空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第二十二章】深淵のレイド・バトル、観測者の極限演算

[Time: 2004年 2月5日 午前0:10]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 間桐邸・地下(蟲蔵)]

 

 

ドス黒い波が、地下室の四方の壁から、天井から、そして腐肉の混じった土の床から一斉に隆起した。

 

 

それは比喩でも何でもなく、真の『津波』であった。

 

何万、何十万という間桐臓硯の魔術蟲。その一匹一匹が、人間の肉を食い破り、魔術回路に寄生して苗床とするための悍ましい殺傷能力を備えている。それが一つの巨大なうねりとなって、四人の立つ空間を完全に飲み込もうと迫り来る。

 

 

「シャアアアアアアアッ!!」

 

 

「クカカカカ! さあ、ワシの可愛い蟲たちよ! 驕り高き遠坂の小娘も、その使い魔も、そしてワシの魔術にケチをつけた生意気な小僧も! 骨の髄まで、魂の最後の一滴まで啜り尽くしてくれるわ!!」

 

臓硯の哄笑が、鼓膜を削るような蟲の羽音と混ざり合い、凄まじいプレッシャーとなって空間を圧迫する。

 

 

 

だが。

 

 

「……五月蝿い。黙りなさい、腐れ外道」

 

 

前衛から一歩引いた位置。

 

遠坂凛は、両手の指の間にそれぞれ三つずつ、計六つの高純度宝石を挟み込み、その赤い瞳を極限まで細めた。

 

彼女の背後には、意識を失い横たわる衛宮士郎と、彼を支えながら膝をつく竜胆茜がいる。

 

動けない二人は、この蟲の海においては格好の餌食だ。

 

だからこそ、凛の心には一つの絶対的な決意が鋼のように打ち立てられていた。

 

(……一匹たりとも。私の背後には、泥のひとしずく、蟲の羽音一つたりとも通さない!)

 

 

「行くぞ、凛!」

 

 

「ええ、アーチャー。蹴散らしなさい!」

 

 

開戦の合図と共に、赤い外套の英霊が弾かれたように前方へと跳躍した。

 

アーチャーの両手には、陰陽の双剣『干将・莫耶』が握られている。

 

 

彼の役割は、絶対的な前衛。そして遊撃。

 

迫り来る蟲の津波の「最も分厚い部分」へと自ら突撃し、その無類の剣技で波頭を粉砕する。

 

 

「はぁッ!!」

 

 

白と黒の軌跡が、地下室の暗闇に幾重もの円を描く。

 

アーチャーの双剣が空を裂くたびに、真空の刃が発生し、数十匹の蟲がまとめて真っ二つに両断される。体液が散り、甲殻が砕け散る音が絶え間なく響き渡る。

 

彼はただ剣を振るうだけではない。英霊としての超人的な空間把握能力によって、自身をすり抜けようとする蟲を瞬時に見極め、投擲による斬撃で次々と撃ち落としていく。

 

 

そして、その剣戟の合間、ほんのコンマ数秒の隙を突いて、アーチャーは左手に漆黒の洋弓を投影した。

 

右手に番えたのは、魔力によって形成された矢。

 

 

「──そこか!」

 

 

弦が弾ける鋭い音と共に、一条の閃光が蟲の壁を貫き、奥で哄笑を上げる臓硯の頭部を正確に狙い撃つ。

 

「チィッ……小賢しい英霊め!」

 

臓硯は慌てて自身の身体を蟲の群れに分解し、矢を回避する。アーチャーの狙いは臓硯の本体(ここには無いが)を殺すことではなく、こうして絶え間なく牽制を入れ、相手に大規模な魔術を編む隙を与えないことにあった。

 

だが、どれほどアーチャーの剣技が神域に達していようとも、相手は液体の如く変幻自在な数十万の蟲だ。

 

前衛の剣の網目を潜り抜け、天井や壁伝いに回り込んだ蟲の群れが、後方の凛と茜へと殺到する。

 

 

「──『Vier(四番)』、『Fünf(五番)』、『Sechs(六番)』!」

 

 

凛の冷徹な詠唱が響く。

 

彼女は指先から放り投げた宝石を、空中で起爆させた。

 

 

「『Flamme, verbrenne alles(炎よ、すべてを焼き尽くせ)』!!」

 

 

爆発。

 

属性【火】へと変換された莫大な魔力が、広範囲の扇状に広がって放たれる。

 

前衛を抜けてきた蟲たちは、凛の放つ紅蓮の炎に飲み込まれ、悲鳴を上げる間もなく炭化して灰へと変わる。

 

