【第一章】黄金の落胤と、終わる世界の観測
[Time: 2004年 1月下旬 午後7:00]
[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸 ダイニング]
冬の冷気が窓ガラスを白く曇らせている。
遠坂邸の広大なダイニングルームには、オレンジ色の暖かな照明が落ち、テーブルの中央には湯気を立てるシチューと、綺麗に切り分けられたバゲットが並べられていた。
壁掛け時計の秒針が、静寂の中で一定のリズムを刻んでいる。
「……冷めないうちに、食べなさいよ」
遠坂凛は、自らの皿に視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
彼女の声音には、いつものような張り詰めた強さや、茜に対する呆れたような軽口の響きはない。どこか微かに震えるような、ひどく静かなトーンだった。
「いただきます」
竜胆茜は、いつものように無表情のままスプーンを手に取り、シチューを口に運んだ。
完璧に計算された火加減、肉の柔らかさ、スパイスの調和。相変わらず、彼女の料理は茜の第一階層《確率演算(アリスマティック・プロセッサ)》が弾き出す「味覚の最適解」を容易く超えてくる。
だが、今日のこの夕食が、ただの「日常の延長」ではないことを、二人はとうに理解していた。
(……空間のオドが、極限まで張り詰めている。遠坂の魔術回路は、すでに臨戦態勢のアイドリング状態に移行している。冬木という街全体のノイズが、ある一つの特異点──聖杯戦争の開幕へと収束しようとしている)
茜はシチューを飲み込みながら、凛の横顔を視界の端に捉えた。
彼女の瞳の奥には、恐怖、覚悟、そして、茜に対する名残惜しさといった複雑な感情のベクトルが渦巻いている。魔術師としての矜持が、彼女を血みどろの殺し合いへと向かわせる。そして、彼女は茜という「ただの背景」を、その地獄に巻き込むつもりは一切なかった。
「……明日から、私、少し忙しくなるわ」
凛が、バゲットの端をちぎりながら、虚空に向かって言うように口を開いた。
「夜は家を空けることが多くなるし、学校も休むかもしれない。……だから、お弁当も作れないし、一緒に帰ることもできなくなる」
それは、遠坂凛なりの不器用な「別れの言葉」であり、「安全圏にいろ」という警告だった。
「そうか。残念だ」
茜の返答は、ひどく無機質だった。
「遠坂の弁当が食べられないと、また俺の血中糖度と栄養バランスが崩れてしまう。でも、遠坂家の当主としての仕事なら、仕方ない」
「……ほんと、アンタって奴は」
凛は小さく苦笑し、ようやく茜の方へ視線を向けた。
「自分の心配ばかりね。でも、それでいいわ。貴方はそのまま、何も見ず、何も知らずに、この街の端っこでぼーっとしてなさい。……絶対、私の前には現れないでよね」
「了解した。俺は背景だからね。主人公の邪魔はしない」
茜は淡々と頷いた。
嘘ではない。彼女の「前」には現れない。彼女の視界の外側、因果の裏側で、全てを処理するだけだ。
凛はそれ以上何も言わず、ただ静かに食事を進めた。茜もまた、口の中に広がる温かな味を、《完全記録》の深層領域へと永久保存する。
(この穏やかな時間を、あと数日で終わらせようとする世界のシステム。……ならば、俺がそのシステムを根底から解体する)
時計の針が進む音だけが、二人の最後の日常を静かに看取っていた。
[Time: 同日 午後11:45]
[Location: 冬木市 新都外れ ── 竜胆茜の自室(安アパート)]
氷点下に近い冷え込みの中、暖房もつけていない六畳一間。
竜胆茜は、部屋の中央で上半身裸のまま結跏趺坐を組み、目を閉じていた。
彼の全身から、異常なまでの量の汗が吹き出し、それが冬の冷気によって白い蒸気となって立ち昇っている。
