空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第二十五章】壊れた天秤のプロファイリング、機械からの観測

[Time: 2004年 2月5日 午前2:45]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸・客間]

 

 

冬の雨は、夜の深闇を灰色のノイズで塗り潰すように、絶え間なく窓ガラスを叩き続けていた。

 

遠坂邸の客間は、豪奢なアンティーク家具と暖かみのある間接照明で彩られていたが、今のこの部屋を満たしている空気は、まるで地下の冷たい霊安室のように重く、そして死に絶えていた。

 

 

「……少しいいか?」

 

 

扉をノックする音と共に、平坦で無機質な声が落ちた。

 

部屋の中央。寝心地の良さそうな天蓋付きのベッドの縁に腰掛けたまま、衛宮士郎はピクリとも動かなかった。

 

メディア・リリィの神代の治癒によって、肉体的な外傷は完全に塞がっている。焼き切れかけていた魔術回路も、暴走の熱を冷まされ、物理的な機能としては問題なく修復されていた。

 

 

だが、彼を蝕んでいるのは肉体の損傷ではない。

 

己の魂の根幹を成す「理想」と、一人の少女への「愛情」。その二つが正面から激突し、凄絶な矛盾を生み出したことによる、精神的な機能不全(バグ)だった。

 

士郎は、開いた扉の向こうに立つ黒いコートの少年──竜胆茜に目も向けなかった。

 

ただ、床の絨毯の模様を、焦点の合わない虚ろな瞳で見つめたまま、ひび割れた唇を微かに動かした。

 

 

「……何の用だ?」

 

 

極端に淡白で、感情の抜け落ちた声。

 

それは拒絶ですらなかった。今の士郎には、他者と関わるための気力さえも、一滴残らず枯れ果てているようだった。

 

茜は士郎の冷淡な反応を意に介することなく、音もなく部屋に入ると、ベッドの正面に置かれた背もたれ付きの椅子を引き寄せ、そこに静かに腰を下ろした。

 

 

 

二人の距離は、わずか数メートル。

 

茜は、俯いたままの士郎に向き合うと、ポケットに突っ込んでいた両手を静かに抜き、空中で微かな魔力波形を編み上げた。

 

 

「──◆《情報遮断結界(ブラックボックス)》、展開(セット)」

 

 

 

カチャリ、と。

 

物理的な音は鳴っていないが、部屋の空気が一瞬だけ真空のように収縮し、外部との繋がりが完全に「切断」されたような錯覚が起きた。

 

魔術の気配も、音も、そしてアーチャーの持つ千里眼のような超常の視覚すらも完全にシャットアウトする、占術・観測妨害に特化した結界。

 

今、この客間は、世界から完全に切り離された「観測外の密室」となった。

 

 

「……何をしてる。結界なんて張って……」

 

士郎が、不審そうに微かに眉を動かす。

 

「アーチャーの耳は良いからね。ここからは、僕と君だけの『観測外』の対話だ」

 

 

茜は、無表情のまま淡々と告げた。

 

「君の口から、君という人間の構造(システム)について、直接知りたくてね」

 

 

士郎の瞳に、暗く濁った警戒の色が浮かぶ。

 

「……何故、そんなことを聞く。俺が何を思おうと、何を考えていようと、お前には関係ないだろう」

 

「関係なくはない。今後の状況における最適解を導き出すために、必要なプロファイリングだ」

 

「……帰れ」

 

 

士郎は、苛立たしげに吐き捨てた。

 

「俺は、今誰とも話したくない。遠坂の判断がどうとか、魔術師としての理屈がどうとか……そんなものを押し付けられるのは、もうたくさんだ。……放っておいてくれ。お前に話す理由なんて、何一つない」

 

士郎の態度は雑で、ひどく投げやりだった。

 

他者からの干渉を拒絶し、ただ自分の内側に引きこもり、ぐるぐると答えの出ない矛盾の海を漂っていたい。そんな弱々しい防衛本能が、彼を頑なにさせていた。

 

 

 

だが。

 

「──いいや、お前は話す」

 

茜の声は、どこまでも無機質で、無感情だった。

 

士郎の苛立ちや拒絶の感情に一切寄り添うことなく、ただそこにある『事実』だけを、冷徹な刃のように突きつける。

 