凛の戦術は極めて効率的だった。蟲という「生物的で不浄な使い魔」に対し、炎の浄化は最適解である。彼女はアーチャーが取りこぼした敵を、自身の周囲十メートル圏内で完全に焼き払う絶対防衛線を構築していた。

 

さらに、炎の合間を縫って、凛は右手の指先から黒い魔力弾──《ガンド》を機関銃のように連射する。

 

「そこっ、そこよ! 目障りなのよ!」

 

 

ガンドは臓硯の顔面や、蟲が密集して塊になろうとしている部分を正確に撃ち抜き、敵の陣形を物理的に崩していく。

 

 

そして。

 

この強固な前衛と火力の防衛線を、さらに「完全無欠な絶対領域」へと昇華させている存在が、二人の背後にいた。

 

 

 

竜胆茜。

 

彼は衛宮士郎の傍らに膝をついたまま、微動だにしない。

 

彼の右手は士郎の胸に置かれたままだ。

 

 

 

◆《因果遅延起動(ディレイ・カウザリティ)》。

 

 

 

士郎の魔術回路が焼き切れるという「決定的な結果」を、常に現在から未来へと先送りし続ける演算。これだけでも、本来なら並の魔術師の脳を焼き切るほどの負荷がかかる。

 

 

 

だが、茜の異常性は、その「並列処理」の規模にあった。

 

(……士郎の因果遅延、維持率99%。L4《環境並列演算網》、バックグラウンドからアクティブへ。空間の全エントロピーを支配下(ローカル)に置く)

 

 

茜の空虚な瞳は、地下室のどこにも焦点を合わせていない。

 

彼の視界には、現実の景色の上に重なるようにして、無数の数字と光の線──魔力のベクトルと術式の構造が、緑色の情報群として奔流のように流れていた。

 

(……右前方、仰角45度。間桐の蟲が密集陣形を形成し、術式『腐食液』の投射準備。……遠坂の炎では防ぎきれない)

 

「遠坂。右斜め上、腐食の雨が来る。熱量で相殺しろ」

 

茜の平坦な声が、通信機を通したかのように凛の脳内へと直接届く。

 

 

「了解ッ! 『Verbrenne(燃えろ)』!!」

 

 

凛が即座に右手を掲げ、上空に向けて炎の壁を展開する。直後、蟲の群れから放たれた緑色の酸液が炎と衝突し、ジュワァァァッという音と共に気化して消滅した。

 

(……左後方。地中からの潜行ルート。アーチャーの死角、遠坂の意識外)

 

士郎と茜を直接狙おうと、土の床を掘り進んできた蟲の別働隊。

 

凛が気づいた時には遅い距離。

 

だが、茜は士郎から右手を離すことなく、空いた左手の指先で、床に向かって虚空に一本の線を引いた。

 

 

 

起源特化術式──◆《術式分解(スペル・ディスアセンブル)》。

 

 

 

床下の土を突き破って飛び出そうとした蟲たちが、空気に触れた瞬間、パサパサと乾いた音を立てて絶命し、泥に還った。

 

物理的な破壊ではない。茜は土の中に流れる『臓硯の命令パス』を読み取り、蟲の疑似脳髄に「死ね(機能停止しろ)」という偽の論理を強制的に書き込んだのだ。

 

 

「……アーチャーが抜かれたか」

 

 

前衛で、アーチャーが三方向からの同時攻撃を捌ききれず、一塊の蟲が彼を飛び越えて後方へと殺到する。凛も別の群れにガンドを放っており、迎撃が間に合わない。

 

 

「させない」

 

 

茜は左手で、空中に見えない幾何学模様を描いた。

 

 

◆《簡易結界(シンプル・バウンダリー)》。

 

 

半径数メートルの見えない半球状の魔力障壁が、凛の背後を覆うように一瞬で展開される。

 

飛び込んできた蟲の塊は、ガラスの壁に激突したかのように結界に弾き返され、そのまま床へと叩き落とされた。

 

 

「助かったわ、竜胆!」

 

「気にしないでくれ。僕は君を支える背景だ。君の視界のノイズは、すべて僕が排除する」

 

 

アーチャーが蟲を捌ききれなければ、凛が炎で焼き落とす。

 

凛が多数の敵に狙われれば、茜が《術式分解》と結界で彼女を守る。

 

動けず士郎を支える茜の死角を突こうとする蟲がいれば、アーチャーが即座に弓を引き、矢の雨で牽制しつつ干将・莫耶で叩き斬る。

 

 

 

前衛・火力・支援。

 

三者三様、完全に独立していながら、互いの死角と欠点を完璧なパズルのように補い合う連携。

 

