空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第二章】歪な共鳴と、沈黙の事象制御

[Time: 2000年 4月中旬 午後3:45]

 

[Location: 穂群原学園中等部 ── 渡り廊下]

 

 

世界は、無数のノイズで構成されている。

 

同級生たちのざわめき、遠くのグラウンドから響くホイッスルの音、春風が窓ガラスを揺らす微細な振動。竜胆茜の脳内に常時展開されている《演算機構》は、それらすべてのエントロピーを処理し、彼という個体が世界に最も「溶け込む」ための最適座標を弾き出し続けていた。

 

 

だが、今日の茜の演算リソースは、その約三割を「自身の肉体の偽装」に割かざるを得なかった。

 

 

 

(……左腕の尺骨神経、第三〜第五関節にかけての神経網が三十二パーセント断裂。毛細血管の広範な破裂による内部出血、および筋肉繊維の軽度壊死)

 

 

 

昨晩、遠坂凛の魔術刻印の暴走を《参照先置換(IDスワップ)》で肩代わりした代償。

 

 

茜の左腕は、制服の袖の下で、赤黒く、あるいはどす黒い紫に変色し、原型を留めないほどの巨大な痣、というよりは内部破壊の痕跡と化していた。

 

 

常人ならば腕を動かすどころか、痛熱によるショックで気絶していてもおかしくない重傷だ。しかし、茜は《完全躯体制御》を極限稼働させ、左腕から脳へ送られる痛覚信号のルートを物理的に遮断。さらに、壊死しつつある筋肉の代わりに、周囲の健常な筋繊維と骨格の反発力を精密にコントロールすることで、「まったく無傷であるかのように」腕を振って歩いていた。

 

 

 

L1レイヤーの《自動修復機構(セーフティ・リセット)》が、熱を持った左腕の細胞をミクロの単位で繋ぎ合わせようとフル稼働している。そのわずかな熱量すら、茜は《事象適応》で皮膚表面の温度を下げて隠蔽していた。

 

隣を歩く凛は、少し前を歩く友人たちと談笑しながら、時折茜の方へ視線を向けてくる。昨夜の一件で、彼女は「自分が刻印の痛みを乗り越えた」と信じている。その横顔には、以前までの張り詰めた疲労感が嘘のように消え去り、年相応の晴れやかな生気が満ちていた。

 

 

 

(……これでいい、腕一本の機能不全など、彼女の笑顔の対価としては安すぎる)

 

 

 

茜がそう自己完結の演算を終えようとした、その時だった。

 

渡り廊下の向こうから、一人の少年が歩いてきた。

 

赤みがかった茶髪。誰に対しても分け隔てのない、人の良さそうな、少しだけタレ目の笑顔。手には、どこかの部室から頼まれたらしい大量のプリントの束を抱えている。

 

 

 

同級生の、衛宮士郎だ。

 

 

 

 

「あ、遠坂。それに……えっと、竜胆だっけ。お疲れ様」

 

 

「衛宮くん。プリント運び? 相変わらずお人好しね」

 

 

「はは、頼まれちゃってさ。じゃ、また」

 

 

 

すれ違う、ほんの数秒。

 

 

凛は呆れ混じりの笑顔で士郎を見送り、士郎もまた人の良い笑顔を返した。

 

だが、その瞬間。茜の奥底にある起源『解析』と、L4に紐づく《因果ログ解析(カウザル・ログ)》が、衛宮士郎という個体から漏れ出す「致命的な違和感」を自動で捕捉した。

 

 

 

(──なんだ、こいつは)

 

 

 

茜の半眼が、わずかに見開かれる。

 

視覚ではない。魔術回路を通した魔力視でもない。もっと根源的な、世界の設計図(テキスト)を直接読み取る茜の知覚が、士郎の肉体の内側にある「異常な構造」をスキャンしていた。

 

 

 

人間の骨格ではない。人間の神経ではない。

 

 

 

血肉の皮袋のすぐ下で、おびただしい数の「剣」が、冷たく、鋭く、狂気的なまでの密度でひしめき合っている。

 

 

彼の歩行は筋肉によるものではなく、内側にある無数の剣の刃がせめぎ合い、その摩擦と反発力で稼働しているかのような──まるで、剣で出来た精巧な自動人形(オートマタ)。

 

 

 

 

