空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第二十九章】泥濘の底の温もりと、朝食の食卓

[Time: 2004年 2月5日 午前4:50]

 

[Location: 冬木市 ── 深山町から衛宮邸への帰路]

 

 

冷たい雨が、容赦なく二人の身体を打ち付けている。

 

だが、その雨の冷たさを、今の衛宮士郎はまったく感じていなかった。

 

右手に握られた、小さく、ひどく冷え切った手のひら。

 

その手を引いて、あるいはその手に縋るようにして、士郎は夜の帳が降りた冬木の街を歩いていた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 

言葉はない。必要なかった。

 

士郎の全身は、キャスターの治癒の綻びと魔術回路の暴走によって、今も一歩踏み出すごとに筋肉が悲鳴を上げ、内側から刃で皮膚を削られるような激痛に苛まれている。

 

本来なら、立って歩いていることすら奇跡に近い状態だ。

 

それでも、士郎の心はこれまでにないほど澄み切っていた。

 

 

『俺は、桜だけの正義の味方になる』

 

 

自らの内側にあった「万人のための救済」という理想の天秤を、自らの手で叩き壊した。

 

切嗣との誓いを裏切り、これまでに信じてきた自分自身の存在意義を否定した。

 

魔術師としての正道も、冬木を預かる遠坂凛の正論も、すべてを投げ打って、この泥にまみれた少女の隣を歩くことを選んだ。

 

 

後悔は、一ミリもなかった。

 

隣を歩く桜は、士郎にその身を預けるように、ぴったりと身を寄せて歩いている。

 

彼女の足取りはフラフラと覚束なく、今にも倒れてしまいそうだったが、士郎と繋いだ手だけは、絶対に離さないとばかりに強く握り返されていた。

 

横顔を盗み見ると、雨に濡れた桜の表情は、先ほどまでの絶望とパニックが嘘のように穏やかだった。

 

十一年間、間桐の暗い土蔵の中で独りきりで耐え続けてきた少女。

 

自分がどれほど汚れているかを知られ、それでもなお「一緒に泥を被る」と抱きしめてくれた士郎の存在が、彼女の魂の底に溜まっていた氷を完全に溶かしていた。

 

 

安心しきった、すべてを委ねるような幼い顔。

 

その顔を見ているだけで、士郎の足に不思議と力が湧いてくる。

 

もう、誰も救えなくていい。ただ、この手の中にある温もりだけを守り抜く。

 

その醜くも純粋なエゴだけが、今の衛宮士郎を動かす唯一の原動力だった。

 

 

 

 

 

 

[Location: 衛宮邸 ── 桜の客間]

 

見慣れた衛宮邸の門をくぐり、玄関に入る。

 

濡れた身体をタオルで拭い、泥だらけになった衣服を脱ぐ。士郎は自分の身体の痛みよりも、まず桜の身体を冷やさないことを最優先に動いた。

 

「桜、風邪を引く。早く着替えて、ベッドに入ろう」

 

 

士郎に手を引かれ、用意された客間へと向かう。

 

パジャマに着替えた桜をベッドに座らせると、彼女はふにゃりとした、どこか夢見心地のような笑顔を浮かべた。

 

「……先輩」

 

「ん、どうした」

 

「……いえ。ただ、呼んでみただけです。……先輩が、ここにいてくれるから」

 

 

ベッドの端に腰掛けた桜は、士郎の服の裾を小さな手でギュッと握りしめていた。

 

まるで、少しでも目を離せば、この幸福な現実がすべて幻として消えてしまうのではないかと怯えるような、愛おしくも痛々しい執着。

 

 

「……夜も深い。もう休もう、桜」

 

 

士郎は、彼女の不安を拭い去るように、優しくその頭を撫でた。

 

 

しかし。

 

触れた桜の額が、異常なほど熱を持っていた。

 

 

「……ッ、桜、お前……」

 

 

士郎は顔をしかめ、より確かに熱を測るため、自らの額を桜の額へとピタリと合わせた。

 

 

至近距離で交わる視線。

 

桜の頬が、病的な赤とは違う、熟れた果実のような朱色に染まっていく。

 

その吐息は荒く、甘い熱を帯びて士郎の頬を撫でた。

 

 