「君は今、どうしたらいいのか分からず、ただ機能停止している状態だ。だが、衛宮。ここで君が一人でベッドに座り、数時間、数日と鬱屈とした思考を繰り返したところで、事態は何一つ変わらない」

 

「……ッ」

 

「君が抱え込んでいるのは、ただの悩みじゃない。明確な『矛盾』だ。相反する二つの命令に板挟みになり、君の回路はショートしかけている。ならば、君はその淀んだ感情を、一度外に吐き出して言語化しなければならない。……そうしなければ、君は遠からず、自身の内側で膨張する呪いによって、自ら脳髄を焼き切ることになる」

 

 

茜の言葉には、同情も、憐憫もなかった。

 

あるのは、ただ対象の破損を防ぐための、システム管理者のような徹底した合理性だけ。

 

そのあまりにも冷たく、しかし的確な指摘に、士郎は思わず顔を上げた。

 

初めて、士郎の虚ろな瞳と、茜の空虚な半眼が、正面から交差した。

 

感情の抜け落ちたような瞳と、世界をただの数字として観測する硝子玉のような瞳。

 

その視線のぶつかり合いの中で、士郎は、茜が自分を「説得」しようとしているわけでも、「遠坂の側に引き込もう」としているわけでもないことを悟った。

 

 

こいつはただ、俺という人間を解体し、中身を覗き見ようとしているだけだ。

 

不思議と、その無機質なスタンスが、今の士郎には心地よくすら感じられた。善意も悪意も押し付けられないからこそ、重い口を開く気になれたのかもしれない。

 

 

「……」

 

 

 

士郎はゆっくりと目線を外し、再び自分の両手を見つめた。

 

「……何が、聞きたい」

 

 

ポツリと、降参したようにこぼれた声。

 

茜は小さく頷き、対話という名のプロファイリングを開始した。

 

「……まず、根幹の構造から確認しよう。なぜ君は、『正義の味方』を目指した? 魔術師としての血統もない、ただの一般人であった君が、なぜ自身の命を削ってまで万人の救済という異常な執着に行き着いたのか。そのルーツを聞かせてくれ」

 

 

士郎は、少しの間、沈黙した。

 

それは、彼にとって誰にも触れられたくない、心の一番奥底に封印した原風景だったからだ。だが、茜の結界に満ちる静寂が、彼の口をゆっくりと開かせた。

 

 

「……十年前の、火災だ」

 

 

 

士郎の声は、雨音に溶けるように静かだった。

 

「周りは全部火の海で、人が炭みたいになって死んでいく中で……俺だけが、生き残った。生き残ってしまった。……歩いても歩いても、助けを求める手ばかりで、俺はそれを全部見捨てて、自分だけが助かったんだ」

 

 

士郎の呼吸が、微かに浅くなる。

 

「そして、もう死ぬって時に……親父に、衛宮切嗣に助けられた。……瓦礫をどかして、俺を見つけた時の親父の顔。ボロボロ泣きながら、まるで自分自身が救われたみたいに、心底嬉しそうに俺を助け出した。……あの顔が、今でも忘れられないんだ」

 

 

茜は、一切の相槌を打たず、ただ士郎の言葉から出力される因果の波形を読み取っていた。

 

「親父は、正義の味方だった。……だから、俺は親父の代わりに、正義の味方にならなくちゃいけない。あんな地獄を二度と起こさないために。誰かが泣くのを、もう見過ごさないために。……あの時助けられた俺の命は、俺一人のものじゃない。見捨てた大勢の分まで、誰も死なせないために使わなくちゃいけないんだ」

 

 

(……なるほど。完全な『模倣』であり、『代償行為』か)

 

 

 

茜は、内心で冷徹に分析した。

 

衛宮士郎という人間は、十年前の火災で一度完全に「死んで」いる。彼の中には、自分自身の幸福を願うという自我(エゴ)がすっぽりと抜け落ちている。

 

空っぽになった器に、「衛宮切嗣の理想」というプログラムを無理やりインストールし、生存への罪悪感を燃料にして駆動しているだけの、極めて歪で危うい自律機械。

 

 

それが、衛宮士郎の正体だ。

 