それは、何百年も一人で他者を食い物にしてきた臓硯の「統制された軍隊」に対し、個の極致が織り成す「最高のオーケストラ」のような戦闘であった。

 

 

「シャアアアアッ!」

 

 

「……ふん、他愛もない」

 

 

アーチャーが剣を振るいながら、内心で舌を巻いていた。

 

(遠坂凛の魔術師としての優秀さは言うまでもない。だが……あのシステム小僧。竜胆茜のサポートは、異常という言葉すら生ぬるい)

 

 

アーチャーは視線の端で、膝をついたまま動かない茜の姿を捉えていた。

 

彼は自分では一歩も動いていない。だが、アーチャーの剣が届かない位置の蟲が、なぜか突然空中で機能停止して落下したり、凛の炎がわずかに届かなかった場所に、見えない風の壁が現れて蟲を炎の方へと押し戻したりしている。

 

まるで、空間そのものが「竜胆茜にとって都合の良いように」リアルタイムで書き換えられているような錯覚。

 

(自身の死すらも合理的に計算する狂気。そして、他者の命を繋ぎ止めるために平然と脳髄をすり減らす献身。……まったく、恐ろしくも頼もしいマスターたちだ)

 

 

アーチャーの口元に、好戦的な笑みが浮かぶ。

 

「凛! 息は合っているぞ。このまま蟲のストックをすべて削り切る!」

 

「ええ! 燃え尽きなさい、老害!」

 

 

三人の予想外の奮闘に、臓硯の蟲の数は確実に減少し始めていた。

 

数十万いたはずの蟲が、数万単位で灰へと変えられていく。

 

(……チィ。なんじゃあの連携は。特にあの黒コートの小僧。ワシの術式をことごとく読み切り、分解しおる。あれはなんじゃ?ただの干渉ではない、もっと根本的な……世界のルールの書き換えじゃと!?)

 

蟲の波の奥で、臓硯の顔が屈辱と焦燥に歪む。

 

 

 

だが、その時だった。

 

『──マスター。聞こえますか、竜胆様』

 

茜の脳内に、極めてクリアな念話が飛び込んできた。

 

間桐邸の敷地外で、空間遮断結界を維持している神代の魔女、メディア・リリィからの通信だ。

 

「……聞こえている、メディア。結界に異常か」

 

茜は士郎の遅延処理と術式分解を並列稼働させたまま、思考の一部を念話へと割いた。

 

『はい。間桐邸の周囲に……異常な魔力反応の群れが出現しました。おそらく、地下の敵(臓硯)が呼び寄せた増援です』

 

メディアの声には、普段の無邪気さはなく、神代の魔女としての極度の警戒が滲んでいた。

 

 

『これは……英霊でも、魔術師でもありません。ただの真っ黒な「影」の群れです。地面を這い、あらゆる魔力を呑み込もうとする、底なしの泥のような……』

 

 

茜の脳裏に、先ほど臓硯のパスを遡った際に触れかけた、あの「この世の全ての悪(アンリマユ)」の絶望的な感触がフラッシュバックする。

 

(……やはり来たか。臓硯とあの影の本体は繋がっている)

 

「メディア。そのまま結界を最大出力で維持し、奴らを一歩も中に入れるな。そして……」

 

茜は、かつてないほど強い口調で厳命した。

 

「絶対に、その影に触れるな。あれは解析も干渉もしてはならない、概念のブラックボックスだ。触れれば、君の霊基は汚染されて消滅する」

 

『……! かしこまりました、マスター。私の結界で、必ず食い止めてみせます!』

 

 

 

通信が切れる。

 

外の憂いはメディアが塞いでいる。ならば、自分たちはこの地下室のバグを早急に処理するだけだ。

 

「遠坂、アーチャー。外に増援が来ている。メディアが抑えているが、タイムリミットは近い。一気に決めるぞ」

 

「分かってるわよ! これで、トドメッ!」

 

 

凛が最後の大粒の宝石を握りしめ、臓硯の本体らしき塊に向けて特大の炎を放とうとした。

 

だが、間桐臓硯もまた、追い詰められたことで己の『切り札』を解放する決断を下していた。

 

 

「……クカカカ! 小賢しい羽虫どもめ。ワシの実力を見誤ったか?」

 

 

 

 

ドォォォォォォンッ!!