「すごい熱だ……風邪か?」

 

 

士郎が心配そうに問いかけると、桜は微かに身をよじり、もじもじと士郎の視線から逃れるように俯いた。

 

「……いえ。熱じゃ、ないんです。風邪じゃ、なくて……」

 

「じゃあ、どうしてこんなに」

 

「……魔力が。少し、足りなくて……身体が、熱いんです」

 

 

間桐臓硯によって埋め込まれた刻印蟲。そして、彼女の身体を侵食する「影」。

 

それらが彼女の生命力を食い荒らし、常に飢餓状態を引き起こしているのだ。

 

「……そうか」

 

 

士郎は、一切の躊躇いもなく頷いた。

 

「俺で、力になれるか」

 

「え……っ」

 

 

桜が、弾かれたように顔を上げる。

 

その潤んだ瞳には、士郎を求める強烈な渇望と、愛する人を傷つけてしまうことへの深い罪悪感が、激しく入り混じっていた。

 

「だめ、です……。これ以上、先輩を巻き込んだら……先輩を、私の身体の都合で、痛い目に遭わせるなんて……っ」

 

「いいよ。いくらでも痛い目に遭うって、公園で約束したろ」

 

 

士郎は、優しく、けれど有無を言わさぬ強さで桜の肩を抱き寄せた。

 

「それに、俺の魔術回路もいま無茶苦茶でさ。魔力を少し外に出した方が、逆に楽になるかもしれない。……だから、遠慮するな。俺のものなら、全部桜にあげるから」

 

「せん、ぱい……」

 

 

桜の瞳から、ポロリと涙が零れ落ちる。

 

彼女は、もう自分の内側で暴れ回る飢餓感に抗うことはできなかった。

 

何よりも、目の前にいる大好きな人が、自分にすべてを許してくれている。その圧倒的な甘やかしに、彼女の理性が甘く溶けていく。

 

「……血が」

 

 

桜は、熱に浮かされたようなとろりとした瞳で、士郎の顔を見上げた。

 

「……先輩の、血が、少しあれば……私……」

 

「……分かった」

 

 

士郎は迷わず、自身の左手の人差し指を口元に運び、犬歯でガリッと皮膚を噛み切った。

 

ツンとした鉄の匂いと共に、赤い血の雫がぷっくりと膨れ上がる。

 

士郎は、その血の滲む指先を、桜の小さな唇へと静かに差し出した。

 

 

「……っ」

 

 

桜の喉が、ゴクリと鳴る。

 

彼女は震える両手で士郎の左手首をそっと包み込むと、顔を赤らめ、吸い寄せられるようにその指先へと唇を近づけた。

 

温かな吐息が、士郎の指を撫でる。

 

そして、桜の柔らかい唇が、士郎の指をハムリと含んだ。

 

 

「──っ」

 

 

士郎の背筋を、強烈な電流のようなものが駆け抜けた。

 

湿った熱い口腔の感触。指先に絡みつく、滑らかな舌の動き。

 

桜は、まるで砂漠で渇き切った旅人が一滴の水を貪るように、しかし、士郎に痛みを与えないように細心の注意を払いながら、チュゥ、チュゥと音を立てて血を吸い上げていく。

 

それは、魔力を供給するためのただの行為であるはずなのに。

 

静まり返った深夜の寝室で、愛する少女が自らの血を悦ぶように舐めとるその光景は、狂おしいほどの背徳感と、濃密なエロティシズムに満ちていた。

 

 

「……んっ、ん、ぁ……っ」

 

 

桜の喉の奥から、甘い吐息のような声が漏れる。

 

士郎の血が彼女の体内に流れ込むたび、彼女の青白かった肌に生気が戻り、代わりに妖艶なまでの熱が宿っていく。

 

彼女の潤んだ瞳が、上目遣いに士郎を見つめる。

 

 

『私は、先輩を食べている』。

 

 

そんな、己の罪深さを確認するような、それでいて深い歓喜に震えるような視線。

 

士郎は、指先から自身の魔力──生命力そのものが吸い取られていく眩暈を感じながらも、ただ静かに彼女の髪を撫で続けた。

 

 

これでいい。

 

俺の血で、俺の魔力で、彼女の痛みが少しでも和らぐのなら。

 

