[Time: 2004年 2月1日 午前2:00]
[Location: 冬木市 深山町 ── 双子館 二階東の部屋]
絶対的な「死」が、そこに立っていた。
召喚陣から溢れ出した青白い光が収束し、部屋の空気が一変する。先ほどまでバゼットの魔力が満ちていた空間は、今や英霊(サーヴァント)という神代の質量によって、物理的な重力を増したかのように軋んでいた。
青い装束の槍兵(ランサー)。
彼の手に握られた身の丈を越える深紅の魔槍から、血の匂いと濃密な呪いが立ち昇っている。ランサーの獣のような赤い瞳が、倒れ伏すバゼットを一瞥し、次いで、部屋の隅に立つ竜胆茜へと固定された。
「……おいおい、召喚されて早々、マスターが半死半生とはどういう冗談だ」
ランサーは肩に槍を担いだまま、低く唸るように言った。その声帯の震え一つをとっても、常人ならば本能的な恐怖で膝を折るほどの威圧感が孕まれている。
「そこの陰気なツラしたガキ。テメェがやったのか?」
(……サーヴァント。霊長の頂点。僕の物理的な肉体スペックでは、一秒たりとも太刀打ちできない純粋な暴力の結晶)
茜は、表情筋の微細な震えすら第一階層《完全躯体制御(オートメーション・マニピュレーター)》で完全に殺し、無機質な視線をランサーへ向けた。
「そうだよ。彼女には少し眠ってもらった」
「へえ」
ランサーの口角が、凶悪な弧を描いて吊り上がる。
次の瞬間。
音も、予備動作も、空気の揺らぎすら存在しなかった。
ただ、ランサーの姿が茜の網膜からフッと消失した。
(──速い)
茜の脳内で、L3《確定未来の選別(ルート・セレクション)》が絶叫に近い速度で演算を叩き出す。
視覚で追うのではない。ランサーが「移動した」という結果から逆算し、コンマ数秒先の物理的な未来分岐をスキャンする。
真紅の槍の穂先が、茜の眉間を正確に貫く未来。その確率、100パーセント。
「……ッ」
茜は、自らの意思で避けることを放棄した。
胸の奥に埋め込んだ劣化版『黄金球体』を強制駆動させ、L3《確率分布の整形(ルート・ウェイト・エディット)》を全開にする。
「槍が眉間を貫く確率」のエントロピーを極所的に再配分し、空間のノイズへと無理やり散らす。
ゴォォォォォォォンッ!!
爆音が部屋を揺るがした。
ランサーの槍は、茜の眉間からわずか数ミリ横の空間を突き抜け、背後の分厚い石壁を豆腐のように粉砕していた。衝撃波だけで茜の頬の皮膚が裂け、一筋の血が宙を舞う。
「ホォ……? 今のを見切るか。いや、違うな」
ランサーは槍を引き戻しながら、怪訝そうに目を細めた。
「テメェ、今の躱し方……『見えてて避けた』んじゃねえな。まるで俺の槍が、勝手にテメェを避けて通ったみたいに滑りやがったぞ」
「……ただの運だよ。僕は背景だからね、当たり判定が少しズレてるんだ」
茜は淡々と答えながら、間髪入れずに後方へ跳躍した。
だが、神代の英雄との距離など、あって無いようなものだ。
「面白い冗談だ。なら、その運がいつまで保つか試してやるよ!」
ランサーの姿が三つにブレた。
上段からの振り下ろし、中段からの刺突、下段からの薙ぎ払い。常人の動体視力では認識すら不可能な神速の三連撃が、茜の全身を同時に襲う。
(全弾回避不能。……ならば、削る!)
茜は《事象適応》で統合した武術の最適解を肉体に強制出力しつつ、第一魔術体系・五大元素魔術《戦闘用状態遷移(コンバット・トランジション)》を無詠唱で起動した。
属性【土】と【風】の融合──『分散防壁』。
空間の気圧と鉱物粒子を瞬間的に硬化させ、ランサーの槍の軌道上に不可視の斜面(スロープ)を形成する。
ギィィィィィンッ!!
