空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第二章】因果の激突と、血塗られた召喚陣

[Time: 2004年 2月1日 午後1:35]

 

[Location: 冬木市 深山町 ── 双子館 二階東の部屋]

 

 

窓ガラスを隔てた、わずか数センチの距離。

 

冬の凍てつく夜気と、部屋の内側に充満する高密度のオドが、一枚の透明な壁を挟んで拮抗している。床には血で描かれたルーンの召喚陣。その中央に立つバゼット・フラガマクレミッツの唇が、英霊を縛るための詠唱を紡ぎ出そうとしていた。

 

 

 

竜胆茜は、第一階層《完全躯体制御》によって心拍を極限まで落とし、瞳の瞬きすら停止させたまま、そっと右の拳を窓ガラスへと向けた。

 

狙うのは、彼女の側頭部。脳を揺らし、一撃で意識を刈り取るための最短にして最適の座標である。

 

茜の胸の奥深く、概念的な座標に同化させた魔術礼装──いや、彼自身の脳の拡張デバイスである『黄金球体』が、微かな熱を帯びて回転を始める。

 

本来設計していた完全版『黄金天球』には程遠い。錬金術や天体魔術の理論を継ぎ接ぎし、高密度の黄金や代替素材で無理やり形にした劣化版。真の神域の演算には耐えられないが、局所的な因果の操作には十分すぎる出力を誇っている。

 

 

 

 

(L2干渉術式──展開)

 

◆《物理条件の先行成立(エディット・フィジクス)》

 

◆《自己因果の最適化(セルフ・バイパス)》

 

事象の順序を狂わせる。

 

通常、物理的な打撃は「拳を振るう」→「対象に届く」→「衝撃が発生する」という不可逆のプロセスを辿る。だが、茜の構築したOSは、黄金球体の演算リソースを用いてそのプロセスを根本から書き換える。

 

 

『接触した』という結果だけを、0.05秒の未来から現在へと強引に引き摺り下ろす。

 

茜は、ただ静かに「既に当たっている拳」を虚空に突き出した。

 

 

 

 

──ドゴォォォォォォォンッ!!

 

 

 

 

遅れて、窓ガラスが粉々に砕け散る。

 

それは茜の拳が物理的に割ったのではない。彼の拳が『既にバゼットの頭部を捉え、その衝撃波が逆流して』ガラスを内側から吹き飛ばしたのだ。

 

 

「────ガ、ッ!?」

 

 

召喚の詠唱を紡いでいたバゼットの身体が、目に見えない巨大な鉄槌で横殴りにされたかのように、真横へと吹き飛んだ。

 

彼女の強靭な肉体が宙を舞い、部屋の壁を突き破って隣の書斎へと叩き込まれる。粉塵が舞い上がり、砕けたレンガと木材が雨のように降り注いだ。

 

 

 

(……処理完了。脳震盪による完全な昏倒。令呪の切除フェーズへ移行する)

 

 

茜がそう判断し、砕けた窓枠から部屋の中へと足を踏み入れた、その瞬間だった。

 

 

 

 

 

「……ハァッ、アァァァッッ!!」

 

 

 

 

土煙の中から、裂帛の気合いと共に、目にも留まらぬ速度で『回し蹴り』が飛んできた。

 

空気を切り裂く鋭い風切り音。鋼鉄の柱すら容易くへし折るであろう、純粋な暴力の塊。

 

茜は《自己因果の最適化》の絶対回避システムを自動作動させ、脳が「蹴りが来る」と認識するよりも前に、身体を紙一重の座標へと沈み込ませて回避した。

 

彼の鼻先を、バゼットの革靴が死の気配を伴って通り過ぎていく。

 

 

(……一撃で、落ちていない?)

