[Time: 2004年 2月5日 午前9:55]
[Location: 冬木市郊外 ── アインツベルンの森・氷の城前広場]
圧倒的な「重さ」だった。
視界を黒く染め上げる、紫色の極光。
かつて衛宮士郎の剣として共に戦い、冬木の夜を駆けた気高き騎士王は、今や歩く絶
望そのものと化していた。
ドゴォォォォォォォンッ!!!
セイバーオルタが漆黒の聖剣を無造作に振り抜いた瞬間、爆発的な魔力放出がアインツベルン城の広場を薙ぎ払った。
ギリシャ神話最強の大英雄である狂戦士(バーサーカー)の剛腕をもってしても、その理不尽なまでの魔力の奔流を完全に相殺することはできない。
両者の激突によって生じた余波は、巨大な竜巻となって周囲の森の木々を根こそぎ吹き飛ばし、石畳を紙切れのように空へと巻き上げた。
「……ッ!!」
数百メートル離れた木陰からその死闘を目撃していた士郎の全身に、致命的な死の予感が走った。
激突の余波だけで生じた真空の刃と、散弾のように降り注ぐ無数の瓦礫。
今のボロボロの肉体で、しかも魔術回路が焼き切れる寸前の士郎に、これを躱す術などない。防御の魔術を展開する時間すら与えられず、士郎は本能的に両腕で頭を覆い、迫り来る死の嵐に対して歯を食いしばった。
だが、その痛みが士郎の肉体を切り裂くことはなかった。
「──《簡易結界(シンプル・バウンダリー)》展開」
平坦で、一切の感情を排した無機質な声が、轟音を切り裂いて士郎の耳に届いた。
次の瞬間、士郎の目の前に、青白い幾何学模様を伴った半透明の魔力障壁が展開される。
殺到する暴風と瓦礫が障壁に激突し、凄まじい火花と破砕音を撒き散らすが、その薄皮一枚の結界はピクリとも揺らがない。
「……え?」
士郎が目を開けると、そこには見慣れた、しかしこの場にいるはずのない二人の姿があった。
「ギリギリセーフってところね。……まったく、アンタって奴はどれだけ無茶をすれば気が済むのよ、衛宮くん」
赤いコートを翻し、呆れたような、それでいてどこか安堵したような声で士郎を見下ろす遠坂凛。
そしてその一歩前、両手をコートのポケットに突っ込んだまま、冬の冷たい風に黒髪を揺らしている少年──竜胆茜。
「遠坂……それに、竜胆まで……。どうして、ここに……」
「それはこっちの台詞よ。アンタ、一人で無茶しすぎよ」
凛はそう悪態をつきながらも、その視線は前方の規格外の怪物──セイバーオルタへと固定されている。
彼女は、自身の前に立つ茜の背中にそっと歩み寄ると、その細い肩に自らの右手をポンと置いた。
「茜、魔力を回すわよ。この程度の余波で結界を破られるわけにはいかないからね」
「……了解した。遠坂の魔力波形、僕のシステムと同調させる」
凛の手から、茜の体内へと高密度の魔力が流れ込む。
それは、通常の魔術師同士のパスの繋ぎ方とは次元が違っていた。
昨夜、魂の底まで触れ合い、互いの体温と孤独を完全に共有した二人。その肉体的な交わりと精神的な共犯関係は、二人の魔術回路を「一つのパズルのピース」のように完璧に噛み合わせていた。
(……すごい。遠坂の魔力が、竜胆の身体を一切の抵抗なく巡ってる……)
士郎の目にも、二人の間に流れる魔力の異常なまでの親和性がはっきりと見て取れた。
凛の流し込んだ膨大な魔力が、茜という精緻なシステム(変換器)を通ることで何倍にも増幅され、展開された結界の強度を飛躍的に底上げしていく。
互いの呼吸、脈拍、体温。そのすべてが同調しているかのような、官能的ですらある頼もしい連携。
「……まさか、衛宮がここまで先行しているとはな」
茜は、前方の結界を維持したまま、首だけを僅かに巡らせて士郎を一瞥した。
彼の瞳はいつも通り、世界を数字でしか見ていないような空虚なものだったが、その奥で高速で演算が回っていることは明らかだった。
士郎がここに来ていること自体は予想外の変数だったが、盤面そのものはまだ茜の掌の上にある。
「無事だったことは評価するが、君の役目はここで死ぬことじゃないはずだ。……下がっていろ、衛宮」
茜の冷徹な言葉に、士郎はハッと我に返った。そうだ、自分はここで死ぬわけにはいかない。桜のために、必ず生きて帰らなければならないのだから。
ドゴォォォォンッ!!
