[Time: 2004年 2月4日 午前1:00]
[Location: 冬木市 郊外 ── 柳洞寺・裏手の森]
「……チィッ。物量で押し潰す気か、キャスター!」
アーチャーの舌打ちが夜の森に響き渡った。
彼の手には投影された陰陽の双剣──『干将・莫耶』が握られているが、斬り伏せても斬り伏せても、鋼のガーゴイルと骨の龍牙兵が次から次へと湧き出してくる。
純白のローブを纏う少女、メディア・リリィは、後方に下がったまま杖を振り、涼しい顔で紫色の魔力陣を展開し続けていた。
「申し訳ありません、アーチャーさん。ですが、マスターの命令は絶対なのです。遠坂凛さんをこれ以上、この山の深部へと進ませるわけにはいきません」
メディア・リリィの可憐な声とは裏腹に、彼女が放つ魔力の密度は神代のそれに匹敵している。アーチャーの卓越した剣技をもってしても、一歩も前に進めないほどの分厚い魔術の壁が構築されていた。
凛も背後から宝石魔術で援護射撃を行っているが、メディア・リリィの強固な結界の前に悉く弾き返されてしまう。
(……厄介な。純粋な魔力戦では勝ち目がない。かと言って、ここで宝具を展開すれば周囲の森ごと吹き飛ばすことになる……!)
アーチャーが戦術の切り替えを思考した、その時だった。
『──メディア。こっちの「バグ」の処理は終わった。アサシンは消去したし、臓硯も撤退させた。君も結界を解いて、こちらへ迎えに来てくれ。……少し、出力を上げすぎた』
メディア・リリィの脳内に、マスターである竜胆茜からの念話が響いた。
普段の抑揚のない無機質な声色であったが、メディア・リリィの鋭敏な感覚は、その通信の奥に潜むかすかな呼吸の乱れと、彼の中の『黄金球体』が限界近い悲鳴を上げていることをはっきりと感じ取った。
(……マスター! やはり、ご無茶を……!)
「……時間ですね」
メディア・リリィは杖を高く掲げ、周囲に展開していた使い魔たちを一斉に光の粒子へと還元した。突然の包囲網の解除に、アーチャーと凛が怪訝な顔で身構える。
「マスターから帰還命令が出ましたので、私はこれで失礼します。……遠坂凛さん、どうかこれ以上は踏み込まないでください。マスターは、貴方のことを何よりも案じておられるのですから」
「待ちなさい! アンタのマスターは……竜胆は、今どこにいるの!」
凛が叫ぶが、メディア・リリィは薄く微笑むだけで、ふわりと身体を宙に浮かせた。
紫色の魔力の残滓を曳きながら、彼女の姿は一瞬にして夜空へと溶け込み、消え去った。
「……逃げられたわね。アーチャー、追える?」
「不可能だ。あの空間転移に近い魔術、この時代の魔術師の業ではない。完全に気配を絶たれた」
アーチャーが双剣を消滅させながら首を振る。
その時、森の奥の方で、ひどく歪な魔力の気配が急速に薄れていくのを凛は感じ取った。
「衛宮くん………!アーチャー、行くわよ!」
凛は鬱蒼とした森を掻き分け、士郎たちが押し流された方角へと駆け出した。
[Time: 同日 午前1:15]
[Location: 柳洞寺・裏手 ── 合流]
「衛宮くん!」
月光が辛うじて差し込む開けた場所で、凛は崩れ落ちるように座り込んでいる衛宮士郎を発見した。
彼の全身は泥と血に塗れ、その右手は酷く焼け焦げたような痣に覆われている。息も絶え絶えで、その瞳からは光が失われていた。
「遠坂……」
士郎が、虚ろな目を凛に向ける。
「ひどい怪我……すぐに治癒を……! 待って、セイバーは!? アサシンとあの気味の悪い影はどうなったの!?」
凛は士郎の傍らに膝をつき、宝石を取り出して即席の治癒魔術を施し始める。だが、その言葉を聞いた瞬間、士郎の身体がビクッと震え、歯を食いしばって俯いた。
「……セイバーは、飲まれた」
「え……?」
