空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第二十七章】壊れた理想の残骸と、泥濘に咲く一輪の誓い

[Time: 2004年 2月5日 午前3:40]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸から衛宮邸への路上]

 

 

視界が、赤く明滅していた。

 

一歩踏み出すごとに、太腿の筋肉が断裂し、微細な「剣」が内側から皮膚を突き破るような錯覚に襲われる。

 

メディア・リリィによる神代の治癒は確かに完璧だった。だが、それはあくまで肉体を「元の形」に繋ぎ止めたに過ぎない。精神的な摩耗と、魔術回路を極限まで酷使した代償としての拒絶反応までは、完全には消し去れなかったのだ。

 

 

「……あ、が……ッ!」

 

 

士郎は激しく咳き込み、路上にどろりとした鮮血を吐き出した。

 

冷たい雨が、容赦なくその血を洗い流していく。

 

遠坂邸を飛び出し、全力で自宅へと向かうその足取りは、もはや魔術師のそれではなく、死に体の獣が泥を這いずるような無様さだった。

 

(……桜)

 

脳裏には、先ほどまでの光景がノイズのように交錯する。

 

間桐臓硯の、あの耳を腐らせるような嘲笑。

 

そして、竜胆茜の、凍てつくほどに冷徹な問い。

 

 

『君は、正義の味方というシステムになりたいのか? それとも、ただ間桐桜を助けたいだけの人間なのか?』

 

 

正義。万人。平等の救済。

 

今まで衛宮士郎という人間を形作ってきた、尊くも空虚な「借り物の理想」。

 

だが、今の士郎を動かしているのは、そんな高潔なプログラムではなかった。

 

 

ただ、会いたい。

 

自分を一人で待たせているはずの、あの温かな少女を、これ以上暗闇の中に放置したくない。

 

その醜くも純粋な「エゴ」だけが、折れかけた膝を無理やり前に押し出していた。

 

坂道を駆け下り、見慣れた衛宮邸の門が見えた瞬間、士郎の心臓が大きく跳ねた。

 

暗闇の中、居間の窓から漏れ出す、オレンジ色の柔らかな明かり。

 

 

(……起きて、待っててくれたのか)

 

 

その光を見た瞬間。

 

士郎の中でギリギリと均衡を保っていた天秤が、音を立てて崩壊した。

 

万人の救済という重しが虚空へと消え、ただ一人の少女への愛情が、決定的な質量となって彼を支配した。

 

 

 

 

 

 

[Location: 衛宮邸 ── 玄関先]

 

ガラリ、と力なく引き戸を開ける。

 

「ただいま……」

 

掠れた声でそう告げた直後、奥からパタパタという急ぎ足の足音が聞こえてきた。

 

「先輩……! 先輩ですか!?」

 

 

飛び出してきたのは、桜だった。

 

一睡もせず、士郎の帰りを待ちわびていたのだろう。不安に揺れていた彼女の瞳が、士郎の姿を捉えた瞬間、パッと花が綻ぶような喜びの色に染まった。

 

「よかった……! 無事で、本当によかったです……! 何も言わずにいなくなるから、私、もう……」

 

 

桜は泣き出しそうな笑顔を浮かべ、士郎の元へ駆け寄る。

 

ずぶ濡れで、血の匂いを漂わせる士郎の姿に驚きながらも、彼女は献身的にタオルを差し出し、その冷え切った身体を支えようとする。

 

家の中は、いつもと変わらない温かさに満ちていた。

 

雨音を遮る屋根があり、温かい茶の香りが漂い、愛する人が待っている。

 

そんな「当たり前の日常」が、ここにはまだ残っていた。

 

 

 

だが。

 

士郎は、その温かさに甘えることはできなかった。

 

自分を支える桜の、その白く細い指先。その内側に、あのおぞましい蟲が蠢き、人を喰う影が潜んでいる。その事実を自分だけが知ったまま、この日常を続けることは、彼女に対する最大の冒涜だと思えたからだ。

 

 

「……桜。少し、いいか」

 

 

士郎は、桜の支えを拒むように、静かにその手を解いた。

 

「え……? はい。どうしたんですか、先輩。そんなに怖い顔をして……」

 

 

桜の笑顔が、微かな不安に曇る。

 

士郎は濡れた前髪を払い、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

逃げてはいけない。今ここで、すべてを曝け出さなければ、彼女を救う資格などない。

 

「……ごめん。俺……間桐の家に行ってきたんだ」

 

 

 

時が、止まった。

 

士郎の口から発せられたその言葉。

 

それは、平穏という名の薄氷を粉々に砕く、決定的な一撃だった。

 

スローモーションのように、桜の表情が崩れていく。

 

まず、その頬を染めていた微かな赤みが引き、陶器のように青白くなった。

 

次に、士郎を見つめていた瞳が、恐怖と絶望に大きく見開かれる。

 

そして、差し出そうとしていた両手が、まるで汚物に触れたかのように小刻みに震え始めた。

 

 

「……ま、とう……? 先輩……」

 

「蔵を見た。……臓硯から、全部聞いたんだ。桜の身体のこと。あの、影の正体のこと」

 