再び、広場の中央で天地を揺るがす爆発が起きた。
セイバーオルタの無慈悲な魔力放出を正面から受けたバーサーカーが、自身の肩に乗っていた主──イリヤスフィールを守るため、その巨体を反転させて後方へと大きく跳躍した。
ズシンッ! と城壁の上にイリヤを降ろし、狂戦士は再びその双眸を赤く燃え上がらせて黒い騎士王を睨みつける。
「……なんて、魔力圧なの……」
凛が、肩に置いた手に力を込めながら戦慄の声を漏らした。
セイバーオルタが、ただ一歩、前へと歩みを進める。
たったそれだけで、彼女の足元から黒い泥のような魔力が広がり、冬の寒さに耐えていた周囲の木々が一瞬にして生命力を奪われ、灰のように枯れ果てていく。
大気そのものが彼女の存在を拒絶し、悲鳴を上げているかのようだった。
「あれが、セイバー……? 嘘でしょ、あの魔力……普通のサーヴァントの枠を完全に逸脱しているわよ……!」
凛が、肩に置いた手に力を込めながら戦慄の声を漏らした。
だが、彼女の顔に浮かんでいたのは、敵の強大さに対する恐怖だけではない。今朝の作戦会議で構築したはずの「前提」が、目の前の現実と致命的に食い違っていることへの、魔術師としての強い困惑だった。
「……それに、おかしいわ。昨夜、私たちが臓硯の端末を完全に焼き払ったはず。操作主(ドライバー)がいないのに、誰があの影を動かして、あのセイバーをあんな化け物へと反転させて使役しているっていうの……!?」
「……」
凛の悲痛な疑問を背中で聞きながら、茜は自らの脳内にあるL4《環境並列演算網》と、起源である『解析』による特性をフル稼働させていた。
(……遠坂の言う通りだ。計算(ロジック)が全く合わない。操縦桿を握る臓硯という管理者が機能不全に陥っている今、あの影がこれほどの規模で自律稼働し、あまつさえ最強クラスのサーヴァントを取り込んで使役しているなど、システム的にあり得ない)
ならば、目の前の理不尽な事象を成立させている「バグ」の正体はなんだ。
(……対象の論理構造を解析。……魔力生成器官の異常。心臓部の魔術回路が、完全に別の『何か』と直結している……)
茜の視界に、セイバーオルタの霊基を構成する無数の数式が滝のように流れ込む。
だが、その深淵──彼女を無限に駆動させている「黒い泥」の根源へと解析の糸を伸ばそうとした瞬間、茜の脳内システムに強烈な警告音が鳴り響いた。
【WARNING:対象の論理構造の深部に、解析不能な概念的呪いを確認】
【これ以上の接触は、観測者自身の精神構造の致命的な汚染を招く危険性あり。L5《論理崩壊》の安全装置《出力制御制限(セーフティ・スロットル)》が起動寸前】
(……なるほど。深淵を覗けば、即座にこちらのシステムごと狂わされるというわけか)
茜は舌打ちをし、即座に解析の深度を浅く設定し直した。
あれは、ただの魔力供給ではない。
冬木の地下に眠る大聖杯、そのものと、パスが完全に繋がっている。
無限の魔力と、触れる者すべてを汚染する呪いの塊。
あれを真正面から打ち倒すことなど、通常の手段では絶対に不可能だ。
『──メディア。聞こえているな』
茜は、待機している自身のサーヴァントへと念話を飛ばした。
『はい、マスター。……あのような禍々しい魔力、神代の私であっても背筋が凍ります……』
「遠坂たちを守るための、最高強度の障壁をいつでも展開できるように準備しておけ。……この盤面は、一瞬の判断ミスが全滅に直結する」
『……了解いたしました』
茜が防御の布陣を固めた直後、戦況はさらに劇的な動きを見せた。
『──■■■■■■■■■■ッッ!!!』
イリヤを安全圏に置いたバーサーカーが、咆哮と共に再びセイバーオルタへと突貫した。
大気を引き裂く斧剣の横薙ぎ。
だが、セイバーオルタは身を沈めることもなく、ただ無造作に黒い聖剣を振り上げた。
ガァァァァァァァンッ!!
