空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第十四章】泥濘の深淵と、白き魔女の宣告

[Time: 2004年 2月3日 午後11:30]

 

[Location: 冬木市 ── 住宅街から円蔵山へ]

 

 

「……見回りを開始して三十分。今のところ、不審な魔力反応はないわね」

 

 

隣を歩く遠坂凛が、ポケットに手を入れたまま、鋭い視線で周囲の暗闇を走らせた。彼女の背後には、霊体化して気配を消したアーチャーが。そして士郎の隣には、現世の衣服を纏い、凛とした空気を崩さないセイバーが付き従っている。

 

 

「ああ。でも、空気が重い気がする。……昨日の夜とは違う、何かが澱んでいるような感じだ」

 

 

士郎の言葉に、セイバーが微かに眉を寄せた。

 

「ええ。私も同感です、シロウ。街の霊脈が、不自然な方向へ引きずられている。……その源流は、恐らく」

 

 

「柳洞寺、ね」

 

 

 

凛が言葉を継いだ。

 

 

今朝、一成が襲われ、葛木宗一郎が殺害された現場。

 

二人の足は、示し合わせたように深山町の外れ、円蔵山へと向かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2月4日 午前0:15]

 

[Location: 冬木市 郊外 ── 柳洞寺・境内]

 

 

柳洞寺を包む空気は、もはや「神聖」とは程遠いものに変貌していた。

 

門を潜った瞬間に鼻を突く、むせ返るような血の臭気。そして、それ以上に不快な、どろりと腐敗した魔力の澱み。

 

 

「──待ちかねたぞ、若き魔術師たちよ」

 

 

 

本堂へと続く石畳の中央。

 

月光を背負い、一人の老人が這い出るようにして姿を現した。

 

 

 

間桐臓硯。

 

 

 

皺だらけの顔に、不気味な愉悦を浮かべた怪物が、枯れ木のような手で杖を突いている。

 

 

「臓硯……! お前、一成たちに何をした!」

 

 

士郎の怒声が夜の静寂を切り裂く。だが、臓硯はそれを嘲笑うように、肩を震わせて笑った。

 

 

「クカカカ! 心配せずとも、柳洞寺の連中は聖杯への尊い生贄となっただけよ。……そして、こやつもな」

 

 

 

臓硯の影から、音もなく一人の英霊が姿を現した。

 

髑髏の面を被り、異常に長い右腕を包帯で巻いた異形のサーヴァント──真アサシン。

 

そのアサシンが手にしていたのは、まだ鮮血を滴らせている「肉の塊」だった。

 

 

「……っ、それは!」

 

 

凛が息を呑む。

 

それは、つい先刻まで『槍兵』の英霊として現世に留まっていた、ランサーの心臓だった。

 

アサシンは髑髏の奥で不気味に笑うと、その心臓を力任せに握り潰し、自らの霊基へと取り込んだ。

 

 

「ランサーが……敗れたというのか」

 

 

セイバーの声に、戦慄が混じる。

 

「さあ、始めようかの。今宵、冬木の聖杯はその『欠陥』を埋めるべく、貴様らの命を啜るのだ」

 

 

臓硯の宣告と共に、アサシンが闇へと溶けた。

 

「セイバー、来るぞ!」

 

「了解しました、シロウ!」

 

 

激突。

 

セイバーの不可視の剣と、アサシンの黒い投擲刃が火花を散らす。

 

だが、アサシンの動きは狡猾だ。正面からの打ち合いを避け、地形を利用した変幻自在の機動でセイバーの翻弄を試みる。

 

後方からはアーチャーが狙撃で援護を試みるが、アサシンはまるで影のように物理攻撃ををすり抜けるように躱していく。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前0:30]

 

[Location: 柳洞寺 ── 戦闘継続]

 

 

「ハッ……!」

 

アーチャーが弓を引き絞り、魔力を込めた矢を放つ。

 

放たれた矢は、アサシンの立ち位置を正確に射抜いた──はずだった。

 

 

 

だが。

 

「……消えた?」

 

 

矢が着弾する直前、アサシンの背後の空間から、どろりとした「黒い泥」が溢れ出した。

 

放たれた矢は、その泥に触れた瞬間、吸収されるようにして消失した。

 