そして何より、彼が浮かべているその「人の良い笑顔」の裏側に、自己というものが一切存在していない。ただ「誰かを救わなければならない」という強迫観念だけが、空洞の精神を辛うじて支えている。

 

 

(……僕と同じだ。いや、ベクトルが違うか。僕が『世界から消えたい背景』だとしたら、彼は『他人のためにしか機能しない機械』だ)

 

 

 

すれ違いざま、士郎の視線が、ほんのコンマ一秒だけ茜に向けられた。

 

 

 

直感、あるいは内なる剣の疼きだろうか。

 

士郎は彼という存在の異質さを嗅ぎ取ったのか。互いに「人間を模倣している何か」であると、魂の底で理解し合ったような、冷たい視線の交錯。

 

 

 

「竜胆?」

 

 

 

凛の声で、茜は演算の海から浮上した。士郎の背中は、すでに渡り廊下の角を曲がって見えなくなっていた。

 

 

「……いや。なんでもないよ」

 

 

いつもの無気力な声で答え、再び歩き出そうとした。

 

 

 

 

しかし、その瞬間、凛の手が茜の左腕の袖口をガシッと掴んだ。

 

 

「──っ」

 

 

痛覚は遮断している。だが、断裂した筋肉に外圧が加わったことで、茜の《完全躯体制御》による歩行のバランスが、0.01秒だけ遅れた。

 

 

そのコンマ以下の綻びを、遠坂凛という優秀な魔術師の目は決して見逃さなかった。

 

 

「……竜胆。貴方、左腕の振り幅が普段より狭い。それに、さっきから呼吸の感覚が不自然なほど一定すぎるわ。」

 

 

「遠坂の気のせいじゃないか。昨夜寝違えただけで──」

 

 

「嘘をおっしゃい」

 

 

凛の声音から、同級生としての柔らかさが消え、魔術師としての冷徹な鋭さが宿る。彼女は茜の反論を待たず、強引に渡り廊下脇の空き教室へと茜を引っ張り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午後3:55]

 

[Location: 穂群原学園中等部 ── 誰もいない空き教室]

 

 

「袖、まくりなさい」

 

 

夕日が差し込む埃っぽい教室で、凛は腕を組み、有無を言わさぬ圧を放っていた。

 

 

茜は小さくため息をつき、これ以上隠蔽の演算を重ねるのはエネルギーの無駄だと判断した。彼は大人しく、左腕の袖をゆっくりと肘の上まで引き上げる。

 

白地のシャツの下から露わになったのは、直視に堪えないほどの惨状だった。

 

手首から肘にかけての皮膚はどす黒く変色し、一部は内出血で紫色に腫れ上がり、皮膚の下で何かが爆発したかのように筋肉の隆起が歪んでいる。

 

 

 

 

それを見た瞬間、凛の息がヒュッと止まった。

 

 

「……な、に、これ。ただの打撲じゃない……神経系までズタズタじゃない……!」

 

 

凛の顔から血の気が引く。彼女の優秀な魔力視は、その傷が物理的な打撃によるものではなく、極めて強大な「魔力的な反発(ショート)」による内部破壊であることを瞬時に見抜いていた。

 

 

「いつ……誰にやられたの!? なんで黙ってたのよ!」

 

 

怒りと、それ以上の強い焦燥。凛の瞳がわずかに潤んでいるのを、茜は冷静に観測していた。

 

彼女に「君の刻印の拒絶反応、その身代わりになった」とは絶対に言えない。それを言えば、この気高い少女は深い自責の念を抱え込むことになる。L5《因果接続補完》の辻褄を合わせるための、適当な理由が必要だった。

 

 

 

「……昨日の夜、新都からの帰り道で、ちょっと術式の実験をしてね。僕の《関係性抽象式》の出力を上げすぎたら、回路がオーバーヒートして自爆したんだ。ただの自業自得だよ」

 

 

 

茜は平坦な声で、最もらしい嘘を並べた。

 

凛は茜の目をじっと睨みつけたが、茜の瞳孔の開き具合にも、声帯の震えにも、一切の動揺はない

 

完全躯体制御で嘘の生体反応を固定しているためだ

 

 

「……バカッ」

 

 

凛は小さく吐き捨てるように言うと、鞄から小さなガラス小瓶を取り出した。中には、緑色の粘体──遠坂家秘伝の治癒薬が詰まっている。

 

