空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第二十六章】観測者の檻と、寄り添う影の体温

[Time: 2004年 2月5日 午前3:35]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸・二階廊下]

 

 

深く、冷たい夜だった。

 

窓の外では、冬木市を灰色のノイズで塗り潰すように、凍てつくような冬の雨が降り続いている。雨粒がガラスを打つ不規則な音だけが、静まり返った遠坂邸の洋館に虚しく響き渡っていた。

 

竜胆茜は、黒いコートのポケットに両手を沈めたまま、音のない足取りで豪奢な絨毯が敷かれた廊下を歩いていた。

 

 

先ほど、階下の客間で衛宮士郎という個体の精神(システム)を解体し、彼の中に『間桐桜を救う』という明確なバグ──いや、人間としてのエゴの楔を打ち込んできたばかりだ。士郎のベクトルは修正された。遠坂凛が自らの手を汚し、妹を殺害するという最悪のシナリオを回避するための、盤面の駒の配置は済んだ。

 

 

だが、茜の足取りは決して軽くはなかった。

 

彼の向かう先、廊下の最も奥にある重厚な木製の扉。その向こう側にいる少女の精神状態が、今、限界点を超えて軋みを上げていることを、彼の演算が空間のわずかな魔力の揺らぎから正確に検知していたからだ。

 

 

(……凛)

 

 

茜は、扉の前に立ち止まった。

 

階下のリビングで、彼女は「冬木の管理者」としての冷徹な仮面を被り、間桐桜を処分するという非情な決断を下した。アーチャーの追撃に同調し、士郎の理想を叩き潰すような言葉を放った。

 

魔術師としては完璧な、一点の曇りもない最適解。

 

だが、茜は知っている。彼女がどれほど不器用で、誰よりも責任感が強く、そして……どれほど深い愛情と善性をその内側に秘めているかを。

 

 

 

間桐桜を自らの手で殺す。

 

その決断を下した彼女の心が、今この扉の向こうの暗闇で、どれほど無惨に引き裂かれ、血を流しているか。

 

茜は、ポケットからゆっくりと右手を出し、冷たい木製の扉に触れた。

 

士郎の部屋を訪れた時のように、勝手に結界を張り、強引に相手の精神をハッキングするような真似はしない。今の彼女に必要なのは、論理的な解決策でも、残酷なプロファイリングでもないことを、彼は理解していた。

 

 

 

コン、コン。

 

 

 

静かなノックの音が、廊下の暗闇に吸い込まれていく。

 

茜は言葉を発さず、扉の向こうからの応答を待った。数秒の空白。まるで時間が凍りついたかのような沈黙の後、扉の向こうから、微かに掠れた、ひどく重い声が漏れ聞こえてきた。

 

 

『……誰?』

 

「僕だ」

 

 

茜は、努めて平坦な、いつもの抑揚のない声で答えた。

 

「……少し、話さないか」

 

扉越しに伝わる凛の気配が、一瞬だけビクッと強張ったのが分かった。

 

彼女はおそらく、今この瞬間、誰とも顔を合わせたくないはずだ。完璧な「遠坂凛」の仮面が剥がれ落ち、ただ一人の無力な少女として、激しい罪悪感と絶望の泥濘に沈み込んでいる自分を、絶対に誰にも見せたくない。

 

 

『……悪いけど』

 

扉越しの声は、無理に作られた冷ややかなトーンを帯びていた。

 

『疲れてるの。色々とあって……頭の整理もついてないし。話なら、また明日にしてくれない?』

 

 

突き放すような、明確な拒絶。

 

普段の茜であれば、「了解した。ゆっくり休むといい」とあっさり引き下がり、彼女の領域(パーソナルスペース)を尊重して背景へと退いていただろう。

 

 

 

だが、今夜だけは違った。

 

「……それでも、だ」

 

茜は、扉に置いた手はそのままに、静かに粘った。

 

彼の言葉には、普段の「遠坂の意思を尊重する」という一歩引いた態度はなく、静かだが決して譲らない岩のような頑固さがあった。

 

『……しつこいわね』

 

 

凛の声に、苛立ちの波形が混じる。それは茜に対する怒りではなく、踏み込まれれば自分が崩れてしまうという恐怖からくる、必死の防衛本能だった。

 