この血の契約こそが、自分が彼女だけの味方になったという、何よりの証だった。

 

 

「……ぷはぁっ」

 

 

数分後。

 

桜は、名残惜しそうに士郎の指を口から離した。

 

彼女の唇は士郎の血でうっすらと赤く染まり、その表情は先ほどまでの苦悶が嘘のように、深い充足感に満たされていた。

 

「……ありがとう、ございます。先輩……っ、すごく、温かかったです……」

 

「……ああ。足りなくなったら、いつでも言えよ」

 

 

士郎は、自身の指先に残る彼女の唾液と、僅かな歯型の感触を無意識に握り込みながら、優しく微笑んだ。

 

「もう遅い。今日はもう、何も考えずに寝ろ。俺は隣の部屋にいるから」

 

「はい……おやすみなさい、先輩」

 

 

桜がベッドに横たわり、静かに目を閉じるのを見届けてから、士郎は客間を後にした。

 

自身の部屋に戻り、冷たい布団に倒れ込む。

 

激痛と極度の疲労が限界を超え、士郎の意識は深い泥の底へと落ちるように、瞬時に暗闇へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午前7:00]

 

[Location: 衛宮邸]

 

 

目覚めは、驚くほど静かで、穏やかなものだった。

 

士郎が目を開けると、障子越しに冬の澄み切った朝日が差し込んでいた。

 

昨夜の嵐のような雨はとうに上がり、空は高く晴れ渡っている。

 

身体を起こすと、全身の筋肉はまだ鉛のように重く、鈍い痛みが残っていたが、不思議と心は軽かった。

 

昨日までの「やらなければならない」という強迫観念が消え失せ、ただ「彼女を守る」という純粋な目的だけが、士郎の身体の芯を支えていた。

 

 

「……よし」

 

 

士郎は小さく気合を入れ、立ち上がると台所へと向かった。

 

顔を洗い、エプロンを締める。

 

まな板に包丁を打ち付け、小気味良い音を立ててネギを刻み始める。

 

出汁の香りが広がり、卵焼きの甘い匂いがキッチンを満たしていく。

 

「あ……先輩。おはようございます」

 

 

背後から、控えめな声がした。

 

振り返ると、昨夜のパジャマ姿のままの桜が、目を擦りながら立っていた。

 

顔色は見違えるほど良く、その表情には、衛宮邸での「日常」を過ごすことへの心からの安堵が浮かんでいる。

 

「おはよう、桜。身体は大丈夫か?」

 

「はい。先輩のおかげで……すごく、元気です。私も手伝いますね」

 

桜は手早く自分のエプロンを身につけると、士郎の隣に立ち、味噌汁の準備を始めた。

 

 

並んで立つ台所。

 

包丁の音。鍋の煮える音。

 

ほんの数時間前、雨の公園で血を吐きながら抱き合ったことが嘘のように、ここにはいつもと変わらない、温かな日常の風景があった。

 

いや、この壊れやすい日常を守るためにこそ、士郎は自らの理想を捨てたのだ。

 

 

「……できた。食べようか」

 

 

卓袱台に向かい合って座り、二人で手を合わせる。

 

「いただきます」

 

 

士郎の作った卵焼きを口に運び、桜の顔がほころぶ。

 

食事をしながら、士郎は静かに、だが揺るぎない決意を込めた声で切り出した。

 

「……桜。今後のことなんだけどな」

 

 

桜の箸が止まる。

 

「俺は、この聖杯戦争を終わらせる。……そして、聖杯を桜のために使ってもらう」

 

 

士郎の言葉に、桜は息を呑んだ。

 

「桜の身体の異常も、間桐臓硯の呪縛も、聖杯の力があれば必ず何とかできるはずだ。……そのためなら、俺はどんなことでもする」

 

「でも、先輩……私は、戦うなんて……それに、お義祖父様は……」

 

 

桜の瞳に、再び不安の影が落ちる。

 

士郎がどれほど決意を固めても、桜は自身のサーヴァントであるライダーを失い、マスターとしての戦力を持たない。そして何より、間桐の家から出た今、臓硯の魔の手がいつどこから襲ってくるか分からない恐怖があった。

 

「分かってる。だから、桜は絶対に外に出ない方がいい」

 

