空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第四章】霧の学舎と、完璧すぎる空白

[Time: 2003年 10月中旬 午前10:15]

 

[Location: 英国 ロンドン ── 魔術協会本部「時計塔」・現代魔術科棟]

 

 

 

冬木の湿った空気とは根本的に異なる、冷たく重い霧の匂い。

 

何百年という歳月をかけて蓄積された「神秘」の残滓が、ロンドンの石畳と分厚い煉瓦の壁に染み付いている。魔術回路を持たない一般人でさえ、この街の裏側に足を踏み入れれば、原因不明の頭痛や息苦しさを覚えるだろう。高濃度のマナとオドが、物理的な気圧差以上の圧力を伴って空間を支配しているのだ。

 

 

「……はあ。やっぱり、時計塔の空気は気が引き締まるわね」

 

 

遠坂凛は、トレンチコートの襟をわずかに立てながら、格式高いマホガニーの扉を見上げて小さく息を吐いた。

 

16歳となった彼女は、中学時代のどこか背伸びをしたような危うさを脱ぎ捨て、名門・遠坂の次期当主にふさわしい、洗練された美しさと魔術師としての威厳を身に纏っていた。彼女が歩けば、すれ違う時計塔の生徒たち──その多くは彼女より年上である──が、その完成された魔力波形と美貌に無意識に道を譲る。

 

 

 

彼女は今や、極東の田舎町から招かれた魔術師として、この魔術の最高学府でも確かな存在感を放ち始めていた。

 

 

 

 

一方。

 

 

 

 

その凛の半歩後ろを、両手に大量の魔術書や資料の入った紙袋を提げて歩く青年がいた。

 

 

 

 

竜胆茜、16歳。

 

 

「……重い。遠坂、これ本当に全部今日の講義で使うのか? 僕の《確率演算》によると、この中の八割はただの物理的なウェイトトレーニングにしか機能しないって出てるんだけど」

 

 

「文句を言わないの。ただでさえ、部外者の貴方を私の『従者』って名目で特別に潜り込ませてあげてるんだから。荷物持ちくらい働きなさい」

 

 

「わかった。僕は遠坂の背景セットの一部だからね。観葉植物と同じだと思ってくれていいよ」

 

 

 

口に咥えた棒状のチョコレート菓子を上下させながら、茜は気怠げに呟いた。

 

黒いゆったりとしたタートルネックに、細身のパンツ。両耳に光る黒いピアス。どこからどう見ても、魔術の最高学府にはそぐわない、場違いな極東の若者である。

 

 

 

しかし、周囲の魔術師たちは、誰一人として茜を咎めない。

 

 

 

それどころか、彼の存在に「気づいてすらいない」

 

 

茜の脳内では、第一階層から第五階層に至る疑似魔術基盤(OS)が、かつてないほどの超高負荷で稼働していた。

 

 

 

 

(……時計塔の結界網、異常な密度だ。魔力波形のパターンが1秒間に数万回変動している。僕の《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》のアルゴリズムを、常にこの環境ノイズに同期させ続けないと、1秒で『異物』としてアラートが鳴るぞ、これ)

 

 

 

茜は、L4《環境並列演算網》の接続先を、冬木の龍脈からロンドンの地下霊脈へと一時的に切り替えていた。大英博物館周辺の巨大な魔力リソースに密かに「寄生」し、自らの存在を隠蔽するための莫大な計算処理を外部委託しているのだ。

 

 

存在確率の乱数スイッチング。

 

潜伏90%、接続9%、実行1%。

 

 

その切り替えを、時計塔の結界の走査タイミングと完全に同調させ、「そこにいるが、認識する価値のないノイズ」として自らを定義し続けている。

 

 

(……それに、僕自身の出力も抑え込まないといけない)

 

 

茜の体内に眠るEXランクの魔術回路。その常軌を逸した「量」と「出力上限」は、ただ呼吸をしているだけでも周囲の魔力を根こそぎ吸い上げ、あるいは暴走させてしまう危険性を孕んでいる。

 

そのため、L5《出力制御制限(セーフティ・スロットル)》を三重に掛け、自らの魔力反応を「出来損ないの三流魔術師」レベルにまで偽装していた。

 

 

「ほら、竜胆。ぼーっとしてないで。エルメロイ教室の特別講義、もうすぐ始まるわよ」

 

 

「了解。……胃が痛くなりそうだ」

 