 

 

茜は半眼をわずかに見開き、土煙の奥から立ち上がる女の姿を観測した。

 

 

 

バゼット・フラガマクレミッツ。

 

 

 

その顔の左半分は赤黒く腫れ上がり、口の端からはツーッと一筋の血が流れている。焦点がわずかにブレており、脳が激しく揺らされたことは明白だった。茜の『先行する打撃』を察知して防御のルーンを展開することは、彼女の異常な直感をもってしても間に合わなかったのだ。

 

 

 

 

 

だが、彼女は倒れなかった。

 

武闘派の頂点、封印指定執行者として修羅場を潜り抜けてきた彼女の『肉体そのものの規格外の耐久力』と『絶対に倒れないという強靭な戦士の意志』が、茜の黄金球体の出力による昏倒の閾値を、ほんの数パーセントだけ上回ったのだ。

 

 

「……何者だ、貴様」

 

 

バゼットは、足元をわずかにふらつかせながらも、両手を胸の前に構えるボクシングに似た独特のファイティングポーズを取った。その瞳には、突如として現れた死神に対する驚愕よりも、己の儀式を邪魔されたことに対する激烈な怒りと殺意が燃え上がっている。

 

 

「ルーンの結界が、全く反応しなかった。気配も、魔力の駆動音も。……ただの暗殺者ではないな」

 

 

「……少し驚いたよ。今の演算は、完全に致死量の一歩手前で設定していた。君の持ち前の防御力とタフネスが、僕のシステムの数値をエラーさせたらしい」

 

 

 

茜は平坦な声で答えながら、黒いコートのポケットから両手をゆっくりと引き抜いた。

 

 

「でも、結果は同じだ。一度で潰れないなら、潰れるまで叩くだけだ」

 

 

言葉が終わるか終わらないかのうちに、バゼットの姿がブレた。

 

 

「舐めるなッ!」

 

 

踏み込みの音が消失するほどの、爆発的な神速のステップ。

 

脳震盪を起こしているはずの彼女の動きには、一切の躊躇いがなかった。彼女の拳には、硬化と破壊のルーンが幾重にも重ね掛けされており、その一撃は小型の爆弾に等しい威力を孕んでいる。

 

 

 

左のジャブ、右のストレート、さらにガードをこじ開けるための強烈なミドルキック。

 

 

 

秒間数発に及ぶ、息もつかせぬ連続攻撃。

 

対する茜は、その場で一歩も動かなかった。

 

 

 

 

(対象の運動ベクトル、筋肉の収縮率、骨格の回転軸。全て《構造解析》でスキャン済み。……最適解を導き出す)

 

 

 

茜は《事象適応》によって過去に学習・統合してきたあらゆる武術の概念をパッチワークし、独自の近接防衛術として肉体に出力した。

 

 

 

彼女の右ストレートをブロックするのではない。手首の外側にそっと手のひらを添え、その破壊のベクトルを斜め上へと『逸らす』

 

強烈なミドルキックに対しては、膝の関節のわずかな死角に自らの足先を滑り込ませ、力の伝達経路を物理的に『詰まらせる』

 

 

 

 

バゼットの猛攻が、虚空を切り裂き、あるいは茜の柔らかな受け流しによって自身の体勢を崩す原因へと変換されていく。

 

 

「チィッ……!」

 

 

彼女は舌打ちし、さらに踏み込んで肘打ちを放とうとする。

 

だが、茜は既に彼女の懐、その絶対的な死角に入り込んでいた。

 

 

「君の格闘術は、敵を圧倒し、制圧することに特化している。だからこそ、自分の力の行き場を失った時のリカバリーが遅い」

 

 

茜は無機質に呟きながら、彼女の鳩尾に向かって、無駄な予備動作を一切省いた掌底を放った。

 

ただの物理攻撃ではない。L2《関係性抽象式》の極低出力起動。

 

属性【風】の気圧操作を掌の先端に圧縮し、接触の瞬間に彼女の体内へと『貫通する衝撃波』として解放する。

 

 

「ガハッ……!?」

 

 

バゼットの背中側の衣服が弾け飛び、彼女はくの字に折れ曲がって後方へと吹き飛んだ。

 

壁に激突し、血を吐きながらも、彼女は信じられないほどの執念で即座に体勢を立て直す。

 

 