 

士郎は真剣な眼差しで桜を見つめた。

 

「俺一人で、臓硯の本体を探り出す。……でも、サーヴァントがいない状態で俺一人が動くのは無謀だ。だから、他のマスターと同盟を組んで、協力するべきだと考えてる」

 

「他のマスター……誰が、残っているんですか?」

 

 

桜の問いに、士郎は脳内の盤面を整理しながら答えた。

 

「遠坂のアーチャー。……それと、竜胆のキャスター。あとは、イリヤのバーサーカーだ」

 

「……えっ?」

 

 

桜が、小さく小首を傾げた。

 

「遠坂先輩と。……『竜胆』って、どなたですか?」

 

「ああ。桜は学年も違うし、知らないのも無理はないか」

 

 

士郎は、あの無機質な黒い瞳の少年を思い出しながら説明した。

 

「竜胆茜。遠坂の幼なじみだよ。存在感が薄いっていうか、いつも遠坂の後ろで背景みたいに溶け込んでる奴だから、学校でも目立たないんだけど……あいつが、キャスターのマスターだ。昨日、俺に色々と……忠告してくれたのも、あいつだ」

 

「…………」

 

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

桜の胸の奥底で、ポツリと、冷たい黒いインクが一滴、落ちたような感覚があった。

 

 

(……姉さんには。姉さんには、ずっと傍にいてくれる幼なじみがいたんだ)

 

 

それは、自分でも制御できない、酷く醜く、ドロっとした重い感情だった。

 

 

私は十一年前、冷たい蟲の蔵に一人で放り込まれた。

 

助けを求めても誰も来てくれず、痛みに泣き叫ぶことすら許されず、ただ一人で泥を啜って耐えるしかなかったのに。

 

姉さんは、温かい光の中で。

 

ずっと、傍で守ってくれる「味方」がいたんだ。

 

 

 

私の知らないところで。私の苦しみなんて。

 

 

 

「……桜? どうした、気分でも悪いか?」

 

 

「え……? あ、いえ、なんでもないです。……そうなんですね、姉さんに……そんな方が」

 

 

桜は慌てて笑顔を作り、湧き上がった暗い感情を必死に心の奥底へと押し込んだ。

 

彼を困らせてはいけない。この人は今、私のためにすべてを敵に回そうとしてくれているのだから。

 

士郎も、桜の微かな動揺には気づかず、話を先へと進めた。

 

「それで、同盟の相手だけど。……俺は、イリヤのバーサーカー陣営と同盟を組むのが一番だと思ってる」

 

 

奇しくも、それは遠坂邸のリビングで凛と茜が下したのと同じ思考(結論)だった。

 

最大の脅威である臓硯や影に対抗するためには、最強の物理火力を持つバーサーカーを味方につけるのが最も生存率が高い。

 

「食事を終えたら、俺はアインツベルン城へ向かう。イリヤと直接話をつけてくる」

 

「一人で……!? だめです先輩、そんなの危険すぎます!」

 

 

桜が身を乗り出して止めるが、士郎の意思は固かった。

 

「大丈夫だ。それに、桜を一人でこの家に残しておくのも不安だから……藤ねえに頼んで、桜を藤村の家で匿ってもらおうと思う」

 

藤村大河の実家は、冬木を取り仕切る極道だ。魔術の干渉は防げなくとも、物理的な防壁や人目という点では、衛宮邸よりも遥かに安全だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前8:40]

 

[Location: 冬木市 ── 藤村家 玄関前]

 

急な頼みにも関わらず、藤村大河は「士郎が急用で家を空けるから、桜を預かってほしい」という申し出を、二つ返事で引き受けてくれた。

 

藤村家の立派な門の前に立ち、士郎は桜と向かい合った。

 

 

出発の時だ。

 

「じゃあ、行ってくる」

 

 

士郎が告げると、桜は不安で押し潰されそうな顔で、ギュッと両手を胸の前で組んだ。

 

「……大丈夫、でしょうか。先輩、危ない目に遭ったり……」

 

「あぁ、多分な。無理はしないって約束する」

 

 

士郎は努めて明るく笑い、桜の頭にポンと手を置いた。

 