 

 

茜は小さくため息をつき、凛の後を追って大講義室の扉をくぐった。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午前10:30]

 

[Location: 時計塔 現代魔術科棟 ── エルメロイ教室]

 

 

すり鉢状になった大講義室は、百人近い生徒たちの熱気で満ちていた。

 

現代魔術科(ノリッジ)。古い血統や伝統を重んじる時計塔において、新しい理論や他分野との融合を積極的に取り入れる異端にして最先端の派閥。

 

 

 

 

その長である男が、黒板の前に立っていた。

 

 

ロード・エルメロイⅡ世。

 

 

長い黒髪を無造作に束ね、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた、くたびれたコートの男。口には葉巻が咥えられ、紫煙が虚空に気怠く漂っている。

 

彼の魔術師としての力量は、時計塔の基準から言えば「平凡」あるいはそれ以下だ。

 

だが、茜の《構造解析(ストラクチャー・アナライズ)》は、彼を一目見た瞬間に、最大級の警戒アラートを鳴らした。

 

 

(──なんだ、この男。魔術回路の質は低い。出力も大したことはない。だが……『眼』が異常だ)

 

 

茜は、講義室の最後列、最も影の濃い座席に荷物を置き、気配を殺して立ち尽くしていた。最前列でノートを広げる凛の姿を遠くから見守りながら、茜はエルメロイⅡ世という存在をスキャンする。

 

 

(魔術の構造、歴史、術者の心理、因果の繋がり。その全てを読み解くことに特化した、究極の『解釈者』……。ベクトルは違うが、僕の起源『解析』と本質的に似ている。世界を俯瞰し、最適解を導き出す機能そのものだ)

 

 

 

「──静粛に」

 

 

 

エルメロイⅡ世の低く、しかしよく通る声が響くと、講義室の喧騒が水を打ったように消え去った。

 

 

「本日は、極東からの特別聴講生も交えているということで、基礎的な概念の再定義から入る。テーマは『五大元素の流動と、それに伴う概念的状態遷移のロスについて』だ」

 

 

 

エルメロイⅡ世が黒板にチョークを走らせる。

 

その内容は、一般の魔術師からすれば複雑怪奇な数式と属性理論の羅列だった。火を水に、水を土に変換する際の、魔力的な減衰率と世界からの抵抗(反発)をいかに計算するか、という高度な講義。

 

 

生徒たちが必死にペンを走らせる中、茜は壁に寄りかかり、半眼でその数式を眺めていた。

 

 

(……ロスが生じるのは当たり前だ。要素を『別の要素』に変換しようとするから、世界の定義とぶつかって摩擦が起きる。エルメロイⅡ世の理論は完璧だ。その摩擦を極限まで減らすためのアプローチとしては、時計塔の到達点と言っていい)

 

 

 

茜の脳内で、黒板の数式が3Dのモデルとして再構築されていく。

 

 

(だが、僕の《関係性抽象式》は違う。摩擦を減らすんじゃない。最初から『同じもの』として扱う。火も水も、ただのエネルギーの振動数の違いでしかない。……もし僕がこの数式を最適化するなら──)

 

 

 

無意識のうちに。

 

 

茜の指先が、虚空で小さく動いた。

 

 

L2《関係性抽象式》の演算基盤が、エルメロイⅡ世の板書した数式を、茜独自の「状態遷移」のアルゴリズムへと変換し、最適解を弾き出したのだ。

 

魔力は一切使っていない。ただ、「思考」しただけ。

 

 

 

しかし。

 

 

パキッ。

 

 

 

エルメロイⅡ世の手にあったチョークが、唐突に折れた。

 

 

「…………」

 

 

 

講義室に、奇妙な沈黙が落ちた。

 

 

エルメロイⅡ世は、折れたチョークをゴミ箱に捨て、ゆっくりと振り返った。その鋭い眼光が、百人の生徒たちの頭上を滑り、そして──最後列の暗がりに立つ、竜胆茜の「座標」でピタリと止まった。

 

 

 

(……なに)

 

 

 

茜の心臓の鼓動が、一瞬だけ跳ねた。

 

《可変存在解像度》は完璧に機能している。茜の魔力は完全に隠蔽され、ただの背景としてそこにいるはずだった。

 

 

 

だが、エルメロイⅡ世は『視た』のではない。

 