 

 

 

 

突然、地下室の中央の土が、火山のように爆発的に噴き上がった。

 

「なっ……!?」

 

凛が息を呑む。

 

土煙の中から現れたのは、通常の蟲ではない。

 

全長十メートルはあろうかという、巨大な赤黒い甲殻に覆われた悍ましい「ムカデ」のような化け物だった。

 

臓硯が何百年もかけて自身の魔力と怨念を圧縮し、地下の霊脈で育て上げてきた切り札のストック。並のサーヴァントの宝具すら弾き返すであろう、狂気の質量兵器。

 

「ギシャアアアアアアアアアッ!!」

 

ムカデが耳をつんざくような咆哮を上げ、その巨大な鎌のような顎を振りかざして、一直線に凛とアーチャーへと襲いかかってきた。

 

 

「アーチャー!!」

 

「チィッ……デカければ良いというものではないぞ!」

 

 

アーチャーが凛の前に飛び出し、干将・莫耶を交差させて巨大なムカデの突進を正面から受け止める。

 

 

 

 

 

ガギィィィィィンッ!!

 

 

 

 

 

金属と甲殻が激突する凄まじい轟音。

 

 

「ぐっ……、おおぉぉぉぉッ!」

 

 

アーチャーの英霊としての筋力をもってしても、数十トンの質量を持つムカデの突進は重い。彼のブーツが土の床を深く抉りながら、ズリズリと後方へ押し込まれていく。

 

 

「クカカカ! 潰れろ、潰れてワシの苗床となれ!」

 

 

臓硯の嘲笑と共に、巨大ムカデがその長い胴体をバネのように収縮させ始めた。

 

次に来るのは、単なる突進ではない。全身の甲殻を棘のように逆立てた、回避不能の全質量体当たり(ローリングアタック)。

 

直撃すれば、アーチャーの霊基ごと、背後の凛たちも粉砕される。

 

「アーチャー、下がって!!」

 

 

 

凛が叫ぶ。彼女の手には、赤い宝石が握られていた。

 

 

「シールド展開!!」

 

 

凛が魔力を注ぎ込み、ルビーのペンダントから強固な赤い光の防壁が展開される。

 

だが、それを見た茜の《構造解析》が、即座にエラーを吐き出した。

 

(……足りない。遠坂の防壁の強度では、あの質量の100%は相殺しきれない。突破されて彼女が死ぬ)

 

 

茜は士郎の胸に当てていた右手を維持したまま、限界を超えて脳の処理領域を解放する決断を下した。

 

 

「──第一階層、制限解除。◆《全覚醒(フルダイブ・ゾーン)》、移行(シフト)」

 

 

 

脳の処理能力が強制的に200%まで引き上げられ、L4《環境並列演算網》と完全に同期する。茜という個体の限界が取り払われ、世界のエントロピーそのものと一体化した瞬間だった。

 

鼻血がツーッと顎を伝い落ちるが、構わない。

 

 

 

「──◆《多重強化(マルチ・エンチャント)》、接続(リンク)!」

 

 

 

茜は空いた左手を遠坂の背中に向け、自身の魔力を彼女のルビーの結界へと強制的に流し込んだ。

 

さらに、◆《簡易結界(シンプル・バウンダリー)》をミリ単位で六重に重ねて展開し、凛の赤い防壁と完全に同化させる複合術式を、コンマ一秒の間に編み上げる。

 

 

 

 

 

 

ドゴォォォォォォォォォンッ!!

 

 

 

 

 

 

巨大ムカデの体当たりが、凛と茜の複合防壁に激突した。

 

パリィィィンッ! と、外側の結界が次々と砕け散っていく。

 

 

「くぅぅぅぅッ……!!」

 

 

 

凛が歯を食いしばり、魔力を振り絞る。茜もまた、脳内の血管が切れそうな負荷に耐えながら、結界の崩壊をミリ秒単位で修復し続ける。

 

 

 

 

 

ギリィィィッ……!

 

 

 

 

 

ムカデの顎が、最後の赤い防壁を軋ませながら停止した。

 

 

「……辛うじて、防い、だ……」

 

 

 

凛が荒い息を吐く。

 

だが、ムカデは死んでいない。再び身体を収縮させ、二撃目の発動シークエンスに入ろうとしている。次を撃たれれば、今度こそ防壁は持たない。

 

 

「アーチャー!!」

 

 

茜が、血を吐くような声で背後の英霊に向かって叫んだ。

 

「アレを消し飛ばす宝具の準備をしてくれ! 詠唱の時間は……僕が、稼ぐ!!」

 

 

アーチャーは一瞬だけ茜の狂気的な横顔を見下ろし、そして、短く笑った。

 

「……無茶を言う。いいだろう、数秒でいい。その地獄(バグ)の時間を、お前が引き伸ばしてみせろ」

 

 

アーチャーは双剣を捨て、両手を虚空へと広げた。

 

彼の周囲に、世界を侵食するような強烈な魔力場が展開され始める。

 

大魔術──いや、固有結界による武具の投影。宝具の準備段階だ。

 