机の上には、数年前に基礎コアを生成し、以来、夜な夜な自身の血と魔力と演算論理を注ぎ込み続けてきた『黄金球体』が浮遊していた。
(最終フェーズ。概念の固定化、および外部演算コアとしての完全同期)
茜の体内にある、魔術回路。
通常、魔術師の回路は神経に似た擬似神経として機能するが、茜の回路は起源「解析」と第一階層の異常な非魔術スペックに引きずられ、後天的に変質を起こしている。
その全ての回路を全開にし、自らの脳を焼き切る覚悟で、黄金球体への「パス」を繋ぐ。
「ガ……ッ、あ……ぁ……ッ」
茜の喉から、獣のような低い呻き声が漏れた。
《完全躯体制御》による痛覚遮断すら意味を成さない。肉体的な痛みではなく、魂の形そのものを歪められるような、根源的な激痛。
L1《自動修復機構》がエラーを吐き出しながらも、秒間数万回の細胞修復を繰り返し、茜の生命を辛うじて繋ぎ止めている。
(圧縮。世界のルールを無視する演算を、この極小の球体に全て書き込め。魔力の流動を断ち切り、因果の糸を直接縛り上げるための、重力場(アンカー)を形成しろ)
『黄金球体』が、眩い閃光を放ち始めた。
その光は物理的なものではなく、空間に存在する確率と事象が「強制的に確定」させられていくことによる、情報エントロピーのスパークだった。
ブツンッ、と。
茜の体内で、何かが決定的に「変質」する音が響いた。
魔術回路が、黄金球体との同期負荷に耐えきれず、一度完全に崩壊し──そして、次の瞬間、黄金球体を中核とする「全く新しい疑似魔術基盤」として再構築されたのだ。
「……はぁっ、はぁっ……」
茜は畳の上に倒れ込み、荒い息を吐いた。
口の端から一筋の血が流れ落ちる。だが、その瞳には、かつてないほどの冷徹な光が宿っていた。
宙に浮いていた黄金球体が、スゥッと茜の胸元へと吸い込まれ、そのまま物理的な質量を消失させて彼の肉体の内側(概念的座標)へと同化した。
(……完了した。俺の演算能力は、これで世界の『確定』そのものを遅延・操作できる領域に達した)
最高の切り札の完成。
これにより、茜のL5《整合性管理層》の隠蔽能力と、L2《自己因果の最適化》の干渉力は、時計塔の上層クラスの魔術師ですら感知できない次元へと到達した。
窓の外では、雪が静かに舞い降り始めていた。
聖杯戦争という名の殺し合いの舞台が、いよいよ整おうとしている。
[Time: (2004年2月1日) 午前1:00]
[Location: 冬木市 深山町 ── 遠坂邸を遠く見下ろす高台]
夜。
茜は、遠坂邸から数キロ離れた高台の鉄塔の上に立っていた。
吹き荒れる暴風が茜の体を叩きつけるが、《気圧操作》と《事象適応》により、彼の周囲には無風の真空地帯が形成されている。
茜の視線は、遠坂邸の地下工房へと向けられていた。
視覚ではない。第四階層《因果ログ解析》と《魔力視》のハイブリッド観測。
(……遠坂の魔力波形が極限まで高まっている。詠唱の開始。彼女は今、自らの全存在を懸けて、世界の裏側(英霊の座)へとアクセスしようとしている)
ドクンッ、と。
空間そのものが心臓のように脈打った錯覚。
次の瞬間、遠坂邸の地下から、冬木の夜空を貫くような、凄まじい密度の魔力の柱が立ち昇った。
それは、人間の魔術師が一生かけても到達できない、神代の神秘をそのまま現実に引っ張り出したかのような、圧倒的な「質量の塊」。
(──召喚成功。クラス・アーチャーの霊基(コンテナ)が、世界に定着した)
茜は、その強大な英霊の因果の糸を辿ることはあえてしなかった。彼が誰であろうと関係ない。重要なのは、凛が「強力な手札」を手に入れ、無事に最初の試練を生き延びたという結果(ファクト)だけだ。
