[Time: 2004年 2月4日 午後3:30]
[Location: 冬木市 ── 雨の街路]
冬の雨は、すべてを灰色に塗り潰していく。
衛宮士郎は、傘も差さずに新都の街をあてもなく歩いていた。
ずぶ濡れになった制服が鉛のように重く、体温を容赦なく奪っていくが、今の彼にとってその寒さはむしろ、脳髄を焼くような右腕の激痛を紛らわせるための唯一の救いだった。
(……右腕が、熱い。いや、冷たすぎるのか……?)
右腕の袖の中、黒い痣のように刻まれた「泥」の痕跡が、脈動に合わせてドクドクと不快な波形を刻んでいる。
今朝、自室で桜に触れられた瞬間の、あの異常な共鳴。
彼女の指先が肌に触れた刹那、士郎の視界は一瞬にしてあの柳洞寺の森へと引き戻された。
数万の怨嗟。ドロドロに溶けた人間の尊厳。
そして、その泥の奥底に横たわる、桜によく似た「何か」の気配。
(……考えちゃだめだ。あんなの、気のせいに決まってる。……桜は、ただの、穏やかで優しい女の子なんだから……)
自分に言い聞かせるように、士郎は強く拳を握りしめた。だが、握りしめた拳の震えは止まらない。
セイバーを失った。
自分を守ってくれていた、あの清冽な光を。
自分の無力ゆえに、あのどす黒い闇の中へと置き去りにしてしまった。
その喪失感という名の巨大な穴が、士郎の胸の真ん中で風を立てて鳴っていた。
[Location: 冬木教会 ── 礼拝堂]
「……よく来たな、衛宮士郎。その顔、どうやら最悪の結末を一つ、拾い上げてきたようだな」
ステンドグラス越しに差し込む、微かな冬の光。
冬木教会の礼拝堂。その祭壇の前に、長身の神父──言峰綺礼は、悦びに満ちた静かな笑みを浮かべて立っていた。
「……言峰。お前なら、知ってるはずだ。あの、柳洞寺に現れた影……あれが何なのか」
士郎は、ずぶ濡れの衣服から滴る水を気に留めることもなく、神父を射抜くように睨みつけた。
今の彼にとって、この男の悪辣さや胡散臭さなど、どうでもよかった。
真実が欲しかった。
この右腕の痛みと、桜への疑念を、論理的に否定してくれる「解答」が欲しかった。
「……影、か。それは、十一年前のあの火災の正体、そのものだよ。聖杯の内部に充満した、形を持たぬ呪い──『この世の全ての悪』だ」
言峰はゆっくりと士郎に近づき、その黒い瞳に暗い灯火を宿した。
「それは英霊の魂を喰らい、その魔力を己の肉として成長する。……昨夜、セイバーが飲み込まれたのであれば、彼女は今頃、あの泥の底で聖杯の生贄として処理されていることだろう。……否。あるいは、泥に染まり反転した英霊として、再構築されているかもしれんな」
「……セイバーが、利用されているっていうのか……!」
「聖杯戦争とは、そういうものだ。……だが、衛宮士郎。君が本当に知るべきことは、そんな過去の英霊の行方ではないはずだ」
言峰は士郎の肩に手を置いた。その手は、凍りつくほど冷たかった。
「……君の家にいる、間桐桜という少女。彼女の体の異変には、すでに気づいているのだろう?」
士郎の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「……関係ない。あいつは、何も……」
「関係ない? ……クックック、笑わせるな。間桐臓硯という男が、何の理由もなく、自分の最高傑作を他人の家に預けると思うか? ……彼女の肉体は、十一年前から臓硯の手によって、聖杯を宿すための『器』へと改造され続けてきたのだ。……それも、この世で最もおぞましい、蟲の魔術を用いてな」