 

「させんわ!! 喰らい尽くせェェェッ!」

 

 

臓硯が叫び、巨大ムカデがアーチャーを止めるべく、致命的な二撃目の突進を放とうと筋肉を限界まで収縮させた。

 

その突進が発動すれば、コンマ数秒で三人はミンチになる。

 

 

 

だが。

 

「……干渉術式。事象の強制保留」

 

茜は、残された左手を、迫り来る巨大ムカデに向けて静かに翳した。

 

彼の起源である『解析』が、世界そのもののルールにハッキングを仕掛ける。

 

 

 

 

──◆《局所確率遅延(ローカル・プロバビリティ)》。

 

 

 

 

 

茜の最大の奥義である反転型固有結界《確率地平》。

 

その途方もない世界の書き換えを、自分の周囲の「半径数メートル」という局所空間(ローカル)に限定し、展開や詠唱のプロセスを完全に省略して『点で撃ち込む』狂気の簡易術式。

 

 

 

キィィィィィンッ……!!

 

 

 

 

空間が、甲高いガラスの鳴るような音を立てて凍りついた。

 

突進を発動した巨大ムカデ。その圧倒的な質量と速度が、茜の放った見えない網に囚われ、空中で「コマ送り」のように激しくブレ始めたのだ。

 

「……な、なんじゃと!?」

 

臓硯が驚愕に目を見開く。

 

それは物理的な停止ではない。

 

『巨大ムカデが突進し、敵を粉砕する』という事象の【結果】が、茜のハッキングによって「未確定状態」のまま宙吊りにされたのだ。

 

行動の成功か失敗か。攻撃が当たるのか外れるのか。

 

世界がその計算結果を出力するまでの処理を、茜が強引に遅延させている。

 

「……グ、ガァァッ、アァァァッ……!」

 

茜の左目から、一筋の血の涙が流れ落ちる。

 

自身の脳内リソースを、士郎の因果遅延、L4の維持、結界の展開、そして《局所確率遅延》の展開という、常軌を逸した並列処理に酷使しているのだ。

 

黄金球体が悲鳴を上げ、脳髄が文字通り沸騰するような激痛。

 

 

(……一秒。二秒……早く、早くしろ、アーチャー……!)

 

 

茜は歯を食いしばり、必死に世界のバグを維持し続ける。

 

 

 

そして。

 

その凍りついた数秒の間に、英霊の重厚な詠唱が、蟲蔵の暗闇に響き渡った。

 

 

 

 

「──I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)」

 

 

 

 

アーチャーの両手の間に、螺旋状にねじれた異形の剣が投影される。

 

それは、空間そのものを抉り取るケルトの魔剣の模造。

 

 

 

「──偽・螺旋剣(カラドボルグ)Ⅱ!!」

 

 

アーチャーが、投影した宝具を洋弓に番え、限界まで引き絞って放った。

 

空間を捻じ曲げ、周囲の蟲をただの風圧だけで消滅させながら、一条の閃光が宙吊りになった巨大ムカデへと迫る。

 

 

「……っ、解除(リリース)!!」

 

 

宝具が着弾するコンマ一秒前。茜が《局所確率遅延》の網を解き放つ。

 

時間が動き出した瞬間、巨大ムカデの顔面に、アーチャーの放った空間破壊の一撃が直撃した。

 

 

 

 

 

ドゴォォォォォォォォォォォォォォンッッ!!!

 

 

 

 

 

 

爆発。閃光。

 

 

 

アーチャーの放った『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』の圧倒的な閃光が、地下空間の概念ごと、巨大なムカデの化け物を消し飛ばした。

 

空間を削り取るような暴風が荒れ狂い、残存していた無数の蟲たちが壁に叩きつけられ、ひしゃげ、ひび割れていく。

 

 

断末魔の悲鳴すら上げる間もない、完全なる粉砕。

 

宝具の圧倒的な余波が地下室を吹き荒れ、残っていた蟲たちを次々と壁に叩きつけて潰していく。

 

 

「やった……!」

 

凛が歓喜の声を上げる。

 

 

 

 

だが

 

巨大ムカデの消滅と同時。

 

極限の並列演算と、宝具の魔力余波のショックに耐えきれず、竜胆茜のシステムが限界を迎えた。

 

士郎の胸から手が離れ、茜は大量の血を吐き出しながら、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。

 

 

勝利の確信。だが、その光の余波が収束するよりも早く、絶望的な音が響いた。

 

 

「……ハァッ、ガハッ……!」

 

 

極限の並列演算──士郎の因果遅延、L4《環境並列演算網》への接続、多重複合結界の維持、そして何より、事象の確定を強引に引き伸ばす《局所確率遅延》の展開。

 

