[Time: 2004年 2月1日 午前3:20]
[Location: 冬木市 郊外 ── 廃棄された工業地帯の大型倉庫]
冬の夜風が、錆びついたトタン屋根を叩き、不気味な軋み音を周囲に撒き散らしている。
海から吹き付ける潮の匂いと、廃棄された化学薬品の刺激臭が混じり合う工業地帯の最奥。竜胆茜は、血と泥に塗れた黒いコートの襟を立て、音もなくその巨大な倉庫群の一つへと歩みを進めていた。
(……第一階層《完全躯体制御》。痛覚遮断プロセス、再確認。左脇腹の裂傷、および毛細血管の出血を筋肉の強制収縮で止血。胸部の『黄金球体』の亀裂進行率、現状維持)
茜の身体は、すでに満身創痍という言葉すら生温い状態にあった。
数十分前、時計塔の執行者バゼットを無力化した直後に顕現したランサーとの死闘。神代の英雄が放つ必殺の呪い『ゲイ・ボルク』を、己のシステムと黄金球体の出力を限界まで引き上げて相殺した代償は、茜の魔術回路と脳神経に深刻なエラーを蓄積させていた。
視界の端には、未だに処理しきれない因果のノイズが、砂嵐のようにチラついている。
だが、彼の歩みには一切の淀みがなかった。
遠坂凛の生存ルートを確保するためには、この夜のうちに、もう一つの不確定要素を盤面から完全に物理排除しなければならない。
目の前の巨大な倉庫には、外見の無機質さとは裏腹に、極めて濃厚で悪趣味な魔力結界が何重にも張り巡らされていた。
中東の成金魔術師、アトラム・ガリアスタの工房。
金に物を言わせて買い集めた魔術礼装と、他者の命を燃料とする外法によって構築された、要塞のような陣地である。
茜は、倉庫の入り口から数十メートル離れた暗がりに立ち止まり、半眼でその結界の構造を眺めた。
(対象を解析。……複数の層に分かたれた構造の感知結界。そして物理的な侵入を阻む風の壁に、内部からの魔力漏洩を防ぐ隠蔽幕。……金はかかっているが、思想が浅い。力技で編み上げているだけで、システムとしての美しさが微塵もない)
茜の《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》が、静かにそのアルゴリズムを変動させる。
結界が設定している「侵入者」という定義の網目を、茜という個体の存在確率を「0・1%の環境ノイズ」にまで低下させることで、完全にすり抜ける。
センサーの光の網を通り抜ける埃のように、茜は一切の魔力波形を波立たせることなく、倉庫の分厚い鉄扉を透過するような足取りで内部へと侵入した。
倉庫の内部は、異様な光景が広がっていた。
本来なら資材を置くための広大なスペースに、無数のガラス管や檻が並べられている。その中には、冬木の街から攫われてきたであろう一般人や、粗悪なホムンクルスたちがチューブに繋がれ、生きたまま魔力を抽出する「電池」として機能させられていた。
空間を満たすのは、むせ返るような血と汚物の匂い、そして微かなうめき声。
「……趣味が悪い」
茜の口から、感情の一切こもらない無機質な声が漏れた。
彼は倉庫の梁の上を音もなく移動し、中央に設けられた豪華な執務スペースのような区画を見下ろした。
そこに、豪奢な絨毯を敷き、高価なワイングラスを片手に苛立たしげに貧乏ゆすりをしている男がいた。アトラム・ガリアスタだ。
『ええい、手こずらせやがって。中東の仲介業者(ブローカー)どもめ、ガリアスタの財力を当て込んで随分とふっかけてきやがったな……!』
アトラムは、机に置かれた取引記録の書類を乱暴に払い除けながら悪態をついている。
『たかが祭器一つに、どれほどの資金と手間を割かせたと思っている。……まあいい。結果的に現物はここにあるのだからな。私にはこの財力と、この工房という圧倒的な魔力源がある。あとは、この触媒で最強のサーヴァントを引き当てるだけだ……!』
アトラムは、机に置かれた書類を乱暴に払い除けながら悪態をついている。
男の視線の先には、豪奢な箱に収められた古い小さな祭器──神代の魔女を呼び出すための触媒が置かれていた。
茜は梁の上から、アトラムの魔術回路と身体能力、そして工房全体のエネルギーフローを《構造解析》でスキャンする。