『私はもう寝るから。アンタも、自分の部屋に戻って明日に備えなさい。……おやすみ』

 

 

暗に帰れと告げる、最終通告。

 

足音が扉から遠ざかり、ベッドの方へと向かっていく気配がした。彼女は本当に、このまま自分を真っ暗な部屋に閉じ込め、一人で泥のような罪悪感に溺れるつもりなのだ。

 

「……そうか」

 

 

茜は小さく呟いた。

 

そして、彼は自分の部屋へ引き返すことはせず、その場にクルリと背を向けると、扉の横の冷たい壁にトン、と背中を預けた。

 

「なら、開けてもらえるまで、僕はここにいる」

 

壁越しにその言葉を投げかけると、茜は静かに目を閉じ、両手をポケットに突っ込んだまま微動だにせず立ち尽くした。

 

 

沈黙が、廊下を完全に支配した。

 

茜の脳内では、第一階層《完全躯体制御》が自動的に稼働し、呼吸を極限まで浅く、心拍を最低限にまで落とす。寒さも、疲労も、壁の冷たさも、彼の精神からは完全に遮断されている。彼はただの「風景の一部」となり、扉が開くその瞬間まで、数時間でも、数日でも待ち続ける完全な待機状態(スタンバイ)に入った。

 

扉の向こう側からは、何の物音も聞こえない。

 

だが、茜の《魔力視》には、壁の向こうでベッドの端に座り込み、息を潜めて葛藤している凛の魔力波形を正確に捉え続けていた。

 

 

数分が経過した。あるいは、数十分だったかもしれない。

 

雨音だけが不変のリズムを刻む中、茜と凛の間には、扉一枚を隔てた無言の綱引きが続いていた。

 

彼女は、茜は本当にそこに居るのか、気配を探っている。だが、茜は《可変存在解像度》で自身の気配を完全に風景と同化させつつも、ただ「そこにいる」という事実(質量)だけを微かに空間に滲ませていた。

 

(……君が一人で泣く夜を、僕はもう観測したくない)

 

 

茜の心の中で、かつてないほど強固なエゴが渦巻いていた。

 

 

 

やがて。

 

壁の向こうの気配が、不意に動いた。

 

ベッドから立ち上がり、躊躇いながらも、少しずつ扉へと近づいてくる微細な足音。

 

茜はゆっくりと目を開き、壁から背中を離して扉の方へ向き直った。

 

 

 

カチャリ、と。

 

 

 

重い錠が外される音が響き、ドアノブがゆっくりと回される。

 

隙間から漏れ出す部屋の暖かな光と共に、遠坂凛が姿を現した。

 

 

「…………」

 

 

扉の前に立つ凛の姿は、茜が知る「優等生の遠坂凛」でも、「気高き魔術師の当主」でもなかった。

 

黒髪はわずかに乱れ、目の縁は赤く腫れている。その表情は、先ほど階下で衛宮士郎が浮かべていたような、出口のない矛盾に思い悩み、己の無力さに押し潰されそうになっている、ただの傷ついた少女の顔だった。

 

 

凛は、本当に壁に寄りかかって待ち続けていた茜の姿を見て、怒っているような、呆れたような、ひどく複雑な表情を浮かべた。

 

だが、その潤んだ瞳の奥には、冷たい孤独の海にたった一つだけ浮かんでいた浮き輪を見つけたような、隠しきれない「安堵」の色が確かに混じっていた。

 

「……ほんっと、強引なんだから。アンタ、私が開けなかったら朝までそこにいるつもりだったわけ?」

 

掠れた声で文句を言いながら、凛は小さくため息をつき、扉をさらに大きく開けた。

 

「入って。……風邪引くわよ」

 

「お邪魔するよ」

 

茜は悪びれる様子もなく、短く答えて彼女の部屋へと足を踏み入れた。

 

凛の部屋は、整然と片付けられた彼女らしい空間だったが、今の彼女の精神状態を反映しているかのように、どこか空気が重く澱んでいた。

 

凛はそのまま力なく歩き、ベッドの端に腰を下ろした。

 

 

