[Time: 2004年 2月4日 午後0:40]
[Location: 穂群原学園 ── 屋上]
冷たい雨上がりの風が、どんよりとした灰色の空から吹き下ろしてくる。
屋上のフェンス際、湿ったコンクリートの上に座り込む竜胆茜の胸に顔を埋め、遠坂凛の嗚咽は数分間続いた。
張り詰めていた糸が切れ、抑え込んでいた恐怖と悲哀が一気に溢れ出したような、子供のような泣き声。茜は、氷のように冷たい自らの手で彼女の細い背中に触れそうになり、しかし、やめた。自身の存在が彼女の「日常」を汚してしまうことを、システムが警告していたからだ。
だが。
「……っ、ふぅー……」
凛は顔を上げると、手の甲で乱暴に涙を拭った。
深く、肺の底から息を吐き出し、乱れた黒髪を手櫛でかき上げる。その一連の動作の間に、彼女の纏う空気は先程までの「傷ついた少女」から、冷徹で気高き「魔術師・遠坂凛」へと完璧に切り替わっていた。
「泣くのはここまでよ」
凛はスッと立ち上がり、茜の目の前にビシッと人差し指を突きつけた。
その瞳には、すでに悲壮感の欠片もない。濡れた睫毛の奥で、強烈な意志と生命力の炎が赤々と燃え盛っていた。
茜は、その姿を見上げて、ほんの少しだけ目を見張った。
彼の胸の奥で、限界に近い負荷を上げていた『黄金球体』の軋みが、一瞬だけ和らいだような気がした。何度絶望的なシミュレーションを回しても、彼女という存在の「気高さ」と「強靭さ」だけは、決して折れることがなかった。泣き顔を見せた直後に、こうして再び凛々しく、圧倒的な美しさを持って君は立ち上がる。
「……君は、やはり綺麗だ」
茜の口から、計算も演算も経ていない、純粋な感嘆の言葉が漏れた。
「中学の頃、初めて君の制服姿を見た時も思った。……君のその、折れない強さが、僕はたまらなく愛おしい。……そういうところが、ずっと好きだったんだと思う」
無機質で、感情の起伏を感じさせないトーン。しかし、その瞳の奥には、彼が人間として持ち得るすべての誠実さが込められていた。
「なっ……!?」
不意打ちの、あまりにもストレートな言葉に、凛の頬が一気に朱に染まる。突きつけていた指先が微かに震え、彼女は慌ててそっぽを向いた。
「ば、馬鹿じゃないの!? こんな時に何言って……っ、誤魔化そうとしたって無駄だからね!」
赤面しながらも、凛は必死に自身のペースを取り戻そうと咳払いをした。
「アンタが私のために、裏で泥を被ってくれていたのは分かったわ。……でもね、やり方が致命的に気に食わない。私の『背景』になるなんて、百年早いのよ」
凛は腰に手を当て、茜を見下ろした。
「勝手にシステムだのバグだの言って、ボロボロになって死なれるくらいなら……これからは、私がアンタのシステムを管理する。私を蚊帳の外に置いて、勝手に終わろうなんて絶対に許さない。いいわね?」
有無を言わさぬ、絶対的な宣言。
茜は、ふっと薄い息を吐いた。
「……了解した。君が管理者(アドミン)権限を要求するなら、システムに組み込もう。……僕としては、君をこれ以上盤面に近づけたくなかったんだけどね」
「アンタに拒否権はないの。さあ、まずはアンタの拠点に案内しなさい。作戦会議よ」
凛は茜の腕を強引に掴み、引っ張り上げた。
「……拠点は、ただの安アパートだよ。お茶も出せないけど」
「贅沢は言わないわよ。ほら、行くわよ。……衛宮くんにも声をかけようと思ったけど……」
腕を引かれる茜の足取りは、どこか少しだけ軽かった。
彼の無表情の奥に、ほんの微かな「安堵」が混じっているのを、凛は見逃さなかった。聖杯戦争が始まる前、時計塔の教室や冬木の街で、こうして彼を振り回していた頃の距離感が、二人の間に確かな温もりとして戻ってきていた。
[Time: 同日 午後2:00]
[Location: 冬木市 新都外れ ── 竜胆茜の自室(安アパート)]
「……なによ、これ。ここが、アンタの部屋?」
新都の外れにある、古びた安アパートの一室。
凛が足を踏み入れたそこは、およそ人間が生活する空間ではなかった。
最低限の家具すら存在しない。ベッドはなく、部屋の中心には魔術的な演算処理を補助するための無数の水晶体が無造作に配置され、床や壁には不可解な術式がびっしりと書き込まれたスクロールが散乱している。
部屋を這うのは、冬木の霊脈と物理的に接続するための異常な数のケーブルと、疑似魔術基盤のノード群。
