空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第二十四章】血塗られた天秤と、観測者の密やかなる再定義

[Time: 2004年 2月5日 午前1:40]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸・リビング]

 

 

重厚なアンティークの時計が、深夜の静寂を刻む音だけが、広々としたリビングに冷たく響いていた。

 

窓を打つ冬の雨音すら、今はどこか遠い世界の出来事のように思える。

 

衛宮士郎の口から絞り出された、あまりにも凄絶で、あまりにも悲痛な告白。

 

間桐桜が、この十一年間、あの不浄なる蟲の海で何をされてきたのか。

 

 

 

そして、彼女こそが、人々の魔力を啜り、サーヴァントすらも飲み込んだ『黒い影』の正体であるということ。

 

その事実がもたらした絶望の質量は、暖炉に火が入っているにも関わらず、リビングの空気を氷点下まで凍てつかせていた。

 

 

士郎は、自身の膝に置かれた両手を強く握りしめている。

 

神代の治癒魔術によって塞がったはずの手のひらからは、彼自身が内側から生み出している「剣の概念」によって、再びジワリと赤い血が滲み出していた。だが、彼はその痛みに気づいている素振りすらない。彼の瞳は、ただ暗く濁った泥の底を見つめるように、焦点が合っていなかった。

 

 

 

 

 

その向かい側のソファ。

 

遠坂凛は、ティーカップを手にしたまま、彫像のように固まっていた。

 

彼女の美しい顔からは一切の表情が抜け落ちている。瞳は伏せられ、前髪がその感情を巧妙に隠していた。

 

 

(……桜)

 

 

凛の胸の奥底で、幼い頃に引き離された妹の、泣き出しそうな笑顔がフラッシュバックする。

 

 

 

 

 

間桐の家に養子に出されたあの日から、彼女はいつか、間桐の魔術を継いで立派な魔術師になるのだと、そう信じることで自分を納得させてきた。

 

遠坂の人間として、魔術世界の冷酷なルールに従い、彼女を切り捨てた。それは彼女の幸せのためでもあったはずだった。

 

 

 

だが、現実は違った。

 

間桐臓硯という怪物は、桜を魔術師として育てる気など毛頭なかった。ただの「器」として、十一年間、文字通りの地獄で凌辱し、その身を蟲に食い荒らさせていたのだ。

 

 

(……私のせいだ。私が、あの子を……あんなところに、見捨てたから……!!)

 

 

凛の心臓が、見えない万力でギリギリと締め上げられる。

 

息ができない。叫び出したい。今すぐこの家を飛び出して、あの蟲蔵の残骸を塵一つ残さず焼き尽くし、桜を抱きしめて泣き喚きたい。姉としての激しい絶望と罪悪感が、血の涙となって彼女の内側をズタズタに引き裂いていた。

 

 

 

だが。

 

 

「……そう」

 

 

沈黙を破った凛の声は、冬の夜気よりも冷たく、そして恐ろしいほどに平坦だった。

 

彼女はゆっくりとティーカップをソーサーに置くと、顔を上げた。

 

 

そこに「遠坂凛という一人の少女」の面影はなかった。

 

あるのは、何百年もこの冬木の地を管理してきた魔術師の家系、その六代目当主としての『冷徹な仮面』だけだった。

 

 

「状況は理解したわ。……なら、冬木の管理者として、処分を下すわ」

 

 

その言葉に、最も早く反応したのは、背後に控えていた赤い外套の英霊だった。

 

「……処分? 間桐桜を、かね?」

 

 

アーチャーが、その鋼色の瞳を細め、低く凄みのある声で確認する。

 

「ええ」

 

 

凛は、微塵の躊躇いも見せずに言い切った。

 

「あの影が、すでに何人もの人間を意識不明に陥らせているのは事実よ。それに、セイバーという強力なサーヴァントまで取り込んでいる。……力を制御できない魔術師は、生かしておけない。あの子はもう、狂った魔術師よ」

 

 

吐き捨てるような、氷の宣告。

 

その言葉が、士郎の耳に届いた瞬間。

 

「……っ!」

 

士郎が弾かれたように顔を上げ、ソファから立ち上がった。

 

「待てよ……! 遠坂、お前、今なんて言った!?」

 

 