彼という異常な教師の直感は、空間に漂う魔術理論の波形に、一瞬だけ「あり得ないほどの超高密度の最適解」が干渉してきたことを、肌で、あるいは胃痛として感じ取ったのだ。

 

 

「……そこの、最後列の君」

 

 

エルメロイⅡ世の声が、静かに講義室に響いた。

 

最前列にいた凛が、ハッとして後ろを振り返る。彼女の顔には「嘘でしょ、竜胆が何かしでかした!?」という露骨な焦りが浮かんでいた。

 

 

生徒全員の視線が、最後列の暗がりへ向く。

 

 

《可変存在解像度》の機能が、多数の観測者からの直接的な視線(確定のベクトル)によって強制的に引き剥がされ、竜胆茜という個体が世界に「実体化」させられた。

 

 

「……僕ですか」

 

 

茜は、口からチョコレート菓子の棒を離し、極めて平坦な声で応じた。

 

エルメロイⅡ世は、眉間の皺をさらに深くし、胃の辺りを押さえながら茜を睨みつけた。

 

 

「君は、現代魔術科の生徒ではないな。……いや、そもそも魔術師としての魔力波形が読み取れない。ただの一般人のようにも見えるが……君は今、私の板書を見て、何を考えた?」

 

 

 

 

沈黙。

 

 

 

凛が青ざめた顔で立ち上がろうとするのを、茜は視線だけで制した。

 

ここで遠坂に庇わせれば、彼女のここでの立場が悪くなる。

 

 

 

「……何も」

 

 

 

茜は、あくまで無気力な、劣等生を装った声で答えた。

 

 

「ただ、先生の字が綺麗だなと。僕には難しすぎて、数式がただの模様にしか見えませんでしたから」

 

 

「嘘をつけ」

 

 

 

エルメロイⅡ世は、即座に切り捨てた。

 

「模様に見えた人間が、あんな……空間の魔力構造を一瞬で組み替えるような『視線』を送るわけがない。君は今、私の数式を頭の中で『解体』し、全く別の、もっと恐ろしく単純で暴力的な理論で『再構築』しただろう」

 

 

 

(……この男、バケモノか。僕の《構造解析》と《関係性抽象式》のプロセスを、気配だけで完全に言い当てた)

 

 

 

茜の背筋に、冷たい汗が流れる。

 

 

 

魔力隠蔽は完璧だった。だが

 

エルメロイⅡ世のような、世界の構造の綻びを見つけ出す達人からすれば、茜のいる空間だけが「ノイズ一つない完全な空白」になっていること自体が、最大の異常性だった。

 

 

「……買い被りです。僕はただの、遠坂の荷物持ちですので」

 

 

茜は深々と頭を下げた。

 

これ以上は何も言わない。語れば語るほど、この男にはボロを見抜かれる。

 

エルメロイⅡ世は、数秒間、茜の姿を穴の開くような目で見つめていた。

 

 

 

彼の瞳の奥で、膨大な知識と経験が、目の前の少年の正体を割り出そうとフル回転しているのが分かる。だが、どれだけ探っても「魔力回路の駆動」という証拠がない。

 

魔術師ではない。しかし、魔術の理を凌駕する『何か』。

 

 

「……はあ」

 

 

やがて、エルメロイⅡ世は深く、深くため息をつき、講義中にも関わらず懐から葉巻のケースを取り出した。

 

 

「フラットといい、スヴィンといい……なぜ私の胃を破壊するような規格の馬鹿は、こうもポンポンと湧いて出るんだ。……いいだろう。荷物持ち君。君のその『空白』は、今は見逃してやる。だが、私の教室で二度とそのデタラメな演算を回すなよ。空間のオドが歪む」

 

 

「……善処します」

 

 

 

エルメロイⅡ世は黒板に向き直り、講義を再開した。

 

講義室の緊張が解け、生徒たちは再びノートに向かい始める。凛だけが、心底ホッとしたような、それでいて茜を激しく問い詰めたそうな目で、一度だけ後ろを睨んでから前を向いた。

 

 

 

茜は、壁に寄りかかったまま、冷え切った自らの手のひらを見つめた。

 

 

(……世界は広い。僕のシステムを感覚だけで捉える人間が、この時計塔には実在する。もし僕の正体がバレて、面倒事にでもなれば……遠坂を巻き込むことになる)

 

 

 

茜の決意は、より冷酷で、より強固なものへと凝縮されていった。

 

