空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第二十八章】灰色の夜明けと、不完全な幸福

[Time: 2004年 2月5日 午前9:00]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸・凛の自室]

 

 

意識の浮上は、静かな海の底から水面へと向かうような、緩やかで、どこか現実味を欠いた感覚だった。

 

冬の朝特有の、低く重い空気を孕んだ鈍色の光が、カーテンの隙間から部屋へと忍び込んでいる。窓ガラスを打つ雨音は、昨夜の激しさが嘘のように止んでいた。代わりに聞こえてくるのは、凍てついた庭の木々を揺らす風の音と、そして──。

 

 

(……ああ。夢じゃ、なかったのね)

 

 

遠坂凛は、微睡みの中で、自身の背中に触れる確かな「熱」を感じていた。

 

シーツの下、素肌越しに伝わってくる、一定のリズムを刻む心音。自分の首に回された、少しだけ体温の低い──けれど、今の凛にとってはどんな暖炉よりも温かく感じられる腕。

 

 

 

凛はゆっくりと目を開けた。

 

視界に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の天井ではなく、すぐ目の前にある少年の横顔だった。

 

 

竜胆茜。

 

いつもは「背景」を自称し、世界をただの数字や記号として観測している、空虚な瞳を持った少年。

 

だが、今の彼は無防備に目を閉じ、静かな呼吸を繰り返している。その寝顔は、普段の冷徹な計算機のような面影はなく、どこか年相応の、けれど多くの傷を抱えて疲弊した一人の少年のものだった。

 

「…………」

 

 

凛は、自分の身体を抱きしめるように回されている彼の腕に、そっと自らの手を重ねた。

 

昨夜の記憶が、鮮明な熱量を持って脳裏に蘇る。

 

妹を殺さなければならないという絶望。姉としての罪悪感。魔術師としての責務に押し潰され、独りで暗闇に落ちようとしていた自分を、この少年は力ずくで引き止めた。

 

 

『一緒に泥を被ろう』。

 

 

 

そう言って、彼は私のすべてを肯定し、その身ごと私の地獄に飛び込んできたのだ。

 

(……おかしいわね。私、あんなに絶望してたはずなのに)

 

今の凛の心を満たしているのは、不思議なほどの静寂と、これまで生きてきた中で一度も味わったことのないような、圧倒的な「安心感」だった。

 

物理的な距離がゼロになったことで、二人の間の精神的な壁もまた、完全に消失していた。

 

遠坂の当主として、あるいは魔術師として生きていく中で、誰にも見せられなかった「弱さ」を、彼はまるごと飲み込んでくれた。その事実が、凛の魂の最深部を、優しく、そして深く癒やしていた。

 

凛は茜の腕の中で、僅かに身を動かして彼の顔を覗き込んだ。

 

 

至近距離で交わる呼気。

 

いつもなら強がって誤魔化す、そんな距離。だが、今はその必要すら感じない。

 

この空間には、遠坂凛という完璧な優等生も、竜胆茜という無機質な観測者も存在しない。

 

ただ、互いの孤独を埋め合い、熱を分かち合う、二人の人間がいるだけだった。

 

 

(……ずっと、こうしていられたらいいのに)

 

 

柄にもないことを考えていると、自覚はある。

 

外に出れば、また血生臭い聖杯戦争が待っている。間桐桜という解決不能な矛盾が、大きな口を開けて自分たちを待っている。

 

けれど、この灰色の夜明けに包まれたベッドの上だけは、世界の残酷な法則が一切届かない、二人だけの空間。

 

いつまでも、この甘やかで、不完全な幸福の中に浸っていたい。

 

凛は、自らの頬を茜の胸に擦り寄せ、吸い込む空気に混じる彼の匂いを深く味わった。

 

「……起きたか、凛」

 

 

不意に、上から降ってきた掠れた声。

 

ハッとして顔を上げると、いつの間にか茜が薄く目を開けていた。

 

「……っ、茜。おはよう」

 

 

凛は少しだけ頬を赤らめながらも、視線を逸らさずに答えた。

 

茜の黒い瞳が、微睡みを引きずりながらゆっくりと焦点を合わせていく。

 

彼は、自身の腕の中に収まっている凛の存在を確認するように、回した腕に僅かに力を込めた。

 

 

「……おはよう。気分はどうだ?」

 

「……最悪よ。身体は重いし、頭は痛いし……でも」

 

 

