空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第三章】共犯の空、空洞の対鏡、そして黄金の胎動

[Time: 2000年 4月下旬 午後0:40]

 

[Location: 穂群原学園中等部 ── 屋上]

 

 

 

初夏を思わせる、少しだけ熱を帯びた風がコンクリートの床面を撫でていく。

 

快晴の空の下、屋上の貯水槽の陰といういつもの指定席で、竜胆茜は自身の脳内に構築された《整合性管理層(コンシステンシー・マネージャ)》のログを静かに遡っていた。

 

 

 

昨夜、新都の路地裏で怪異を《局所確率遅延》で圧殺した一件。

 

 

《干渉痕消去(インターフェアレンス・クリア)》は完璧に機能したはずだった。飛び散った血肉は酸化して塵となり、戦闘の余波でひび割れたアスファルトは「経年劣化による自然な破損」として世界の文脈に上書きされた。一切の魔術的残滓も、生命活動の痕跡も残していない。

 

 

 

 

だが、それが「裏目」に出た。

 

 

「──で? 昨日の夜、新都の第三区画の路地裏で、貴方はいったい何をしたの?」

 

 

背後から掛けられた声は、春の陽気とは裏腹に、絶対零度の冷気を孕んでいた。

 

振り返ると、腕を組んで立つ遠坂凛の姿があった。その双眸は、優等生の仮面を完全に投げ捨て、魔術師としての酷薄なまでの理知と、わずかな焦燥に彩られている。

 

 

 

彼女の足元の影が、太陽の角度以上に濃く、鋭く伸びているように見えた。

 

 

「何のことだか分からないな。僕は昨日、遠坂の家から真っ直ぐアパートに帰っただけだけど」

 

 

茜は、半眼のまま抑揚のない声で答える。第一階層《完全躯体制御》が作動し、心拍数、血圧、瞳孔の開き具合、発汗に至るまで、全てを「無実の人間」の完全な偽装状態へと固定する。

 

 

 

 

だが、凛はため息を一つ吐き、茜の目の前のコンクリートの床に、小さなガラスの試験管をコトリと置いた。

 

 

中には、ごくわずかな、灰色の塵が入っている。

 

 

「今朝、霊地のノイズを調べていて気付いたの。特定の位置座標だけ、空間の魔力濃度が『綺麗すぎた』のよ」

 

 

 

凛の言葉に、茜の脳内で《構造解析》がフル回転を始める。

 

 

「血の匂いも、争った形跡も、腐臭もなかった。でもね、路地裏っていうのは本来、淀んだマナや人間の負の感情が吹き溜まる場所なの。それが、ある一定の空間から半径数メートルにわたって、まるで漂白剤をぶちまけたように『無』になっていた」

 

 

 

 

凛は茜を見下ろし、一歩、距離を詰める。

 

 

「私の目は誤魔化せないわよ、竜胆。貴方の左腕の傷、そして昨夜の異常な痕跡の消失。……貴方、何かとんでもないものを隠してるわね?」

 

 

 

(……チェックメイトか。遠坂の直感と解析能力を甘く見ていた。世界の文脈を完璧に整えたことで、逆に『完璧すぎるという不自然さ』を浮き彫りにしてしまった)

 

 

 

茜は静かに目を閉じ、L3《確定未来の選別》の演算ツリーを展開する。

 

ここで徹底的にシラを切り通す未来。凛と距離を置く未来。記憶を操作する未来……どれも、凛の警戒心を煽るか、彼女を深く傷つける結果に収束する。

 

 

 

 

ならば。最適解は一つしかない。

 

 

「一部の開示」による、関係性の再構築だ。

 

 

 

「……降参だよ、遠坂」

 

 

茜は小さく息を吐き、咥えていたチョコレート菓子の棒をポケットにしまった。

 

そして、わざと《可変存在解像度》の出力を一瞬だけ乱し、自分自身の存在感を空間に「滲ませた」。

 

 

 

「っ……!?」

 

 

凛が息を呑む。目の前にいる茜の輪郭が、一瞬だけブレて、世界のノイズと溶け合うような錯覚を覚えたのだ。

 

 

「僕は、対したことはできない。でも、少しだけ『確率をいじる』ことができる」

 

 

 