「蟲……?」
「そうだ。……衛宮士郎、真実を知りたいか。ならば、その目で確かめるがいい。間桐の屋敷の地下に広がる、あの少女の地獄を。……君が、どれほど残酷な現実の上に、あのような偽りの日常を築き上げてきたのかをな」
言峰の言葉は、士郎の理性という名の防波堤を、容赦なく崩壊させていく。
「……行け、衛宮士郎。闇の底を覗く覚悟があるならば。……もっとも、覗いた先で、君が君のままでいられる保証はないがな」
言峰の低い、愉しげな笑い声が礼拝堂に木霊する中、士郎は逃げるように教会を飛び出した。
[Time: 同日 午後11:30]
[Location: 冬木市 深山町 ── 間桐邸・外観]
夜。雨は激しさを増し、冬木市を冷たく、重く封じ込めていた。
士郎は、間桐邸の巨大な正門の前に立ち尽くしていた。
かつての洋館としての威厳は、今や見る影もない。
蔦に覆われ、窓という窓が闇に沈んだその屋敷は、まるで街の霊脈に巣食う巨大な墓標のようだった。
士郎の右手の甲には、もう令呪はない。サーヴァントを呼び戻す奇跡も、物理的な攻撃を防ぐ守護もない。
ただの、十七歳の少年。
それが、冬木の魔術師の家系の中でも、最も陰湿で長い歴史を持つ間桐の本拠地に、単身で乗り込もうとしている。
自殺行為。無謀という言葉すら生ぬるい、狂気の沙汰。
(……それでも、行かなくちゃいけないんだ。……俺が、確かめるんだ)
士郎はサビついた門を乗り越え、庭に降り立った。
手入れのされていない庭木が、雨に濡れて幽霊のように蠢いている。
玄関の扉は、鍵がかかっていなかった。まるで、獲物を誘い込む蜘蛛の巣のように、ただ静かに、士郎を迎え入れようとしていた。
ギィ……。
重い扉が開く。
屋敷の内部は、異様な静寂に包まれていた。
暖房のない廊下は外気よりも冷たく、鼻を突くのは、古い紙と、土と、そして……何かが腐ったような、不快な甘い臭い。
(……下だ。地下から、聞こえる……)
士郎は屋敷の構造を読み取っていく。
床を伝わってくる、微かな振動。
カサカサ。カサカサ、カサカサ、カサカサ。
無数の、小さな生き物が蠢く、おぞましい羽音。
士郎は吸い寄せられるように、廊下の奥の、重い木の扉へと向かった。
扉を開けると、そこには下へと続く石造りの階段があった。
灯りはない。だが、階段の底から、淡い、不気味な紫色の光が漏れ出していた。
一段、降りる。
臭いが強くなる。
二段、降りる。
羽音が、耳元を這うような大きさになる。
三段、四段──。
士郎は、階段を降り切った。
そこは、広大な地下室だった。
いや──それは「室」と呼べるようなものではなかった。
「…………っ!!?」
士郎は、喉の奥までせり上がってきた絶叫を、両手で必死に押し殺した。
全身の血が逆流し、内臓が裏返るような、凄絶な吐き気。
そこにあったのは、蟲の海だった。
部屋全体を埋め尽くすほどの、無数の、おぞましい魔術蟲の群れ。
数万、数十万という単位の蟲たちが、ドロドロとした不浄な体液を垂らしながら、重なり合い、貪り合い、交尾を繰り返している。
それは生命の賛歌などでは断じてない。
ただ、魔力を吸い上げ、肉を食らうためだけに、歪な意志によって生み出された『淫虫』の巣窟。
そして。
その蟲の海の、さらに奥。
祭壇のような、石の台が置かれていた。
(……あそこに、あそこに、桜は……!)