(……対象の魔術回路、質はD+、量はD……いやB程度か。自身の能力不足を、外部からの魔力供給で無理やり補っている。驚異となる独自の魔術特性も、武術の心得もなし。……結論。全く問題はない。処理可能だ)
茜は、アトラムを「ただの解体作業の対象」として完全にロックオンした。
だが、ただ彼を殺すだけでは、繋がれた一般人たちが魔力抽出のバックフローで死ぬ可能性がある。
「……まずは、このくだらないシステムを内側から崩す」
茜は右手を虚空に翳し、L2の深淵に手を伸ばした。
◆《論理矛盾の意図的生成(パラドックス・インストール)》。
対象のシステムのルールを正しく守りながら、そのルールが許容できない事象を注入し、内側から自壊させる究極のハッキング術式。
Step 1 ── アトラムの工房の論理構造を完全に読み取る。『生贄から魔力を吸い上げ、中央の魔力炉に蓄積する』というルール。
Step 2 ── 矛盾を設計する。茜は『魔力炉に蓄積された魔力が、生贄の生命維持を最優先して逆流する』という、システムの根幹を否定する命令式を、アトラム自身の魔力波形に偽装して組み上げた。
Step 3 ── 埋め込む。
カチリ、と。
茜の指先が虚空で極小の魔力を弾いた瞬間。
「……む?」
グラスを傾けていたアトラムが、怪訝な顔で周囲を見回した。
倉庫内の空気が、一瞬だけ不自然に膨張したからだ。
次の瞬間。
パァァァァンッ!! という破裂音と共に、生贄たちから魔力を抽出していた無数のチューブが、一斉にシステムエラーを起こして弾け飛んだ。
「なっ、何事だ!? 魔力炉の出力が急低下しているだと!?」
アトラムが慌てて立ち上がる。抽出システムが完全に自壊し、ガラス管や檻に囚われていた人々への負荷が強制的にシャットダウンされた。同時に、工房を覆っていた防御結界への魔力供給も断たれ、要塞はただの巨大なトタン小屋へと成り下がった。
空間に満ちていた重圧が消え去り、代わりに焦げたゴムとオゾンの鼻をつく異臭が漂う。
「システムは停止した。……これで、周りのエラー(巻き添え)を気にせず君を潰せる」
梁の上から、茜が静かに飛び降りた。
一切の着地音を立てず、アトラムの数メートル手前の絨毯の上に、黒いコートの少年がふらりと現れる。
「貴様……! どこから入り込んだ!?結界の警報はどうした!?」
アトラムは驚愕に目を血走らせ、後ずさる。しかし、すぐに持ち前の傲慢さを取り戻し、目の前に立つ小柄な少年を値踏みするように睨みつけた。
「……アインツベルンの手先か? それとも魔術教会からの回し者か。まあいい、貴様がどこから入り込んだかは知らんが、殺しはせん。雇い主がいくら払った? 私がその三倍……いや、十倍を出してやる。今すぐこちら側へつけ」
アトラムにとって、この世のあらゆる事象は「金」と「権力」で解決できるものだった。魔術の神秘でさえ、彼にとっては取引の対象に過ぎない。
だが。
茜は、提示された破格の条件に眉一つ動かさず、ただ半眼のまま、無機質な瞳でアトラムを見透かしていた。
「……交渉の前提が間違っている。僕は誰の陣営にも属していない。ただの背景だ」
「は……? 背景だと?」
「君という不確定要素が、この街にいる特定の個体の生存確率を下げる可能性がある。だから、物理的に排除(デバッグ)しに来ただけだ」
茜の視線が、アトラムの肉体を舐めるように動く。
彼の瞳の奥で、起源『解析』と《魔力視(マナ・サイト)》が連動し、アトラムという魔術師のスペックを数値化して暴き出していく。
「それに……十倍の額を出されたところで、君のような『三流のシステム』の下につくメリットが一つもない」
「な、なんだと……!? 貴様、ガリアスタの次期当主である私を愚弄するか!」
「事実を述べているだけだ。……自身のエンジンの排気量が足りないからといって、無関係な一般人を電池として外付けし、強引に出力を上げている。非効率の極みだ。力技で編み上げただけの工房には、魔術としての美しさも、論理的な洗練も微塵もない」
