[Time: 2004年 2月4日 午後11:45]
[Location: 冬木市 ── 深山町から間桐邸への道中]
氷のように冷たい雨が、容赦なく冬木の街を打ち据えていた。
厚い雨雲が月明かりを完全に遮断し、街灯の乏しい深山町の裏道は、底なしの深海のように暗く、静まり返っている。
その暗闇の中を、四つの影が音もなく進んでいた。
竜胆茜は、黒いコートのポケットに両手を突っ込んだまま、冷たい雨粒を避けることもなく歩を進めている。
彼の脳内では、すでに第一階層のスペックが極限の効率で稼働していた。第一階層《完全躯体制御》による痛覚と寒覚の完全遮断。雨に濡れることによる体温低下すらも、筋肉の微細な震動と血流の最適化によって完全に相殺されている。
そして、その余剰リソースのすべては、広域の索敵と地形の把握へと回されていた。
(……L4《環境並列演算網》、バックグラウンド処理からアクティブへ移行。間桐邸周辺の地脈フロー、および構造物の立体データを出力)
茜の視界の端に、無機質な情報エントロピーの羅列が流れ、間桐邸の敷地内を精緻なワイヤーフレームとして再構築していく。
彼はそのデータを、隣を歩く遠坂凛と、前衛を務める赤い外套の英霊・アーチャーに対し、的確な言語へと変換して共有した。
「……間桐邸の構造データ、共有する。敷地面積に対して、地下施設の容積が異常に大きい。地下空間は三層構造。最も魔力密度が濃いのは最下層……『蟲の蔵』のような空間だ。臓硯の本体である蟲のネットワークは、ここをハブとして屋敷全体に張り巡らされている」
茜の平坦な声が、雨音を縫って凛の耳に届く。
「ご苦労様。完璧なマッピングね」
凛は雨を弾く魔術を薄く纏いながら、鋭い視線を前方──すでに木々の隙間から見え隠れし始めている、間桐の洋館へと向けていた。
「……間桐の魔術は、どこまでも淀んでいるわ」
凛の口から、冷たい嫌悪感を孕んだ声が漏れた。
「何百年もの間、この地に巣食って、他人の命や魔力を吸い上げ続けるだけの腐ったシステム。魔術師としての探求も、根源への渇望すらもなく、ただ己の命を長らえるためだけに泥を啜り続ける……そんな醜悪な老害が、この冬木の霊脈を我が物顔で汚している。……今日、私たちが完全に終わらせるわ」
凛の瞳には、魔術師としての冷徹な義務感と、彼女の根底にある気高い矜持が燃えていた。
「ああ。君の言う通りだ」
茜は、歩みを崩さぬまま短く同意した。
「無駄にリソースを食い潰し、周囲のエントロピーを停滞させるだけのシステム上のバグは、速やかに駆除されるべきだ。……君が望むなら、僕がそのための最適解を敷き詰めよう」
言葉少なではあるが、そこに込められた絶対的な信頼の重みを、凛は痛いほどに感じ取っていた。
彼女は言葉を返す代わりに、茜の歩幅に合わせるように微かにペースを調整し、隣を歩く彼の気配を確かめた。
その背後では、純白のローブを深く被ったメディア・リリィが、杖を胸に抱くようにして静かに追従していた。
彼女の口元は微かに動き続けている。それは現代の魔術師には到底理解できない、神代の言語による高速かつ高密度の詠唱の編み上げだった。
間桐の蟲の結界を、外側から完全に「ハッキング」するための準備。彼女の周囲だけは、雨粒すらもその圧倒的な神秘の重圧に弾かれ、不自然な空間の歪みを生み出していた。
[Time: 同日 午後11:55]
[Location: 冬木市 深山町 ── 間桐邸・正門前]
目的の場所へ到着した。
錆びついた鉄格子の門。蔦に覆われ、まるで巨大な墓標のようにそびえ立つ間桐の洋館。
屋敷全体からは、鼻を突くような腐臭と、無数の小さな生き物が這い回るようなおぞましい魔力の波長が絶え間なく漏れ出している。
「……ここね。外から見ても吐き気がするわ。蟲の結界が、屋敷全体をドーム状に覆っている」
凛が顔をしかめながら、門から数メートル離れた位置で立ち止まった。
「ああ。物理的な侵入を拒み、内部の情報を隠蔽する多重結界だ。無理に破れば、即座に臓硯の蟲たちが迎撃システムとして起動する」
茜は半眼を見開き、自身の起源である『解析』を直接発現させた。
《構造解析(ストラクチャー・アナライズ)》──起動。
茜の瞳孔が、無機質な機械のレンズのように収縮する。
視界に映る間桐邸の風景が、瞬時に無数の「魔力線」と「術式の数式」へと分解されていく。