士郎の声は、怒りよりも悲痛な叫びに近かった。

 

「桜は……桜は、好きであんな風になったわけじゃない! 臓硯に、あんな蟲の地獄に無理やり沈められて、あんな身体に改造されたから……! あいつは、ただの被害者だ! あの影だって、臓硯が無理やり引き出して操ってるだけだ! なのに、殺すって言うのか!?」

 

士郎が机に身を乗り出し、凛へと詰め寄る。

 

 

だが、凛は士郎の血走った視線を真っ向から受け止め、一切怯むことなく冷たい言葉を突き返した。

 

 

「ええ、殺すわ。……被害者だから何? 彼女が望んでいなかったから、なんだって言うの?」

 

「遠坂ッ!!」

 

「現実を見なさい、衛宮くん!」

 

 

凛の声が、雷鳴のようにリビングに響いた。

 

「彼女の意志がどうあれ、彼女の体内に巣食っている『影』は、すでに現実の脅威としてこの街を喰い荒らしているのよ! ……このままあの子を放っておいたら、確実に同じことが起きる。見境なしに人間を襲い、魔力を吸い上げ、最終的にはこの冬木市全域に被害をもたらす怪物になるわ。……冬木の霊脈を預かるセカンドオーナーとして、そんな怪異を野放しにはできない」

 

 

凛は、自身の膝の上で、両手をきつく、爪が手のひらに食い込むほどに強く握りしめていた。

 

 

彼女は、感情を完全に押し殺す。

 

一瞬でも気を抜けば、姉としての弱音が、血の混じった嗚咽となって溢れ出してしまいそうだったから。

 

 

遠坂の当主として。魔術師として。

 

冬木を脅かす怪異は、それがたとえ実の妹であったとしても、自らの手で殺さねばならない。それが、彼女が血を吐くような思いで下した、非情にして絶対の決断だった。

 

 

「だから、私はあの娘を殺すわ。……それが、魔術師としての私の責任よ」

 

 

凛の冷酷な瞳が、士郎を射抜く。

 

士郎は、その瞳の奥にある真実(姉としての絶望)を知らない。彼にはただ、遠坂凛が「魔術世界の冷酷なルール」に従って、桜をただの脅威として切り捨てようとしているようにしか見えなかった。

 

「ふざけるな……。俺は、認めない。……桜は、俺が助ける。誰がなんと言おうと、あいつは……俺が!」

 

 

士郎の言葉が、震えていた。

 

臓硯から突きつけられた事実。桜が影であり、人を殺している怪異であるという事実。

 

それでも、彼女を助けたいという情が、士郎の身体を動かそうとする。

 

 

だが、そんな士郎の足元を、さらに残酷な一撃が掬い上げた。

 

「……威勢はいいが。衛宮士郎、お前は本当に分かっているのか?」

 

部屋の隅に腕を組んで立っていたアーチャーが、冷ややかな声で士郎の言葉を遮った。

 

「アーチャー……」

 

 

士郎が、その赤い背中を睨みつける。

 

アーチャーはゆっくりと歩み寄り、士郎を見下ろすように立ち塞がった。その瞳には、かつての自分自身の愚かさを徹底的に糾弾するような、凍てつくような峻烈さが宿っていた。

 

「凛の決断は、魔術師として、いや、人間として最も正しい『最適解』だ。……衛宮士郎。お前は今まで、何を理想として剣を振るってきた?」

 

「……ッ」

 

「『正義の味方』。……そうだろう? 誰かが泣くのを黙って見ていられない。多くの人間を救うためならば、自らを犠牲にすることも厭わない。それが、お前が養父から受け継いだ、尊くも呪われた信条のはずだ」

 

 

その言葉は、鋭利な刃となって士郎の胸を切り裂いていく。

 

「百人を救うために、一人の悪を切り捨てる。お前が今まで抱いてきた理想は、そういうものだ。……ならば、今の状況を冷静に判断してみろ」

 

 

アーチャーは士郎の胸倉を掴み上げる勢いで、顔を近づけた。

 

「間桐桜は、すでに自身の意志で制御できない怪異と成り果てている。彼女を生かしておけば、冬木の街で何百、何千という人間が死ぬことになる。お前の信じる『正義』に照らし合わせるならば、今すぐあの少女の首を刎ねるのが、唯一の正解だろう?」