茜は淡々と嘘と真実を織り交ぜて語る。

 

「僕に向かってくる敵意とか、物理的な事象の確率を、一時的に保留して逸らす程度の護身術だ。昨日の夜、路地裏で野良犬みたいなバケモノに襲われたから、それを使って自滅させた。……痕跡を綺麗に消しすぎたのは、僕のミスだね」

 

 

世界のルールを根本から破壊する術式体系の存在は伏せ、あくまで「自衛のための特異体質」程度に矮小化して伝える。

 

凛は、目を丸くしたまま、茜の言葉を脳内で反芻していた。時計塔の魔術理論からすれば、事象の確率操作などというものは、大魔術級の代物だ。だが、目の前の少年が放つ「圧倒的な無害さ」が、そのスケールを錯覚させている。

 

 

「……貴方、自分がどれだけデタラメなことを言ってるか分かってる?」

 

 

 

やがて、凛は頭を抱えるようにしてしゃがみ込んだ。

 

 

「そんな能力、時計塔の連中に知られたら、目を付けられるわよ」

 

 

「分かってるよ。だから、誰にも言ってない。僕はただの背景でいたいんだ」

 

 

「……じゃあ、なんで私には教えたのよ」

 

 

 

凛が顔を上げ、茜を上目遣いに睨む。その瞳の奥には、怒りよりも、戸惑いと、隠しきれない「嬉しさ」の感情のベクトルが揺らいでいた。

 

 

「遠坂には嘘をつけないと思っただけだ。それに……遠坂は、僕を売り飛ばすような人間じゃないって、僕の計算(システム)が言ってるから」

 

 

 

茜の言葉に、凛は耳の裏まで真っ赤に染め上げ、プイッとそっぽを向いた。

 

 

「……っ、当たり前でしょ! 遠坂の魔術師は、友人を裏切るような真似はしないわよ」

 

 

「友人?」

 

 

「文句あるの!?」

 

 

「ないよ。光栄だ」

 

 

凛は立ち上がり、パンパンとスカートの埃を払う。

 

 

「いいわ。貴方のその物騒な護身術のことは、私だけの秘密にしておいてあげる。その代わり……これから何か厄介事に巻き込まれたら、絶対に私に言いなさい。一人で勝手に泥を被ったら、承知しないからね」

 

 

 

それは、遠坂凛という少女が、孤独なはぐれ者に対して不器用に差し出した「共犯関係」の契約だった。

 

 

 

茜は小さく頷く。

 

 

(……これでいい。僕は彼女の安全圏(セーフティネット)になればいい)

 

 

青空の下、二人の間に流れる空気は、ほんの少しだけその密度を変え、確かな信頼の形を帯び始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午後4:50]

 

[Location: 穂群原学園中等部 ── 弓道場裏の雑木林]

 

 

 

パーンッ、と。

 

 

 

張り詰めた空気の中、弦音が静寂を切り裂き、的を射抜く乾いた音が響く。

 

放課後の弓道場。部員たちが片付けを始めている中、竜胆茜は道場の裏手にある雑木林の近くを歩いている。

 

 

 

彼の脳内では、昨日の一件で生じた「冬木という街の異常なエントロピー」の再計算が行われている。《環境並列演算網》が拾い上げるノイズの中には、明らかに異質な、鉄と血の匂いが混じっていた。

 

 

「……竜胆、だっけ」

 

 

不意に、背後から声がした。

 

茜が振り返ると、そこにはゴミ袋を両手に提げた衛宮士郎が立っていた。

 

夕日が木々の隙間から差し込み、彼の赤茶色の髪を血のように染め上げている。

 

 

「衛宮くん。奇遇だね」

 

 

茜は表情を変えずに応じた。《可変存在解像度》によって、茜の存在感は周囲の木々や影と同化しているはずだった。通常なら、茜のすぐ横を通り過ぎても気づかない。

 

 

 

だが、士郎の瞳は、真っ直ぐに茜の「座標」を捉えていた。

 

 

「いや、奇遇ってわけじゃない。昨日から、なんだか妙な感じがしてさ。ずっとお前がいる辺りだけ、なんだか『的が空白になってる』みたいで、気になってたんだ」

 

 

士郎はゴミ袋を地面に置き、茜の前に立つ。

 