茜は、普段であれば部屋の隅の椅子に座るか、壁際に立って一定の距離(パーソナルスペース)を保つ。それが「背景」としての彼の正しい振る舞いだった。

 

 

 

だが、茜は迷うことなく凛へと歩み寄った。

 

そして、ベッドに座る凛の、ほんの数センチ隣──肩と肩が触れ合いそうなほどの至近距離に、音もなく腰を下ろした。

 

「……えっ」

 

予想外の距離感に、凛の肩がビクッと跳ねる。

 

茜があえてパーソナルスペースを完全に無視して踏み込んできたことに、彼女は驚き、無意識に身体を固くした。

 

だが、茜は彼女の顔を見ることもなく、ただ前を向いたまま静かに隣に座り続けている。

 

 

 

沈黙が降りた。

 

しかし、先ほどの扉越しの拒絶の沈黙とは違う。雨音に混じって互いの微かな呼吸の音が聞こえるほどの、密室での息が詰まるような静寂。

 

少しの間の後、凛が耐えきれなくなったように、伏し目がちのまま口を開いた。

 

「……何よ。わざわざ人の部屋に強引に上がり込んで。……何かあったの?」

 

何か、聖杯戦争における緊急の報告や、士郎の容態の急変でもあったのか。凛はそう問いかけた。

 

だが、茜の口から返ってきたのは、彼女の予想を完全に裏切る、拍子抜けするほどシンプルな言葉だった。

 

「いや、特に用はないよ」

 

「……え?」

 

凛が、驚いて茜の顔を横から見上げる。

 

「用がないって……じゃあ、なんで……」

 

「君に会いたかった」

 

茜は、ゆっくりと凛の方へ顔を向けた。

 

感情の抜け落ちたような黒い瞳が、まっすぐに彼女の瞳を捉える。そこには、魔術師としての論理も、観測者としての計算も存在しなかった。

 

「側にいたかったんだ。ただ、君の顔を見に来ただけ。……深い理由があるわけじゃない」

 

 

茜の口元に、ほんのわずかな、不器用で優しい微笑みが浮かんだ。

 

それは、彼が心から安心している相手にしか見せない、純度一〇〇パーセントの「竜胆茜」という少年の素顔だった。

 

 

美しい顔だ、と茜は心底から思う。

 

絶望に苛まれ、泣きはらした赤い目をしていても、遠坂凛という少女の造形と、その奥にある魂の気高さは、決して損なわれることがない。

 

士郎の部屋で行ったような、相手の精神構造を暴き出し、矛盾を突きつけて望む方向へ誘導するようなプロファイリングは、一切必要ない。

 

 

 

 

遠坂凛という人間の背景である自分に、彼女の生き方を定める権利は、端から持ち合わせていない。

 

茜が彼女に行うのは、正論による説得でも、傷を舐め合うような安っぽい慰めでもない。

 

 

 

ただ、「側にいる」こと。

 

どんな残酷な決断を下そうとも、世界中が敵に回ろうとも、絶対に君を見捨てない「味方」がここに存在しているという、揺るぎない事実(アンカー)を彼女に与えること。

 

それが、茜がこの部屋を訪れた唯一の目的だった。

 

茜は、自分から積極的に凛の事情を聞き出そうとはしなかった。

 

「なぜ泣いているのか」「桜との間に何があったのか」──そんな野暮な質問は不要だ。

 

彼女の心の中に渦巻く泥のような感情は、彼女自身のペースで、彼女自身の口から吐き出させなければならない。茜は、その準備が整うまで、ただひたすらに待つ構えだった。

 

 

 

無言のまま。

 

茜は、ベッドの上に置かれていた凛の手に、自らの左手をそっと重ねた。

 

「……ッ」

 

凛の指先が、微かに震える。

 

茜の手は、氷のように冷たかった。第一階層の稼働による体温低下と、酷使した魔術回路の代償。だが、凛にとってその冷たさは、不思議と心地よいものだった。

 

彼の手の感触が、凛の強張っていた心の傷を、じんわりと溶かしていく。

 

幼い頃から、ずっとそうだった。

 

気がつけばいつも隣にいて、自分のことを「主人公だ」と持ち上げながら、自分は価値のない背景だと卑下する不器用な少年。

 