「──なによ、あれ。虚数魔術?……事象そのものを飲み込んでる!?」

 

 

 

凛の悲鳴に近い声。

 

石畳の隙間から、木々の影から、それは溢れ出した。

 

不定形の黒い影。それは生命の輝きを一切持たず、ただ周囲の魔力を喰らい、存在そのものを無へと帰す底なしの闇。

 

影は意志を持っているかのように、戦場を侵食していく。

 

アーチャーの放つ狙撃も、セイバーの放つ剣圧も、すべてはその影に触れた瞬間に「無効化」されていく。

 

 

「……?! アーチャー、セイバー、その影に触れてはダメ! 魔力を直接吸い取られるわ!」

 

 

凛の警告が響くが、影の侵食速度は想定を超えていた。

 

黒い帯のような触手が、獲物を狙う大蛇のように、最優先で『英霊』であるセイバーへと伸びる。

 

 

「……っ!」

 

 

セイバーの足元。死角から影が跳ね上がる。

 

不可視の剣を振るう余裕はない。魔力を喰らう影に触れれば、サーヴァントとしての霊基に致命的な傷を負う。

 

 

「セイバー、危ない!!」

 

 

考えるより先に、身体が動いていた。

 

衛宮士郎は、自らの安全を顧みず、影とセイバーの間に割り込んだ。

 

ズブッ、という、水の中に手を突っ込んだような不快な音。

 

 

「が……あ、っ…………!!」

 

 

士郎の右腕に、影が触れた。

 

 

 

その瞬間。

 

士郎の脳内に、耐え難い「異物感」が流れ込んできた。

 

(──なんだ、これは)

 

 

冷たい。

 

氷の海に沈められたような、絶対的な零度。

 

そして、それ以上に恐ろしいのは、その影から伝わってくる「おぞましさ」だった。

 

 

 

数千、数万の怨嗟。

 

 

泥。

 

 

腐った果実の匂い。

 

 

 

 

自分という存在が、薄い皮膜一枚を残して、内側から真っ黒なインクで塗り潰されていく感覚。

 

 

(……やめろ、来るな……俺の、中に入ってくるな……!)

 

 

士郎の内面で、鉄を叩くような音が響く。

 

 

だが、その自身の起源すらも、影の泥は飲み込んでいこうとする。

 

 

視界が真っ暗に染まる。

 

 

自分が誰なのか。

 

 

何をしようとしていたのか。

 

 

 

すべての「意味」が、泥の中に溶けて消えていく。

 

 

「……シロウ!!」

 

 

セイバーの叫び。

 

彼女が強引に士郎の身体を引き剥がし、抱きかかえる。

 

影は名残惜しそうに士郎の身体から離れたが、士郎の瞳からは光が失われ、その肉体は激しく痙攣していた。

 

 

 

「……クカカカ! 良い、良いぞ。『影』に触れて正気でいられる人間などおらぬわ!」

 

 

臓硯の嘲笑。

 

影はさらに勢いを増し、柳洞寺の境内を埋め尽くしていく。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前0:45]

 

[Location: 柳洞寺 ── 分断]

 

 

「くっ……これ以上は維持できないわ! アーチャー、退路を!」

 

 

凛が叫ぶ。だが……。

 

影は波のように押し寄せ、凛の陣営と士郎の陣営の間に楔を打ち込むように展開された。

 

「士郎……! セイバー……!」

 

 

凛の手が、士郎に届くことはなかった。

 

広範囲に展開された影が、柳洞寺の地形を完全に作り変えていく。アスファルトは泥の海に沈み、立ち上る黒い霧が視界を遮断する。

 

「マスター、掴まっていろ!」

 

 

アーチャーが凛を抱きかかえ、跳躍する。

 

「待って、衛宮くんが……!」

 

 

「無理だ! 今あそこに踏み込めば、共倒れになる!」

 

 

凛たちの視界から、士郎を抱えたセイバーの姿が消えた。

 

士郎たちは本堂の奥、寺の深部へと押し流されていく。

 

一方で、凛とアーチャーは、影の触手が無数に蠢く森の方角へと移動を余儀なくされた。

 

 

 

完全に分断された二つの陣営。

 