 

その無防備な立ち姿。

 

茜の《構造解析》は、士郎の肉体の内側で、無数の「剣の概念」が互いに研ぎ澄まされ、いつでも茜を串刺しにできる臨戦態勢に入っているような……

 

 

 

 

そんな雰囲気を感じる。

 

 

 

 

士郎自身は全く無自覚だろう。彼の起源である『剣』が、茜という「世界をバグらせる異物」に対して本能的な警戒を鳴らしているのだ。

 

 

 

「……君の目は、少し良すぎるね。いや、目じゃないか。君の『内側にあるもの』が、僕を弾いている」

 

 

茜の言葉に、士郎は少しだけ目を丸くし、そして、不思議そうに首を傾げた。

 

 

「竜胆って、変なヤツだな。……でも、分かるよ。お前、なんというか……『いない』みたいだ」

 

 

 

士郎の言葉は、悪意のない、純粋な観測の結果だった。

 

 

「普通の人って、生きてるって感じがするだろ。熱とか、息とか。でも、お前にはそれがない。最初から、この世界のどこにも存在していないみたいに、透けてる」

 

 

茜の胸の奥で、冷たい歯車が一つ、カチリと音を立てて回った。

 

 

 

見透かされている。

 

 

 

遠坂凛ですら、魔術というフィルターを通さなければ見抜けなかった茜の「存在の希薄さ」を、この無学な少年は、ただの直感だけで完全に言語化してのけた。

 

 

「……そういう衛宮くんこそ、中身が『からっぽ』に見えるけどね」

 

 

 

 

茜もまた、隠すことなく事実を突き返す。

 

「君が笑う時、君自身の感情のベクトルが一つも動いていない。誰かを助けるために動いているのに、君自身が助かりたいという生存本能がすっぽり抜け落ちている。……まるで、誰かの思想をインストールされただけの、精巧な機械(オートマタ)だ」

 

 

 

夕闇が迫る雑木林の中で、二人の少年は静かに向かい合っていた。

 

 

 

一人は、世界の全てを解析し、自分自身を世界から消去しようとする「観測者」。

 

 

一人は、他者のために全てを投げ出し、自分自身を剣へと変えようとする「狂信者」。

 

 

 

 

互いに、人間としての在り方が致命的に壊れている同類。だが、その向かう先は正反対だった。

 

 

 

「……そっか。竜胆には、そう見えるのか」

 

 

士郎は怒るでもなく、ただ少しだけ寂しそうに笑った。

 

 

「でも、俺はこれでいいと思ってる。助けられる人がいるなら、それが一番だ。……お前も、誰かのために自分の存在を消してるんじゃないのか?」

 

 

その言葉が、茜の思考を一瞬だけショートさせた。

 

 

(誰かのために、存在を消している?)

 

 

脳裏に浮かぶのは、屋上で顔を真っ赤にして怒っていた遠坂凛の顔。

 

 

「……僕はただの背景だから、どうでもいいことだよ」

 

 

 

茜はそれだけ言い残し、士郎に背を向けて歩き出した。

 

士郎はそれ以上引き留めることはしなかった。互いの領域には踏み込まない。それが、この異常な二人の間に引かれた、無言の不可侵条約だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午後11:30]

 

[Location: 冬木市 新都外れ ── 竜胆茜の自室(安アパート)]

 

 

六畳一間。家具と呼べるものは、安物のベッドと、部屋の中央に置かれた簡素な机しかない。

 

生活感というものが一切存在しないその空間は、竜胆茜という人間の空虚さをそのまま体現していた。

 

 

 

 

 

茜は机の前に座り、目を閉じていた。

 

 

L4《環境並列演算網》が、冬木の地下深くに流れる巨大な霊脈(レイライン)に寄生し、その情報の濁流を吸い上げている。

 

 

 

(大聖杯。……そして、それに付随する底なしの泥。言峰綺礼という虚無。衛宮士郎という剣)

 

 

 

冬木という盤面は、あまりにも危険な要素に満ち溢れている。

 

数年後、間違いなくこの街で致命的なシステム崩壊(殺し合い)が起きる。その時、遠坂凛は確実にその中心に立たされることになる。

 

 

 

 