「……ッ!!」
士郎が息を呑む。
筋力A+を誇るヘラクレスの全力の一撃が、小柄な少女の剣によって完全に弾き返されたのだ。
いや、弾き返されただけではない。魔力の爆発によって姿勢を崩したバーサーカーの隙を突き、セイバーオルタの重い前蹴りが狂戦士の巨体を吹き飛ばした。
「バーサーカー……!!」
イリヤの悲痛な叫びが森に響く。
だが、真の恐怖はそこからだった。
吹き飛ばされ、地面を滑るバーサーカーの足元から、無数の「黒い帯状の影」が蛇のように這い出し、狂戦士の剛腕と両足に絡みついたのだ。
「ギ、ガァ……ッ!?」
バーサーカーが力任せに引きちぎろうとするが、その影は物理的な強靭さだけでなく、触れた端から魔力と生命力を奪い取る強烈な呪いを帯びていた。
「だめっ!! その攻撃を受けてはだめ、バーサーカー!!」
城壁の上から、イリヤが顔を青ざめて叫ぶ。
「その泥に触れたら、呪いに汚染されて、もう戻ってこれなくなる……っ!!」
だが、ヘラクレスほどの英雄であっても、聖杯の泥が具現化したその絶対的な呪縛からは逃れられなかった。
帯状の影はバーサーカーを拘束したまま、まるで獲物を引き寄せる蜘蛛の糸のように、彼をセイバーオルタの目の前へと引きずっていく。
無慈悲な黒き暴君は、引き寄せられてくる狂戦士を見下ろし、ゆっくりと聖剣を振り上げた。
「……シィッ!」
鋭い呼気と共に振り下ろされた黒い極光が、バーサーカーの強靭な肉体を袈裟懸けに両断した。
ドシャァァッ……!!
血飛沫が舞い、神話の巨人が大地に崩れ落ちる。
そして、その傷口から聖杯の泥がどろどろと入り込み、ヘラクレスの霊基そのものを内側から侵食し、犯し始めた。
「あ……ああ……バーサーカー……!!」
イリヤが、その場にへたり込み、絶望に顔を歪める。
だが、ギリシャの大英雄は、ただ一度殺された程度で消滅するような存在ではない。
ボォォォォンッ!!
突如、死したはずのバーサーカーの肉体から、赤黒い炎のような魔力が立ち上った。
彼の宝具『十二の試練(ゴッド・ハンド)』。
死をキャンセルし、蘇生する奇跡の呪い。
肉体を再生させながら、バーサーカーは再び立ち上がろうとする。
しかし、セイバーオルタはそれすらも織り込み済みだった。
彼女は、立ち上がろうとするバーサーカーの眼前に聖剣を突き出し、その刀身に、空間を歪めるほどの圧倒的な魔力を圧縮し始めた。
「……まずい。アレは、宝具の解放だ……!!」
凛が叫ぶ。
「バーサーカーに向けて、エクスカリバーを撃つ気よ! あんな至近距離で解放されたら、余波だけでこの森の半分が消し飛ぶわ……!!」
黒い魔力が渦を巻き、周囲の空気が悲鳴を上げる。
その圧倒的な破壊の予兆を見た瞬間、衛宮士郎の身体は、理性を置き去りにして弾かれたように前へと飛び出していた。
「……衛宮くん!?」
「イリヤ……!!」
士郎の視線の先には、城壁の上で呆然と座り込んでいる小さな少女の姿があった。
あの位置では、宝具の爆発の余波をモロに食らってしまう。
遠坂の制止の声も聞かず、士郎は全身の激痛を無視して『強化』を限界まで引き上げ、瓦礫だらけの広場を全力で駆け抜けた。
「……馬鹿な奴だ。自分の命を、また天秤の軽い方に投げ捨てるか」
その無謀な突撃を、アーチャーは冷ややかな目で観測していた。
茜はすでに、次の盤面の最適解を弾き出している。
『──メディア。セイバーの宝具の余波が来る。結界の強度を最大まで引き上げろ。衛宮たちもカバーするんだ』
『了解しました、マスター』
茜は隣で顔を青ざめている凛の腕を引き、後方へと促した。
「少し下がろう、遠坂。ここは巻き込まれる可能性がある」
「でも、衛宮くんが……!!」
「問題ない。あいつの面倒を見る『担当』が、ちゃんと動いている」
茜の視線の先。
士郎が城壁の瓦礫を駆け上がり、腰を抜かしているイリヤの元へギリギリのタイミングで滑り込んだ。