「……よく分かった。君の『正義の味方』という行動理念は、君自身の欲求ではなく、過去の負債を清算するための義務なわけだ」

 

 

茜は淡々と事実を確認し、さらに思考の刃を一段深く突き立てた。

 

「では、次のフェーズに移ろう。……君にとって、『間桐桜』とは何だ?」

 

「……!」

 

 

桜の名前が出た瞬間、士郎の肩がビクッと跳ねた。

 

彼の中で暴れ回る矛盾の、もう一つの極。

 

「……あいつは。桜は……俺にとって、当たり前の日常だった」

 

 

士郎は、絞り出すように語り始めた。

 

「俺が怪我をした時から、毎日家に通ってきてくれて……飯を作って、一緒に笑って。……魔術なんて血生臭い世界とは無縁の、ただの穏やかで、優しい後輩。……俺が守らなくちゃいけない、普通の女の子だったんだ」

 

「だが、現実は違った。彼女は魔術世界の最底辺で、十一年間も凌辱され続けてきた被害者であり、同時に、この冬木の人間を無差別に喰い荒らす『黒い影』という加害者だった」

 

 

茜の言葉は、容赦なく士郎の傷を抉った。

 

「君の言う『正義の味方』の理念に照らし合わせるなら。多数の人間を殺害している彼女は、真っ先に排除すべき明確な『悪』だ。遠坂やアーチャーが言うように、彼女を殺すことこそが、君の信条における最適解のはずだ。……違うか?」

 

「違う……!!」

 

 

士郎が、弾かれたように叫んだ。

 

その声には、理屈を超えた、生々しい悲痛さが込められていた。

 

「桜は……桜は、好きで人を襲ってるわけじゃない! 臓硯に蟲を埋め込まれて、狂わされてるだけだ! 彼女の根っこは、あんな化け物じゃない! なのに……なんで、殺さなくちゃいけないんだよ!」

 

「原因がどうあれ、彼女が他者の命を奪う脅威であるという『結果』は覆らない。……衛宮。君は今まで、多数を救うために少数を切り捨てるという理屈に、無意識に従ってきたはずだ。だが、なぜ今回はそれができない?」

 

 

茜は、士郎の瞳の奥にある、最もドロドロとした感情の塊をピンポイントで刺し貫いた。

 

「見知らぬ万人の命と、間桐桜の命。……君の中に、優先順位の差が存在しているんじゃないか?」

 

「…………っ」

 

 

士郎は、息を呑んだ。

 

 

図星だった。

 

今まで、誰かを救うことに優劣などつけてこなかったはずだった。目の前で困っている人間がいれば、それが誰であろうと等しく助ける。それが正義の味方というものだと信じていた。

 

 

 

だが。

 

桜が人を殺していると知っても、それでも彼女を殺したくない。彼女だけは、失いたくない。

 

その想いは、明確な「贔屓」であり、「偏愛」だった。

 

 

「俺は……」

 

 

士郎の言葉が、震える。

 

「俺は、桜を……。あいつが十年間も、あんな地獄にいたのに、気づいてやれなかった。ずっと一人で泣いていたあいつを、俺は……俺は……」

 

涙は出なかった。代わりに、手のひらから滴る血が、彼の悲鳴の代わりを果たしていた。

 

「……助けたい。俺は、桜を助けたい。……でも、親父との約束が……万人の命を捨てることになるのが……俺には、どうしたらいいか……」

 

複雑に絡み合った糸が、茜の冷徹なプロファイリングによって、少しずつ解きほぐされ、言語化されていく。

 

士郎が抱えているのは、崇高な理念の対立などではない。

 

「借り物の理想」と「自分自身の身勝手な愛情」という、泥臭く、どうしようもない人間としての矛盾だった。

 

 

 

茜は、士郎という人間の本質を9割方理解した。

 

(……完全な自己犠牲の機械になりきれていない、不完全なバグ。だからこそ、このバグを放置はできない)

 

 

茜は、静かに姿勢を正した。

 

ここからが、この対話の真の目的。

 

士郎のベクトルを、遠坂凛の選択肢を残すための「最適解」へと誘導するための、精神の統制フェーズだった。

 

「……衛宮。君の頭の中にある『天秤』の話をしよう」

 

 

茜は、冷たく、静かな声で語りかけた。

 

