[Time: 2004年 2月5日 午前0:25]
[Location: 冬木市 深山町 ── 間桐邸・地下(蟲蔵)]
「……消滅、確認」
天井に空いた大穴から、冷たい雨粒が地下室の泥の床へと落ちてくる。
アーチャーの放った『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』の余波と、メディア・リリィの『絶対的な消滅の極光』によって完全に更地となった間桐邸の地下。無数に蠢いていた蟲たちの姿は一匹残らず消え去り、むせ返るような腐臭も、雨の匂いと魔力の焦げた匂いによっていくらか上書きされていた。
竜胆茜は、泥の床に崩れ落ちたまま、胸元に顔を埋める遠坂凛の温もりを静かに受け止めていた。
彼女の小さな震えが、茜の胸に直接伝わってくる。
痛覚を完全に遮断している彼にとって、それは「外の世界」から彼自身へと繋ぎ止められた、唯一の確かな感触だった。
「……遠坂。泣く要素はどこにもない。計算通りの、最適解だ」
茜は、血まみれの顔で、いつも通りの無機質で卑屈な、けれどどこか柔らかい笑顔を凛に向けた。
極端に低い自己評価を隠すことなく、ゆっくりと、不器用に凛の背中へと腕を回した。
「……僕(背景)の仕事にしては、上出来だっただろ?」
「……馬鹿」
凛は顔を上げず、茜の胸の中でくぐもった声で毒づいた。その声には、怒りよりも安堵の響きが強く滲んでいた。
「マスター! ご無事ですか!?」
空中に張っていた空間跳躍の余韻を散らしながら、純白のローブを翻してメディア・リリィが天井の穴から舞い降りてきた。
彼女の愛らしい顔には、明確な焦燥と心配が浮かんでいる。茜が血を吐き、膝をついている凄惨な姿を見たからだ。
「……僕のことは後回しでいい」
茜は凛の背中を優しく叩いて離れさせると、壁際に寝かせていた衛宮士郎へと視線を向けた。
「メディア。衛宮に治癒をかけてやってくれ。彼の魔術回路が焼き切れる寸前の状態を、僕の《因果遅延起動(ディレイ・カウザリティ)》で一時的に先送り(保留)しているだけだ。このままでは、遅延の効果が切れた瞬間に彼の内側が崩れる。君の神代の魔術で、肉体と魔術回路の治癒と冷却を同時にやってくれ。」
「でも、マスターも……!」
メディアは、茜の青白い顔と、口元を汚す血の跡を見て躊躇した。彼女の瞳には、契約者に対する深い愛情と心配が宿っている。
「……僕は問題ない」
茜は半眼を細め、静かに、しかし断固とした口調で命じた。
「僕のシステムは自己修復機能L1が稼働している。優先すべきは、死にかけている彼だ。急いでくれ」
「……はい、分かりました」
メディアは茜の言葉にこれ以上反論せず、小さく頷いて士郎の傍へと駆け寄った。
彼女は杖を床に立て、士郎の胸にそっと両手をかざす。
「──Θεραπεία(癒やしを)」
神代の言語による短い詠唱。直後、メディアの両手から淡く温かい光が溢れ出し、士郎の身体を優しく包み込んだ。それは、現代の魔術では到底不可能な、破壊された神経組織を細胞レベルから「作り直す」ような絶対的な治癒の奇跡だった。
だが、治癒を進めるにつれて、メディアの眉が微かに寄せられた。
「……おかしいですね」
「どうした、キャスター」
アーチャーが、干将・莫耶を消失させながらメディアの背後に歩み寄る。
「この方の魔術回路……いえ、神経そのものが、ひどく歪です」
メディアは士郎の胸に手を当てたまま、不思議そうに首を傾げた。
「なんと言えばいいのか……本来、魔力という水を通すためのパイプが、内側から鋭い『刃物』にすり替わろうとしているような……まるで、体内に『剣』が刺さっているような状態です。神代の治癒でも、この『剣の概念』までは引き抜けません」
「……馬鹿な小僧だ」
アーチャーは、深く、重いため息をついた。
彼の瞳には、呆れと苛立ち、そして……どこか、かつての自分自身の愚かさを呪うような、微かな哀愁が混じっていた。