(……強い。脳が揺れ、内臓にダメージを受けてもなお、闘争本能が減衰していない。さすがは時計塔の執行者だ)

 

 

茜の胸の中で、劣化版の『黄金の球体』が軋むような音を立てていた。演算の連続使用による負荷。だが、まだ彼にとっては許容範囲の出力だ。

 

 

「魔術と武術の……高度な融合……。いや、違う。貴様のそれは、もっと根本的に歪んでいる……!」

 

 

バゼットは荒い息を吐きながら、革手袋の甲に刻まれたルーンを指先でなぞった。

 

 

 

「近接で捌かれるなら、燃え尽きろ!」

 

 

 

【炎(アンサズ)】のルーン。

 

 

 

彼女の周囲の空間が一瞬にして灼熱に包まれ、業火のうねりが茜に向かって牙を剥く。

 

 

「……直截的で、効率が悪い」

 

 

茜は歩みを止めず、虚空に向かって指を弾いた。

 

 

 

《関係性抽象式》による状態遷移の介入。

 

炎という現象を「熱」というエネルギーの振動へと分解し、そこに周囲の「流体(空気中の水分)」の概念を強制的にぶつける。

 

 

 

 

シュウゥゥゥゥッッ!!

 

 

 

 

炎は茜に届く数メートル手前で、莫大な水蒸気爆発を起こして白い霧へと変わった。

 

 

 

 

 

視界がゼロになる。

 

だが、茜の《因果ログ解析》にとって、視覚的ブラインドなど何の意味も持たない。

 

霧の向こうで、バゼットが切り札を抜く気配がした。

 

 

 

「……貴様が何者かは知らない。だが、私の邪魔をするならば、ここで死ね!」

 

 

バゼットの手には、革の筒状の魔術礼装が握られていた。

 

 

 

その先端から現れたのは、ただの鉛の玉。

 

しかし、それを見た瞬間、茜の脳内の最高警戒システムが悲鳴のようなアラートを鳴らした。

 

 

 

(対象を解析。……概念武装『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』。後から斬って先に断つ、因果逆転の呪い)

 

 

 

相手が「切り札」を発動した瞬間にのみ起動し、時間を逆行して相手の心臓を先に貫くという、理不尽極まりない伝承の産物。

 

 

「……なるほど。僕の因果操作(システム)と、真っ向から衝突するバグの塊か」

 

 

 

茜は、立ち止まり、深く息を吐いた。

 

バゼットの魔力が極限まで高まる。フラガラックのロックオンが、茜の心臓に固定されたのを彼は明確に感じ取った。

 

もしここで《物理条件の先行成立》などの切り札を撃てば、彼女のフラガラックは「相手が攻撃した」という事実をトリガーとし、『時間を逆転』、設定した対象を殺すだろう。

 

 

 

だが、茜には黄金球体がある。

 

「因果を逆転させるなら、その因果の『座標』そのものを書き換えればいい」

 

 

 

 

 

 

茜は、胸の奥の黄金球体を全開に駆動させた。

 

 

 

 

 

 

バゼットが叫ぶ。

 

 

「いけっ! 『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』──」

 

 

 

閃光。

 

 

鉛の玉が、絶対的な光の剣となって茜の心臓を貫く──はずだった。

 

 

「……書き換え(上書き)完了」

 

 

茜は、自らの放つ切り札の『攻撃対象』を、一瞬だけバゼットから「空間の虚無」へと逸らした。そして、フラガラックが自分の心臓を貫いたという『結果』を、《因果遅延起動(ディレイ・カウザリティ)》によって未確定の状態へと保留する。

 

 

 

矛盾(パラドックス)

 

 

 

フラガラックは「相手の切り札の迎撃」として成立する。だが、茜の切り札は彼女に向かっておらず、かつ、心臓を貫かれたという結果も成立していない。

 

概念の衝突が、空間にすさまじいノイズと放電を引き起こす。

 

 

 

 

パキィィィィィンッ!!