 

「腕、出しなさい。……痛覚、切ってるんでしょ。繋ぐから、我慢しなさいよ」

 

 

凛の冷たくて細い指先が、茜の熱を持った左腕に触れる。

 

軟膏が塗られ、凛の唇から滑らかな詠唱、ルーンの起動式が紡がれる。彼女の指先から流れ込む温かな魔力が、茜の細胞の治癒力を強制的に引き上げていく。

 

 

(……温かいな)

 

 

茜は、自らの腕の修復をシステムとしてではなく、温度として感じていた。

 

 

「……ほんと、貴方は目が離せないわね。こんな大怪我して、平気な顔して歩いて。痛覚を切ったって、体が壊れてる事実は変わらないのよ」

 

 

「……ごめん」

 

 

「謝るくらいなら、最初から頼りなさい。……私たちは、友達でしょ」

 

 

包帯を巻き終え、最後にきゅっと結び目を作りながら、凛は顔を伏せたままそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

友達。その甘美で、茜にとっては重すぎる概念。

 

茜はただ、彼女の睫毛が夕日を受けて黄金色に透けているのを、黙って見つめていることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午後5:30]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸 地下工房]

 

 

「とりあえず、学園の保健室レベルの処置じゃ間に合わないから。うちの工房の設備で、もう少し深く神経を繋ぎ直すわよ」

 

 

 

 

 

 

半ば拉致されるようにして、茜は遠坂邸の奥深く、地下工房へと足を踏み入れていた。

 

本来、魔術師の工房は他者を絶対に入れない聖域である。それを中学生の、それも家系から追放されたはぐれ者の茜に開示するということは、凛からの最大級の信頼の証だった。

 

 

石造りの壁面、アンティークの調度品、そして空気を重く満たす高密度のオドの匂い。

 

部屋の中央の作業机には、無数の宝石が散らばっていた。

 

凛は茜を椅子に座らせ、腕に魔力感知と治癒の術式を刻んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自らは作業机に向かい、一つの真っ赤なルビーを手に取って眉間を揉んだ。

 

 

「……はあ。このルビーへの魔力充填(チャージ)を終わらせないといけないのに。どうも乱反射しちゃって定着しないのよ」

 

 

凛の得意魔術である宝石魔術、魔力を物質に貯蔵し解放する術式

 

 

しかし、今の凛は昨夜の刻印の暴走、そして茜が肩代わりしたことによる魔力の揺らぎの影響で、自身の魔力波形がわずかに乱れており、宝石の結晶構造との波長合わせに苦戦していた。

 

 

 

 

『全て僕の責任だ』

 

 

 

 

 

 

 

「……貸してごらん」

 

 

茜は、右の手のひらを差し出した。

 

 

「え? でも貴方、宝石魔術の基礎なんて……」

 

 

「いいから」

 

 

凛からルビーを受け取った瞬間、茜の《構造解析》が秒速で発動する。

 

 

(対象:鋼玉(コランダム)Cr不純物混入型。結晶格子:六方晶系。内部マナ定着容量:B+。遠坂の魔力波形との不適合率:14.2%)

 

 

対象の物質構造と、魔術的特性が、茜の脳内に透明な3Dモデルとして展開される。

 

宝石魔術の基本は「自分の魔力を宝石に流し込む」ことだ。しかし、茜の演算はさらにその先、深淵の理へと到達する。

 

 

 

「遠坂は、魔力を『液体』のように考えて、宝石という『器』に注ぎ込もうとしてる。だから、宝石の内部構造(ヒビや屈折率)に弾かれてロスが出るんだ」

 

 

茜は、魔術回路を一切駆動させず、ただ自身のレイヤーに接続し、空間の魔力を微細に操作した。

 

 

「器に注ぐんじゃない。宝石の結晶格子そのものを、魔力と同調する『スピーカー』として再定義する」

 

 

 

 

スゥッ、と。

 

 

 

 

茜がルビーの表面を親指でなぞった瞬間。

 

先ほどまで凛がどれだけ魔力を流しても濁った光しか放たなかったルビーが、内側から爆発的な、それでいて一切のブレがない極めて純度の高い深紅の光を放ち始めた。

 

魔力が「充填」されたのではない。ルビーという物質そのものが、世界から魔力を吸い上げる「半永久機関」に近い状態へと《事象整形》されたのだ。

 