「イリヤ、捕まれ!!」
「え……? 士郎……?」
士郎は小さな銀髪の少女をその腕に強く抱きしめ、爆発から背を向けるように身を屈めた。
その直後。
『──約束された勝利の剣(エクスカリバー)……!!』
セイバーオルタの手から、黒い極光の奔流が放たれた。
天地を喰らい尽くすような、黒塗りの破壊の光柱。
至近距離でその直撃を受けたバーサーカーの肉体が、絶叫すら上げる間もなく光の中に呑み込まれ、蒸発していく。
そして、その凄まじい余波が、津波となって士郎とイリヤへと襲いかかった。
「……ッ!!」
士郎が死を覚悟した瞬間。
空中に展開されたメディア・リリィの神代の魔術結界が、黒い極光の余波を間一髪で弾き返した。
ガラスが軋むような悲鳴を上げながらも、メディアの結界は士郎たちを数秒間、完全に守り抜いた。
「……チッ。手のかかる小僧だ」
結界が砕け散る直前、赤い外套の弓兵が、士郎とイリヤの真上から音もなく舞い降りた。
アーチャーは、自身の背中側の腕で士郎の首根っこを乱暴に掴み、もう片方の腕でイリヤを抱えるように引き寄せると、そのままの勢いで後方へと大跳躍した。
凄まじい爆風が彼らの足元を通り過ぎ、アインツベルン城の城壁を粉々に吹き飛ばしていく。
数秒後。
爆風の圏外まで離脱したアーチャーが、茜と凛が待機している木陰へと着地した。
「ぐふっ……!!」
アーチャーは、抱えていた士郎を、まるでゴミ袋でも捨てるように雑に地面へと放り投げた。
一方で、腕の中にいたイリヤスフィールは、羽でも扱うように丁寧かつ静かに地面へと降ろす。
「痛ぇな……! 少しは手加減しろよ、アーチャー……!」
士郎が咳き込みながら抗議するが、アーチャーは鋼色の瞳を細め、心底からの苛立ちと侮蔑を込めて士郎を見下ろした。
「……手加減だと? 笑わせるな、衛宮士郎」
アーチャーの低い声が、冬の空気をさらに冷たく凍らせる。
「お前は昨夜、自らの理想を捨て、『桜だけの味方になる』と誓ったのではなかったのか? なのに何故、また他人のために自分の命を天秤の軽い方へ置く?。……お前のその、誰かを救わなければ気が済まないという自己犠牲の精神(病気)は、理想を捨ててもなお治っていないというわけだ」
アーチャーの言葉は、まるで過去の自分自身を呪うような、痛烈な響きを持っていた。
「……っ、それは……目の前で、イリヤが死にそうだったから……!」
「それが偽善だと言っている。お前がここで死ねば、お前が救うと誓った間桐桜はどうなる。……次に同じような愚行を犯せば、私が貴様をこの手で斬るぞ」
アーチャーの殺気すら帯びた警告に、士郎は反論できず、唇を強く噛み締めた。
「──説教はそこまでにしておけ、アーチャー」
茜の平坦な声が、二人の間に割って入った。
「今は、盤面の整理が先だ」
茜、凛、士郎、イリヤ。
そしてアーチャーとメディア。
絶望の森の中で、生き残った四人のマスターと二騎のサーヴァントが、ここに集結した。
だが、安堵する暇など一秒もなかった。
広場の中央で、爆煙が晴れていく。
そこには、無傷のまま黒い聖剣を下段に構えるセイバーオルタと、宝具の蘇生によって再び立ち上がろうとしている、半身を炭化させたバーサーカーの姿があった。
「……バーサーカー……」
イリヤが、涙を浮かべて広場へと駆け出そうとする。
その時、足元の地面が黒く染まり、無数の「影」が、今度はイリヤや凛たちのいる場所へ向けて、一斉に殺到し始めた。
「ッ! 来るわよ!!」
凛が臨戦態勢をとる。
絶望の第二幕が、今、切って落とされようとしていた。
[Time: 2004年 2月5日 午前10:02]
[Location: 冬木市郊外 ── アインツベルンの森・氷の城前広場]
爆煙が晴れていく。
視界を覆っていた土煙の向こうに、絶望の象徴が静かに立っていた。