「僕の手持ちの術式群(OS)だけじゃ、足りない。世界そのものを書き換えるような理不尽から彼女を守り切るには、演算速度も、出力も、圧倒的に不足している」

 

 

 

 

暗闇の中、茜の口から無機質な呟きが漏れる。

 

彼は、自らの内に眠る魔術回路──質と量の両面において後天的にバグを引き起こしたその絶大なポテンシャルを、ただの「演算の土台」としてしか使ってこなかった。

 

 

 

「……形(ハードウェア)が必要だ。僕の演算を物理的に具現化し、因果の境界線を固定するための、最強の端末(ターミナル)が」

 

 

 

茜は、第一階層《完全躯体制御》を極限まで引き上げた。

 

呼吸が止まり、心臓の鼓動が1分間に数回という冬眠状態にまで低下する。全身の筋肉が鋼のように硬直させ、指先の震えをナノメートル単位で完全に停止させる。

 

 

 

 

そして、彼はゆっくりと右手を虚空へとかざした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一魔術体系・五大元素魔術《エレメンタル・マニューバ》。

 

 

 

 

 

 

その内の属性【土】──《物質結晶化(マテリアル・クリスタライズ)》。

 

 

 

 

アパートの床下、さらにその数十メートル地下の地層から、微小な鉱物の成分を強引に吸い上げる。

 

 

空間に集まった見えない鉱物粒子が、茜の掌の上で、極小の球体を形成し始める。

 

 

 

(もっと高密度に。もっと純粋に)

 

 

 

 

第二魔術体系──《魔力圧縮(マナ・コンプレッション)》。

 

 

 

 

 

茜の回路が唸りを上げ、莫大な魔力が放出されると同時に、その全てを掌の上の極小の

球体へと押し込んでいく。

 

 

空気中の摩擦熱で、周囲の温度が急激に上昇する。茜の額から一筋の汗が流れ落ちるが、彼の表情は完全に死んでいた。

 

球体は、親指の先ほどの大きさから、ゆっくりとゴルフボール大へと成長し、その色彩を鈍い鉛色から、眩いばかりの『黄金』へと変成させていく。

 

 

 

 

 

(名称未設定。仮称:『黄金球体』。用途:因果律への干渉固定、および《確率地平》展開時の外部演算コア)

 

 

 

 

 

 

それは、魔術礼装という生易しいものではなかった。

 

 

茜自身の脳機能の一部を物理的に切り離し、物質として結晶化させた『もう一つの脳』。

 

世界のルールを無視し、あり得ない結果を強制的に出力するための、神を殺すための泥臭い兵器の雛形。

 

 

 

 

 

パキンッ、と。

 

 

 

 

 

空間が小さく悲鳴を上げるような音を立て、茜の掌の上に、完全な球体を成した黄金の石が落ちた。

 

凄まじい密度。見つめているだけで魂が吸い込まれそうになるほどの、濃密な情報の結晶。

 

 

 

「……ふぅっ」

 

 

 

茜は大きく息を吐き、机の上に突っ伏した。

 

一度の生成で、回路が悲鳴を上げ、全身の筋肉がひどい筋肉痛を起こしている。《自動修復機構》がフル稼働で脳の焼き切れを防いでいる状態だ。

 

 

 

(……完成には、まだ何年もかかる。層を重ね、術式を刻み込み、遠坂の魔力波形に同調するようにチューニングを続けなければ)

 

 

 

 

汗まみれの顔を上げ、茜は机の上の不完全な黄金を見つめた。

 

自分が何をしているのか、彼自身にも完全には理解できていなかった。

 

ただの背景である自分が、なぜ血を吐くような思いをしてまで、こんなオーバースペックな兵器を創ろうとしているのか。

 

 

 

 

 

衛宮士郎は言った。『お前も、誰かのために自分の存在を消してるんじゃないのか』と。

 

 

 

 

 

 

「……違うよ。僕はただ、彼女が笑っている背景が、少しでも綺麗であってほしいだけだ」

 

 

 

 

 

暗闇の部屋で、黄金の球体が静かに脈動している。

 

数年後に訪れる血塗られた聖杯戦争の夜に向け、竜胆茜という観測者は、冷徹なシステムブレイカーとしての牙を、誰にも知られることなく静かに研ぎ始めていた。

 

 

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