 

 

「────は?」

 

 

 

 

凛は、目を丸くして言葉を失った。

 

一般の魔術師が何日もかけて行う最高純度の魔力定着を、少年が、詠唱一つなく、たった数秒の「解釈の変更」だけでやってのけたのだ。

 

 

「……こんな感じか? 僕には宝石魔術の理屈は分からないけど、構造の隙間を埋める最適解はこれだと思う」

 

 

茜がルビーを机に置くと、凛はワナワナと震える手でそれを持ち上げ、信じられないものを見る目で茜を凝視した。

 

 

「……貴方ね。いま何したの?魔力が感じられなかったけど?!」

 

 

「ただのパズルだよ。遠坂の美しい魔力波形があったから、それに合う形に石を合わせただけだ」

 

 

「だから! そういう無自覚でこわな真似を……っ」

 

 

 

 

 

ジリリリリリリリ!!

 

 

 

 

 

凛が茜に説教を始めようとしたその時、工房の片隅に置かれた黒電話が、静寂を切り裂くように鳴り響いた。

 

その音を聞いた瞬間、凛の肩がビクッと跳ね、部屋の空気が一瞬にしてマイナス数十度まで冷え込んだかのように錯覚した。

 

 

 

 

凛は顔を強張らせ、ゆっくりと受話器を取る。

 

 

 

「……はい。遠坂です」

 

 

『──夜分にすまないね、凛』

 

 

 

受話器の向こうから漏れ聞こえてきたその声の波形を、茜の《構造解析》は自動的に拾い上げた。

 

 

(……なんだ、この声は)

 

 

茜の背筋に、氷をねじ込まれたような悪寒が走る。

 

低く、艶やかで、神父のような穏やかさを装った声。だが、茜の解析システムが弾き出したその声の正体は、「完全な虚無」だった。

 

人間としての感情のベクトルが存在しない。あるのは、ただ他者の苦痛と絶望を好むという、底なしの泥のような歪みだけ。

 

 

 

『今日の霊地巡回の報告がまだだったものでね。……ところで、君の工房に、招かれざる客が入り込んでいる気配がするのだが。魔力を持たない、ただの少年のようだが……彼はいったい、何者かな?』

 

 

 

 

言峰綺礼。

 

 

凛の兄弟子であり、後見人であり、そして──この冬木における最大の『不確定要素』。

 

 

「……っ、彼のことには干渉しないで、綺礼。遠坂の結界のテストに付き合ってもらっているだけよ」

 

 

 

凛は必死に声を張り上げ、茜を庇おうとする。

 

だが、電話越しの言峰の口元が、愉悦に歪んだのが茜には「見え」てしまった。

 

 

(……まずい。この男の意識の片隅に、僕という存在のIDが登録された)

 

 

システムとして世界を処理する茜にとって、言峰綺礼という論理構造を持たない混沌は、最も相性の悪い天敵だった。

 

 

「遠坂。僕は帰るよ。夜も遅いし」

 

 

茜は椅子から立ち上がり、わざと足音を立てて階段へ向かった。凛にこれ以上、言峰への言い訳をさせないためだ。

 

 

「あ……ちょっと、腕の治療がまだ……!」

 

 

「もう痛くない。ありがとう。また明日」

 

 

茜は凛の制止を振り切り、逃げるように遠坂邸を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午後9:15]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 住宅街の路地裏]

 

 

夜の深山町は、街灯の光が届かない深い闇に包まれていた。

 

言峰綺礼という異物のノイズが脳裏にへばりつき、茜の演算網に微かな不協和音を生じさせている。

 

 

(……この街の構造は、狂っている。地脈のノイズ、言峰綺礼の虚無、衛宮士郎の剣。……何かが、水面下で致命的に腐り始めている)

 

 

茜が暗い路地裏を抜けようとした、その時。

 

背後の建物の屋上から、音もなく『それ』が降ってきた。

 

 

 

 

 

ボチャッ、と。

 

 

 

 

 

アスファルトに濡れた肉の塊が落ちるような音。

 

 

 

強烈な血の匂いと、腐敗臭。

 

 

茜がゆっくりと振り返ると、そこには人間の形を保ちながらも、目が濁り、口から異常な長さの牙を覗かせた異形が四つん這いになっていた。

 

 

 