何百年もの歳月をかけて継ぎ接ぎされた蟲の結界。その膨大な情報量と呪いの残滓が茜の脳を焼こうとするが、再構築された疑似魔術基盤(システム)がその負荷を平然と処理し、最適解だけを抽出する。
(……見えた)
「メディア」
茜は、門の右下、古びたレンガの壁の一部を指差した。
「あの座標だ。高さ三十センチ、幅十センチの空間。あそこに結界の術式の『結び目』が集中している。強固に見えるが、論理の継ぎ接ぎでアルゴリズムが最も脆弱になっている基点だ」
「はい、マスター。……座標、確認しました。私に任せてください」
メディア・リリィが進み出た。
彼女はフードを少しだけ下げ、愛らしい顔に神代の魔女としての冷酷なまでの純粋さを浮かべると、茜が示した座標に向かって木製の杖を翳した。
「──Είθε να καεί η βρωμιά. Το φως της θείας εποχής, ξαναγράφει τον κόσμο(不浄なる泥よ、燃え尽きなさい。神代の光よ、世界を書き換えよ)──」
鈴を転がすような、それでいて空間そのものを震わせる重低音を伴った神代の言語(ルーン)。
現代の魔術基盤を一切介さない、世界への直接の命令。
その瞬間、間桐の結界が「悲鳴」を上げた。
ギギギギギッ、と、ガラスを爪で引っ掻くような不快なノイズが周囲に響き渡る。
メディアの杖の先端から放たれた紫色の魔力が、茜の指定した「結び目」に直撃し、そこからまるでウイルスのように結界全体へと浸透していく。
臓硯が何百年もかけて構築した蟲の論理が、神代の圧倒的な神秘の前に書き換えられ、溶かされていく。
バヅンッ!!
微かな破裂音と共に、門の周囲の空間が不自然に歪み、大人四人が余裕で通れるほどの「穴」が空いた。
結界そのものを破壊したわけではない。臓硯の感知システムを欺いたまま、ただ「そこには何もない」という論理的な抜け道(バックドア)を強制的に作り出したのだ。
「……大した寝技だ、キャスター。神代の魔術師が現代の泥臭い結界を相手にすると、こうも一方的な蹂躙になるか」
アーチャーが、呆れと感心の入り交じった声で呟いた。
「ふふっ。マスターの解析が完璧だったからです。……私は予定通り、ここに残って外部からの『影』の侵入を防ぐための空間遮断結界を張ります。皆さんは、気をつけて行ってきてくださいね」
メディア・リリィが杖を抱えて微笑む。
「ええ、ありがとうキャスター。助かるわ」
「頼んだ。キャスター」
凛が頷き、アーチャーと共に鋭い視線を屋敷の奥へと向けた。
「行くわよ、アーチャー、竜胆。……間桐臓硯を、地獄の底から引きずり出す」
アーチャーが双剣を投影し、先陣を切って門をくぐる。
凛がそれに続き、茜もまた、音のない足取りで「論理的な穴」を通り抜け、間桐邸の敷地内へと足を踏み入れた。
[Time: 2004年 2月5日 午前0:00]
[Location: 冬木市 深山町 ── 間桐邸・敷地内]
屋敷の扉は、まるで獲物を招き入れるかのように半開きになっていた。
内部に足を踏み入れた瞬間、外の雨音は奇妙なほど遠ざかり、代わりにむせ返るようなカビと腐敗の匂いが肺を満たした。
床板の隙間から、壁の裏から、天井の梁から、カサカサという無数の蟲が這い回る羽音が絶え間なく聞こえてくる。
(……不快なノイズだ。空間のエントロピーが極端に淀んでいる)
茜は、歩みを進めながら、脳内の処理配分を大きく変更した。
《完全躯体制御》のリソースを一部解放し、その全演算リソースを《構造解析》と、空間に残った事象の履歴を読み取る《因果ログ解析(カウザル・ログ)》へと全振りする。
屋敷全体を埋め尽くす何十万という蟲の気配。
その一つ一つが、間桐臓硯という怪物の「魂の欠片」として機能し、巨大なネットワークを形成しているのが、茜の脳内モニターに可視化されていく。
(臓硯の本体……魂の核となる蟲(本体)を特定し、遠坂たちの物理・魔術攻撃で一気に焼き尽くす。……それが最速にして最適の解だ)
茜は、階下へ続く重い石造りの階段の前に立った。
地下から這い上がってくる魔力の濃度は、一階の比ではない。まさに「蟲蔵」と呼ぶにふさわしい、地獄の底。
だが。
茜が、階段の下へと《構造解析》の深度を限界まで下げた、その瞬間だった。
『──Error. 論理構造に致命的な矛盾を検知。』
『──未確認の魔力波形。システムとの不適合。』
胸の奥に同化させた『黄金球体』が、かつてないほどのけたたましいアラートを茜の脳内に鳴り響かせた。