 

士郎の声は、震えていた。

 

だが、その言葉は容赦なく桜の聖域を侵食していく。

 

「嫌……」

 

 

桜の唇から、掠れた声が漏れる。

 

 

「嫌、嫌、嫌ぁ……!!」

 

 

彼女にとって、それは死よりも恐ろしい瞬間だった。

 

十一年間、泥濘の中で一人きりで耐え続けてきた地獄。

 

どれほど汚されようとも、どれほど心を壊されようとも、この人──衛宮士郎にだけは、その真実を知られたくなかった。

 

彼にとっての「健気で、清らかな後輩」でありたかった。

 

その唯一の希望の拠り所が、今、本人によって跡形もなく踏みつぶされたのだ。

 

 

「桜、待ってくれ……! 俺は別に──」

 

「見ないで!!」

 

 

士郎が手を伸ばそうとした瞬間、桜は悲鳴を上げてその手を激しく振り払った。

 

彼女の瞳には、もはや士郎への親愛はなく、ただ自分の醜さを晒されたことへの、狂気的なまでの自己嫌悪とパニックだけが渦巻いていた。

 

 

「こんな私を……汚い私を、見ないで! 先輩を汚しちゃう……! 私は……私!!」

 

「桜!」

 

 

士郎の制止も聞かず、桜は裸足のまま、雨の降りしきる外へと飛び出した。

 

パニックに陥った彼女に、もはや理路整然とした思考など残っていない。ただ、この場所から、自分を知ってしまった士郎の視界から、消えてしまいたい。その一心だけで、彼女は夜の闇へと逃げ込んでいく。

 

 

「待て、桜……っ!」

 

 

士郎は即座に後を追おうとした。

 

だが、玄関を飛び出した一歩目。

 

 

「──が、あああああッ!!?」

 

 

 

凄絶な激痛が、士郎の全身を襲った。

 

無茶な全力疾走、極度の精神的負荷。それが引き金となり、メディア・リリィが施した暫定的な治癒の「綻び」が一気に露呈した。

 

体内の魔術回路が、焼き切れる寸前のフィラメントのように激しくスパークする。

 

傷口が開き、熱い血がコートの下で溢れ出した。

 

 

「……く、そ……っ!」

 

 

膝が、地面に叩きつけられる。

 

視界が真っ白に染まり、心臓が爆発しそうなほどの痛みに、士郎は血反吐を吐いて泥水の中に倒れ伏した。

 

 

 

その指先の数センチ先。

 

桜が逃げる際、ポケットからこぼれ落ちた「合鍵」が、冷たい雨に打たれて鈍く光っていた。

 

かつて、日常の象徴として彼女に手渡した、大切な約束の証。

 

 

それが今、泥にまみれて転がっている。

 

 

「……ま……て……さ……くら……」

 

 

伸ばした手は、空を掻く。

 

雨音だけが、絶望する士郎を嘲笑うように激しさを増していった。

 

 

どれほど、そうしていたのか。

 

全身の神経を剣で貫かれるような痛みに耐え、士郎は泥水を啜りながら、這いつくばってその「鍵」を握りしめた。

 

 

(……動け。動けよ、俺の身体……!)

 

 

 

桜は今、自分以上に苦しんでいる。

 

自分に知られた絶望で、暗い雨の中、独りで震えている。

 

それを思えば、肉体の痛みなど、ただのノイズに過ぎなかった。

 

士郎は、震える腕で地面を押し、血反吐を吐きながらも、ゆっくりと、亀のような歩みで立ち上がった。

 

手のひらの中で、冷たい合鍵が皮膚を刺す。

 

この鍵を、もう一度彼女に返さなければならない。

 

この手で、彼女を連れ戻さなければならない。

 

 

「……桜……っ!」

 

 

士郎はふらつく足取りで、雨の夜へと踏み出した。

 

どこへ行ったのかは分からない。だが、彼女の行き先を、魂が知っている気がした。

 

視界が霞む。雨が目に突き刺さる。

 

路地裏を、学校を、狂ったように探し回る士郎。

 

 

 

 

だが、桜の姿はどこにもない。

 

焦りが、痛みを上回る恐怖となって彼を支配しようとした、その時だった。

 

 

 

 

「──衛宮様。お探しの方は、あちらです」

 

 

 

 

不意に。

 

背後から、鈴の音のように清らかで、しかしどこか憐憫を含んだ少女の声が届いた。

 

「……ッ、キャスター……!?」

 

振り返ると、そこには黒いマントを翻し、慈愛に満ちた瞳で自分を見つめるメディア・リリィの姿があった。

 

「なんで、ここに……」

 

「マスター……竜胆茜の命令です。貴方を追跡し、何かあれば助けになってやれ、と。……あの方は、貴方がこうなることを、すべて予測(観測)されていたようです」

 

 

士郎は、一瞬だけ茜の無機質な顔を思い出し、歯を食いしばった。

 

 

(……あいつ、どこまで)

 

 

 

だが、今はそのことに憤っている暇はない。

 