「俺を庇って……あの黒い泥に、沈んで……俺とのパスも、切れた。俺は……!」
士郎の絞り出すような声に、凛の息が止まる。
最優のクラスたるセイバーが、あんな正体不明の影に飲み込まれて消滅した。聖杯戦争の根幹を揺るがす異常事態。
「それじゃあ……アサシンや臓硯は? さっきまで恐ろしいほどの魔力がぶつかり合うのを感じたわ。貴方一人で追い払ったの?」
「違う……。俺は、蟲に食い殺されかけてた。そこへ……あいつが、竜胆が現れたんだ」
「……竜胆が?」
凛の声が、かすかに上ずった。
士郎は、信じられない光景を思い出すように、ゆっくりと語り始めた。
「あいつが現れた瞬間、景色が変わったんだ。無数の光の線が走って、数字が浮かんで……結界みたいな。臓硯の蟲は一瞬で消えて……あいつは、アサシンの宝具を素手で防いで、逆にアサシンを内側から爆発させて殺した。……たった一撃でだ」
凛の脳内で、バラバラだったピースが完璧な一枚の絵へと組み上がっていく。
バーサーカーを撃ち抜いた超長距離からの狙撃。
間桐慎二の精神を完全にフォーマットした不可解な現象。
そして今、規格外のキャスターを従え、アサシンを葬った事実。
──そのすべての中心に、あの「空白の少年」がいた。
「……あいつ、私に『背景になる』なんて言って。自分の身を削って、裏でずっと……!」
凛の拳が、ギリリと音を立てて握りしめられる。
「……あいつは言ってた。『僕は彼女の日常という絵画が燃えないように、額縁を直しているだけだ』って。……遠坂、お前、竜胆のこと、聖杯戦争に関わっていたこと知ってたのか?」
士郎の問いに、凛は唇を噛んで俯いた。
「……知らなかったわ。あいつが魔術師なのは知ってるけど」
凛の瞳には、怒りと、それ以上に深い悲哀が浮かんでいた。
「遠坂。俺は……」
士郎が、治癒の施された右腕を抑えながら、よろよろと立ち上がる。
「セイバーを失って、マスターとしての資格はなくなったかもしれない。竜胆から見れば、俺はただの『非効率な不確定要素』らしい。……でも、俺は降りない。あの影を、臓硯を放っておくことはできない」
「……馬鹿なこと言わないで。サーヴァントを失った人間が、どうやってあの化物たちと戦うっていうの? 貴方はもう、戦力外よ」
凛は冷たく突き放そうとした。
だが、士郎の瞳には、絶望の泥に沈みながらも決して消えない、異常なまでの意志の炎が宿っていた。
「戦力外でも構わない。俺にできることが一つでもあるなら、俺は戦う。遠坂との同盟も……俺が勝手に遠坂の盾になるだけでもいいなら、続けさせてくれ」
(……本当に、どいつもこいつも馬鹿ばっかり)
凛は、士郎のその歪な自己犠牲の精神に、どこか茜と似たものを感じて毒気を抜かれた。全く正反対の性質の二人だが、どちらも「自分の命を軽く扱いすぎる」という点では同じだった。
「……勝手にしなさい。貴方が死のうが生きようが、私の知ったことじゃないわ。でも、情報を共有する駒としては残しておいてあげる」
「……ありがとう、遠坂」
凛はため息をつき、夜空を見上げた。
(竜胆。……絶対に、このままじゃ済まさないからね)
[Time: 2月4日 午前7:30]
[Location: 冬木市 深山町 ── 衛宮邸]
翌朝。
冬の冷たい雨が、冬木市を静かに濡らしていた。
衛宮士郎は、自室の布団の中で目を覚ました。全身の筋肉が軋み、特に右腕には焼けた鉄を押し当てられたような鈍い痛みが残っている。
「……夢じゃ、ないんだな」
天井を見つめながら、士郎はポツリと呟いた。
隣の部屋から聞こえてくるはずの、凛とした剣士の気配はない。自分と繋がっていた確かなぬくもりは、昨夜の闇の中に完全に消え去ってしまった。
胸の奥にポッカリと空いた穴を抱えたまま、士郎は重い身体を起こした。
「先輩? 起きていらっしゃいますか?」