それら全てを同時に回し続けていた竜胆茜の疑似魔術基盤(システム)が、宝具の余波による空間の揺らぎを処理しきれず、ついに致命的なオーバーヒートを起こした。

 

士郎の胸に当てていた手が力なく滑り落ちる。

 

茜は口端から鮮血を零し、糸が切れた操り人形のように、冷たい泥の床へと崩れ落ちた。

 

 

「竜胆……!? 竜胆!!」

 

 

凛の悲鳴のような声が、粉塵の舞う地下室に響く。

 

彼女は反射的に駆け寄ろうと足を踏み出した。茜の異常なまでの蒼白さと、彼が自分たちのためにどれほどの命を削っていたかを本能的に理解し、心臓が握り潰されるような恐怖に駆られたのだ。

 

だが、凛はその一歩を、血の滲むような意志で踏み止まった。

 

(……駄目よ、遠坂凛。今、私が彼に駆け寄れば……彼が身を削ってまで作ってくれたこの『一瞬の隙』が、すべて無駄になる!)

 

 

 

粉塵の向こう側。

 

自身の最大の切り札である巨大ムカデを宝具で完全消滅させられ、さらにその余波を食らった間桐臓硯の端末(ダミー)は、明らかに崩壊の危機に瀕していた。

 

周囲を漂う蟲の密度が極端に薄れ、臓硯の姿を形作る輪郭すらもボヤけている。

 

 

「……おのれ、おのれおのれおのれッ! ワシの、ワシの何百年の結晶が……!」

 

 

臓硯が激昂に身を震わせた。この端末肉体が限界に近いことを悟り、そして、最大の脅威であった茜が膝をついたことを見て、ほんのコンマ数秒、その意識が「怒り」から「油断」へと傾いた。

 

 

(──今だ!)

 

 

凛の赤い瞳に、苛烈な殺意が宿る。

 

彼女は茜を背に庇うように残し、空中に浮遊する臓硯へ向けて、自身の魔術回路を全開にして跳躍した。

 

「──『強化(Ein)』!!」

 

自身の両脚と右腕に、極限の強化魔術を施す。

 

魔術師としての遠距離戦を捨て、あえて敵の懐へと飛び込む。それは、かつて言峰綺礼から徹底的に叩き込まれた、人体を破壊するための武術。

 

「なっ……小娘、血迷ったか!」

 

臓硯が慌てて残りの蟲を壁のように展開するが、凛の踏み込みはそれを上回っていた。

 

空中で身を捻り、全体重と魔力を右拳の一点に集中させる。

 

 

「──ハァァァァッ!!」

 

 

八極拳の絶招。

 

凛の拳が、臓硯の胸部──無数の蟲が寄り集まったその中心を、真っ直ぐに貫いた。

 

ドスッ! という鈍い音と共に、凛の腕が臓硯の体内へと深く沈み込む。

 

「……ク、カカカカ! 愚かな。このワシに、物理的な打撃が通用するとでも思うたか!」

 

 

 

臓硯が嘲笑う。

 

いくら魔力で強化した拳だろうと、彼の身体は蟲の集合体だ。貫かれた部分の蟲が死ぬだけで、臓硯自身には何のダメージもない。彼はそのまま、凛の腕に蟲を這わせ、彼女の肉体を内側から食い破ろうとした。

 

 

だが、凛は臓硯の嘲笑を、さらに冷酷な笑みで上書きした。

 

「物理攻撃が効かないなんて、竜胆の解析を聞くまでもなく分かってるわよ」

 

「……何?」

 

「私が貫いたのはね、アンタの『中心』よ。──『解放(Release)』!」

 

 

臓硯が気づいた時には、すべてが手遅れだった。

 

彼の胸を貫いた凛の右拳の中。そこには、彼女が持つ宝石の中でも最高純度の魔力を貯蔵した、特大のルビーが握り込まれていたのだ。

 

「『Sprengen(爆砕)』!!!」

 

 

カッ──! と。

 

 

臓硯の体内で、圧縮された【火】の極大魔術が起爆した。

 

 

「ギ、ギャアアアアアアアアアッッ!?」

 

 

外部からの炎ではない。

 

臓硯の肉体を構成する蟲たちのド真ん中で、数千度の業火が弾けたのだ。

 

爆炎が臓硯の体を内側から膨張させ、無数の蟲がパァンッと弾け飛びながら燃えカスとなって散っていく。

 

確実な手応え。凛は爆発の反動を利用して後方へ飛び退こうとした。

 