キッチンにはカロリーメイトの空き箱とサプリメントのボトルが山積みになり、ユニットバスの浴槽には、水ではなく冷却用の魔術薬液が満たされているようだった。
「ひどい有様だろ。L4《環境並列演算網》の物理的ターミナルとして改築した結果、生活機能は完全に切り捨てることになったんだ」
茜は淡々と説明するが、凛の表情は見る見るうちに険しくなっていった。
「アンタ……ここで、寝起きしてるの? 食事は? 睡眠は?」
「食事は栄養素の直接摂取で済ませている。睡眠は、第一階層《完全躯体制御》で脳の休眠サイクルを意図的に分割しているから、横になる必要はない」
「馬鹿じゃないの!?」
凛の怒声が、狭い部屋に響き渡った。
「こんなの、ただのサーバールームじゃない! 自分の体を機械か何かと勘違いしてるの!? 人間性を削ってまで『背景』になるって、こういうことだったわけ!?」
凛の瞳が、再び悲哀に揺れる。彼がどれほど自分を殺し、ただの「システム」として在ろうとしていたか。その狂気的な献身の裏側を目の当たりにして、胸が締め付けられるようだった。
「……僕の起源は『解析』だ。最適解を導き出すためなら、個人の生活など不要なエラーでしかない」
「うるさいっ。今日から私が管理者よ。こんな生活、即刻やめさせるからね」
凛が息巻いていると、部屋の奥──魔術陣の中心から、紫色の魔力粒子が舞い散り、純白のローブを纏った可憐な少女がふわりと姿を現した。
「おかえりなさいませ、マスター」
メディア・リリィ。神代の大魔女の、若き日の姿。
「あ……」
凛が反射的に身構える。昨夜、柳洞寺の森で自分たちを物量で圧倒し、容赦なく撤退を強要してきた規格外のキャスターだ。
「昨晩は失礼いたしました、遠坂凛さん。マスターの命とはいえ、手荒な真似をしてしまったこと、深くお詫びします」
メディア・リリィは丁寧に深く一礼し、困ったように、しかしどこか嬉しそうに微笑んだ。
「マスターから、貴方のお話は伺っておりました。マスターがご自身の命を懸けてでもお守りしたいと願う方が、どのような方なのかと……お会いできて光栄です」
「ちょ、ちょっと、命を懸けてって……」
凛が茜を横目で睨むと、茜は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
『──その言葉、そっくりそのままお返ししよう、キャスター』
不意に、凛の背後の空間が歪み、赤い外套の騎士──アーチャーが実体化した。
彼は腕を組み、鋭い猛禽のような眼光でメディア・リリィを睨み据える。昨夜、彼女の異常な結界と物量に手こずらされた記憶が新しい。狭いアパートの室内に、一瞬にしてピリッとした、火花が散るような緊張感が走った。
「互いに無事で何よりだ。だが、次にあのような真似をすれば、マスターの制止があろうと斬り伏せるぞ」
アーチャーの凄みに、メディア・リリィは少しだけ怯えたように茜の背中に隠れつつも、その手にはしっかりと木製の杖が握られていた。
「はいストップ。そこまでよ」
凛がパンッと手を叩き、二人の間に割って入った。
「今日から私たちと同盟を組むの。昨日のことは水に流しなさい、アーチャー。これからは味方よ」
「……やれやれ。マスターがそう言うのであれば従うが。しかし、凛」
アーチャーは茜の方へと視線を向け、感心したように息を吐いた。
「この少年のシステム……異常にも程がある。魔術回路を使わず、霊脈と脳を直結させて事象を演算しているのか? 完全に狂人の発想だ。……だが、あの柳洞寺でアサシンを消し去ったとすれば、その能力は認めざるを得ないな」
「褒め言葉として受け取っておくよ、アーチャー」
茜はパイプ椅子を一つだけ凛に差し出し、自分はケーブルが這う床の上に胡座をかいて座った。
「さて。一通り挨拶も済んだことだし、現状の把握を始めましょうか。アンタ、自分の持ってる情報、全部吐き出しなさい」
凛が椅子に座り、足を組んで場を仕切る。奇妙だが、どこかひどく頼もしい「チーム」が、この薄暗い部屋で結成された瞬間だった。
[Time: 同日 午後2:30]
[Location: 竜胆茜の自室 ── 作戦会議]
「……昨夜、僕はL4《環境並列演算網》と《因果ログ解析》を用いて、柳洞寺での事象を観測した。間桐臓硯が使役するアサシン、そして……士郎を追い詰め、セイバーを飲み込んだあの『黒い影』だ」