凛はふっと、いたずらっぽく、そして心底愛おしそうに微笑んだ。

 

「心の方は、アンタのおかげで、これ以上ないくらい晴れやかよ」

 

 

茜は、その凛の笑顔をじっと見つめていた。

 

彼の思考が、彼女の表情から「幸福」や「救済」といった抽象的な概念を読み取ろうとするが、今の彼にはそんな演算など不要だった。

 

彼自身の胸の奥にある、黄金球体とは別の場所──人間としての心が、彼女の安らぎを、何よりも確かな事実として受け止めていた。

 

 

茜はゆっくりと上体を起こすと、ベッドに手をつき、凛を見下ろす形になった。

 

乱れた黒髪が、白のシーツに散らばっている。昨夜の激動の名残を孕んだ彼女の姿は、この世の何よりも美しく、守るべき価値があるものに思えた。

 

茜は無言のまま、凛の額にかかった髪を指先で優しく払い、その滑らかな頬をなぞった。

 

そして、吸い寄せられるように顔を近づけると、彼女の唇に、羽が触れるような軽い、けれど確かな意志を込めたキスをした。

 

 

「…………」

 

 

触れ合った時間は、ほんの一瞬。

 

けれど、そこにはどんな言葉を連ねるよりも重い、「共犯者」としての誓いが込められていた。

 

「……さて。いつまでもこうしているわけにはいかないな。……世界はまだ、僕たちの答えを待っている」

 

 

茜は、名残惜しさを一切感じさせないほど淡白に──けれど、その瞳に宿る熱だけを残して、ベッドから立ち上がった。

 

 

冷たい朝の空気が、彼の肌を叩く。

 

その瞬間、茜という個体は、昨夜の「一人の少年」から、再び冬木の街を管理し、盤面を調整する「観測者」へと、その輪郭を鋭く変容させていった。

 

「……そうね。私も、遠坂の当主に戻らなくちゃ」

 

 

凛もまた、ベッドの中で小さく伸びをしながら、力強い瞳で茜を見上げた。

 

昨夜までの、悲壮感に満ちた彼女ではない。

 

たとえどのような泥濘を歩むことになろうとも、隣にこの少年がいる限り、決して折れることのない「強さ」を宿した瞳だった。

 

 

茜は自身の服を拾い上げ、手早く袖を通すと、扉の方へと歩み寄った。

 

 

「僕は一旦、自室へ戻る。準備が出来たら、リビングで合流しよう。……凛」

 

「ええ。あとでね、茜」

 

 

扉が静かに閉まり、茜の気配が廊下へと消えていく。

 

一人残された部屋で、凛は自分の唇を指先でなぞり、そこに残る微かな体温を確かめた。

 

(……待ってなさいよ、桜。私は……もう)

 

 

凛はバッとシーツを跳ね除けると、冷たい空気を切り裂くように立ち上がった。

 

戦いは、これからが本番だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前7:15]

 

[Location: 遠坂邸 ── 茜の客間]

 

自室に戻った茜は、自身のコートを脱ぎ捨て、洗面台の蛇口を捻った。

 

冷たい水で顔を洗い、強制的に脳を「管理者モード」へと切り替える。

 

視界の端で、因果のログが滝のように流れ始める。エントロピーの変動、地脈の乱れ、そして──。

 

 

「──メディア。昨夜の衛宮の顛末を報告しろ」

 

 

茜は鏡を見つめたまま、独り言のようにそう呟いた。

 

次の瞬間、空間が微かに揺らぎ、霊体化を解いたメディア・リリィが茜の背後に姿を現した。

 

「……おはようございます、マスター。……少し、表情が柔らかくなりましたね」

 

 

メディアは、茜の纏う空気が昨夜よりも人間味を帯びていることを察してか、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 

だが、茜がそれを無言の視線で制すと、彼女もまた表情を引き締め、事実だけを告げた。

 

「……衛宮士郎様は、貴方の予測通り、衛宮邸にて間桐桜様と接触しました。真実を知られパニックになった桜様は雨の中へ逃亡しましたが……私の誘導の末、二人は公園で再会しました」

 

「それで。奴の選択は」

 

「自身の『正義の味方』という理想を捨て、間桐桜だけの味方になると……そう誓われました」

 

 

メディアの報告を聞き、茜は洗面台の鏡の中の、無機質な自分の瞳と目を合わせた。

 

(……正解だ)

 

 

茜の脳内で、冷徹な演算がカチリと音を立てて完了する。

 