「……さて。彼女が主役として盤面に立ったなら、俺の仕事は『余計なノイズの事前排除』だ」
茜は、胸の奥に沈めた黄金球体の演算を回し、冬木全土の霊脈の揺らぎをスキャンした。
聖杯に選ばれたマスターたち。
彼らは今、それぞれのアジトでサーヴァントを召喚するための準備を進めている。
もし彼らが強力なサーヴァントを召喚し、凛と衝突することになれば、最悪の場合、凛が死ぬ「未来の分岐」が発生してしまう。
ならば、答えは単純だ。
(サーヴァントを呼ばれる前に、マスターという『原因』そのものを物理的に刈り取る)
《環境並列演算網》が、三つの魔力座標を弾き出した。
一つ。冬木郊外のコンテナ。中東系の油の匂いがする成金魔術師。アトラム・ガリアスタ。
一つ。郊外の森の奥。異常な密度のホムンクルスの気配。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
そして、もう一つ。
(……深山町の西外れ。放置された双子館。時計塔の封印指定執行者にして、武闘派の最高峰……バゼット・フラガマクレミッツ)
茜の脳内データベースが、彼女の情報を照合する。
素手で死徒を殴り殺すほどの異常な身体能力と、伝承保菌者(ゴッズホルダー)としての切り札。もし彼女がサーヴァントを召喚し、凛と直接戦闘になれば、凛の生存確率は著しく低下する。
「……最初のターゲットは、彼女(バゼット)だ」
茜は鉄塔から音もなく飛び降りた。
《関係性抽象式》の属性【風】を用いた推進と、【空】を用いた落下ベクトルの相殺。
闇の中を、一羽の黒い鳥のように滑空しながら、茜は双子館へと一直線に向かった。
[Time: 同日 午後1:30]
[Location: 冬木市 深山町 ── 双子館 周辺の森]
深い森に囲まれた、廃墟のような洋館。
その周囲には、バゼットが張ったと思われる、極めて高度で攻撃的なルーン結界が何重にも張り巡らされていた。少しでも魔力を持った者が触れれば、即座に雷撃や炎が対象を焼き尽くす殺意の網。
だが、茜は歩みを一切止めない。
L2《参照先置換(IDスワップ)》。
結界が「侵入者」として茜のIDを検知しようとした瞬間、茜はその参照先を「舞い落ちる雪の結晶」へとリアルタイムで書き換え続ける。結界は茜を感知できず、彼はただの幻影のように、致命的なルーンの網目をすり抜けていく。
(洋館の二階、東の部屋。……魔力の充填音が聞こえる。ルーンによる召喚陣の構築中か)
バゼット・フラガマクレミッツは、今まさに、彼女の切り札であるサーヴァント(ランサー)を召喚しようとしている。その直前の、最も隙が生じる瞬間。
茜は音もなく洋館の壁を駆け上がり、二階の窓の桟に足をかけた。
窓ガラスの向こう側。
薄暗い部屋の中で、床に描かれた血のルーン陣の中央に立ち、厳格な表情で詠唱を紡ごうとしている男装の麗人。バゼットの姿があった。
彼女の手には、ルーンが刻まれた古い耳飾り(触媒)が握られている。
(……彼女に恨みはない。だが、遠坂の背景を乱す者は、システムから除外する)
茜は、窓ガラス越しに右手を持ち上げた。
第一階層《完全躯体制御》により、茜の心拍と殺気は完全に「ゼロ」に固定されている。野生の獣ほどの直感を持つバゼットでさえ、窓のすぐ外に「死神」が立っていることに全く気づいていない。
茜の瞳の奥で、黄金球体が静かに回転を始める。
L2干渉術式。
◆《物理条件の先行成立(エディット・フィジクス)》──起動準備。
◆《自己因果の最適化(セルフ・バイパス)》──接続。
「告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に──」
バゼットの唇が動き、召喚の詠唱が開始されたその瞬間。
茜は、ガラスを隔てたまま、虚空に向かって静かに拳を突き出した。