黒い極光を纏った聖剣を下段に構える、漆黒の騎士王──セイバーオルタ。
その足元には、彼女の影から染み出した「この世の全ての悪」の泥が、意思を持った生き物のように蠢いている。
そして、その泥の一部が、無数の帯状の触手となって、士郎たちマスターが集結している木陰の陣地へと一斉に殺到し始めた。
遠坂凛が、両手に深紅の宝石を握り込む。
士郎は歯を食いしばり、痛む身体に鞭打って立ち上がろうとした。イリヤを守らなければならない。だが、魔術回路の暴走と全身の激痛が彼の動作を致命的に遅らせる。
「動くな、衛宮。君はそこでイリヤスフィールを守っていろ」
凛の隣に立つ竜胆茜が、ポケットから両手をゆっくりと引き抜きながら、極めて平坦な声で告げた。
彼は、圧倒的な才能を持ちながら己を認めず、孤独な観測者を気取りながらも、他者のために無自覚に命を削れる静かな善性。
だからこそ、自身が矢面に立つことに一切の躊躇いを持たなかった。
茜は、極端に低い自己評価を抱えながらも、戦場においては自身を「背景」「駒」として徹底的に客観視している。
彼の脳内ではすでに、常時稼働している《確率演算(アリスマティック・プロセッサ)》が、数万通りの事象の最適解を高速で弾き出し続けていた。
「キャスター」
茜は、背後に控える神代の魔女へと短く指示を飛ばした。
「防衛はこちらで引き受ける。君は決して前線には出ず、後方からバーサーカーの強化(バフ)と回復に全力を注げ。……あの怪物を、死の淵から引きずり戻すんだ」
「……了解いたしました、マスター。神代の秘術のすべてをもって、ヘラクレスを後押ししましょう」
メディア・リリィが杖を高く掲げ、古代ギリシャの神言を紡ぎ始める。
それを背中で聞きながら、茜は視線を前衛に立つ赤い弓兵へと向けた。
「影の迎撃は、僕と遠坂、そしてアーチャーで問題ない。……そうだな、アーチャー?」
「……フッ。言うじゃないか、小僧」
アーチャーが、両手に陰陽の双剣「干将・莫耶」を投影し、皮肉げな、しかし確かな信頼を込めた笑みを浮かべた。
「その言葉、ただの虚勢ではないのだろうな?」
「計算通りに動くだけだ」
迫り来る無数の黒い影。触れれば魔力を奪われ、精神を汚染される絶対の呪い。
その波濤を前にして、茜は意図的に極限集中状態へ入る《半覚醒(ゾーン)》を発動させ、全技術の精度を120%に底上げした。
さらに、体感時間を極限まで圧縮する《思考加速》を併用し、1秒を数百秒の密度として知覚・演算する。
「行くわよ、アーチャー! 茜!」
凛が先陣を切り、宝石魔術を解放した。
「Vier──Beschwörung!!」
強烈な氷結の魔力が広場を駆け抜け、先頭の影の群れを次々と凍りつかせる。すかさずアーチャーが双剣を投擲し、凍結した影を粉砕していく。
だが、影の数は無尽蔵だった。
死角から、地面を這うようにして三本の鋭い影の刃が、無防備に見える茜の足元と首筋を同時に狙って襲いかかる。
「竜胆……!」
士郎が叫ぶ。
だが、茜の表情は無機質なまま、ピクリとも動かなかった。
彼の脳内では、L3《確定未来の選別(ルート・セレクション)》が、数秒先の物理的な未来分岐をスキャンし、自身が被弾しない「最善のルート」をすでになぞっていた。
「──《関係性抽象式(リレーション・アブストラクト)》、接続」
茜は、最小の魔力消費で最大の出力を引き出す効率特化の魔術運用体系を起動する。
五大元素を「状態変換」として扱う高効率魔術群の中から、彼は《戦闘用状態遷移(コンバット・トランジション)》を選択し、役割固定を廃止して結果から逆算した。
「『火』と『風』」
茜が指先を微かに動かした瞬間。
迫り来る影の刃の真正面に、極度に圧縮された「熱励起」と「気圧差」が同時発生した。
火と風の元素転換による『熱圧衝撃』が、貫通特化の指向性を持って爆発する。
ドォォォォンッ!!