どんなことがあっても自分を守ると、影になって支え続けると誓ってくれた彼。

 

 

『私の背景になんてなる必要はない』

 

 

ずっとそう言い聞かせてきたし、彼にもそう反発してきた。彼を対等な相棒だと、自分が管理者になって彼を守るのだと、そう決意したはずだった。

 

 

だが、この瞬間。

 

すべてに絶望し、一人きりで暗闇に落ちようとしていた凛の心を、圧倒的なまでの「安心感」として満たしたのは、他でもない、この少年の存在だった。

 

 

私には、竜胆茜がいる。

 

どんなに恐ろしい夜でも、どんなに自分が汚い決断を下そうとも、この手だけは絶対に私を離さない。

 

その絶対的な信頼が、凛の内に最後に残っていた「遠坂の当主」としての強がりの糸を、プツリと断ち切った。

 

 

「……馬鹿。用もないのに来るなんて……アンタ、本当に馬鹿ね……」

 

 

震える声でそう呟くと、凛は張り詰めていた身体の力を完全に抜き、そのままコトリと、茜の胸に頭を預けた。

 

茜の黒いコートに頬をすり寄せ、寄りかかるような体勢。

 

茜は、驚くこともなく、ただ自然な動作で凛の身体を支えるように、そっと右腕を彼女の背中に回した。

 

彼女の体温と、微かなシャンプーの香りが、茜の凍てついた感覚を優しく撫でる。

 

 

再び、無言の時間が流れ始めた。

 

だが、先ほどの扉越しの拒絶の沈黙とは全く違う。

 

雨音だけが優しく響く部屋の中で、互いの呼吸のペースが徐々に同調していく。互いの孤独と傷を、互いの体温で埋め合うような、ひどく甘やかで、心地のいい沈黙。

 

狂気と殺戮に満ちた聖杯戦争の夜において、このベッドの上だけが、世界の法則から切り離された完全な聖域(セーフティゾーン)として成立していた。

 

やがて、緩やかな時の流れの中で、凛が茜の胸に顔を埋めたまま、ポツリと、本当に何気ない調子で問いかけた。

 

「……ねえ、茜」

 

「……ん?」

 

「アンタって……兄弟は、いるの?」

 

それは、深い意味を持たない、ただこの静寂の中で彼の声を聞きたいがために発した、些細な質問のはずだった。

 

 

だが。

 

茜の口から紡がれた言葉は、思いもよらない重さを持って、静かな部屋に落ちた。

 

「……十歳離れた、弟がいるよ」

 

茜は、虚空を見つめたまま、極めて平坦な声で答えた。

 

「弟……。へえ、アンタが、お兄ちゃんだったのね」

 

「いや。僕は一度しか会ったことがないんだ」

 

「え?」

 

 

凛が、不思議そうに顔をわずかに上げる。

 

茜は、凛の背中に添えた手の力を少しだけ緩め、自身の心の奥底にある、冷たく乾いた原風景を言語化し始めた。

 

「僕の家は、そこそこ古い魔術師の家系だったらしいんだけどね。……僕は生まれつき、起源の『解析』が異常発現していて、魔術回路の質も狂っていた。……先代が培ってきた魔術がまともに使えない、完全なエラー(出来損ない)だったんだ」

 

 

茜の声には、悲哀も恨みもなかった。ただ、世界のエントロピーを読み上げるような、事実の羅列。

 

「だから、僕の親は……家を継ぐための『まともな子供』を、もう一人作ることにした。その弟が出来たのが、僕が十歳の頃。……弟の魔術回路が正常に機能することが確認されたその日、僕は『不要なノイズ』として家から除外された」

 

「不要な……」

 

 

凛の息が、ヒュッと喉の奥で詰まった。

 

「養子に出されたんだ。魔術とは全く無縁の、遠い親戚の家にね。完全に家から捨てられたんだ。……そこから色々とあって、最終的にこの冬木の街に流れ着いて、君と出会った。……三流魔術師として時計塔へ行く選択肢(ルート)もあったんだけどね。」

 

 

 

家からの追放。

 

魔術師の家系における、血と才能の残酷な選別。

 