「いいか、桜。俺が帰ってくるまで、絶対にこの家から出ないように。藤ねえの傍から離れるなよ」

 

「……はい。気をつけて、先輩。……必ず、帰ってきてくださいね」

 

「ああ。待っててくれ」

 

 

士郎は背を向け、冬木の冷たい風の中へと歩き出した。

 

向かうは、街の北側に広がる深い森──アインツベルンの巨城。

 

遠ざかる士郎の背中を、桜は門扉が閉まるその瞬間まで、祈るような、すがるような視線で見つめ続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午前8:45]

 

[Location: 冬木市 ── 藤村家・桜に宛てがわれた客間]

 

重厚な木製の玄関扉が閉まり、カチャリと鍵が掛かる音がした。

 

士郎が、冬の冷たい外の世界へと旅立っていった。

 

 

「…………」

 

 

一人残された玄関ホールで、間桐桜は不意に膝から崩れ落ちそうになり、慌てて壁に手をついた。

 

 

息が、苦しい。

 

いや、苦しいのではない。昨夜から自身の体内に巡っている士郎の血──彼の魔力が、彼と物理的に離れたことで、彼女の内側にある「飢餓」を激しく刺激し始めていたのだ。

 

 

「はぁっ、あっ、ぁ……っ」

 

 

桜は熱に浮かされたように壁にもたれ掛かり、ずるずると足を引きずりながら、藤村から貸し出された客間へと向かった。

 

視界がぐらぐらと揺れる。

 

額にはべっとりと汗が滲み、全身の皮膚の下を、微細な熱を帯びた蟲が這い回るような、むず痒くも焦燥感に駆られる熱波が支配していた。

 

 

誰もいない客間に入り、襖を閉める。

 

桜はそのまま、用意されていたベッドへと倒れ込んだ。

 

 

シーツに顔を埋め、荒い息を吐き出す。

 

昨夜、自らの唇で舐め取った士郎の血の味。指先に絡めた舌の感触。

 

彼の匂い、彼が自分を肯定してくれた低い声。

 

それらが脳裏でフラッシュバックするたびに、桜の下腹部の奥深くが、きゅぅっ、と甘く、痛いほどに疼いた。

 

 

「せん、ぱい……っ、先輩、先輩……っ」

 

 

桜の瞳は、とろけるような熱情と、どうしようもない渇望に潤んでいた。

 

彼女は震える右手をゆっくりと下へ伸ばし、プリーツスカートの中へと滑り込ませた。

 

下着越しに、熱を持った自身の秘所へと指を押し当てる。

 

彼から与えられた魔力の残滓を反芻し、彼と一つになったかのような錯覚を求めるように、指先を動かした。

 

 

「んっ……ぁ、あぁっ……先輩……っ」

 

 

ベッドのシーツを左手で強く握りしめながら、桜は小さく、甘い声を漏らす。

 

快楽と苦痛、そして──今朝、朝食の席で士郎の口から出た「遠坂の幼なじみ」という言葉が引き起こした、黒くドロドロとした感情が、彼女の脳内で混ざり合っていく。

 

姉さんには、いたんだ。

 

ずっと傍にいて、守ってくれる人が。

 

私には、虫の蔵と、絶望しかなかったのに。

 

 

「……私の、先輩……。先輩だけは、私だけのもの……っ」

 

 

誰にも渡さない。姉さんにも、他の誰にも。

 

士郎の熱を自らの身体で確かめながら、桜は深い、深い泥の底のような悦びに沈んでいく。

 

やがて、絶頂の波が過ぎ去り、荒い呼吸だけが静かな部屋に響いていた。

 

桜はベッドに仰向けのまま、虚ろな視線で、窓の外の冬空を見つめた。

 

その瞳から、スッと、感情のハイライトが抜け落ちる。

 

 

(先輩は、私のために戦ってくれている。危ない目に遭っている)

 

 

ポツリと、脳の奥底で声がした。

 

それは桜自身の思考のようでいて、彼女の中に潜む『影』が囁く、純粋な悪意のようでもあった。

 

なぜ、先輩が傷つかなければならないのだろう。

 

 

簡単なことだ。先輩が、外に出るからだ。

 

「……そうだ」

 

 