「魔力を持たぬ半人前が、自らの神経を強引に『剣の骨組み』へと書き換え、投影の燃料として焚べたのだろう。……そんなことを続けていれば、いずれ彼自身が一本の剣へと成り果て、人間としての生を終える。自滅にしかならんというのに」
アーチャーの言葉に、凛はハッと息を呑んだ。
士郎が、そこまでの狂気を孕んだ魔術を行使していたこと。そして、彼をそこまで駆り立てた「何か」の存在が、凛の胸に重くのしかかる。
「……衛宮くんの応急処置が終わったのなら、次はアンタの番よ」
凛は、重苦しい空気を振り払うように立ち上がり、泥にまみれた膝を払うこともなく茜の前に立った。
「遠坂? 僕は大丈夫だと──」
「うるさい」
凛は有無を言わさぬ鋭い声で遮ると、茜の両肩をガシッと掴み、強引に彼の身体を壁に押し付けた。
「……遠坂、なにを」
「動かないで。アンタの体内の魔力パス、無茶苦茶になってるじゃない。……今から私が、魔力のバイパスを繋いでアンタの壊れた回路を補強するわ。おとなしくしてなさい」
凛が赤い瞳でジロリと睨みつける。その絶対的な「管理者」としての威圧感の前に、茜の中の「観測者」のロジックはあっけなく沈黙した。
「……わかった。手短に頼む」
茜が観念したように目を伏せると、凛は茜の胸元にそっと両手を当てた。
「──『同調(Trace)』、開始」
凛の掌から、温かい魔力が茜の体内へと流れ込んでいく。
その瞬間。凛の魔術回路が、茜の体内に構築された『疑似魔術基盤(フェイク・ファウンデーション)』の深淵──L1からL5までの異質な階層構造と、胸の奥で回転する『黄金球体』の存在に触れた。
「……ッ!」
凛の顔が、驚愕に引き攣った。
(……何よ、これ。これが、人間の体内だっていうの?)
彼女の魔術師としての常識が、悲鳴を上げそうになる。
痛覚を完全に遮断し、自身の存在を単なる「サーバー」として定義し、世界中のエントロピーを処理し続ける狂気のOS。その演算の負荷を、茜の人間としての脳髄が、今まさに悲鳴を上げながら耐え抜いているのが、直接流れ込んでくる魔力越しに痛いほど伝わってきたのだ。
「……アンタ、自分の脳と神経を……こんな機械みたいに……」
凛の声が、微かに震える。怒りではなく、彼が一人で抱え込んでいた痛みの深さに、泣きそうになるのを必死に堪えている声だった。
「……僕は失敗作だからね。父から魔術刻印の継承がされてないんだ。……刻印の代わりに埋め込んで構築した仮想刻印(システム)。……非効率な設計で申し訳ない。でも、これが僕にとっての最適解なんだ」
茜は、不器用に視線を逸らしながら、静かに答えた。
「君の背中を守るための背景として機能するためには、このシステムが必要だった。……君が泣くようなことじゃない」
「……馬鹿。アンタってやつは、本当に大馬鹿よ」
凛は、ポロリとこぼれそうになった涙を必死に引っ込め、代わりに茜の胸に魔力を流し込む手を、ほんの少しだけ強く押し付けた。
[Time: 同日 午前1:00]
[Location: 冬木市 ── 深山町から遠坂邸への道中]
間桐の地下での応急処置を終え、四人(と、気絶したままの士郎)は、半壊した間桐邸を後にした。
臓硯のダミーは消滅したとはいえ、あの屋敷はすでに魔術的な防御機能を失っており、これ以上長居するのは危険だった。それに、士郎と茜の精密な治療と休息のためには、安全で設備の整った魔術工房が必要不可欠である。
一行は、深山町の丘の上に建つ、遠坂の洋館へと向かっていた。
「……まったく、さっさと起きろ。英霊に背負わせるとは、まったくいいご身分だ。」
アーチャーが、意識の戻らない士郎を右肩に米俵のように担ぎ上げ、少し乱暴に揺らしながら歩いている。その口調は呆れ返っているが、士郎を抱える手つき自体は、傷に障らないように細心の注意が払われていた。
「キャスター、周囲に異常は?」
凛が警戒しながら周囲を見回す。
「はい。私の結界範囲内に、不審な魔力反応はありません。あの黒い影の群れも、間桐臓硯の消滅と同時に霧散しました」