出来損ないとして捨てられた兄と、家を継ぐために生み出され、残された弟。

 

茜が意図せずに明かしたその家の事情は、今の凛の心臓を、鋭い氷の刃で貫くには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。

 

 

(……同じだ)

 

 

凛の視界が、ぐらりと揺れた。

 

姉妹(兄弟)の片方が魔術のために他家へ養子に出され、片方が家に残る。

 

魔術師の世界ではありふれた、残酷な血の継承の儀式。

 

 

 

だが、凛と茜の状況は、完全に「逆」だった。

 

遠坂家に残された凛。そして、魔術のために間桐の地獄へと養子に出され、捨てられた妹──間桐桜。

 

茜の過去は、奇しくも「捨てられた側の桜」の境遇と、残酷なまでに重なり合っていた。

 

(……知っているんだ。家から『不要だ』と見捨てられ、たった一人で冷たい外の世界へ放り出される絶望を。……桜が味わった孤独を、竜胆茜は経験している)

 

 

 

凛の心の中に、黒い渦のような後悔と罪悪感が猛烈な勢いで吹き上がった。

 

自分は、そんな残酷な痛みを抱えている彼に対し、なんという無神経な質問をしてしまったのか。そして何より、彼と同じように家から追い出された妹を、自分はたった数時間前、この手で「処分する」と決断したのだ。

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

凛は弾かれたように茜の胸から顔を離し、青ざめた顔で頭を下げた。

 

「ごめんなさい……私、そんな……アンタが自分のことを話さないから、そんな残酷な過去があるなんて、知らなくて……」

 

声が震え、今度こそ涙が彼女の瞳から溢れ落ちそうになる。

 

妹への罪悪感と、茜の古傷を踏み抜いてしまったことへの自己嫌悪が混ざり合い、凛の精神はパニックを起こしかけていた。

 

 

 

だが。

 

茜の表情は、一ミリも変わっていない。

 

彼は、己の過去を語ったことに対して、本当に何も気にしていない。傷ついている素振りも、同情を引こうとする計算も、一切なかった。

 

「……謝る必要はないよ、凛」

 

 

茜は、静かに右手を伸ばし、パニックになりかけている凛の頭にそっと手を置いた。

 

そして、そのまま優しく、けれど有無を言わさぬ力で彼女の頭を引き寄せ、再び自身の胸へとその顔を埋めさせた。

 

 

「え……竜胆……」

 

「気にしてない。事実を言っただけだから」

 

 

茜の冷たい指先が、凛の黒髪をゆっくりと、何度も優しく撫でる。

 

一定のリズムで繰り返されるそのストロークは、まるで彼女の内側で暴走しそうな魔力波形を、外部から丁寧に調律(チューニング)してくれているかのようだった。

 

 

「それに」

 

 

茜は、顔を埋める凛の耳元に唇を近づけ、微かな熱を伴う吐息と共に、静かに囁いた。

 

「僕は、自分が不幸だなんて一度も思ったことはないよ。……だって、そのおかげで、君と出会えたんだからね」

 

 

 

ドクン、と。

 

 

 

 

凛の心臓が、今までにないほどの大きな音を立てた。

 

耳元で囁かれたその言葉は、どんな神代の魔術よりも強力な治癒の呪文となって、凛のズタズタに引き裂かれていた心を、一瞬にして温かな光で満たしていった。

 

出来損ないとして捨てられた過去すらも、君に出会うための最適解(ルート)だったのだと、彼はそう言って笑ってくれたのだ。

 

「……ばか。ほんとに……」

 

 

凛は、茜の胸のコートの生地を両手でギュッと握りしめ、彼の服に顔を強く押し付けた。

 

彼がすべてを肯定し、受け止めてくれたことで、凛の心の中に頑なに張られていた最後の防波堤が決壊する。

 

緩やかな、そして底なしに優しい時間が、二人の間に流れていく。

 

茜の一定の心音を聞きながら、凛はついに、己の胸の内に巣食う過去と、今直面している最大の絶望を、自らの口で吐き出す決意を固めていた。

 

 

(……この人になら。茜になら、私のすべてを曝け出せる)

 

 