「……桜は。桜は、どこにいる!」

 

「この先の、児童公園です。……彼女の精神波形は、もはや崩壊の寸前。急がなければ、彼女は自分自身を影の中に消し去ってしまうでしょう」

 

 

メディアは杖を掲げ、淡い光で士郎の痛みを一時的に麻痺させた。

 

「……恩に着る。」

 

士郎は、キャスターの導きに従い、最後の力を振り絞って走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

[Location: 深山町 ── 児童公園]

 

雨に濡れたブランコが、風に吹かれてギィ、ギィと不吉な音を立てている。

 

街灯の光すら届かない公園の隅。

 

そこにある土管の中に身を潜めるようにして、桜は震えていた。

 

 

「嫌……見ないで……」

 

 

うわ言のように繰り返される拒絶。

 

彼女の足元からは、ドロリとした漆黒の影が染み出し、周囲の空間を侵食し始めている。

 

「……桜!!」

 

 

暗闇を切り裂くように、士郎の声が響いた。

 

ずぶ濡れで、泥と血に塗れた士郎が、荒い息を吐きながら公園の入り口に立っていた。

 

「……せん……ぱい?」

 

 

桜が、幽鬼のような顔を上げる。

 

その瞳には、もはや何の希望も宿っていない。

 

「来ないで……お願いだから、来ないでください……! 私は、もう……」

 

「桜。もういいんだ」

 

 

士郎は、一歩ずつ、彼女へと近づいていく。

 

「全部、分かってる。お前が何をしてきたか。何に怯えているか。……全部知って、それでも俺は、ここに来た」

 

「嘘……! 先輩は!? 私は悪いことをしたんですよ。殺さなくちゃいけない!? 私を殺してください……! 先輩の手で、私を……!!」

 

 

桜の叫びは、自分自身を処刑してほしいという、あまりにも悲痛な救いの懇願だった。

 

 

だが、士郎は答えない。

 

彼は、彼女の足元から這い上がってくる不気味な影を恐れることもなく、泥濘の中へと足を踏み入れた。

 

「……っ」

 

影が、士郎の足を蝕み、魔力を吸い上げる。

 

冷たい「悪」の感覚が全身を駆け巡る。

 

 

 

だが、士郎は止まらなかった。

 

 

「……馬鹿だな、俺は」

 

 

士郎は、すぐ目の前で震える桜を見下ろし、自嘲気味に笑った。

 

「ずっと、理想を追ってたんだ。親父との約束を守るために、立派な人間になろうとして、誰にでも平等でいようとして。……でも、もう無理だったんだよ」

 

 

士郎はゆっくりと腰を落とし、パニックで硬直している桜を、正面から、力強く抱きしめた。

 

「……ッ、離してください……汚れて、先輩が……!」

 

「いいよ。いくらでも汚れてやる」

 

 

士郎の腕が、桜の身体を離さない。

 

彼女の絶望も、罪も、その内側に潜む影の冷たさも、すべてを自分の体温で溶かしてやると言わんばかりの、強引で、執着に満ちた抱擁。

 

 

「俺は、正義の味方になんてなれない」

 

 

士郎は、彼女の耳元で、自分自身への決別を告げるように囁いた。

 

「万人のために桜を見捨てるなんて、俺にはできない。……誰かを救うことで、誰かを殺す。そんな正しい天秤なんて、俺の中にはもう無いんだ」

 

 

士郎は、彼女の髪に顔を埋めた。

 

その香りは雨に流され、血の匂いしかしない。

 

それでも、この温もりだけが、今の彼にとっての唯一の真実だった。

 

 

「……俺は、桜だけの正義の味方になる」

 

 

その言葉が落ちた瞬間、桜の身体から力が抜けた。

 

「……え?」

 

「桜が犯した罪も、これから背負う罰も、俺が全部一緒に背負う。……世界中を敵に回しても、お前が明日を望むなら、俺がそのための剣になる。」

 

士郎は、震える手で桜の顔を包み込み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「俺は、正義よりも、世界よりも、桜を選ぶ。」

 

 

桜の瞳から、それまで堪えていた大粒の涙が溢れ出した。

 

それは絶望の涙ではなく、十一年の孤独の果てに、ようやく辿り着いた「救い」の雫だった。

 

「……いいんですか? 私、本当に……先輩の隣に、いてもいいんですか……?」

 

「ああ。これからは、ずっと一緒だ」

 

 

士郎は、泥にまみれた合鍵を彼女の掌に握らせた。

 

日常への帰還。そして、二人で地獄を歩むという、新しい契約の証。

 

 

 

雨は依然として止まない。

 

だが、暗闇の公園で抱き合う二人の周りだけは、キャスターの静かな守護に包まれ、誰にも侵せない聖域となっていた。

 

衛宮士郎は、この夜、自らの「理想」を殺した。

 

そして、一人の少女を愛するという、醜くも尊い「人間」へと生まれ変わった。

 

遠坂邸で茜が仕掛けた「楔」は、今、これ以上ない形で結実し、聖杯戦争の因果を、予測不能な終局へと加速させていく。

 

 

 

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