 

「ちが、う……。俺は、そんなことのために……!」

 

 

士郎の口から、掠れた声が漏れる。

 

 

「違う? 何が違う。……正義を体現するのならお前は、間桐桜を殺さなくてはならない、違うか?」

 

 

アーチャーの最後の一言が、決定的な楔となって士郎の脳髄に打ち込まれた。

 

「…………ッ!!」

 

士郎の視界が、明滅する。

 

 

 

 

(殺せ。悪を断て。多くの人を救え)

 

 

 

 

頭の中で、衛宮切嗣の呪いが囁く。正義の味方であるならば、人を殺す影である桜を、この手で討たねばならない。

 

 

(助けろ。あいつを一人にするな)

 

 

心の底で、桜の儚い笑顔が泣き叫ぶ。十一年間も地獄にいた彼女を、これ以上傷つけてなるものか。

 

 

理想と愛情。

 

殺害と救済。

 

 

決して交わることのない二つの命令が、士郎の体内で激しく衝突し、再び強烈な「矛盾(バグ)」を生み出していた。

 

士郎は頭を抱え、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。彼にはもう、反論する言葉すら残されていなかった。

 

 

その凄惨な対立の図式を。

 

ソファの端に深く腰掛けた竜胆茜は、ただ静かに、瞳のピントを外したまま観測し続けていた。

 

 

(……情報構造の整理、完了)

 

 

茜の脳内では、L3《深層領域探求》とL4《環境並列演算網》がバックグラウンドでフル稼働し、現在の状況から導き出される未来への分岐を猛烈な速度で演算していた。

 

影の正体が間桐桜であり、臓硯の支配下により町の住民を襲っているという事実

 

これらを踏まえ、茜の疑似魔術基盤(システム)が導き出した論理的な結論は、極めてシンプルだった。

 

 

 

『対象(間桐桜)は、冬木市全域のエントロピーを破綻させる深刻なシステムバグである。被害が拡大する前に、対象の生命活動を物理的・魔術的に停止(デバッグ)させることが、被害を最小限に抑える最適解である』

 

 

そう。観測者としての茜の結論は、遠坂凛やアーチャーと全く同じだった。

 

彼らの意見は、管理者として、そして合理的な判断として『正しい』。

 

ここで士郎に同調して「桜を救う方法を探そう」などと夢物語を語るのは、三流の魔術師か、現実の見えていない愚か者だけだ。

 

だから、茜は内心で小さく息をつき、凛たちの冷酷な決断を肯定的に受け入れていた。

 

 

 

──だが。

 

 

竜胆茜という存在は、ただ最適解を出力するだけの機械ではない。

 

茜は、マグカップの紅茶を見つめるふりをしながら、視線の端で、冷徹な仮面を被って士郎を睨みつけている遠坂凛の横顔を捉えていた。

 

 

 

その瞳の奥。

 

仮面の裏側に張り付いている、隠しきれない微細な魔力の乱れ。

 

爪が食い込み、血が滲みそうになっている彼女の拳。

 

 

(……矛盾(エラー)だ。遠坂の言動と、彼女の深層心理の波形が、著しく乖離している)

 

 

凛と桜が姉妹であるという事実を、茜は知らない。

 

だが、他者の感情の機微を「因果の波形」として読み取る能力に長けた茜にとって、今の凛が『本心から冷酷な魔術師になりきれているわけではない』ことは、一目瞭然だった。

 

 

(……彼女は、無理をしている。自身の内側にある巨大な「何か(愛情や罪悪感)」を、管理者としての責任感で強引に押し潰して、対象の殺害を実行しようとしている)

 

 

茜の脳内で、新たな演算が走る。

 

『もし、遠坂凛がこのまま自身の感情を殺し、間桐桜の殺害を直接実行した場合の未来予測』。

 

 

……導き出された結果は、茜にとって決して容認できるものではなかった。

 

 

(……遠坂の精神的パフォーマンス(心)が、完全に崩壊する)

 

 

表面上は気丈に振る舞うだろう。だが、その深層領域には修復不可能な亀裂が走り、二度と元の完璧な彼女には戻れなくなる。

 