冬木の雨音が静かに二人の観測を続ける中。

 

遠坂凛の、血を吐くような真実の告白が、静かに始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午前???]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸・凛の自室]

 

 

沈黙が、どこまでも優しく、そして深く部屋を満たしていた。

 

窓ガラスを叩く冬の雨音だけが、世界がまだ外側に存在していることを辛うじて証明するメトロノームのように響いている。

 

竜胆茜の胸に顔を埋めたまま、遠坂凛はどれほどの時間が経ったのかすら分からなくなっていた。

 

彼のコートの生地越しに伝わってくる、一定のリズムを刻む心音。魔術回路を極限まで酷使し、第一階層《完全躯体制御》によって生命活動を最低限にまで落としている彼の体温は、およそ生きている人間とは思えないほどに冷たい。

 

だが、その氷のような冷たさが、今の凛にとってはたまらなく心地よかった。

 

 

 

 

『僕の家は、そこそこ古い魔術師の家系だったらしいんだけどね……』

 

 

 

 

 

先ほど、茜の口から淡々と語られた彼の過去。

 

『出来損ない』として家から不要なノイズとみなされ、優秀な弟が生まれたことで追放されたという、魔術世界においてはありふれた、しかし彼という個人の魂を決定的に形作った残酷な原風景。

 

それを聞いた瞬間、凛の心臓を貫いたのは、同情などという生易しいものではなかった。

 

致命的なまでの『共鳴』と、腹の底からこみ上げる吐き気を催すほどの『罪悪感』。

 

 

凛は、茜の胸の生地を両手でギリリと強く握りしめた。

 

十一年前。遠坂の家系において、魔術刻印を継ぐための『優秀な器』として選ばれ、家に残された自分。そして、魔術の秘蹟を絶やさないためという大義名分の下、間桐という底なしの地獄へ『養子』という名目で捨てられた妹。

 

 

 

自分は、選ばれた側の人間だ。

 

そして今、自分のすべてを肯定し、「君と出会えたから不幸じゃない」と優しく頭を撫でてくれているこの少年は、桜と同じ『捨てられた側』の人間なのだ。

 

その事実が、凛の内に最後に残っていた「管理者としての鉄の鎧」を粉々に打ち砕いた。

 

 

「……茜、聞いて」

 

凛は、顔を彼の胸に押し付けたまま、震える声で言葉を絞り出した。

 

これ以上、彼に隠し事などできない。彼が自らの傷を晒してくれたのだ。自分もまた、自らの内側に巣食う最も醜く、最も弱い部分を、すべてこの少年の前に曝け出さなければならない。

 

 

「……間桐桜は、私の実の妹なの」

 

 

その一言を口にした瞬間、凛の目から再び熱い涙がポロリとこぼれ落ちた。

 

茜の身体が驚きに強張ることはなかった。彼の背中に回された茜の手は、ただ一定のリズムで、宥めるように彼女の髪を撫で続けている。

 

「十一年前……あの子は間桐の家に養子に出された。魔術刻印を持つ人間は一人しか残せないから……遠坂の魔術を絶やさないため、そしてあの子が立派な魔術師になるためだって、お父様も、私も……そう信じていたわ」

 

 

言葉にするたびに、喉の奥から血の味がする。

 

魔術師としての「正解」が、どれほど残酷で独りよがりなものだったか。

 

「……でも、違った。あの子は間桐の魔術を継ぐためなんかじゃなく、ただの『器』として……あの臓硯の、おぞましい蟲の海に、十一年間も放り込まれていたのよ」

 

 

士郎の口から告げられた、蟲蔵の真実。

 

脳裏にこびりついて離れない、無数の蟲が蠢く地獄の光景。あの中で、幼かった妹が毎日皮膚を食い破られ、凌辱され、泣き叫ぶことも許されずに絶望していたという事実。

 

 

「私、知らなかったの……! 遠坂の当主として、同じ冬木に住んでいながら、あの子がそんな地獄にいることすら気づけなかった! 私が、あの子を見捨てたのよ! 遠坂に残された私が、あの子の人生を全部奪ったの……!」

 

 

嗚咽が混じる。凛の十本の指が、茜のコートをちぎれんばかりに握りしめる。

 