しかし、何百年も生きる魔性の執念は、凛の想像をさらに一歩超えていた。

 

 

「──舐めるなァァァ、小娘ェェェッ!!」

 

 

臓硯は、内側から燃え盛る自身の身体(蟲)を、即座に「切り離した」。

 

炎に巻かれた大部分の蟲を爆弾の如く凛に向かって射出し、残ったわずかな蟲の群れへと自身の意識をスライドさせた。

 

 

「しまっ……!」

 

 

大ダメージを与えたことには違いないが、仕留め損なった。

 

切り離された「燃える蟲の質量」が、空中にいた凛にハンマーのように直撃する。

 

強化魔術で防御を固めていたとはいえ、その物理的な衝撃と爆発の余波は凄まじかった。

 

 

「きゃあぁぁぁッ!?」

 

 

凛の身体が、紙切れのように後方へと吹き飛ばされる。

 

意識が飛びかけ、冷たい石の壁が背後に迫る。激突すれば、全身の骨が砕ける。

 

 

「凛ッ!!」

 

 

その時、宝具を撃ち終えた直後のアーチャーが、神速の踏み込みで空間を駆け抜けた。

 

彼は空中で凛の身体を抱きとめ、そのまま自身の背中を壁に向けて激突の衝撃を殺す。

 

 

「ぐぅッ……!」

 

 

アーチャーの口から苦悶の息が漏れる。

 

 

「……クカカカ! クカカカカカ!!」

 

 

その一瞬の隙。

 

凛とアーチャーが壁際で体勢を崩し、竜胆茜が床に倒れ伏している、その絶望的な空白。

 

臓硯(の残り滓となった蟲の群れ)は、その隙を見逃さなかった。

 

彼らはもはや凛たちを殺そうとはせず、一直線に地下室の天井──アーチャーの宝具で空いた大穴へと向かって飛翔したのだ。

 

 

「……マズい! 逃げられる!」

 

 

アーチャーが干将・莫耶を投擲しようとするが、臓硯が残していった牽制の蟲の群れが壁となって視界を塞ぐ。

 

 

「……クカカカ! 覚えておれよ小娘ども! この肉体は捨て置くが、地上に出れば燃料(エサ)などいくらでも転がっておるわ! 町中の人間の脳髄を啜り、必ずや貴様らを……!」

 

 

臓硯の本体(ダミー)が、高笑いと共に地下室を抜け、冬木の夜空へと逃亡を図る。

 

このまま地上に出られれば、大部分の魔力を消費した臓硯は無差別に一般人を捕食し、再び力を取り戻してしまう。

 

だが、アーチャーは蟲の牽制に足止めされ、凛は吹き飛ばされた衝撃で動けない。

 

 

 

逃げられる。

 

あの魔性をここで討ち果たすことは、不可能。

 

 

 

 

その確信と共に絶望しかけた、その時だった。

 

 

 

 

 

 

「────令呪をもって、命ずる」

 

 

 

 

 

 

血の海に倒れ伏していた黒いコートの少年が。

 

焦点の合わない空虚な瞳のまま、それでも決して途切れない「観測者」としての冷徹な意志をもって、右手を虚空に掲げていた。

 

彼の手の甲に刻まれた赤い聖痕──その第一画目が、強烈な魔力光を放って消失する。

 

 

 

 

「……来い、キャスター」

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午前0:16]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 間桐邸・上空]

 

冷たい雨が降り注ぐ、間桐邸の上空。

 

臓硯の蟲の塊は、地下の死地から這い出し、ようやく冬木の夜空へと到達していた。

 

「……ハァ、ハァ……忌々しいクズどもめ。だが、このまま勝ち逃げさせてもらうぞ……」

 

上空へ退避し、生存を確信した臓硯が、新都の方向へと飛翔しようとした、まさにその刹那。

 

 

 

 

ピキィィィンッ!

 

 

臓硯の背後。上空十メートルの空間が、不自然に歪んだ。

 

令呪による、空間跳躍(テレポーテーション)。

 

 

「……なっ!?」

 

 

 

臓硯が振り返る。

 

そこに現れたのは、雨粒すらも弾く純白のローブを纏った、神代の魔女だった。

 

間桐邸の敷地外で結界を張っていたメディア・リリィ。

 

彼女は、マスターからの令呪による強制転移で、いきなりこの空中に放り出されたのだ。

 

敵の正確な位置も、地下で何があったのかも、この状況のすべてを彼女は知らない。

 

竜胆茜は、ただ《因果ログ解析》に残っていた僅かな残滓から、臓硯の逃走ベクトルを『直感』で弾き出し、その位置へ一瞬で転移座標を設定、メディアを令呪で転移させたのだ。