ふすま越しに、控えめな声がした。
「……ああ、桜か。今、起きるよ」
士郎がふすまを開けると、そこにはお盆を持った間桐桜が立っていた。彼女の顔には、隠しきれない不安と心配が色濃く浮かんでいる。
「先輩……ひどい顔色です。昨日の夜、怪我をして帰ってこられた時、私……本当に心臓が止まるかと……」
桜は、枕元にお盆を置き、士郎の顔を覗き込んだ。
「ごめん、心配かけたな。でも、たいしたことないよ。ちょっと無茶しすぎただけだ」
士郎は努めて明るい声で誤魔化そうとした。自分がサーヴァントを失い、絶望的な敗北を喫したことなど、彼女に背負わせるわけにはいかなかった。
「……嘘です。そんなにひどい汗をかいて……右腕、ずっと痛そうに抑えているじゃないですか。見せてください」
桜が、士郎の痛む右腕へとそっと手を伸ばす。
「いや、大丈夫だって! 触らなくて──」
士郎が身を引こうとした、その瞬間だった。
桜の白く細い指先が、士郎の右腕に触れた。
「──ッ!?」
士郎の脳髄を、強烈な電撃のような悪寒が貫いた。
フラッシュバック。
昨夜、柳洞寺で触れたあの「黒い泥」。数万の怨嗟、底なしの悪意、すべてを塗り潰す不浄の海。
その感覚が、桜の指先を通じて、士郎の中に直接流れ込んできたのだ。
(……なんだ、これ。……桜、から……?)
士郎は弾かれたように桜の手を振り払ってしまった。
「あ……ご、ごめんなさい、先輩……私、痛いところを……」
桜が傷ついたように身を縮める。
「……違う、違うんだ、桜。俺がちょっと過敏になってただけで……」
士郎は必死に弁解したが、自身の心臓が早鐘のように打ち鳴らされているのを抑えることができなかった。
気のせいだ。気のせいであるはずだ。
あの温厚で優しい桜から、あんなおぞましい「影」と同じ気配を感じるなど。
だが、士郎の右腕に刻まれた泥の記憶は、確かに桜の奥底に潜む「何か」と微かに、しかし決定的に共鳴していた。
「……先輩。少し、休んでいてくださいね。お粥、置いておきますから」
桜は寂しげな笑みを浮かべて、部屋を出て行った。
残された士郎は、自身の右腕を強く握りしめ、得体の知れない恐怖と疑念に震え続けることしかできなかった。
[Time: 同日 午後0:30]
[Location: 穂群原学園 ── 屋上]
雨上がりの昼休み。
どんよりと曇った空の下、屋上のフェンス際には冷たい風が吹き抜けていた。
竜胆茜は、湿ったコンクリートの上に無造作に座り込み、フェンスに背中を預けて空を見上げていた。
今日は学校に来たが、教室には入らず、ずっとここにいる。
彼の顔色は蝋のように白く、左半身から右腕にかけて、目に見えない幾重もの包帯を巻かれているような重い倦怠感が張り付いている。
昨夜、《確率地平》を展開し、アサシンの呪いをL2《参照先置換》で逸らし、L2《論理矛盾の意図的生成》で英霊を消滅させた代償。胸の奥の『黄金球体』には微細な亀裂が走り、システムは冷却と修復に全リソースを割いている状態だった。
ギィィ、と重い鉄扉が開く音がした。
足音。
迷いのない、一直線にこちらへと向かってくる足音。
茜が視線を向けるまでもなく、そこに誰が来たのかは分かっていた。
「……見つけたわよ。大嘘つき」
遠坂凛だった。
彼女は腕を組み、茜を見下ろしている。その瞳には、かつてないほどの怒りと、そしてそれを上回るほどの悲壮な感情が渦巻いていた。
「……やあ、遠坂。今日は機嫌が悪そうだね」
茜は、努めていつも通りの、無機質で感情の読めない声で応えた。自身のTier 0《可変存在解像度》を展開しようとしたが、凛の魔力が周囲の空間をびっしりと縛り上げており、逃走を許さない構えだった。
「とぼけないで。全部聞いたわよ。衛宮くんから」
凛は、茜の目の前にしゃがみ込み、その青白い顔を真っ直ぐに睨みつけた。