 

(……これは死徒?人間から吸血鬼へと変異した末端。……いや違う、もっと別のナニか

。僕の左腕から漏れ出た血の匂いか、あるいは遠坂邸で漏れた魔力の残滓を追ってきたのか)

 

 

 

 

路地裏の奥から、ナニかが喉を鳴らす音が響く。

 

一般人であれば、恐怖で足がすくみ、数秒後には喉笛を食い破られている状況。

 

だが、竜胆茜の顔には、一切の感情が存在しなかった。

 

 

 

 

「……うるさいな」

 

 

 

茜は、ポケットに手を入れたまま、小さく呟いた。

 

 

 

「僕は今、計算で忙しいんだ」

 

 

 

怪物が地を蹴った。

 

その速度は時速八十キロに達し、両腕の鋭い爪が、茜の首を刈り取ろうと迫る。

 

 

 

 

 

距離、三メートル。二メートル。一メートル。

 

 

 

 

茜は、瞬き一つせず、第二階層の拡張術式を起動した。

 

 

 

 

 

 

《局所確率遅延(ローカル・プロバビリティ)》──展開。

 

 

 

 

 

 

ブゥン……という、極低音の空間鳴り。

 

 

 

茜を中心とした半径三メートルの空間から、一切の色彩が抜け落ち、灰色の静止世界(モノクローム)へと変貌した。

 

 

怪物の爪が、茜の皮膚のわずか数ミリ手前で「完全に停止」する。

 

 

時間停止ではない。この空間内における「結果の確定」が、システムエラーを起こして宙吊りになっている状態。

 

 

 

『爪が茜の首を切り裂いた』という事象が、0%にも100%にもならず、確率の地平で永遠に保留されている。

 

 

 

茜は、その灰色の空間の中で、静かに歩みを進めた。

 

停止している肉体の横を通り抜け、その後頭部へと回り込む。

 

 

 

「事象の成立には、原因と結果の連続性が必要だ。僕は今、お前が『攻撃する』という結果を未確定に吊り下げた」

 

 

 

茜の左腕──L1で修復を急がせている傷だらけの腕が、ゆっくりと持ち上がる。

 

 

 

「だから、お前が今生み出しているその莫大な運動エネルギー(原因)は、行き場を失って、お前自身の内側に蓄積されている」

 

 

茜は、死徒の後頭部に、自らの左手の人差し指をトン、と軽く触れさせた。

 

 

 

 

そして。

 

 

 

 

 

《局所確率遅延》の領域を、解除(リリース)した。

 

 

 

 

 

「────ッ!?」

 

 

 

灰色の世界が色彩を取り戻した瞬間。

 

肉体が、あり得ない挙動を起こした。茜を切り裂くはずだった時速八十キロの爪の威力が、行き場を失ったまま「自身の内側」へと100%反射したのだ。

 

 

 

 

 

グシャァァァァァァッッッ!!

 

 

 

 

 

悲鳴を上げる間もなかった。

 

自らが生み出した膨大な運動エネルギーによって、内側から風船のように破裂した。血肉が飛び散り、アスファルトを赤黒く染め上げる。

 

 

完全な、物理法則のバグを利用した圧殺。

 

 

茜は、降り注ぐ血の雨を《気圧操作》による風の防壁で完全に弾き落とし、自らの制服には一滴の汚れもつけなかった。

 

 

 

 

「……L5、起動。《干渉痕消去(インターフェアレンス・クリア)》」

 

 

 

 

事後処理のシステムが作動する。

 

飛び散った死徒の血肉は、急速に酸化し、数秒のうちにただの塵となって風に消えていった。戦闘の痕跡は、音もなく世界から隠蔽される。

 

 

 

 

何事もなかったかのように、茜は再び歩き出した。

 

月が雲に隠れ、冬木の街は深い眠りについている。

 

だが、茜の脳内の《環境並列演算網》は、地下深くで脈動する「巨大な呪い」の気配を、確かに捉え始めていた。

 

 

 

 

(衛宮士郎。言峰綺礼。……そして)

 

 

 

 

 

 

 

僕が背景として、遠坂凛の隣で平穏に生きるためには、邪魔なノイズが多すぎる。

 

竜胆茜の瞳の奥で、静かな、しかし確かな「システム排除」の演算が、熱を帯びて回り始めていた。

 

 

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