炎の爆発ではない。見えない熱の高圧波が、三本の影を根本から消し飛ばした。
さらに、横合いから回り込んできた別の影の奇襲に対しても、茜は《自己因果の最適化(セルフ・バイパス)》による絶対回避を常時補助として働かせている。
「攻撃を認識して脳が反応し回避する」のではなく、「回避が既に終わっている状態」を前倒しで成立させることで、彼はまるで最初からそこにいなかったかのように、幽鬼のような歩法で影の連撃をすり抜けていく。
「……相変わらず、デタラメな魔術行使だな」
アーチャーが影を斬り伏せながら、呆れたように呟く。
茜がこれほどまでの離れ業を連続して行使できるのは、彼の魔力回路が後天的な増築によって「量」「出力上限」共に底上げしたことによる物だ。
さらに、L4《環境並列演算網(レイライン・ボットネット)》を常時稼働させ、自己の絶大な計算負荷を冬木の龍脈や都市のノイズへと外部委託し分散させている。
それでも発生する脳への負荷は、L1《自動修復機構(セーフティ・リセット)》が因果をショートさせて自動初期化し、「脳が焼き切れる」リスクを強制的に防ぎ続けていた。
これらの常軌を逸した「あり得ない結果(物理法則の無視や異常な回避)」は、すべてL5《整合性管理層》の《確率偽装》や《干渉痕消去》によって世界の文脈に自然なブレとして自動補完・隠蔽されるため、第三者の目には「なぜか茜の周囲だけ影の攻撃が外れ、無駄な動きなく反撃が的中している」という、極端な幸運の連続にしか見えなかった。
「……これで、盤面のノイズは抑え込んだ」
茜は淡々と呟き、視線を広場の中央へと向けた。
「あとは、主役たちだ」
広場の中央。
宝具の直撃を受け、半身を炭化させながらも立ち上がろうとしていたバーサーカー。
その周囲を黒い影が這い上がり、再び彼を呪いの沼へと引きずり込もうとしていた。
「バーサーカーぁぁッ!!!」
イリヤスフィールの、喉が裂けるような悲痛な叫び声が森に響き渡った。
自身を守って傷つき、なおも呪いに囚われようとしている巨大な背中へ向けた、少女の祈り。
その声が届いた瞬間。
死に絶えようとしていた狂戦士の双眸に、灼熱の業火のような赤い光が猛烈に点灯した。
『──■■■■■■■■■■■■■■ッッ!!!』
神話の英雄の咆哮が、大気を震わせ、周囲の木々をへし折る。
バーサーカーは、自身の腕や脚に絡みつく無数の「影」を振り払うため、あろうことか、呪いに侵食された自らの肉体ごと、強靭な指で無造作に抉り取ったのだ。
ブチブチッ! と太い筋繊維が千切れ、大量の鮮血が広場にぶち撒けられる。
肉を削ぎ落とす激痛すらも狂化の彼方へ置き去りにし、バーサーカーは影の拘束から完全に脱却した。
そして同時に、後方からメディア・リリィの神代の魔術が、狂戦士の巨体を優しく、しかし圧倒的な力で包み込んだ。
「──『癒やしの光よ、神話の巨人に再臨の息吹を(アルゴノーツ・ヒール)』!!」
メディアが紡ぐ神代の治癒魔術は、現代の魔術とは根本的に次元が異なる。
それは傷を塞ぐだけでなく、「失われた状態」そのものを神話の神秘によって強引に巻き戻す大魔術だった。