「君の右の皿には『万人の見知らぬ命』が乗っている。そして左の皿には『間桐桜の命』が乗っている。……君は今、その二つを同じ天秤に乗せて、どちらかを選ぼうとして、結果として回路をショートさせている」

 

 

士郎は、無言のまま茜を見つめた。

 

「だが、君のその天秤は、すでに壊れているんだよ。……そもそも、命の重さを天秤で計り、多数を救うために少数を切り捨てる。そんなことができるのは、感情を持たない『システム』だけだ」

 

 

茜は、自身の胸の奥──黄金球体が回転する場所を微かに指し示しながら、淡々と告げた。

 

「万人に平等な価値を置き、エラーを冷徹にデバッグする。それは人間の生き方じゃない。『機械(システム)』の在り方だ。僕のようなね。……君は今まで、切嗣という他人のプログラムをインストールして、必死に機械になろうと自分を偽ってきた。だが、今回のバグで証明されたはずだ。君の根底には、見知らぬ他人よりも、特定の一人を愛おしいと思う『人間のエゴ』が確固として残っていると」

 

「人間の……エゴ……」

 

「そうだ。……衛宮。君は『正義の味方というシステム』になりたいのか? それとも、ただ『間桐桜を助けたいだけの人間』なのか?」

 

 

 

ドクン、と。

 

 

士郎の心臓が、大きく跳ねた。

 

自身を本気で「機械(システム)」と呼ぶ、目の前の異質な少年。

 

彼が体現している絶対的な合理性と冷酷さを目の当たりにしたからこそ、士郎は痛感させられた。

 

 

 

自分は、こんな風にはなれない。

 

目的の為、人の命を平等に天秤にかけ、数字だけで世界を切り捨てるような、完璧な機械になんてなりきれない。

 

 

(……俺は、機械じゃない。俺は、桜のことが……)

 

 

士郎の奥底で凝り固まっていた「正義の味方」という強固な呪縛に、ピキリ、と。

 

初めて、決定的なヒビが入った瞬間だった。

 

 

 

万人の命か、桜の命か。

 

五分五分で拮抗し、彼を引き裂いていた天秤の針が。

 

ゆっくりと、だが確実に。三対七で、桜の方へと傾き始めた。

 

 

(……俺は、どうしたい? 俺が本当に望んでいる答えは……)

 

 

士郎の虚ろだった瞳に、微かな、だが確かな熱が宿り始める。

 

彼が、彼自身の意志(エゴ)で、ついに一つの答えを口にしようとした、まさにその時。

 

 

「……僕が聞きたかったのは、ここまでだ」

 

 

茜は、士郎が結論を言葉にするよりも一瞬早く、スッと椅子から立ち上がった。

 

「え……?」

 

 

突然対話を打ち切られ、士郎が戸惑いの声を上げる。

 

「プロファイリングは完了した。君の構造(システム)の矛盾は言語化され、エラーの原因は特定された。……あとは、君自身の機能(エゴ)で、どうするかを決めればいい」

 

 

茜は、ポケットに両手を突っ込んだまま、冷酷なまでに無関心な声で告げた。

 

「勘違いしないでくれ。僕が君を手伝うことはない。君がどちらの道を選ぼうが、僕にとっては単なる観測結果の一つに過ぎないからね」

 

 

 

 

パチン、と。

 

 

茜が指を鳴らすと、部屋を覆っていた《情報遮断結界》が音もなく霧散した。

 

再び、窓を打つ冬の雨音と、遠坂邸の冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。

 

 

「それじゃあ。良い夜を、衛宮」

 

 

茜は、士郎の返事を待つこともなく、背を向けてあっさりと客間を出ていった。

 

彼が残していったのは、解決策でも、救済でもない。

 

ただ、士郎自身が自らの心と向き合うための、逃げ場のない「問い」という名の楔だけだった。

 

 

 

一人残された客間で。

 

士郎は、自身の震える両手をじっと見つめていた。

 

(……正義の味方というシステムか、間桐桜を助けるだけの人間か)

 

 

茜の無機質な声が、脳内でリフレインする。

 

今まで、正義の味方になることこそが自分の全てだと思っていた。切嗣との約束を守ることだけが、自分が生き残った理由だと信じていた。

 