 

 

 

フラガラックの光の剣が、茜の胸の数ミリ手前で「論理エラー」を起こし、ガラスのように砕け散った。

 

 

「なっ……ば、かな……! フラガラックが、打ち消された……!?」

 

 

最大の切り札を完全に無力化され、バゼットの瞳に初めて明確な絶望の色が浮かんだ。

 

茜は、砕け散る光の粒子を通り抜け、彼女の目の前へと歩み寄る。

 

そして、彼女の胸倉を容赦なく掴み上げ、壁へと叩きつけた。

 

 

「ガッ……ァ……」

 

 

「チェックメイトだ。君の切り札は、僕の演算(システム)には届かない」

 

 

 

 

茜は冷たく見下ろしたまま、通告する。

 

「左手の令呪を差し出し、この聖杯戦争から手を引け。君の記憶を一部処理させてもらうが、命までは取らない。ここで見逃してやる」

 

 

 

冷酷な、事務的な取り引き。

 

だが、バゼット・フラガマクレミッツという女は、血に塗れた顔で、茜を力強く睨み返した。

 

 

「……ふざ、けるな……」

 

 

彼女の息は絶え絶えだったが、その声には一切の屈服がなかった。

 

「魔術協会(我々)の誇りを……私の、戦士としての誓いを……貴様のような得体の知れない小僧の脅しで、曲げるものか……ッ!」

 

彼女は残された右腕を振り上げ、茜に最後の一撃を放とうとする。

 

 

「……そうか。交渉決裂だ」

 

 

茜は、彼女の意志の強さにわずかな敬意を払いながらも、容赦なくその右腕を弾き落とし、間髪入れずに彼女の腹部へと無慈悲な前蹴りを叩き込んだ。

 

 

 

「ガハァッッ!!」

 

 

 

バゼットの身体が再び宙を飛び、今度は部屋の中央──彼女自身が描いていた、召喚陣のど真ん中へと叩き落とされた。

 

 

 

ピクリとも動かなくなるバゼット。今度こそ、完全に意識を刈り取った。

 

 

「……これで、遠坂の懸念材料が一つ消えた。令呪ごと、記憶を分解して──」

 

 

 

茜がそう呟き、彼女の元へ歩み寄ろうとした、その瞬間だった。

 

 

 

カッ────!!

 

 

 

部屋中を、青白い、目も眩むような光が包み込んだ。

 

 

「……なんだと!?」

 

 

茜は思わず腕で顔を覆い、後退した。

 

召喚陣が、異常な魔力光を放っている。

 

バゼットの詠唱は途切れていたはずだ。だが、彼女が吐き出した鮮血がルーンの陣を濡らし、彼女が握りしめていた触媒(古い耳飾り)が、彼女の『絶対に諦めない』という強烈な祈り(意志)と共鳴していた。

 

儀式は、完了してしまったのだ。

 

 

 

 

『──お前が、俺のマスターか』

 

 

 

光の奔流の中から、低く、しかし底知れぬ凄みを孕んだ男の声が響く。

 

青いタイツのような装束に身を包み、身の丈を越える深紅の魔槍を肩に担いだ、獣のような眼光の英霊(サーヴァント)。

 

 

槍兵(ランサー)。アイルランドの光の御子、クー・フーリン。

 

 

 

(……最悪のエラーだ)

 

 

 

黄金球体の警告音(アラート)が脳内で鳴り響くのを聞きながら、静かに、しかし冷たい汗を流した。

 

 

マスターを潰すはずが、最悪のタイミングで、神代の殺戮兵器を盤面に顕現させてしまった。

 

ランサーの真紅の瞳が、倒れたマスターから、部屋の隅に立つ「異物」である茜へとゆっくりと向けられる。

 

 

「おいおい……召喚されて早々、マスターが半死半生とはどういう冗談だ。……そこの陰気なツラしたガキ。テメェがやったのか?」

 

 

 

 

 

圧倒的な死の気配。

 

竜胆茜という背景のシステムが、神話の暴力と正面衝突する夜が、今、幕を開けた。

 

 

 

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