それは、茜のシステムにおける至上命題──『遠坂凛を安全に生き残らせる』という目的に対する、最大のバグ(敗北)を意味していた。

 

 

(……ダメだ。少なくとも今の状態で遠坂に、彼女を殺させてはいけない)

 

 

 

だが、茜はそれを口に出さなかった。

 

ここで彼が「君には無理だ」と指摘すれば、凛の張り詰めた糸が切れてしまうか、あるいは彼女の矜持を致命的に傷つけることになる。彼はあくまで「遠坂凛の背景(ノイズ処理装置)」であり、彼女の決断を正面から否定する権利はないと、そう卑屈にプログラミングされているからだ。

 

 

 

「……ふざけるな……。俺は、俺は絶対に、桜を……」

 

 

士郎が、血を吐くような声で呟くが、その声には先ほどまでの勢いはなかった。

 

アーチャーの論理的な追撃に、彼自身の理想が首を絞めているのだ。

 

話し合いは完全に膠着し、重く、息が詰まるような気まずい沈黙がリビングを支配した。

 

 

「……とりあえず、今日のところはここまでにしよう」

 

 

その重苦しい沈黙を切り裂くように、茜の平坦で無機質な声が響いた。

 

全員の視線が、ソファの端で所在なさげに身を縮めている茜へと集まる。

 

 

「……竜胆?」

 

 

 

凛が、鋭い視線を向ける。

 

「時刻はすでに午前二時を回っている。全員、間桐の蟲蔵での戦闘で魔力も体力も限界に近い。特に遠坂、君は僕のシステムを補強するために余分な魔力を消費した。この状態でこれ以上議論を重ねても、判断の精度(パフォーマンス)が著しく低下するだけだ。……全員、今日は一旦休むべきだ。結論を急ぐ必要はない」

 

 

茜は、極めて事務的に、しかし凛の体調を気遣うようにそう提案した。

 

「……そうね。竜胆の言う通りかもしれないわ」

 

 

凛は、少しだけ肩の力を抜き、深くため息をついた。彼女自身、これ以上この冷徹な仮面を維持し続けることに限界を感じていたのだ。

 

「各々、空いている客間を使ってちょうだい。衛宮くんも、今日はもう寝なさい。……この話の続きは、明日よ」

 

 

凛が立ち上がり、有無を言わさぬ態度で解散を宣言する。

 

士郎は何も言わず、ただ虚ろな瞳のまま、フラフラとした足取りで自身が寝かされていた客間へと戻っていった。

 

アーチャーもまた、静かに霊体化して姿を消す。

 

リビングに一人残された茜は、冷めきった紅茶をぐいと飲み干し、静かに立ち上がった。

 

 

(……遠坂凛に、このまま、進ませてはならない。……かといって、衛宮の理想の崩壊も無視はできない)

 

 

茜は、無表情のまま、脳内の奥深くでひっそりと、自身のシステムにアクセスする。

 

 

彼にしか見えない緑色のエントロピーの海。

 

その中で、茜はある一つの『狂ったオーダー』を、誰にも悟られることなく入力した。

 

それが、自身の命を致命的にすり減らす、最悪の泥を被る選択であると知りながら。

 

ただ、気高き少女の心が壊れるのを防ぐためだけに。

 

 

 

 

──この夜。

 

冬木の観測者の中で、一つの密やかなる最適解が再定義されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前2:15]

 

[Location: 遠坂邸 ── 客間]

 

 

茜は、自分にあてがわれた二階の客間へと足を踏み入れた。

 

アンティークの家具が並ぶ、広くて清潔な部屋だ。彼が普段暮らしている新都の安アパートとは雲泥の差である。

 

「お疲れ様です、マスター。少しは休めそうですか?」

 

 

背後からついてきたメディア・リリィが、ローブのフードを下ろしながら、労うように微笑みかけた。

 

「ああ。ありがとう、メディア。……君も、今日は本当に助かった」

 

 

茜はベッドの縁に腰掛け、ふう、と短く息を吐いた。

 

間桐邸の結界破壊、影の侵入を防ぐ空間遮断、そして、何よりあの令呪による空間跳躍と『消滅の極光』。

 

彼女の神代の魔術がなければ、間違いなく自分たちは地下で蟲の餌食になっていた。

 