茜の言葉は、熱を帯びていなかった。
怒りや正義感から来る糾弾ではなく、ただ「壊れた機械の欠陥を読み上げているだけ」のような、極めて冷酷で事務的な響きがあった。
それが余計に、アトラムの自尊心をズタズタに引き裂いていく。
「黙れ、黙れ黙れ黙れッ!! 極東の田舎魔術師風情が、私の何を知る!!」
アトラムの顔が屈辱で真っ赤に染まる。
彼は机の上に置かれた、莫大な資金を投じて手に入れた「神代の魔女の触媒」を指差して叫んだ。
「私には、この圧倒的な財力がある! お前のように泥水すするような底辺の魔術師が一生かかっても触れられぬ神秘を、私は金で買えるのだ! この触媒で最強の英霊を呼び出し、聖杯を手にするのは私だ!!」
「……ん、そうか。」
茜は短く息を吐き、ポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりとアトラムへ向かって歩みを進めた。
「どれだけ高価で強力なアプリケーション(英霊)を買ってきたところで、君自身のOS(基礎能力)が腐っていれば、まともに機能するはずがない。」
アトラムは驚愕に目を見開きながらも、即座に両腕に魔力を集中させた。彼の手の甲から、莫大な富を注ぎ込んで構築したであろう強力な攻撃魔術の起動式が展開される。
「おのれぇぇッ!!私の工房をコケにするとは、万死に値するぞ! 灰になれ!!」
アトラムが両手を突き出す。
魔力炉から強引に引き出した残存魔力が、属性【火】と【風】の複合魔術──灼熱の暴風となって茜を飲み込もうと襲いかかる。
並の魔術師ならば、その圧倒的な魔力の暴力の前に消し炭になっているだろう。
だが、茜は歩みを止めなかった。
「……無駄が多くて、遅い」
茜は、向かってくる灼熱の暴風に対し、《関係性抽象式(リレーション・アブストラクト)》を起動した。
彼は防壁を張ることも、回避行動を取ることもない。ただ、虚空に向かって「一本の線を引く」ように指先を滑らせただけだ。
(対象のエネルギー遷移:熱量+気圧差。……その位相を反転させ、熱を奪い、気流を相殺する)
ジュォォォォォォォッ!!
アトラムの放った業火が、茜の指先が引いた境界線に触れた瞬間、まるでビデオを逆再生したかのように急速に熱を失い、ただの生ぬるい風となって茜の頬を撫でるに留まった。
「な、に……? 私の、数億を注ぎ込んだ魔術礼装の一撃が、ただの指先一つで……消えた……?」
アトラムの顔が、恐怖と理解不能の混沌に歪む。
「魔術は、金で買った出力で殴り合うものじゃない。世界のルールの隙間をどう最適化するかのパズルだ。……君は、その土俵にすら立っていない」
茜は、無表情のままアトラムの懐へと一瞬で距離を詰めた。
「ヒッ……! 待て、私はガリアスタ家の──」
アトラムの命乞いの言葉は、茜の容赦のない掌底によって物理的に遮断された。
《身体最適化(オプティマイズ・ポディ)》によって極限まで無駄を削ぎ落とされた一撃が、アトラムの鳩尾に深々と突き刺さる。内臓を破壊し、魔術回路の接続を物理的に断ち切る、完璧な制圧の一手。
「ガァ……ッ、ァ……」
アトラムは白目を剥き、崩れ落ちるようにして絨毯の上に倒れ伏した。ピクリとも動かない。
茜は、血塗られた自分の手を見下ろし、小さく息を吐いた。
「……これで、二つ目。遠坂の邪魔になる要素は、排除した」
茜は、アトラムの机の上にあった豪奢な箱へと歩み寄った。
中には、古びた祭器──神代の魔女を呼び出すための触媒が収められている。
茜はそれを手に取り、じっと見つめた。
(……サーヴァント。霊長の頂点。神話の怪物)
先ほどのランサーとの死闘が、茜の脳裏にフラッシュバックする。
あの『ゲイ・ボルク』の因果逆転を相殺するために、茜は黄金球体に致命的な負荷をかけざるを得なかった。人間が、たとえどれほど優れたOSを持っていようとも、サーヴァントという世界のバグと正面から殺し合うことには無理がある。
もし、今後凛が他のサーヴァントに狙われた時、今のボロボロの僕の身体とシステムだけで、彼女を完全に守り切れるだろうか。