衛宮士郎という駒のベクトルを、「桜を救う」方向に固定したこと。

 

それは決して、士郎や桜に同情したからではない。

 

すべては、「遠坂凛の選択肢(ルート)を、一つ残らず保全するため」の絶対条件だった。

 

 

もし、士郎が『万人のための正義』を貫き、間桐桜を殺すという選択をしてしまっていたらどうなるか。

 

凛がいかに思い悩み、最終的に「妹を救う」と願ったとしても、すでに士郎の手によって桜が処分されてしまえば、凛の選択肢は強制的に消滅(破綻)する。

 

凛から「選ぶ権利」を奪うようなイレギュラーを、観測者たる茜が許すはずがなかった。

 

 

 

だが、士郎が「桜を守る」方向に回ったのなら話は別だ。

 

 

凛が「妹を救う」と決断すれば、士郎を利用し、共に共闘すればいい。

 

逆に、凛が「やはり妹は危険だ。殺さなければならない」と決断したのなら。

 

 

 

その時は、桜を守ろうと立ち塞がる衛宮士郎ごと、茜が自身の魔術で跡形もなく叩き潰せばいいだけのこと。

 

 

どちらに転んでもいい。

 

遠坂凛がどちらの道を選んだとしても、彼女の意思が一切の妨害なく現実のものとなるように。茜はただ、彼女の自由意志を侵害し得る要素を事前に排除し、すべての選択肢をテーブルの上に並べておいただけなのだ。

 

(……君の道は、僕がすべて整えた。あとは、君が選ぶだけだ。凛)

 

 

「……ご苦労だったな、メディア。状況は把握した」

 

 

茜は新しいシャツに着替え、その上に黒いコートを羽織った。

 

「衛宮様と桜様は、現在衛宮邸には居られません。どこかに身を隠したようです」

 

「放っておけ。奴らがどこで何をしていようと、最終的に行き着く場所は同じだ」

 

 

茜は振り返り、自室の扉に手をかけた。

 

「リビングへ行く。……遠坂も、もう来ているはずだ」

 

 

階下からは、すでに二つの──気高き魔術師と、弓兵の冷徹な魔力の気配が立ち上っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午前9:20]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸・リビング]

 

重厚なオーク材の扉を開けると、そこにはすでに、淹れたてのコーヒーの香りと、ピンと張り詰めた魔術師の空気が満ちていた。

 

 

遠坂邸の広々としたリビング。

 

アンティークのソファには、すでに身支度を完全に整えた遠坂凛が腰を下ろしていた。彼女が纏っているのは、昨夜のシーツの中での無防備な少女の素顔ではない。冬木の霊地を預かる気高き管理者、そして何より「遠坂の当主」としての、一点の曇りもない鉄の鎧だった。

 

 

だが、茜のL4《環境並列演算網》は、彼女の纏う魔力波形が昨日までの「悲壮感」とは決定的に異なっていることを正確に観測していた。

 

無理をして感情を押し殺しているのではない。自身の内側にある脆さや罪悪感をすべて茜という「絶対の味方」に預けたことで、彼女の精神構造はかつてないほどしなやかで、強靭なものへと昇華されていた。

 

 

「……おはよう、竜胆。それにキャスターも」

 

 

凛が、ティーカップを置きながら茜たちを振り返る。

 

その赤い瞳が茜を捉えた瞬間、ほんの一瞬だけ、当主の仮面の奥に「素の少女」としての甘やかな光が揺れたのを、茜は見逃さなかった。

 

二人だけの秘密の暗号のような視線の交錯。

 

 

「ああ。おはよう、遠坂」

 

茜もまた、普段通りの無機質な「観測者」のトーンで応え、彼女の対面のソファへと腰を下ろした。メディア・リリィはローブの裾を翻し、茜の背後に静かに控える。

 

 

「……随分と、顔色が良いようじゃないか、凛」

 

部屋の隅、暖炉のそばで腕を組んで立っていた赤い外套の英霊──アーチャーが、鋼色の瞳を細めて凛と茜を交互に見やり、皮肉げな笑みを浮かべた。

 

 

「昨夜の今日でどうなることかと思ったが……どうやら、そこの『背景』を自称する男が、良い仕事をしたと見える」

 

「……っ、うるさいわね。アンタには関係ないでしょ」

 

 

凛が誤魔化すように顔を背けるが、その耳が微かに朱に染まっているのを、アーチャーの千里眼が見逃すはずもなかった。

 