メディア・リリィが、茜の少し後ろを歩きながら報告する。
茜は無言のまま、《全覚醒》を完全に解除し、脳の負荷を極限まで落として歩いていた。凛からの魔力譲渡のおかげで、L1《自動修復機構(セーフティ・リセット)》によるショートの後遺症(頭痛とノイズ)はかなり軽減されているが、それでも身体は鉛のように重い。
(……とりあえず、最悪のバグは回避できた。遠坂も生存。衛宮も……なんとか持ちこたえた。だが、根本的な問題は何も解決していない)
茜の脳裏に、間桐の地下でパスを遡った際に触れた、あの「泥」の感触が蘇る。
間桐臓硯の真の本体。それは、冬木市の何処かに潜伏している。
そして、あの泥の呪い……異常な防壁(ブラックボックス)が守るように、あるいは内側から喰い破るように存在している。
茜は、その事実だけを反芻した。L1のセーフティが起動したことで、パスは強制切断され、位置の特定まではできなかった。
だが、あの泥の呪いは、遠坂凛という完璧なシステムのパフォーマンスを著しく低下させるだけの、途方もない絶望と悪意を孕んでいたことだけは理解できた。
(……これ以上の深追いは危険だ。観測者として、今は手持ちの情報だけで最適解を組み立てるしかない)
茜は、冷たい雨に打たれながら、一人で深い思考の海へと沈んでいった
[Time: 同日 午前1:30]
[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸・リビング]
遠坂邸に到着すると、凛はすぐに士郎を客間のベッドへと寝かせた。
彼女自身も泥だらけで疲労困憊のはずだが、手際よく毛布を掛け、士郎の呼吸が安定していることを確認してから、ようやくリビングへと戻ってきた。
「……ふぅ。とりあえず、衛宮くんの命に別状はないわ。キャスターの治癒がなければ、本当にどうなっていたか分からないけど」
凛が、アンティーク調の豪奢なソファに深く腰を沈め、大きく息を吐き出す。
「お疲れ様です、凛さん」
リビングの端では、メディア・リリィが茜の隣に座り、彼の腕に淡い光を当てて、より精密な治癒魔術を施している。凛の魔力譲渡でシステム全体の再起動は完了していたが、肉体的な疲労や微細な毛細血管の損傷までは治りきっていなかったためだ。
「……わるいね、メディア。君も魔力をかなり消耗しているはずなのに」
「マスターのためなら、これくらい平気です! それに、マスターの魔術回路……なんだか、すごく複雑で綺麗ですから、見ていて飽きないんです」
メディアが純真な笑顔を向ける。茜は困ったように眉尻を下げ、おとなしく治癒を受け入れていた。
「さて。とりあえず、冷えた身体を温めるとしよう。キッチンを使わせてもらったぞ、凛」
アーチャーが、銀製のトレイに四つのティーカップと、湯気を立てるティーポットを乗せてリビングに現れた。
カップに注がれた紅茶からは、ダージリンの芳醇な香りが漂い、戦いの血と泥の匂いを優しく中和していく。
アーチャーはトレイをテーブルに置くと、茜と凛、そしてメディアの前に手際よくカップを配った。
「……アンタ、本当に紅茶を淹れるのだけは一流よね」
凛が皮肉を言いながらも、一口飲んでホッと息をつく。
茜も、マグカップを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。
(……L1からL5までの階層構造、正常稼働を確認。……思考能力も回復。ここからが、本当の戦いだ)
茜は紅茶をテーブルに置き、ソファに深く座り直して、凛とアーチャーへと視線を向けた。
「……さて。落ち着いたところで、情報(ログ)の整理をしよう」
茜のトーンが、日常のそれから、再び冷徹な分析官のものへと切り替わる。
「間桐臓硯の排除……正確には、あの地下の『蟲蔵』における、数十万の蟲の群れと、奴の端末(ダミー)の破壊には成功した。これで、奴の魔力供給ネットワークと、手駒の大部分は完全に失われたはずだ」