 

だが、あの蟲蔵で桜が味わってきた地獄を想像するたびに。

 

彼女が、たった一人で暗闇の中で震えているのだと思うたびに。

 

万人の命という重しが、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。

 

 

(……俺は……)

 

 

士郎は、ベッドからゆっくりと立ち上がった。

 

結論は、まだ完全には出ていない。

 

だが、彼の足は、無意識のうちに窓の方へと向かっていた。

 

冷たい雨が降る、冬木の街。

 

この雨の下のどこかで、彼女が独りで泣いているのだとしたら。

 

士郎の心に掛けられていた呪縛のヒビは、もはや修復不可能なほどに広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前3:30]

 

[Location: 遠坂邸 ── 廊下]

 

 

カチャリ、と。

 

士郎の客間の扉を閉め、茜は静まり返った廊下へと出た。

 

(……衛宮の精神のベクトル修正、完了。これで彼の意識は、高確率で『間桐桜の救済』へと傾くはずだ)

 

茜は、脳内の《演算機構》に、今しがた採取した士郎の心理パラメーターを流し込み、未来予測のシミュレーションを更新した。

 

彼が「正義の味方」という機械の殻を破り、ただ一人の少女を選ぶエゴを剥き出しにすること。それこそが、彼女が先へ進むための、必要なプロセスを残す最適解。

 

「……さて」

 

 

茜は、薄暗い廊下の奥へと視線を引き絞った。

 

その前に、もう一つの『調整』が必要だ。今の衛宮士郎は、自身の回路の崩壊を自覚すらできないほどに摩耗している。彼を一人で放り出すには、今の盤面はあまりにも不確定要素が多すぎる。

 

茜は目を閉じ、自身の魔術回路の端を、霊体化して待機している自らのサーヴァントへと接続した。

 

 

 

(──メディア。聞こえるか)

 

 

脳内に直接響かせる、魔術師とサーヴァントの秘匿通信──『念話』。

 

即座に、鈴を転がすような、けれどどこか眠たげな少女の声が返ってきた。

 

 

『……はい、マスター。起きております。……何か、急ぎのご用でしょうか?』

 

(ああ。階下の客間にいる衛宮士郎が、まもなく独りでこの屋敷を飛び出す。……奴を、霊体化した状態で追跡してくれ)

 

 

『衛宮様を……ですか?』

 

 

メディア・リリィの声に、微かな戸惑いが混じる。

 

(そうだ。今の彼は肉体も精神も限界に近い。……もし彼が倒れそうになったり、あるいは目的の場所──間桐桜の居場所を見失うようなことがあれば、適切に介入してサポートしてやってくれ。……死なせるな。そして、彼を彼女の元へ導け)

 

『……了解いたしました。マスターがそう望まれるのでしたら、このメディア、全力を尽くします。……でも、マスターの方はよろしいのですか? 私は貴方の守護(サポート)のために召喚されたのに……』

 

 

メディアの気遣うような、不安げな波動がパスを通じて伝わってくる。茜はそれに対し、一切の感情を排した論理を返した。

 

 

(僕の方は問題ない。……今は、彼に役割(ロール)を完遂させることの方が優先順位が高い。行ってくれ)

 

 

『……分かりました。お気をつけて、マスター』

 

 

メディアの気配が、屋敷の中からスッと遠ざかっていくのを確認し、茜は小さく息を吐いた。

 

これで、士郎の側の「バックアップ」は整った。盤面は整い、駒は動き出す。

 

 

「次は、一番厄介な『管理者』の番だ」

 

 

茜の足取りは、一切の躊躇いもなく、遠坂凛の自室がある方向へと向かっていた。

 

士郎の心を解体したのは、あくまで下準備に過ぎない。

 

真の目的は、自身の心を殺して桜を処刑しようとしている気高き少女の心へ寄り添うこと。今の彼女に必要なのは『味方』だと結論付けた。

 

 

遠坂凛が間桐桜を、殺す選択をしようと、救う選択をしようと、そんなものは竜胆茜にとって、どちらでもいいことだ。

 

 

天秤の針は、どちらを指すのか。

 

冬木の観測者による、夜の密やかなるエントロピーの調整は、まだ終わらない。

 

 

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