「──待て。遠坂、アーチャー」
茜の声が、静まり返った廊下に鋭く響いた。その声には、普段の無機質な平坦さとは違う、微かな「戦慄」が混じっていた。
「……どうしたの、竜胆。臓硯の罠でもあった?」
凛が即座に足を止め、右手に宝石を握りしめる。アーチャーも双剣を構え、周囲の気配を探った。
「違う。……おかしい。地下に、異常な魔力反応がある。……これは、臓硯じゃない。蟲のネットワークとは全く異なる、強烈な論理矛盾の塊だ」
茜は右の掌で自身の額を押さえ、黄金球体が吐き出す膨大なエラーデータを血を吐くような速度で言語化していく。
「……何よそれ。臓硯以外に、この屋敷の地下にいるっていうの? はぐれのサーヴァントでも隠れてるわけ?」
「……いや、サーヴァントでもない。これは……人間の、魔術師の波形だ」
茜の《因果ログ解析(カウザル・ログ)》が、地下で荒れ狂う魔力の正体を、一枚ずつ薄皮を剥ぐように解体していく。
「……これは。魔術回路を意図的に暴走させ、神経を焼き切ることも厭わずに、自身の存在そのものを『剣』という概念へと書き換えようとしている……極めて歪で、狂気的な波形……」
茜の瞳が見開かれ、その口から、決定的な名が紡がれた。
「……衛宮士郎だ。彼が、地下で臓硯と戦っている」
「────は?」
凛の口から、間の抜けたような声が漏れた。
彼女の優秀な魔術師としての頭脳が、数秒間、完全にフリーズした。
「……え、衛宮くん? なんで……なんであいつが、こんなところにいるのよ!?」
凛が茜の肩を掴み、信じられないというように叫んだ。
無理もない。
衛宮士郎は、すでにセイバーを失っている。強力な魔術の研鑽を積んできたわけでもない、ただの半人前の魔術師だ。
そんな彼が、なぜ自分たちよりも先に、この間桐の屋敷の最深部に単身で乗り込んでいるのか。
死に行くために自ら毒の沼に飛び込むような、狂気の沙汰としか思えない。
「……わからない。だが、事実は一つだ。現在、地下の蟲蔵で、衛宮士郎がたった一人、無数の蟲に包囲されながら間桐臓硯と衝突している。衛宮の生命活動は極端に低下しているが、生存のログはギリギリで継続している」
茜は冷徹に事実だけを告げる。
「……彼は、自らを薪にして燃やしている。今の彼には、臓硯の蟲を防ぐ術も、逃げる算段もない。このままでは数分と持たず、彼は内側から剣に貫かれ、外側から蟲に食い尽くされる」
「一人で……あんな蟲の溜まり場に……!」
凛は愕然とし、次いで、ある一つの確かな可能性に思い至った。
間桐桜
彼女の顔が頭を過ぎ去る
「……っ!」
凛は唇を強く噛みしめ、拳を握りしめた。
魔術師としての合理的な判断を下すなら。
今、地下で臓硯が士郎の相手に気を取られている瞬間。その隙が出来るのを待ち、背後から奇襲をかけ臓硯の本体を確実に焼き尽くす絶好のチャンスだ。
士郎を囮にすることで、臓硯討伐の成功率は飛躍的に跳ね上がる。それが、冷酷な魔術世界の『正解』。
だが。
遠坂凛という人間は、そんな冷酷な正解を選ぶために、これほどの力と誇りを培ってきたわけではない。
「……竜胆」
凛は、顔を上げ、茜を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、迷いは一切なかった。
「……臓硯の本体の特定と討伐は、アーチャーに任せる。私は、衛宮くんを直接助けにいく」
それは、茜の「遠坂凛を安全に生き残らせる」という至上命題(システム)に、真っ向から反する危険な決断だった。
茜は無表情のまま、凛の瞳の奥にある決して曲がらない鋼の意志を観測した。
(……生存確率が著しく低下する非合理な選択。本来なら、管理層の権限で強制的に制止すべきエラー行動)
だが、茜はそれをしなかった。
いや、できなかった。
「……分かった」
茜は小さく息を吐き、黄金球体の演算モデルを即座に『衛宮士郎救出・並行制圧ルート』へと書き換えた。
「行こうか。君の背中は、僕が背景として守り抜く。……急ごう。彼の狂気の波形が、完全に消滅してしまう前に」
凛が力強く頷き、階段を蹴立てて地下へと駆け出していく。
茜はその背中を追い、アーチャーもまた、静かな闘志を燃やしながら双剣を強く握り直した。
腐臭に満ちた階段の下。
地獄の最底層で、鬼となった少年と、彼を救おうとする者たちの運命が、凄絶な速度で交差しようとしていた。