これが、間桐臓硯が仕掛けた「同盟初日」の洗礼だった。

 

 

 

 

 

 

[Perspective: 衛宮士郎 / セイバー ── 柳洞寺・裏手]

 

 

「……シロウ。しっかりしてください、シロウ!」

 

 

 

本堂の裏手。

 

暗い森の入り口で、セイバーは士郎を地面に寝かせ、必死に声をかけていた。

 

士郎は激しく咳き込み、右腕を抑えて悶絶している。影に触れたその場所には、黒い痣のような模様が刻まれ、彼の生命力を内側から蝕んでいた。

 

「……あ、あ…………セイバー…………」

 

 

虚ろな瞳が、ようやくセイバーを捉える。

 

だが、休息の時間など与えられなかった。

 

 

「──逃がさんよ。セイバー。お主の命、ここで刈り取ってくれよう」

 

 

 

木々の影から、臓硯が姿を現した。

 

彼の周囲には、おぞましい数の「刻印虫」が羽音を立てて舞っている。

 

そして、その頭上には、アサシン。

 

 

「ク、クク……剣兵。弱ッタ獲物ヲ狩ルノハ、容易イ……」

 

「……汚らわしい連中め」

 

 

セイバーが士郎の前に立ち、剣を構えた。

 

だが、彼女の魔力も、先ほどの影との接触と連続した戦闘で、確実に減衰している。

 

 

「シロウ……。私が時間を稼ぎます。その隙に、貴方は山を……」

 

「……だ、めだ……セイバーを……一人には…………」

 

 

士郎は震える手で地面を掴み、立ち上がろうとする。

 

心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。

 

内臓が焼けるような熱。

 

 

(……投影…………開始…………!)

 

 

不完全な術式が、彼の体内で軋み声を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Perspective: 遠坂凛 / アーチャー ── 円蔵山・森の中]

 

 

「……っ、しつこいわね、この帯は!!」

 

 

 

一方で、森の中。

 

凛は絶体絶命の危機に瀕していた。

 

周囲の樹木から、地面から、無数の「黒い帯」のようなものが大蛇のごとく伸び、執拗に凛とアーチャーを追い詰めていた。

 

それは影の本体とは別個に動き、物理的な破壊を物ともせず、ただ魔力の供給源を求めて彷徨っている。

 

アーチャーは凛を抱えたまま、木々の間を跳び回っている。

 

 

 

彼の手には、投影された双剣。

 

だが、斬っても、斬っても、帯は即座に再生し、さらに数を増やして包囲網を狭めていく。

 

 

「凛、高度を上げるぞ! 掴まっていろ!」

 

 

「無駄よ! あの帯、空中にまで魔力の触手を伸ばしてる! ……このままじゃ、こっちの魔力が先に尽きる……!」

 

 

凛は、死の予感に歯を食いしばった。

 

士郎と分断され、このままこの森で、名もなき泥に飲み込まれて消えるのか。

 

 

 

 

──その、瞬間だった。

 

 

 

 

キィィィィィン、という。

 

 

 

鼓膜を突き刺すような、高周波の電子音が、夜の森に響き渡った。

 

 

「……え?」

 

 

凛が目を見開いた直後。

 

二人の周囲の空間が、ガラスが割れるように激しく「歪んだ」。

 

 

 

 

『──演算終了。物理条件の割り込みを許可する』

 

 

 

 

無機質な、しかし聞き覚えのある少年の声が、システム上の「命令」として響く。

 

 

 

突如として。

 

アーチャーと凛を取り囲んでいた影の帯の群れに対し、森の虚空から無数の『兵隊』が顕現した。

 

カタカタと乾いた骨の音を立てる、魔術的な兵士──龍牙兵。

 

そして、月光を浴びて鋼の光沢を放つ、巨大なガーゴイルの群れ。

 

 

「……なによ、これ。召喚魔術!? 誰がこんな……」

 

 

無数の龍牙兵たちが、自らを犠牲にするようにして影の帯へと突撃していく。

 

影は新たな獲物である使い魔たちへと狙いを分散させ、凛たちへの圧力が一瞬だけ、劇的に緩和された。

 

 