「ええ。アーチャーの宝具と、キャスターの神代の魔術の直撃だもの。あそこにあった蟲の残骸は、細胞レベルで消滅したわ。……でも、アンタ言ってたわよね。あの地下にいたのは、あくまで『端末』に過ぎないって」
凛の表情が険しくなる。
「臓硯の本体……魂の核となるたった一匹の蟲は、あの場にはいなかった。つまり、間桐臓硯という怪物は、まだ生きているってことよね」
「そうだね。僕が《因果ログ解析》で奴のパスを遡ろうとした際、その終端は、間桐邸の地下ではなく……外部の、何らかの『器』へと繋がっていた」
「器……? まさか、町の人間の誰かに寄生して、魔力を吸い上げているっていうの?」
凛が身を乗り出す。
「……分からない。パスの終端に触れようとした瞬間、極めて巨大で異質な『呪詛の塊』のようなものを読み込みそうになったんだ。あれ以上解析を進めれば、僕の脳髄がショートする危険があった。だから、システムに組み込んである安全装置(セーフティ)が自動的に起動して、パスを強制切断した」
茜は静かに事実だけを告げた。
「……ただ、確かなことが一つある。臓硯は、自身の端末と蟲蔵を失ったことで、魔力の大半を喪失した。奴が生き延びるためには、その見知らぬ『器』から強引に魔力を吸い上げるか、あるいは直接、冬木の人間の魂を食らうしかない」
「……厄介だな。本体の居場所が分からない以上、こちらから打って出ることはできない。奴が行動を起こし、ボロを出すのを待つしかないのか」
アーチャーが腕を組み、忌々しそうに舌打ちをする。
「ええ。それに……一番の問題は、衛宮くんだわ」
凛が、二階の客間の方へと視線を向けた。
「なんであんな無茶をしてまで、たった一人で間桐の地下に乗り込んだの? あの蟲蔵の惨状……彼は、明確な殺意を持って戦ってるように見えた。竜胆、アンタの解析で、何か分からなかったの?」
「……彼は、ひたすらに『怒り』と『絶望』の波形を出力していた。誰かのために、自らを剣に変えてでも戦い抜くという、狂気的なまでの自己犠牲。……それ以上のことは、彼の深層意識にアクセスしなければ分からない」
茜が答えた、その時だった。
リビングの重厚な扉が、ギィ……と、かすかな音を立てて開いた。
「……っ」
そこに立っていたのは、衛宮士郎だった。
メディアの神代の治癒によって外傷は完全に塞がっているものの、その顔色は蒼白で、足取りは覚束ない。彼の目は、熱病に浮かされたように虚ろで、それでいて、どこか暗い炎を宿していた。
「衛宮くん……! もう起きて大丈夫なの!?」
凛が慌てて立ち上がる。
アーチャーは無言で士郎を見据え、茜とメディアもまた、彼へと視線を向けた。
「……遠坂。……竜胆、か」
士郎は、壁に手をつきながら、ゆっくりとリビングの中央へと歩み出た。
彼の声はひどく掠れていて、まるで何かが完全に壊れてしまったかのように、感情の起伏がすっぽりと抜け落ちていた。
「……助けてもらったことは、感謝する。……でも、俺は行かなくちゃならない。……桜が、桜が……あんなところに、ずっと……!」
士郎の口から、ついにその名前がこぼれ落ちた。
彼の両手が、無意識に強く握りしめられ、手のひらから赤い血が滲む。治癒魔術で塞がったはずの傷が、彼自身の内側から溢れ出す「剣の概念」によって、再び裂けようとしていたのだ。
「……衛宮くん。桜が、どうしたっていうの。あんた、何を知ってるのよ」
凛が、士郎の痛々しい姿に顔をしかめながら、問い詰める。
士郎は、床に視線を落としたまま、その残酷な真実を、ポツリ、ポツリと語り始めた。
間桐桜が、十一年間、あの蟲蔵で臓硯に何をされてきたのか。
彼女が、衛宮邸でどんな思いを抱えながら、毎日笑いかけてくれていたのか。
そして……自分が、それに気付いてやれなかったという、取り返しのつかない後悔と絶望を。
士郎の悲痛な告白が、遠坂邸のリビングに、冷たい雨音よりも重く、深く響き渡っていた。