バーサーカーの自ら抉り取った肉体が、そして宝具によって炭化した半身が、凄まじい蒸気を上げながら数秒で完全に再生していく。
さらに、メディアの付与した神代の防壁がバーサーカーの皮膚表面に薄い光の膜を形成し、影の「呪い」の侵食速度を劇的に遅延させていた。
『ガァァァァァァァァッ!!!』
復活。いや、神代のバフを受けたことで、通常のバーサーカーすら凌駕する暴風の化身と化した大英雄が、大地を砕いて跳躍した。
不意を突かれたセイバーオルタが、漆黒の聖剣を防御の構えへと移行する。
だが、速度が違った。
メディアの魔力供給と強化を受けたバーサーカーの踏み込みは、空間そのものを圧縮したかのようにセイバーの眼前へとワープし、無骨な斧剣がフルスイングで横薙ぎに振り抜かれる。
ガゴォォォォォォンッ!!!
「……ッ」
一切の感情を見せなかったセイバーオルタの口から、微かな息の漏れる音が響いた。
黒き極光の剣でガードしたものの、その規格外の筋力と加速が乗った一撃を相殺しきれず、セイバーオルタの小柄な身体が砲弾のように吹き飛ばされる。
アインツベルン城の外壁に激突し、分厚い氷と石の壁を数十メートルにわたって粉砕しながら、彼女はようやく停止した。
「やった……! バーサーカーの攻撃が、通った……!」
士郎が、希望に満ちた声を上げる。
本来であれば、無限の魔力供給を受けるセイバーオルタに成す術なく削り殺されていくはずの展開。しかし今、竜胆茜という観測者が構築した「キャスターによる神代の徹底支援」という盤面操作が、戦力差を奇跡的に拮抗させていた。
だが。
瓦礫の山の中から、黒い泥を滴らせながら、セイバーオルタがゆっくりと立ち上がった。
その漆黒の甲冑には深い亀裂が入り、血が滲んでいるが、彼女の足元に繋がった「影」から無尽蔵の魔力が供給され、傷口がたちまち黒い炎に包まれて修復されていく。
「……だめ。あの泥と繋がっている限り、あいつの魔力と回復力は無限よ」
凛が、奥歯を噛み締めながら呻くように言った。
セイバーオルタはバイザーの奥の冷酷な瞳で、立ちはだかる狂戦士を見据えた。
近接格闘において、神代のバフを受けたバーサーカーを圧倒するのは非効率的であると、彼女の中の冷徹な戦術回路が判断を下す。
ならば、選ぶべき手は一つ。
無限の魔力に任せた、圧倒的な火力の面制圧による「蹂躙」のみ。
「──『約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)』」
セイバーオルタが聖剣を横に薙いだ瞬間。
真名解放のフルパワーではない。しかし、通常攻撃に宝具級の魔力放出を乗せた「黒き極光の斬撃」が、何十メートルもの巨大な刃となってバーサーカーへと放たれた。
『■■■■■■ッ!』
バーサーカーは退かない。
彼はメディアの防壁に守られた巨体を盾にし、黒い光の刃を自らの胸板で真っ向から受け止めた。
ジューッ! と肉が焼け焦げる凄まじい音と臭いが森に充満する。
バーサーカーの命が一つ、容易く削り取られる。
だが、宝具『十二の試練』の蘇生と、メディアの神代の治癒が合わさり、彼は光の奔流の中で即座に復活を果たし、そのまま光の奔流を斧剣で叩き割って突進した。
ドゴォッ!!