アーチャーは短く鼻で笑うと、すぐにその表情から冗談の色を消し去り、鋭い視線を二階の客間の方へと向けた。

 

「……で。あの馬鹿な小僧の処遇だが」

 

 

アーチャーの低い声が、リビングの空気を一気に戦場のそれへと引き戻す。

 

「どうやら、私たちが寝静まっている間に、勝手に屋敷を抜け出したらしい。……キャスターの治癒を受けたとはいえ、まともに動ける状態ではなかったはずだがな。あいつの部屋はもぬけの殻だ」

 

 

アーチャーの報告に、凛の表情が険しくなる。

 

「……やっぱり、そうなるわよね。間桐桜があんなことになっていると知って、衛宮くんがおとなしくここで寝ているはずがないわ」

 

 

凛は唇を噛んだ。

 

衛宮士郎が桜の元へ向かった。それは、凛にとって最悪の懸念事項だった。

 

 

「探すわよ、アーチャー。今ならまだ……」

 

「──その必要はないよ、遠坂」

 

 

凛が立ち上がろうとした瞬間、茜の平坦な声がそれを制した。

 

「え……?」

 

「衛宮なら、もう間桐桜と合流している。彼らの現在の正確な位置は不明だが、少なくとも、最悪の事態には陥っていない」

 

「竜胆、アンタ……知ってるの?」

 

 

凛の驚きに満ちた視線と、アーチャーの探るような眼差しが茜に集まる。

 

茜はポケットに両手を突っ込んだまま、背後の神代の魔女へと視線で合図を送った。

 

「メディア。彼らに、昨夜の観測結果を共有してやってくれ」

 

「はい、マスター」

 

 

メディア・リリィが一歩前に進み出た。

 

彼女は、昨夜の茜からの命で士郎を追跡したこと、そして、雨の児童公園で繰り広げられた凄絶な「決別の儀式」の顛末を、淡々と、しかし情景が浮かぶような正確さで語り始めた。

 

士郎が、自身の「正義の味方」という理想を完全に捨て去ったこと。

 

万人の救済よりも、たった一人の少女を選んだこと。

 

間桐桜が犯した罪も、これから背負う罰も、すべてを一緒に背負うと誓い、彼女だけの正義の味方になったこと。

 

「……彼らはそのまま、どこかへ姿を消しました。霊脈のノイズにより、現在の詳細な座標までは追えませんが……衛宮士郎様はもう、迷ってはいませんでした」

 

 

メディアの報告が終わると、リビングには重い沈黙が降りた。

 

 

 

 

最初にその沈黙を破ったのは、アーチャーの乾いた笑い声だった。

 

「ふっ……傑作だな。あの、誰かを救うことだけを己の存在意義としていた愚か者が……自らの理想を捨て去り、ただ一人の女を選ぶとはな」

 

 

その笑い声には、呆れと、深い嘲り、そして──どこか、彼自身が長年囚われていた呪縛から解放されたような、奇妙な安堵の色

が混じっているように見えた。

 

 

「……理想に殉じる機械であることをやめ、一人の人間へと堕ちたか。」

 

 

アーチャーの独白のような呟きを背に受けながら、凛はただ、じっと自身の組んだ手を見つめていた。

 

(……衛宮くんが、桜を)

 

 

凛の胸の中で、静かな衝撃が広がっていた。

 

あの、愚直なまでに正義を追い求めていた少年が。誰よりも真っ直ぐで、だからこそ危うかった衛宮士郎が、自分のすべてを投げ打ってでも、間桐桜という一人の少女を守る覚悟を決めた。

 

(……衛宮くんは、できたんだわ)

 

 

凛は、自分の手のひらをギュッと握りしめた。

 

赤の他人に過ぎない衛宮士郎が、桜のすべてを受け入れ、一緒に地獄を歩く覚悟を決めたのだ。

 

ならば、血の繋がった実の姉である自分が、管理者としての責任や魔術師としての掟といった「正論」に逃げ込んで、彼女を見捨てることなど、絶対に許されるはずがない。

 

「……アーチャー」

 

 

凛が、顔を上げた。

 

その瞳には、一切の迷いも、悲壮感もなかった。ただ、遠坂の当主としての誇りと、一人の姉としての無慈悲なまでの深い愛情が、静かに燃え上がっていた。

 

「方針を変更するわ。……私たちは、間桐桜を殺さない」

 