桜は、無邪気な子供が素晴らしい遊びを思いついた時のような、無垢で、それゆえに酷く狂気的な笑顔を浮かべた。

 

「外に出さなければ、いいんだ……!」

 

 

ベッドの上に起き上がり、虚空を見つめながらクスクスと笑う。

 

「先輩の手足を折って、目も見えないようにして、私のお腹の中にしまって、ずっと、ずっと私の部屋から出られないように閉じ込めてしまえばいいんだわ。……そうすれば、先輩はもう二度と危ない目に遭うこともないし、どこにも行かないわね……?」

 

 

ぞっとするような猟奇的な愛情。

 

自身を苛むすべてから彼を守る(独占する)ための、もっとも効率的で、残酷な解決策。

 

影の汚染によって歪められたその思考に、桜自身は全く違和感を抱かずに笑っていた。

 

 

だが、次の瞬間。

 

「…………あれ?」

 

 

桜の顔から、スッと笑みが消えた。

 

彼女は自分の両手を見つめ、ひどく混乱したように首を傾げた。

 

「私……今、何考えてるんだろう……?」

 

 

先輩を傷つける? 閉じ込める?

 

そんなこと、絶対にあり得ない。私は先輩に生きていてほしいのに。幸せになってほしいのに。

 

今、自分が口走った恐ろしい想像が、まるで他人の記憶のように不気味に思えた。

 

 

「私……どうしちゃったの……?」

 

 

自らの内側に潜む「得体の知れないバグ」に怯えながら、桜はベッドの上で身を丸くし、再びシーツをきつく握りしめた。

 

冬木の闇の底で、間桐桜という器は、確実に壊れ始めていた。

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前9:50]

 

[Location: 冬木市郊外 ── アインツベルンの森]

 

冬木の街から離れ、冷たい霧が立ち込める深い森の中を、衛宮士郎は一人、全力で駆けていた。

 

 

アインツベルンの森。

 

木々は冬の寒さに凍てつき、吐く息は白い霧となって視界を遮る。

 

治癒の綻びによる痛みは、アドレナリンと闘志によって一時的に麻痺させていた。

 

 

「……いた」

 

 

前方の木々の間を縫うように飛ぶ、白い鳥──イリヤの使い魔の姿を捉えた。

 

あれを追えば、城へ、彼女の元へ辿り着ける。

 

士郎が使い魔を追って足を踏み出そうとした、その時だった。

 

 

『──シャアアアアッ!!』

 

 

「なっ……!?」

 

 

足元の落ち葉の下から、不気味な羽音と共に、巨大な虫のような異形が飛び出してきた。

 

 

間桐臓硯の操る使い魔だ。

 

士郎は咄嗟に身を翻し、木を蹴って後方へ跳躍する。

 

間一髪、虫の鋭い顎が士郎のいた空間を空振った。

 

 

だが、異常はそれだけではなかった。

 

周囲の木々の根元、霜が降りた地面から、どろりとした真っ黒な「影」が染み出し、脈打つように蠢き始めているのだ。

 

「……影。それに、臓硯の蟲……! どうしてこんな所に」

 

 

士郎の背筋に、氷のような悪寒が走った。

 

臓硯が、あるいはあの「影」が、すでにこのアインツベルンの森へ侵入している。

 

同盟を結ぶどころの話ではない。ここはすでに、凄惨な戦場と化しているのだ。

 

「……急がなきゃ、マズい……!」

 

士郎は『強化』の魔術を足の回路に通し、激痛に耐えながら城へと向かって一気に加速した。

 

 

 

 

 

 

[Location: アインツベルン城 ── 正面広場]

 

森を抜け、巨大な氷の城の正面広場へと飛び出した士郎の目に、信じられない光景が飛び込んできた。

 

「イリヤ……!」

 

 

城壁の上。

 

そこには、銀髪の少女、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが立っていた。

 

そしてその隣には、岩の巨人のような圧倒的な威容を誇る大英雄──狂戦士(バーサーカー)が、眼下の広場を睨み下ろして咆哮を上げている。

 

だが、バーサーカーが吠える先、広場の中央に立つ「それ」を見た瞬間。

 

士郎の心臓は、恐怖と絶望で文字通り凍りついた。

 

「……嘘、だろ」

 

 