「アサシンを消滅させる魔術。規格外のキャスター。そして……私の見えないところで、私の日常の『額縁』を直すとかいう、狂った自己犠牲」
凛の言葉に、茜は小さく息を吐いた。
「……衛宮士郎の口がここまで軽いのは想定の範囲内だ。……だが、君がそれを知ったところで、何も変わらない。君は君のルートを歩けばいい。僕はそれを裏から補強するだけだ」
「ふざけないでッ!!」
パァン、と。
乾いた音が屋上に響いた。
凛の平手打ちが、茜の頬を鋭く打ったのだ。
痛覚は遮断されているため痛みは感じないが、物理的な痛みとは異なる痛みが内側にはしる。凛の手が微かに震えていることは、視覚情報として明確に読み取れた。
「……なんで、なんでそんな無茶をするのよ! アサシンを倒すのに、どれだけ魔力を使ったの!? その顔色、その体……中身はもうボロボロじゃない!!」
凛の声が、震えていた。
幼いころから共に学び、二人は互いの孤独を埋め合うように過ごしてきた。凛にとって、茜は魔術世界からこぼれ落ちた「守るべき日常」の象徴だった。
彼がただの落ちこぼれとして、平穏に生きていてくれることが、凛自身の人間性を繋ぎ止めるための救いだったのだ。
「……僕は落ちこぼれだよ、遠坂。魔術回路は壊れ、起源の暴走で人間としての機能も失いかけた。……でも、だからこそ、このシステムを構築した」
茜はゆっくりと顔を戻し、空虚な瞳で凛を見つめ返した。
「君は、人間として完璧すぎる。優等生で、誇り高くて、誰よりも責任感が強い。……だから、聖杯戦争なんていう泥沼に放り込まれれば、君は必ず傷つく。誰かのために自分をすり減らして、最後には壊れてしまう確率が高い」
茜の脳内、《確率演算》が導き出した無数の悲劇的なシミュレーション。それを回避するためだけに、彼は狂気的なシステムを自らに組み込んだのだ。
「だから、僕が背景になる。君が戦う舞台を、君が勝てるように整える。ノイズは僕が消去し、君の代わりに泥を被る。……それが、僕の存在意義(システム)だ」
「……誰がそんなことを頼んだのよ!!」
凛が、茜の胸ぐらを両手で掴み、強く揺さぶった。
その目から、堪えきれない涙が一筋、頬を伝って落ちた。
「私は……アンタに、そんな風になってほしくなかった。ただ、隣で笑っていてほしかった。私の『背景』なんかじゃなくて……アンタ自身の人生を生きてほしかったのよ!」
凛の悲痛な叫びが、冷たい風に溶けていく。
「アンタが裏で血を流して作られた勝利なんて、私が喜ぶとでも思ってるの!? 私を、これ以上惨めにしないでよ……!」
茜は、胸ぐらを掴む凛の手を、ゆっくりと、けれど確かな力で包み込んだ。
彼の体温は氷のように冷たかった。
「……ごめんね、遠坂。でも、君の流す涙は、僕のシステムでは計算できないバグなんだ」
茜の言葉は相変わらず無機質だったが、その指先は、凛の手を優しく撫でるように動いた。
「君が僕に『日常』を与えてくれた。孤独だった僕に、人間としての形を保たせてくれた。……だから、今度は僕が君の日常を守る。たとえ、君に嫌われてでも、僕が壊れてでも」
二人の視線が交差する。
互いに、互いを何よりも大切に想っている。だからこそ、互いを傷つけまいとして、決定的にすれ違ってしまう。
魔術師としての矜持と、観測者としての狂気。
数年間を共に過ごした二人の関係性は、この血塗られた聖杯戦争の中で、ひどく美しく、そして残酷な形へと歪んでしまっていた。
「……馬鹿。大馬鹿」
凛は、茜の胸におでこを押し当てて、子供のように嗚咽を漏らした。
茜は、その細い背中を抱きしめることはせず、ただ静かに、灰色の空を観測し続けていた。
盤面はまだ、終わっていない。
彼が処理すべき絶望(バグ)は、まだ冬木の底に無数に蠢いているのだから。