 

その明確な宣言が、リビングの空気を一変させた。

 

「……ほう」

 

 

アーチャーが目を細める。

 

「それは、冬木の管理者としての責務を放棄し、多数の命を危険に晒す怪異を野放しにするということだぞ。お前が今まで信じてきた魔術師としての矜持を、自ら叩き割る行為だ。……後悔は無いな、凛」

 

「ええ、無いわ」

 

 

凛はフッと、憑き物が落ちたような美しい笑みを浮かべた。

 

「私は管理者としては失格ね。でも、私は間桐桜の姉よ。……あの子が犯した罪も、これから冬木に振り撒く可能性のある泥も、姉である私が全部一緒に背負う。……間桐臓硯を叩き潰し、桜を縛るあの呪いを、私たちの手で完全に解体するわ」

 

 

迷いのない、完璧な解答。

 

それは、遠坂凛という少女が、システムや責任の枠組みを超えて、自らの意志で選び取った「人間」としての正解だった。

 

 

茜は、対面のソファでその言葉を静かに聞いていた。

 

彼の胸の奥で、黄金球体が、そして人間としての心が、静かな喜びに震えていた。

 

自身の演算が導き出したどの未来のパラメーターよりも、今目の前で彼女が自らの足で立ち上がり、示した意志の輝きの方が、圧倒的に強く、眩しかった。

 

「……了解したよ、凛」

 

 

茜はゆっくりと立ち上がり、凛の隣へと歩み寄った。

 

そして、その小さな肩のすぐ後ろ──世界で最も安全な「背景」の位置に立ち、彼女と同じ方向を見据えた。

 

「君がその道を選ぶなら、僕はどんな泥でも共に被ろう。……君の願いを現実のものにする。……僕のすべては、君の決断を観測し、成立させるためにある」

 

 

静かで、しかし世界そのものを敵に回すことを一切躊躇わない、観測者の狂気的なまでの誓い。

 

凛は、背後の茜を振り返らずに、自信に満ちた声で応えた。

 

「ええ。頼りにしてるわよ、茜」

 

 

その言葉に込められた絶対的な信頼に、茜の口元に微かな笑みが浮かんだ。

 

「……まったく。マスターがこれでは、私も付き合うしかないか」

 

アーチャーが肩をすくめ、双剣を具現化させるように指先を鳴らした。

 

メディア・リリィもまた、茜の背後で杖を胸に抱き、深く頷く。

 

 

 

「──さあ、作戦会議よ」

 

凛が、リビングのテーブルに冬木市の地図を広げた。

 

「目的は桜の救出。あの子を侵食していると思われる『影』……大聖杯とのパスの切断。そして、裏で縛り付けている間桐臓硯の完全な打倒よ」

 

「……言うのは簡単だがな」

 

 

アーチャーが腕を組み、地図を見下ろす。

 

「まずは敵の現状分析が必要だ。臓硯が具体的にどのような術式で桜を操っているのか、そもそもあの老骨の不死性の秘密すら、まだ分かっていない。物理的に肉体を破壊したところで、完全に殺しきれる相手ではないぞ」

 

「ええ。だからこそ、現状の推移を正確に定義する必要があるわ」

 

 

凛は地図の上に置かれた駒を指先で弾いた。

 

「衛宮くんの報告によれば、桜は泥を生み出す器』であり、そこから溢れた魔力を『影』として外界に引っ張り出し、操縦しているのは間桐臓硯だと言っていたわ。……つまり、巨大なエンジンが桜で、そのハンドルを握っているドライバーが臓硯ってことよ」

 

「……なるほど。ならば、今はその『車』は動かないというわけか」

 

 

アーチャーが顎に手を当てる。

 

「昨夜の地下での戦いで、私と凛、そしてキャスターの魔術で、臓硯の端末であった蟲の群れを完全に焼き払った。奴の本体がどこかに逃げ延びているにしても、外界に干渉し、魔術を行使するための『手足』を大きく欠損した状態のはずだ」

 

「その通りだ」

 

 

茜が、静かに口を開いた。彼の黒い瞳が、冷徹な演算の光を帯びる。

 

「僕の《因果ログ解析》でも、昨夜の臓硯の端末(ダミーネットワーク)の完全な消滅は確認されている。……あれほど大規模な『影』という事象を遠隔操作するには、強固な術式基盤と管理者権限(アドミニストレータ)が絶対に必要だ」

 

 