「……なのに。今日、私は衛宮くんに言ったわ。『あの子は狂ったマスターだ』『冬木の管理者として、怪異は排除しなければならない』って。……妹を、十一年間も地獄に放置しておいて、自分が原因で化け物になってしまった妹を……今度は、私の手で殺す決断をしたのよ!!」

 

 

これが、遠坂凛という少女が抱え込んでいた致命的な矛盾。

 

『街を守る管理者としての責任』と、『妹を見殺しにした姉としての罪悪感と愛情』。

 

衛宮士郎が「正義の味方」と「桜への愛」の間で引き裂かれていたように、凛もまた、絶対に交わることのない二つの極の間で、精神をズタズタに引き裂かれていたのだ。

 

「……私は、正義とか、管理者とか、そんな立派な言葉を盾にして……。衛宮くんにあんなに偉そうなことを言っておきながら、私自身が一番、どうしたらいいか分からない……助けたいのに、殺さなくちゃいけないなんて……っ、どうしたらいいのよ……!」

 

 

声にならない悲鳴が、雨音に溶けていく。

 

張り詰めていた糸が完全に切れ、凛は子供のように泣き崩れた。

 

冬木の霊地を預かる気高き魔術師の姿はそこにはない。ただ、己の無力さと罪の重さに押し潰され、救いを求めて泣き叫ぶ、一人の傷ついた少女がそこにいた。

 

 

茜は、その慟哭を、静かに全身で受け止めていた。

 

彼の脳内に常時展開されているL3《深層領域探求》とL4《環境並列演算網》。

 

 

もし彼が、衛宮士郎に対して行ったように「冷徹な観測者(システム)」として彼女に接するのであれば、この状況は極めて容易にコントロールできたはずだ。

 

彼女の矛盾を論理的に解体し、彼女が「妹を殺す」という魔術師としてのルートを選べるように、あるいは「妹を救う」という人間としてのルートを選べるように、心理的な楔を打ち込んで誘導すればいい。

 

 

(……だが、僕はそれをしない)

 

 

茜は、自身の脳内で高速回転しようとする演算回路のスイッチを、自らの意志で強引に「オフ」にした。

 

士郎の時は、彼を一つの「駒」として、盤面の調整として利用した。

 

 

だが、遠坂凛(彼女)に対しては違う。

 

彼女は駒ではない。システムで管理すべき変数でもない。

 

竜胆茜という存在が、己の命を削ってでも守り抜きたいと願った、たった一つの絶対的な『意味』だ。

 

 

だから、茜は彼女を操作しない。誘導しない。

 

彼が彼女を愛しているからこそ、ここではシステム(機械)としてではなく、ただの「一人の人間」として、彼女の痛みに寄り添わなければならなかった。

 

「……凛」

 

茜は、泣きじゃくる凛の背中に回していた両手に、ぎゅっと力を込めた。

 

氷のように冷たかった彼の手から、微かな、しかし確かな熱が伝わってくる。

 

「……僕は、君に『どうすべきか』なんて言わない。君の決断を、システムで誘導するような真似は絶対にしない」

 

 

茜の声は、いつもの平坦で無機質なトーンではなかった。

 

静かで、深く、腹の底から絞り出すような、血の通った人間の声だった。

 

「君が、管理者としての責任を選んで、間桐桜を殺すというなら。……僕が君の代わりにその手を汚す。君の魂が罪の意識で壊れないように、すべての泥を僕が被って、君の『正解』を成立させる」

 

 

凛が、ハッとして泣き止み、茜の胸の中で息を呑むのが分かった。

 

「……でも。もし君が、魔術師としての責務を横に置き、たった一人の姉として彼女を救うというなら。……僕は全力で、冬木全体を、魔術協会を、時計塔を敵に回してでも、君と君の妹を守り抜く。世界中のシステムをぶち壊してでも、君の『我が儘』を現実にする」

 

 

 

それは、ただの慰めでも、無責任な励ましでもない。

 

観測者としての異常な能力を持つ竜胆茜が、自身のすべてを懸けて誓う「絶対的な共犯関係」の宣告だった。

 

 

