静まるまで、僕のシステムは冷却を許可しない」
「はい、マスター。どこまでも、貴方のお供をいたします」
二人の影が、月光の下で一瞬だけ交差した。
そして、それは音もなく、夜の闇へと溶け込んで消えた。
深夜の冬木市。
剣を振るう主人公。
誇りを胸に戦う魔術師。
そして、そのすべての「背景」を、自らの命を削って構築し続ける、無名無色の観測者。
運命の歯車は、それぞれの決意を乗せて、加速していく。