「あの時……僕が令呪で君を呼んだ時、状況も分からない空中で、よく一瞬であの魔術を放ってくれたね。君の判断速度に救われた」

 

 

茜が珍しく素直に感謝を口にすると、メディアは嬉しそうに目を細め、茜の隣にちょこんと腰を下ろした。

 

「ふふっ。だって、マスターが私を必要としてくれたんですから。……召喚されてからずっと、マスターは私を『ただの端末(ターミナル)』だの『目的の為のサポート役』だの言って、ご自身ばかり無茶をしていました。でも、あの瞬間……マスターの心臓(システム)が、私に『やってくれ』と叫んでいるのが、パスを通してはっきりと伝わってきたんです」

 

 

メディアの言葉に、茜は少しバツが悪そうに視線を逸らした。

 

「……効率を考えたまでのことだ。君の火力が、あの場における最適解だった」

 

「はい、そういうことにしておきます」

 

メディアはクスクスと笑い、それから少しだけ表情を引き締めた。

 

 

あの令呪の一件を経て、二人の間には、単なるマスターとサーヴァントという契約関係を超えた、確かな『信頼』が結ばれていた。

 

自分を卑下しながらも、愛するものを守るため全力を尽くす不器用な少年と、かつて裏切りの魔女として悲惨な運命を辿ったからこそ、その不器用な善性を愛おしく思う神代の少女。

 

 

二人は、この血生臭い聖杯戦争の中で、奇妙なほどに穏やかな「相棒」としての距離感を築きつつあった。

 

 

「……メディア。君は、どう思う?」

 

 

茜は、天井の豪奢なシャンデリアを見上げながら、静かに問いかけた。

 

「……間桐桜のことですか」

 

「ああ。遠坂の『殺す』という判断。衛宮の『助ける』という執着。……神代の魔女である君の目から見て、あの少女はどういう存在に見える?」

 

メディアは、少しの間沈黙し、自身の杖の先端を優しく撫でた。

 

「……魔術師として、あるいは世界を管理する立場から言えば、凛さんの判断が絶対に正しいです。あれほど巨大で底なしの『飢餓感(泥)』を抱えた器を放置すれば、遅かれ早かれ街が壊滅します。……即座に排除すべき、危険なバグです」

 

それは、茜のシステムが弾き出した結論と全く同じだった。

 

 

「……ですが」

 

 

メディアの紅い瞳に、どこか遠くを見るような、深い哀愁の色が浮かぶ。

 

「一人の『人間』として……いえ、かつて愛憎に狂わされた一人の女として言わせてもらうなら。彼女が抱えている、あの泥のように黒くて重い感情は……ほんの少しだけ、理解できる気がするんです」

 

「理解できる?」

 

「はい。彼女はおそらく、ずっと何かを『我慢』してきた。痛みを、悲しみを、誰かを愛したいという当たり前の感情を。……それが十一年間も蟲の地獄の中で熟成され、限界を超えて溢れ出してしまったのが、あの影なのだと思います。……だから、彼が彼女を救いたいと願う気持ちも、痛いほどによく分かってしまうんです」

 

 

魔女としての冷徹な判断と、一人の少女としての深い同情。

 

その二つが入り混じったメディアの言葉は、茜の胸の奥底に、静かな波紋を広げた。

 

「……そうか。ありがとう、メディア。参考になったよ」

 

茜はゆっくりと立ち上がった。

 

「マスター? どちらへ?」

 

「少し、衛宮と話をしてくる。君はここで休んでいてくれ。霊体化して魔力を温存するんだ」

 

「……はい。お気をつけて」

 

メディアの温かい声に見送られながら、茜は客間を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前2:40]

 

[Location: 遠坂邸 ── 廊下]

 

 

静まり返った廊下を、茜は音もなく歩く。

 

向かう先は、衛宮士郎が収容されている客間だ。

 

(……理想と愛情の間で、自己崩壊を起こしかけている衛宮士郎。彼に、僕の『オーダー』の意図を伝える必要はない。だが、彼のベクトルが完全に折れてしまう前に、観測者としての楔を打ち込んでおく必要がある)

 

黒いコートのポケットに両手を突っ込んだまま。

 

茜は、士郎の部屋の重い木製の扉の前に立ち、無表情のまま、そのノブに手をかけた。

 

 

 

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