士郎の脳裏に、この地獄の中に放り込まれる桜の姿が、鮮明な映像となって焼き付いた。
十一年前。間桐に引き取られたその日から。
この蟲たちに皮膚を食い破られ、血管に潜り込まれ、肉体を改造され続けてきた日々。
彼女の清らかな肌を、何万という蟲たちが這い回り、その尊厳を蹂躙し続けてきたという事実。
「……クカカカ。なんじゃ、お客様とは珍しい。……それも、日常の平穏を謳歌しておった、衛宮の小僧ではないか」
蟲の海の中央。影が凝集し、そこから間桐臓硯がぬらりと姿を現した。
「……臓、硯…………」
士郎の声は、怒りでガタガタと震えていた。
「お前……桜に、何をした…………。桜を、こんな……こんな地獄に、十一年間も…………!!」
「クカカカ! 良い、良いぞ、その顔! 絶望と怒りに染まった、魔術師ですらない少年の表情! 最高のご馳走じゃわい」
臓硯は杖を突き、蟲の海を愛おしそうに見渡した。
「教えてやろう、小僧。間桐の魔術は『吸収』と『束縛』。遠坂から譲り受けた極上の素材を、ワシの可愛い蟲たちを用いて根底から作り替えた。……今や彼女の体内には、数千の刻印虫が血管を、内臓を、神経を這い回っておる。……それだけではない。あの娘の心臓にはな、前回の聖杯戦争で砕け散った『大聖杯の欠片』を埋め込んでおるのよ」
「……聖杯の、欠片……?」
士郎の思考が、臓硯の吐き出すおぞましい事実に凍りつく。
「左様。間桐桜はな、ワシが十一年かけて調整した『マキリの杯』……聖杯を招き入れ、魔力を溜め込むための生きた器なのよ。……今やあの娘は、聖杯の泥を無限に生み出し続ける、この世ならぬ魔力の源泉となっておる」
臓硯は杖を振り、背後の闇を指し示した。
そこには、今朝から冬木の街を騒がせ、士郎の日常を壊した、あの「黒い影」が揺らめいていた。
「……ま、さか。あの影は……」
「クックック、ようやく気付いたか。……あの影はな、桜の中に埋め込まれた聖杯が溢れ出させた、どす黒い魔力の奔流よ! 桜という器から漏れ出した泥が、形を成し、動く死の猟犬となったのよ!」
臓硯は杖を鳴らす。それに呼応するように、影がギチギチと不気味な音を立てて膨張した。
「……貴様、桜をそんな道具にして……あまつさえ、人を……!」
「左様! ワシがその手綱を握れば、この街の人間を喰らい、より強固な聖杯を完成させることなど容易いことよ。……見よ、あの娘はお前のサーヴァントを泥の中に引きずり込んだ。桜という最高の『魔術兵器』を使い、ワシがこの聖杯戦争を制するのよ!!」
士郎の脳裏に、蟲の地獄で耐え続けてきた桜の、あの儚い笑顔が浮かぶ。
士郎は思う。
彼女自身の意志ではない。彼女の内側にある「聖杯」という呪いを、臓硯が外側から無理やり引き出し、殺戮の道具として利用しているのだと。
彼女は、体を改造され、自分の知らないところで愛してくれた人々を傷つける刃にされていたのだと。
(……許さない。許さない、許さない、許さない、許さない、許さない…………!!)
士郎の内に眠る、鋼の概念が、かつてないほどの熱量で燃え上がった。
「正義の味方」としての怒りではない。一人の少女の尊厳を、肉体も魂も、そして生み出された魔力ですらも玩具のように弄ぶ、目の前の醜悪な魔術師への、純粋な殺意。
「ほう……答えは出たようじゃな、衛宮の小僧。……あの影を止めたければ、あの娘を殺すか、あるいはワシを滅ぼすか。……魔術師でもないお主に、何ができる!」
「決まっている……。お前だ。お前を殺して、桜を……地獄から連れ戻す!!」
士郎の身体から、バチバチと火花のような魔力が漏れ出した。
「正義」か「愛情」か。その二つは、今の士郎の中では矛盾していなかった。
『悪』である『操作主』を討ち、『被害者』である少女を救う。それは、衛宮士郎が目指してきた「正義の味方」の在り方、そのものだったからだ。
「──投影・開始(トレース・オン)!!」
絶叫と共に、士郎の右手に黒い、歪な剣の影が実体化する。
雨の降る間桐の地底で、少女を道具として虐げる元凶を滅ぼすため、少年は狂気の死闘へと身を投じていった。