そこに立っていたのは、一人の小柄な剣士だった。

 

かつて、士郎のサーヴァントとして召喚され、共に戦った気高き騎士王。

 

だが、その姿は士郎の知る「セイバー」とは決定的に異なっていた。

 

白銀の甲冑は、血が凝固したような赤黒い染みを持つ、禍々しい漆黒の重装甲へと変貌している。

 

結い上げられていた金髪は色を失い、青白く死者のような肌。

 

そして何より、バイザーの奥から周囲を見据えるその瞳は、黄金の輝きを失い、一切の感情を排した無機質な冷酷さだけが宿っていた。

 

彼女の周囲だけ、重力が狂ったように大気が軋んでいる。

 

空間そのものを圧迫するような、圧倒的で、底なしの魔力の奔流。

 

その手には、かつて黄金の光を放っていた聖剣が、黒い極光を纏う『約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)』として握られていた。

 

 

「あれが……セイバー、なのか……?」

 

 

士郎の喉から、掠れた声が漏れる。

 

影に飲まれた彼女は、完全に「反転」し、黒き暴君(セイバーオルタ)として現界していたのだ。

 

「バーサーカー!! あの泥人形を、叩き潰しなさい!!」

 

 

城壁の上から、イリヤの悲痛な、しかし烈火のような叫びが響き渡る。

 

 

 

『──■■■■■■■■■■■■■■ッッ!!!』

 

 

 

主の命を受け、ギリシャの大英雄・ヘラクレスが、大地を砕いて跳躍した。

 

巨大な無骨な斧剣が、風の壁をぶち破り、隕石のような速度と質量でセイバーオルタの頭上へと振り下ろされる。

 

直撃すれば、ダンプカーすら紙屑のように粉砕する一撃。

 

 

 

だが。

 

 

「……」

 

 

セイバーオルタは、その一撃を前にしても、一歩も退かなかった。

 

彼女は、無表情のまま黒い聖剣を片手で無造作に振り上げる。

 

 

 

 

ガァァァァァァァンッ!!!!!

 

 

 

 

鼓膜が破れるほどの轟音。

 

剣と斧が激突した瞬間、発生した衝撃波だけで広場の石畳がめくれ上がり、士郎の身体が嵐に吹き飛ばされそうになる。

 

「馬鹿な……バーサーカーの一撃を、正面から受け止めた……!?」

 

 

士郎は木にしがみつきながら、信じられない光景に目を見開いた。

 

筋力パラメータにおいて、バーサーカーを凌駕するサーヴァントなど存在しない。

 

だが、黒いセイバーは、足元を数十センチ沈ませながらも、その凶悪な斬撃を聖剣一本で完全に相殺していたのだ。

 

「影」からの無尽蔵の魔力供給が、彼女を文字通りの「怪物」へと押し上げている。

 

 

「ハァァァァ……ッ!!」

 

 

セイバーオルタの漆黒の剣身から、紫色の魔力が爆発的に噴き出した。

 

鍔迫り合いから一転、バーサーカーの巨体を力任せに弾き飛ばす。

 

そのまま、大気を裂くような速度で踏み込み、黒い極光を纏った連撃をバーサーカーへと叩き込んでいく。

 

ドゴォッ! ガガガガガッ!!

 

バーサーカーもまた、その凄まじい耐久力と戦闘技術で反撃の斧を振るう。

 

 

神話の再現。

 

人智を超えた暴力と魔力が衝突し、アインツベルンの城壁が砕け、周囲の森の木々が余波だけで薙ぎ倒されていく。

 

 

「……なんて、デタラメな魔力だ……」

 

 

士郎は、その絶望的な死闘を前に、立ち尽くすことしかできなかった。

 

あれが、かつて自分を守ってくれたセイバーなのか。

 

「影」の力は、英雄の矜持すらも塗り潰し、これほどの化け物を生み出してしまうのか。

 

 

 

『──■■■■■■ッ!!』

 

 

 

バーサーカーの咆哮。

 

黒き極光の炸裂。

 

冬木の森の奥深くで、聖杯戦争の根幹を揺るがす、最強と最恐の激突が幕を開けた。

 

そして、この絶望の戦場に、まだ見ぬ「観測者」たちが到達するまで、あと僅か。

 

 

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