茜の言葉に、部屋の空気が一段と重くなる。
「その影よ。アーチャーの攻撃も私の魔術も、事象ごと飲み込んだあの泥……あれは一体何なの? サーヴァントや魔術の類じゃないわ」
凛が問うと、茜の瞳が冷徹な分析官のそれに変わった。
「……結論から言う。あの影は、聖杯戦争のシステムそのものから漏れ出した『汚染物質』だ。聖杯の泥、と言ってもいい」
「聖杯の……泥?」
凛とアーチャーが同時に眉をひそめる。
「僕の《構造解析》によれば、あの影の魔力波形は、冬木の大聖杯の波形と完全に一致している。だが、その極性が『悪意』へと完全に反転しているんだ。……通常のサーヴァントや魔力は、あれに触れればシステムごとバグって飲み込まれる。純粋な魔力の塊であるセイバーが、一瞬で消滅させられたのもそのためだ」
「大聖杯が、汚染されている……? そんな馬鹿な。聖杯は純粋な魔力の結晶、無色透明の奇跡のはずよ」
凛が動揺を隠せずに反論する。魔術師の悲願である根源への道。それが汚染されているなど、儀式の前提を根底から覆す事実だ。
「……いや。あり得る話だ、凛」
アーチャーが、腕を組んだまま重々しい口調でそれを引き取った。
「もし過去の聖杯戦争で、聖杯のシステムそのものを根底から歪めるような『イレギュラーな英霊』が混入していたとすれば……例えば、絶対悪の概念を持つ反英雄などがな。大聖杯の中身が、呪いのような泥にすり替わっていても不思議ではない」
茜は小さく頷いた。
「アーチャーの推論は正しい。……そして、間桐臓硯は、その影の性質を理解し、利用している可能性がある。彼は自分のサーヴァントであるアサシンを囮にし、他陣営のサーヴァントを影に食わせて、強引に『歪んだ聖杯』を完成させようとしているんじゃないか?」
「なんて悪辣な……!」
凛はギリッと奥歯を噛み締めた。
「つまり、私たちが戦うべき本当の敵は、他のマスターなんかじゃない。大聖杯を汚染しているあの『影』と、それを操る臓硯ってことね。……冗談じゃないわ。冬木の管理者として、あんなイレギュラーを放置しておくわけにはいかない」
凛の瞳に、遠坂の当主としての強い責任感と使命感が宿る。
聖杯戦争の勝利など、もはや二の次だ。あの泥が冬木市に溢れ出せば、十一年前の大火災など比ではない、真の地獄が現出する。
「……だが、あの影に直接干渉するのは極めて危険だ」
茜は淡々と事実を述べる。
「僕のシステムでも、直接触れられれば干渉する前に存在ごと飲み込まれる確率が高い。物理的な破壊も意味を成さない。あれは『現象』に近いからだ」
「じゃあ、どうしろっていうのよ」
「……原因を断つしかない。大聖杯の降臨には『器』となる小聖杯が必要だ。臓硯が影を操れているということは、間桐の陣営に、大聖杯と繋がっている『器』が存在する可能性が高い」
茜の脳内で、無数のピースが繋がりつつあった。間桐慎二は偽のマスターだった。では、真のマスターは。そして、影と繋がる小聖杯の器とは。
「間桐の根城を叩く。……臓硯を殺し、聖杯の降臨を阻止する。それが唯一の解決策だ」
「分かったわ」
凛は深く息を吐き、思考を整理した。
「臓硯の暗躍は私が止める。アンタはこれ以上無茶をしないで、裏からのサポートと情報収集に徹しなさい。戦闘は私とアーチャーがやる。……管理者としての、最初の命令よ」
「……了解した、遠坂」
茜が小さく首肯した。
会議が終わり、アーチャーとメディア・リリィが霊体化して姿を消すと、部屋には再び静けさが戻った。
窓の外では、まだ冷たい雨が降り続いている。
凛は立ち上がり、床に座る茜の前にしゃがみ込んだ。
「……アンタのシステムがどれだけ狂ってようと、私は絶対にアンタを死なせないから。もう二度と、私を蚊帳の外に置いて、一人で抱え込もうなんて思わないで」
茜は、真っ直ぐに自分を見つめる凛の瞳を見返した。
「ああ。……約束するよ、凛」
初めて、彼が名前で呼んだ。
凛の肩が微かに跳ね、彼女は照れ隠しのように立ち上がると「じゃ、じゃあ一旦家に戻って準備するから! 終わったら合流するわよ!」と早口で言い残し、足早にアパートを後にした。
残された茜は、静かに目を閉じた。
(……ルートは修正された。だが、盤面のバグは増殖を続けている。衛宮士郎……彼が、あの泥に触れたことで、どんな変数を生み出すか)
孤独な観測者の部屋で、システムは静かに次なる未来の演算を開始していた。