 

 

いきなりの転移。状況も分からない空中。

 

普通なら、サーヴァントであっても一瞬の混乱が生じるはずだ。

 

 

 

だが。

 

竜胆茜とメディア・リリィの間に、言葉は不要だった。

 

 

 

召喚されてからの数日間。

 

彼がどれほど自分を卑下し、「君は主人公の剣になれ」と突き放そうとしながらも、その裏でどれほど血を吐きながら自分のために魔力を注ぎ、死角を埋めてくれていたか。

 

極端に低い自己評価の裏にある、不器用で、どうしようもなく優しい彼の「静かな善性」を、メディア・リリィは誰よりも理解していた。

 

 

だから、彼女は知っている。

 

あの不器用なマスターが、令呪という絶対的な命令権を消費してまで、自分をここに呼ぶ、その理由を。

 

 

(ああ……マスター。あなたは本当に、私を信頼してくれているのですね)

 

 

転移した瞬間。

 

メディア・リリィは空中でクルリと身を翻し、眼下にいる醜悪な蟲の塊を冷酷なまでに見下ろした。

 

 

 

 

魂のパスを通した念話ではない、

 

 

無言の以心伝心による、たった一言。

 

 

 

 

 

『──やれ、メディア』

 

『──かしこまりました。私のマスター』

 

 

 

メディア・リリィの愛らしい顔から、一切の感情が消え失せた。

 

残ったのは、不浄を許さない神代の大魔女としての、絶対的な神秘の顕現。

 

 

「──Λάμψη(輝け)。」

 

 

無詠唱。神代の言語(ルーン)の一節のみ。

 

彼女が手にした木製の杖の先端から、夜の暗闇を完全に消し飛ばすほどの、凄まじい密度の光が溢れ出した。

 

「ば、馬鹿な!? 空間転移じゃと!? どこまでワシを──ギャアアアアアアアッッ!!!」

 

 

 

回避の余地などなかった。

 

メディア・リリィが放った『絶対的な消滅の極光』が、雨を蒸発させながら、空中の間桐臓硯を頭上から完全に呑み込んだ。

 

蟲たちが悲鳴を上げる間もなく、神代の光によって細胞の一個単位まで分解され、光の粒子となって冬木の空へと溶けていく。

 

何百年もの間、泥を啜り、他者を食い物にしてきた魔性の老人の端末は、空に咲いた一瞬の閃光と共に、文字通り「塵一つ残さず」消滅した。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前0:18]

 

[Location: 間桐邸・地下(蟲蔵)]

 

 

「……消滅、確認」

 

上空から降り注いだ光の残滓が、地下の大穴からも微かに差し込んでいた。

 

アーチャーの腕の中で意識を取り戻した凛が、呆然とその光を見上げている。

 

泥の床に倒れ伏したまま、茜は自身の《構造解析(ストラクチャー・アナライズ)》と《因果ログ解析(カウザル・ログ)》を回し、上空のエントロピーから間桐臓硯のダミーが完全に消去されたことを観測した。

 

 

「……ふぅ」

 

小さく息を吐き、茜は血に濡れた口元を手の甲で乱暴に拭った。

 

脳内の黄金球体は熱を持ち、全身の筋肉は鉛のように重い。◆《完全躯体制御(オートメーション・マニピュレーター)》すら、今は維持するのが精一杯だ。

 

(……なんとか、なった。遠坂もアーチャーも生存。衛宮も、まだ息がある。……僕の役割(バックグラウンド処理)は、一応果たせたか)

 

極端に低い自己評価のまま、茜はぼんやりと天井の穴から見える雨空を見つめた。

 

 

「……竜胆……! アンタって奴は……!」

 

 

アーチャーの腕から抜け出した凛が、フラフラとした足取りで茜の元へ駆け寄ってくる。

 

その赤い瞳には、怒りとも、安堵ともつかない、複雑な熱が滲んでいた。

 

「……遠坂。泣く要素はどこにもない。計算通りの、最適解だ」

 

茜は、血まみれの顔で、いつも通りの無機質で卑屈な、けれどどこか柔らかい笑顔を凛に向けた。

 

「……僕(背景)の仕事にしては、上出来だっただろ?」

 

 

「……馬鹿」

 

 

凛は崩れ落ちるように茜の胸に顔を埋め、その温もりを確かめるように強く、強く彼を抱きしめた。

 

泥濘と死臭に満ちた間桐の地下室に、神代の魔女が静かに舞い降りる。

 

狂気と絶望に彩られた聖杯戦争の裏側で、観測者と管理者による、最も熾烈で完璧なレイド・バトルが、ここに終結した。

 

 

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