茜の脳内で、システムが論理的な結論を弾き出す。

 

「操縦桿を握る臓硯が機能不全に陥っている以上、器である桜単体が自律稼働し、影を暴走させる危険性は極めて低いと定義できる。……管理者不在のシステムは起動しない。臓硯が回復するまでの間、冬木に影が現れることはないはずだ」

 

「……そうね。だからこそ、衛宮くんが桜を連れ出したのは無茶で危険な行為だけれど、即座に街が食い荒らされる最悪の事態には直結しない。私たちには、ほんの少しだけ『時間』ができたってことよ」

 

 

凛は深く頷いたが、しかしその表情に油断は微塵もなかった。

 

「でも、桜の中の爆弾が解除されたわけじゃない。臓硯が態勢を立て直し、再び桜のコントロールを握る前に、奴の本体を見つけ出して完全に叩き潰す。そして桜のパスを切断するわ」

 

「そこは、僕の担当だ」

 

 

茜が、地図上の間桐邸の座標を冷徹に見据える。

 

「臓硯が桜を操る魔術の起点を再び構築しようとした瞬間、あるいは奴の命を繋ぎ止めている術式の『核』がどこかで魔力を行使すれば……僕の『解析』を基盤とした《構造解析》と《因果ログ解析》で、奴の論理構造の奥底にある『急所』を必ず暴き出す。……どれほど巧妙に隠蔽されていようと、システムである以上、バグ(死)は必ず存在する」

 

「……頼もしいわね。なら、私たちは臓硯を炙り出し、アンタが『解析』するための条件式を整える。……そのために、まずは『戦力』を整えるわよ」

 

 

 

凛の言葉に、アーチャーが眉を上げた。

 

「戦力だと? 私とキャスター、そして竜胆がいれば十分だと思うが。それ以上に、この街に味方になり得る駒が残っているのか?」

 

「ええ。最大にして最強の駒が残っているわ」

 

 

凛は地図の北側、冬木の森のさらに奥にある広大な領地を指差した。

 

「アインツベルンよ。……イリヤスフィールとバーサーカー。彼らと同盟を組むわ」

 

 

その提案に、リビングに一瞬の沈黙が流れた。

 

アインツベルン。聖杯戦争の御三家の一つであり、今大会において最強のサーヴァントを擁する陣営。そして、これまでに幾度となく矛を交えてきた宿敵でもある。

 

「……正気か、凛。あの城の主が、そう簡単に首を縦に振るとは思えんが。下手をすれば、臓硯と戦う前にバーサーカーに叩き潰されるぞ」

 

 

アーチャーが呆れたように肩をすくめる。

 

「普通ならそうね。でも、今の状況はアインツベルンにとっても他人事じゃないはずよ。あの『影』は、聖杯戦争そのものを食い破ろうとしている。……アインツベルンなら、事態の異常さに気づいているはずだわ。それに──」

 

 

凛はチラリと茜を見た。

 

「あっちにはバーサーカーがいる。臓硯がどんな隠し玉を持っていようと、あの怪物以上の物理火力が味方にいれば、アンタの『解析』を妨害されるリスクを最小限に抑えられるでしょ?」

 

 

茜は無機質な視線のまま、脳内でアインツベルンとの接触による成功確率を演算した。

 

イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。彼女もまた、この聖杯戦争の歪みの中心にいる一人だ。

 

「……妥当な判断だ。僕たちの手札だけでは、影とアインツベルンの両方を同時に相手にするのは効率が悪すぎる。一時的な共闘(プロトコル)を組むのが、最も生存率を高める」

 

「決まりね。……準備を始めなさい、アーチャー。今からアインツベルンの森へ向かうわ」

 

 

凛はそう告げると、ティーカップの中の冷めた紅茶を一気に飲み干した。

 

その瞳には、もはや迷いも不安もない。

 

隣に立つ茜という絶対の味方。そして、背負うべき妹の命。

 

 

すべての条件は揃った。

 

「竜胆、アンタもいいわね。……あっちにはアンタと同じくらい『食えない』女がいるんだから、しっかりエスコートしなさいよ?」

 

「……善処するよ、遠坂」

 

 

茜は静かに頷き、メディア・リリィに霊体化の指示を出した。

 

午前九時。

 

冬木の街を覆う呪いを引き剥がすための、遠坂陣営の本格的な反攻作戦が動き出す。

 

向かうは、深い霧に包まれたアインツベルンの巨城。

 

 

 

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