槍と防壁が衝突し、火花が散る。強固な防壁はランサーの一撃で容易く粉砕されるが、そのコンマ一秒の「摩擦」が、槍の軌道をミリ単位で狂わせた。
茜は《完全躯体制御》により、自らの関節を人体の限界を超えた角度で折り曲げ、致命傷となる軌道から紙一重で身を捩る。
槍の刃が、茜の黒いコートを切り裂き、脇腹の皮膚を薄く削ぎ落とす。
熱い血が飛沫を上げるが、茜の心拍数は依然として低いままだった。痛覚は完全に遮断されている。
「チッ、すばしっこいネズミだ! だが、防戦一方じゃジリ貧だぜ!」
ランサーの猛攻は止まらない。
嵐のような連撃。部屋の調度品が木端微塵に砕け散り、床の絨毯が竜巻のように巻き上げられる。
茜は、劣化版『黄金球体』をフル回転させ、無限にも等しい未来分岐の中から「自分が即死しないルート」だけを血を吐くような演算速度で拾い上げ、なぞり続けていた。
(……演算負荷、限界突破。黄金球体のマナ充填率が異常低下している。……このまま数秒凌ぐだけで、僕の脳の血管が焼き切れる)
茜の鼻腔から、ツーッと鼻血が垂れた。神域の攻撃をシステムで処理し続けることの代償。
ランサーは、数十合の打ち合いの末、ふと槍を止めて距離を取った。
その赤い瞳には、明らかな「警戒」と「殺意」が混じっていた。
「……テメェ、魔術師じゃねえな。いや、人間かどうかも怪しいぜ。俺の槍の軌道が、当たる瞬間に『空間ごと滑る』。因果を捻じ曲げてやがるのか?」
ランサーは低く身を沈め、魔槍を足元へと下げた。
部屋中の空気が、急激に質量を増していく。ランサーの全身から噴き出す魔力が、真紅の呪いとなって槍の穂先に収束し始めた。
(……来る。あれは、ただの物理攻撃じゃない)
茜の《構造解析》が、槍に込められた異常な術式の構造を読み取る。
(因果の逆転。結果が原因を追い越す、運命そのものの強制書き換え。……必中、いや、必殺の呪い)
「俺のマスターの落とし前だ。その妙な術式ごと、心臓ぶち抜いてやるよ」
ランサーが、地を蹴る。
「──その心臓、貰い受ける!」
ランサーの腕が動くよりも早く。
茜の胸の中心に、絶対的な「心臓を貫かれた」という『結果』が先行して突き刺さった。
「『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』!!」
回避不能。防御不能。
世界そのものが「竜胆茜の心臓は貫かれた」という事実を確定させたのだ。
物理的な槍の軌道は、ただその結果をなぞるためだけのお飾りに過ぎない。
だが。
「……僕の心臓は、まだここにある」
茜は、限界を超えて明滅する『黄金球体』に、己の全存在を懸けた演算式を叩き込んだ。
《局所確率遅延(ローカル・プロバビリティ)》
ランサーの槍が、茜の胸の皮膚に触れる。
その瞬間、茜は「心臓が貫かれた」という確定した結果の『発生タイミング』を、強引に未確定の状態へと吊り下げた。
ギギギギギギギギッッ!!!
空間が、文字通り悲鳴を上げた。
「貫かれた」という結果と、「まだ貫かれていない」という現状。世界のシステムが矛盾(パラドックス)を起こし、茜の胸元で真っ赤な稲妻のようなスパークが吹き荒れる。
「な……にィ!?」
ランサーが驚愕の声を上げた。
彼の必殺の槍が、茜の胸の皮膚を数ミリ凹ませた状態で、見えない泥沼に囚われたかのように完全に停止していたのだ。
ゲイ・ボルクの呪いが、茜の因果操作のシステムと正面から噛み合い、相殺し合っている。
(……くそっ、重い……! 必中必殺の呪い、情報量があまりにも……!)
茜の左目から、パチンと音を立てて毛細血管が弾け、血の涙が流れ落ちる。胸の奥の黄金球体にピキリと微小なヒビが入るのを感じた。
このままでは、数秒後にシステムが押し負け、心臓が爆散する。
ランサーが、槍にさらに力を込めようと筋肉を隆起させた、まさにその刹那。
──シュパッ。
音もなく、背後の暗闇から三本の鈍色の刃が飛来した。
それは茜を狙ったものではなく、床に倒れ伏していたバゼットの『左腕』に向かって正確に突き刺さった。
「────ァ、アアアアアアアッッ!?」
意識を失っていたはずのバゼットが、腕を切断される激痛によって絶叫を上げ、覚醒した。
「チィッ!? テメェ、何者だ!!」
ランサーが茜から槍を弾き返し振り返る。
ゲイ・ボルクの呪いと因果遅延の拮抗が強制的に解除され、茜は激しく咳き込みながら膝をついた。
「……何者、と問うか。私はただの、教会の代行者に過ぎない」
砕けた壁の向こう側。闇の中から、ぬらりとした漆黒の法衣を纏った大柄な男が姿を現した。
言峰綺礼。
その手には、バゼットの左腕から切り落とされた、鮮血に染まる「令呪の刻まれた皮膚」が握り締められていた。
「バゼット・フラガマクレミッツ。優秀な魔術協会の猟犬も、これではただの哀れな肉塊だ。君の役割はここまでだ」