「君がどちらの地獄(ルート)を選ぼうと、僕は君を絶対に一人にしない。……一緒に苦しもう。一緒に、泥を被ろう、凛」

 

 

その言葉が落ちた瞬間。

 

凛の心の中に渦巻いていた真っ黒な絶望の泥濘に、一筋の、圧倒的に澄み切った光が差し込んだ。

 

(……ああ。この人は、本当に)

 

凛は、ゆっくりと茜の胸から顔を上げた。

 

 

視線が交差する。

 

茜の黒い瞳には、同情も哀れみもなかった。ただ、遠坂凛という一人の少女のすべてを受け入れ、その罪も罰もまるごと飲み込んで共に沈むという、狂気的なまでの純粋な『愛』だけが静かに燃えていた。

 

「……茜……」

 

凛の唇から、震える吐息と共に彼の名前が零れ落ちる。

 

胸の奥でギリギリと締め付けられていた万力が、嘘のように解けていくのを感じた。

 

まだ、何も解決していない。間桐桜という怪異をどうするか、大聖杯の汚染をどう防ぐか、現実的な問題は山積みだ。

 

 

 

だが、今の凛には、そんなことはどうでもよかった。

 

自分には、竜胆茜がいる。

 

自分がどんなに醜い決断を下そうとも、どんなに道を違えようとも、絶対に自分を否定せず、共に血の池を歩いてくれる絶対的な「味方」がいる。

 

その圧倒的な安心感が、限界まで張り詰めていた凛の精神の糸を、完全に解きほぐした。

 

悲しみも、苦しみも、魔術師としての責任も、今この瞬間だけはすべて忘れ去ってしまいたかった。

 

ただ、目の前にいるこの少年の熱に身を任せ、深く、深く甘やかな安らぎの底へと落ちていきたい。

 

 

「……もう、疲れたわ」

 

 

凛は、熱に浮かされたような、甘く、艶やかな声でそう呟いた。

 

彼女の瞳が、トロンと潤みを帯び、茜を真っ直ぐに見つめ返す。

 

その視線の意味を、茜のシステムが解析するまでもなく、彼の本能が理解した。

 

茜は、凛の背中に添えていた手をゆっくりと滑らせ、彼女の細い肩から腰へと回し、そして彼女の身体を優しく、壊れ物を扱うように気遣いながら、ベッドの方へとゆっくりと押し倒していった。

 

 

シーツが微かな衣擦れの音を立てる。

 

 

薄暗い部屋の中、ベッドの上に仰向けになった凛の黒髪が、柔らかな波のように広がった。

 

その上に覆いかぶさるようにして、茜が両手でベッドに手をつき、彼女を見下ろす。

 

 

 

至近距離。

 

互いの呼吸が混じり合うほどの距離。

 

茜の冷たかったはずの身体が、凛の熱を帯びた視線を受けて、急激に体温を上昇させていくのが分かった。第一階層の制御が、彼自身の人間としての情動によって、音を立てて崩れていく。

 

 

「……茜」

 

 

凛が、再びその名を呼んだ。

 

彼女は、ベッドの上でゆっくりと両手を伸ばし、覆いかぶさる茜の首元へと、その細い腕を回した。

 

ギュッと、決して逃さないように、そして自らを完全に預けるように引き寄せる。

 

 

「……凛」 

 

茜の声もまた、掠れ、抑えきれない熱を帯びていた。

 

窓ガラスを滑り落ちる雨の滴が、部屋に差し込むわずかな街灯の光を乱反射させ、壁に二人の影を大きく映し出していた。

 

 

凛が、茜の首に回した腕に力を込める。

 

茜が、それに応えるように、ゆっくりと自身の顔を彼女へと近づけていく。

 

 

 

言葉は、もう必要なかった。

 

互いの孤独を埋め合い、互いの痛みを共有し、泥濘の底でただ一つの救いを見出した二人の魂が、今、完全に一つに溶け合おうとしていた。

 

壁に映し出された二つの影が、ゆっくりと、静かに重なり合う。

 

雨音だけが、すべてを優しく包み込み、外界の狂気を完全に遮断したこの暗室の中で。

 

熱に浮かされた二人の境界線は、甘く、そして決定的に溶けて消えていった。

 

 

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