「……あの魔力。この無機質な、それでいて圧倒的な物量。……まさか」

 

 

アーチャーが着地し、警戒を最大レベルにまで引き上げる。

 

 

 

その視線の先。

 

影が侵食を止めた「聖域」のような空間に。

 

一人のサーヴァントが、音もなく舞い降りた。

 

 

純白のフード付きローブ。

 

木製の可愛らしい杖。

 

そして、その周囲を漂う、星の輝きを集めたような、紫色の魔力の粒子。

 

 

「……こんばんは、遠坂凛さん。そして、アーチャーさん」

 

 

少女の声は、この惨劇の場にはあまりにも不釣り合いなほど、穏やかで慈愛に満ちていた。

 

 

「キャスター……! 新たなサーヴァント!?」

 

 

凛は宝石を構え、目の前の少女を睨みつけた。

 

だが、その内側で、凛の直感が警鐘を鳴らしていた。

 

 

この魔力。

 

この、紫色の光を帯びた、神代の魔術の気配。

 

 

(……あの時。バーサーカーを撃ち抜いた、あの光の狙撃と同じ魔力……!)

 

 

「貴方が……あの時の狙撃手なの?」

 

 

凛の問いに、キャスター──メディア・リリィは、困ったように眉を下げて微笑んだ。

 

「ふふっ。半分正解で、半分は外れ……でしょうか。……私は、マスターからの伝言を届けに来ました。」

 

 

「マスター? ……アンタのマスターは誰よ!」

 

 

メディア・リリィは、そっと杖を掲げた。

 

その瞬間、彼女を中心に強固な紫色の魔力結界が展開され、外側の影を完全にシャットダウンした。

 

 

「……私のマスターは、こう言っています」

 

 

少女の瞳が、わずかに細められる。

 

そこには、彼女自身の意志ではなく、彼女を「端末」として使う者の、冷徹なまでの合理的判断が宿っていた。

 

 

「『遠坂凛とそのサーヴァントを、柳洞寺の深部へ近づけさせるな。これ以上の介入は、システムの生存確率を致命的に低下させる』……と」

 

 

「……なっ」

 

 

 

凛の顔が、驚愕に染まる。

 

 

システムの生存確率。

 

 

背景。

 

 

ノイズ。

 

 

凛の脳裏に、茜のボロボロの姿が重なる。

 

 

「……竜胆。竜胆茜が、アンタのマスターなのね!?」

 

 

 

メディア・リリィは、その問いには答えず、ただ静かに告げた。

 

「このまま、山を引き返して撤退してください。ここから先は、貴方たちが踏み込むべき領域ではありません。……背景の掃除は、私たちだけで十分ですから」

 

 

「ふざけないで! 衛宮くんが、セイバーがまだあそこにいるのよ! 仲間を見捨てて逃げろっていうの!?」

 

 

凛が叫び、一歩踏み出す。

 

 

 

 

その瞬間。

 

メディア・リリィの背後に、さらに数十体の鋼のガーゴイルが召喚され、威嚇するように翼を広げた。

 

 

「……撤退を受け入れられないのであれば。申し訳ありませんが、力ずくで排除させていただきます」

 

メディア・リリィの杖の先端に、極大の魔力が集束する。

 

それは、昨夜バーサーカーの命を奪った、あの紫の熱線そのもの。

 

 

「……マスターの命令は、絶対ですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[Perspective: 竜胆茜 ── 観測]

 

 

(……遠坂、やはり引かないか。……計算通りではあるが、感情という変数は、常に効率を阻害する)

 

 

竜胆茜は、血の滲むような演算速度で「確率」を操作し続けていた。

 

彼の胸の奥の黄金球体は、今や赤く発熱し、限界に近い負荷を上げている。

 

 

(柳洞寺の深部は、すでに聖杯の泥に汚染されている。今の彼女が踏み込めば、十中八九飲み込まれる。……今は、僕の手札を使って、彼女を盤面から強制的に『退場』させるしかない)

 

 

茜は、メディア・リリィの視覚を共有し、画面の中の凛を見つめた。

 

 

「……ごめんね、遠坂。……君のルートをここで止めるわけにはいかないんだ」

 

冷たい部屋に、少年の乾いた声が響いた。

 

 

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