言峰は、一切の感情が抜け落ちた虚無の瞳で、倒れ伏すバゼットを見下ろした。
そして、その血塗られた皮膚を自らの腕に押し当て、呪文を紡ぐ。令呪の移植。
「貴様ァッ……!!」
ランサーが激昂し、言峰に向けて魔槍を構える。
「これは必要なことだ。盤面の整理としてね」
言峰は微動だにせず、移植を終えた令呪をランサーに見せつけた。
「ランサー。私は新たなマスターとして、令呪をもって命ずる。──バゼットに同調し、私を害しようとするその思考を捨てよ」
「……ッ、ガァァァッ!!」
ランサーの動きが、目に見えない巨大な鎖に縛られたかのようにピタリと止まる。絶対的な命令権である令呪の強制力が、英霊の自由意志を強引に捻じ伏せていく。
(……最悪のノイズが、最悪のタイミングで介入してきた)
茜は、膝をついたまま、口から溢れる血を拭い、言峰綺礼という「虚無」を睨みつけた。
言峰の視線が、ゆっくりと茜へと向けられる。
「……ほう。まさか、先客がいるとは思わなかった。しかも、あのランサーの宝具を正面から受け止めて生きているとは」
言峰の口元が、おぞましい愉悦の弧を描いた。
「君には興味がある。以前、凛の周囲をうろついていた少年。……君のその異質な内側を、じっくりと解剖させてもらいたい」
(……言峰綺礼。こいつの論理構造(システム)には、弱点やブレーキが存在しない。今の疲弊した黄金球体でこいつとランサーを同時に相手にすれば、僕の死の確率は100%に収束する)
戦うべきではない。ここは、撤退の一手のみ。
茜は、冷徹な計算のもと、即座に切り替えを完了させた。
「……悪いけど、僕には解剖される趣味はない。遠坂の背景に徹するだけだ」
茜の姿が、揺らいだ。
Tier 0 深層緩衝領域──◆《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》。
「逃がすか!」
言峰が黒鍵を投擲し、ランサーが令呪の縛りに抗いながらも槍を突き出す。
だが、その攻撃は茜の身体を『すり抜けた』。
否、すり抜けたのではない。茜という存在の解像度が、周囲の舞い上がる土煙、魔力の残滓、そして冬の夜の冷気という「環境ノイズ」と完全に同化し、世界からその実体を剥落させたのだ。
「……消えた、だと?」
言峰の目がわずかに見開かれる。
気配も、魔力も、生命反応すらも。一切の痕跡を残さず、竜胆茜という存在は空間から完全に蒸発していた。
残されたのは、重傷のバゼットと、令呪を奪った言峰、そして怒りに震えるランサーという、凄惨な儀式の跡だけだった。
[Time: 同日 午前3:00]
[Location: 冬木市 郊外 ── 工業地帯への道]
「……ッ、ゲホッ、ガハッ……!」
双子館から数キロ離れた冬木の暗い裏路地で。
茜は《可変存在解像度》の出力を弱め、路地裏のゴミ箱に寄りかかりながら、大量のどす黒い血を吐き出した。
(黄金球体のダメージ、24%。……魔術回路の擬似神経網に軽度の断裂。……ゲイ・ボルクの呪いの残滓が、まだ因果の計算を狂わせている)
茜は震える手でポケットからチョコレート菓子の棒を取り出そうとしたが、指先が言うことを聞かず、地面に落としてしまった。
第一階層《自動修復機構(セーフティ・リセット)》が限界を超えて稼働し、損傷した脳細胞と筋肉を強引に繋ぎ合わせている。その修復プロセス自体が、茜の神経に灼熱の苦痛を与えていた。
「……ハァ……ハァ……」
バゼットを潰し、ランサーを退場させる計画は、言峰綺礼という究極のノイズによって頓挫した。
結果として、ランサーは言峰という、より凶悪なマスターの手に渡ってしまった。これは、遠坂凛の生存確率を大幅に下げる最悪の事態だ。
(……だが、止まるわけにはいかない)
茜は、血塗れの口元を手の甲で乱暴に拭い、立ち上がった。
足元がふらつく。だが、その瞳の奥にあるシステムブレイカーとしての冷たい炎は、少しも弱まってはいなかった。
「……次だ。あの中東の魔術師(アトラム・ガリアスタ)が拠点にしているはずの……郊外の倉庫へ」
《環境並列演算網》が、遠く離れた工業地帯から漏れ出す、陰惨な魔力と血の匂い(人間の生贄の気配)をキャッチしている。
アトラムがサーヴァントを召喚し、陣地を構築すれば、さらに盤面は複雑化する。
彼が英霊を呼び出す前に、その工房ごと物理的に解体しなければならない。
茜は、深々と息を吸い込み、冷たい冬の夜風を肺の奥まで満たした。
痛覚を再び完全に遮断し、《身体最適化》で歩行プロセスを強制的に組み上げる。
「……僕は背景だ。彼女が明日も、当たり前のように笑って学校に行けるように。……この街のバグは、僕が全て駆除する」
重傷の肉体を引き摺るようにして。
竜胆茜は、底なしの闇が口を開ける冬木の郊外へと、ただ一人、静かに歩き出した。