 

 

自分は、ただの背景だ。

 

だが、あの冬木の街で数年後に起きる理不尽な殺し合い──大聖杯のシステム。

 

 

あれだけは、時計塔の連中が介入してくる前に、自分が全て『解体』しなければならない。凛に、そして自分自身に火の粉が降りかかる前に。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 同日 午後6:00]

 

[Location: ロンドン市内 ── 大英博物館近くのカフェテラス]

 

 

ロンドンの街に、冷たい雨が降り始めた。

 

石畳を濡らす雨音を聞きながら、凛と茜は、アンティーク調の小さなカフェで向かい合って座っていた。

 

凛の前には上品な紅茶とスコーン。茜の前には、ブラックコーヒーが冷めかけている。

 

 

「……で?」

 

 

凛は、カップをソーサーに置き、腕を組んで茜を睨みつけた。

 

 

「今日の講義で、貴方、ロード・エルメロイⅡ世に何をしたの。正直に答えなさい」

 

 

「何って……ただ、板書を見てただけだよ」

 

 

 

茜は視線を逸らし、窓の外の雨粒の軌跡を《確率演算》で追いかけながら答えた。

 

 

「でも、少しだけ……僕なりの計算式で、あの先生の理論を頭の中で解き直した。それだけだ。本当に、魔力は一ミリも使ってない」

 

 

「それだけで、あのロードをあそこまで動揺させたっていうの……?」

 

 

凛は信じられないというように頭を振った。

 

「あの人はね、時計塔の中でも屈指の『観察者』よ。魔術の腕はともかく、理論と解読において右に出る者はいないわ。その彼が、貴方を『空間を歪める馬鹿』って呼んだのよ。……貴方、本当にどこまで異常な能力を隠してるの」

 

 

「隠してるわけじゃない。ただ、僕のやり方は時計塔の理(ルール)から外れてるから、説明しても理解されないだけだ」

 

 

 

茜はコーヒーを一口飲み、その苦味にわずかに顔をしかめた。

 

 

「遠坂。僕は、遠坂の隣で平穏に過ごせればそれでいい。あの先生は鋭すぎる。もう二度と、あの大講義室には連れて行かないでくれ」

 

 

 

その言葉に、凛の瞳がわずかに揺れた。

 

茜の言葉の根底にある、強烈な「自己否定」と「現状への執着」。彼がどれだけの才能を持っていようと、それを誇ることも、野心に燃えることもない。ただ「遠坂凛の隣という背景」であり続けることだけを望んでいる。

 

 

「……貴方って、本当に欲がないわよね」

 

 

凛はため息をつき、少しだけ声を柔らかくした。

 

 

「時計塔の連中が見たら、貴方のその力を求めて追いかけて来るわよ。でも……貴方は、そういうの、一番嫌いだものね」

 

 

「うん。僕は、面倒なことは嫌いだ。平和が一番」

 

 

「……バカ。そんな力を持っておいて、平和に生きられるわけないじゃない」

 

 

 

凛はそう言って、自分の皿にあったスコーンを一つ、茜の皿に乱暴に置いた。

 

 

「ほら、食べなさい。頭使って、糖分足りてないんでしょ」

 

 

「……ありがとう、遠坂」

 

 

茜は、スコーンを手に取り、静かにかじった。

 

甘さとバターの香りが、口の中に広がる。

 

 

 

(平和に生きられるわけがない。……分かっている)

 

 

茜の胸の奥で、あの夜に生み出した『黄金球体』の胚が、未だに冷たい熱を帯びて脈動しているのを感じた。

 

 

 

大聖杯。言峰綺礼。時計塔。

 

数多のノイズが、冬木の街に収束しようとしている。

 

 

2004年。第5次聖杯戦争の開戦まで、あと数ヶ月。

 

 

「……遠坂」

 

 

「何?」

 

 

「僕は、遠坂のことは絶対に守るよ。……背景の意地としてね」

 

 

 

 

窓の外の雨音が、茜の呟きをかき消した。

 

凛は呆れたように笑いながらも、その頬をほんの少しだけ赤く染めていた。

 

 

 

 

だが、茜の瞳の奥は、これまでにないほど冷徹な『システム破壊』の演算速度へと達していた。来るべき戦争を、世界に気づかれることなく内側から崩壊させるための、静かなるカウントダウンが始まっていた。

 

 

 

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