バーサーカーの拳がセイバーの兜を殴り飛ばし、バイザーが砕け散る。
しかし同時に、セイバーが至近距離で聖剣を下から突き上げ、黒い極光がバーサーカーの胴体を真上に貫いた。
「ガ、アァァァァァッ!!」
互いの肉体を削り合う、凄惨なデスマッチ。
セイバーオルタは、バーサーカーが接近するたびに、呼吸をするような自然さでエクスカリバーの極光を連発し始めた。
縦薙ぎ、横薙ぎ、そして突き。
その一撃一撃が地形を変え、大気を蒸発させ、広場を地獄の釜の底へと変えていく。
「……す、凄い……。でも、これじゃあ……」
士郎が、戦慄と共に呟く。
バーサーカーは圧倒的な戦闘力で幾度もセイバーオルタの肉体を破壊している。しかし、大聖杯から無限の供給を受ける彼女にとって、それは致命傷にならない。
一方で、バーサーカーの命は、セイバーの理不尽な光の連撃の前に、確実に、一つ、また一つと削り取られていた。
「……マスター。魔力が、間もなく底を尽きます……っ!」
後方で回復を続けていたメディア・リリィが、膝をつき、苦悶の声を上げた。
神代の魔術による最高水準のバフと回復を、これほどのハイペースで連続行使させられれば、いかに優れたキャスターといえども魔力枯渇は免れない。
「僕の魔力(パス)を限界まで吸い上げろ、メディア。回路のバイパスは全開にしている」
茜が、影の群れを《気圧操作》による衝撃波で吹き飛ばしながら応える。
彼自身の魔力回路は、後天的増築による量EXという膨大な貯蔵量を誇り、メディアの枯渇を間一髪で支え続けていた。
(……だが、計算(リソース)が合わない)
茜は、極限状態の脳内で冷酷な計算結果を受け取っていた。
自身の魔力が尽きるのが先か、セイバーオルタを打ち倒すのが先か。
否。このままのペースで消耗戦を続ければ、必ず先に「バーサーカーの命(ストック)」が尽きる。
ドッゴォォォォォォンッ!!!
広場の中央で、ひときわ巨大な爆発が起こった。
セイバーオルタが、自身の足元に黒い極光を叩きつけ、全方位への無差別な魔力爆発を引き起こしたのだ。
その圧倒的な破壊の嵐に巻き込まれ、バーサーカーの巨体が空高く吹き飛ばされ、激しく地面をバウンドして転がった。
「バーサーカー!!」
イリヤが叫ぶ。
土煙が晴れた後。
地面に倒れ伏した大英雄の肉体からは、すでに立ち上る魔力の炎が消えかかっていた。
(……ストック、残り一機)
茜の《解析》が、冷徹な事実を観測する。
十二の試練。その十一の命が、ついに黒き暴君の前に削り切られたのだ。
「ガ……ァ……ッ」
それでも。
ヘラクレスは、自らの斧剣を杖のように地面に突き立て、最後の命の炎を燃やして、ゆっくりと、執念のままに立ち上がった。
その全身は満身創痍。メディアの神代のバフをもってしても治癒が追いつかず、肉体の至る所が聖杯の呪いによって黒く変色している。
対するセイバーオルタは、砕けたバイザーの奥から無感情な瞳で狂戦士を見据え、再び漆黒の聖剣に、トドメとなる絶望の極光を収束させ始めていた。
「……ここまで、か」
アーチャーが双剣を握り直し、低い声で呟く。
影の群れはなおも周囲から湧き出し続け、茜、凛、アーチャーの三人はその防衛ラインをギリギリで支えている。
前衛の最強の盾であるバーサーカーが沈めば、次に極光の餌食になるのは自分たちだ。
「……遠坂。アーチャー」
絶望的な状況の中。
竜胆茜は、依然として無機質な表情のまま、口に咥えていたチョコレートの棒をペッと吐き捨てた。
彼の半眼の黒い瞳の奥で、決して諦めることのない、狂気的なまでの演算の火花が散っている。
「……まだ、盤面は詰んでいない。次の一手を打つ」
残り命数、1。
迫り来る無限の影と、無慈悲な黒き極光の聖剣。
冬木の森を舞台にした絶望の死闘は、ついに最後の一撃(クライマックス)へと雪崩れ込もうとしていた。