「……足りない。システムを正常に稼働させるためには、僕の手足となって動く『強力な端末(ターミナル)』が必要だ」
茜の視線が、アトラムが床に描いていた召喚陣へと向けられた。
まだ、魔力は残っている。この触媒を使えば、僕でも英霊を呼び出すことができる。
それは、彼自身が「ただの背景」であることをやめ、聖杯戦争という盤面のプレイヤーとして名乗りを上げることを意味していた。遠坂凛との「関わらない」という約束の境界線を、自ら踏み越える行為。
(……いや。僕は聖杯などいらない。ただ、彼女が生き残るための、確実な防衛機構が欲しいだけだ)
茜は、床に倒れるアトラムの血を足先でなぞり、召喚陣を自らのシステムに適合するように即座に書き換えた。
そして、神代の魔女を召喚する為に用意したであろう触媒を陣の中央に置き、血を吐くような痛みを堪えながら、自らの内に残された魔力を絞り出す。
「──告げる」
無機質で、感情の抜け落ちた詠唱が、倉庫の中に響き渡る。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ。
誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ──!」
ドクンッ、と。
茜の胸の奥で、黄金球体が悲鳴を上げる。
大聖杯のシステムと、茜の異常な因果操作のシステムが接続され、空間が激しく歪む。
本来の魔術師の召喚とは根本的に異なる、システムのエラーをこじ開けるような強引なダウンロード。
眩いほどの紫色の光が、倉庫の暗闇を完全に塗り潰した。
「……ハァ、ハァ……」
光が収まる。
茜は、右手の甲に焼き付けられた三画の令呪の痛みに顔をしかめながら、召喚陣の中央に現れた『それ』を観測した。
(……神代の魔女。背信と裏切りの象徴。本来であれば、極めて冷酷で厄介な英霊が呼ばれるはずだ)
茜は、コートのポケットの中で指を曲げ、最悪の場合は即座に令呪で自害させるための《因果遅延起動》の準備を整えていた。
だが。
土煙と光の粒子が晴れた後に立っていたのは、妖艶な大魔女などではなかった。
「……えっと、貴方が、私のマスターですか?」
鈴を転がすような、あどけない少女の声。
真っ白なフード付きのローブを深々と被り、手には木製の可愛らしい杖を持った、年齢にして十六、七歳ほどの可憐な女性。
その大きな瞳には、悪意や裏切りの気配など微塵もなく、ただ純粋な好奇心と、不安げな色が浮かんでいた。
(……なんだ、これは。対象を再解析。霊基クラス:キャスター。真名:メディア。……だが、霊基の出力状態と精神性が、伝承のそれと致命的に乖離している)
茜の脳内データベースが、一つの仮説を弾き出す。
(……メディア。彼女が『裏切りの魔女』と呼ばれる前、まだ純真だった頃の側面か。……なぜ、触媒通りの大魔女が来なかった? ……僕の精神性、自己評価の低さや『自己犠牲の精神』、そんな歪んだ性質が、彼女の純真な献身のベクトルとシステム上で共鳴し、霊基を引っ張ったのか?)
茜は、警戒を最大レベルに保ったまま、少女を見据えた。
「……そうだよ。僕が君を召喚したマスターだ。竜胆茜」
「竜胆、様。……ふふっ、よろしくお願いしますね。私、あまり戦うのは得意じゃないですけど、回復や魔術のサポートなら、一生懸命がんばりますから!」
メディア・リリィは、フードの下から無邪気な笑顔を向け、ぺこりと頭を下げた。
その純粋すぎる態度は、疑心暗鬼に陥っている茜にとって、逆に薄気味悪さすら感じさせるものだった。
「……会話の前に、僕のスタンスを明確にしておく」
キャスターから少し距離を取りつつ、魔力の供給ライン(パス)を意図的に絞る
ポケットの中の手を緩めることなく、極めて冷徹な声で告げた。
「僕は、聖杯を求めていない。この聖杯戦争に勝つ気もないし、奇跡を手に入れるつもりもない。そして、君にも聖杯を取らせるつもりは一切ない」
その残酷な宣告に、メディア・リリィの笑顔がピタリと止まった。
「……僕は、ある一人の人間を、この理不尽な殺し合いのシステムから守り抜くためだけに動いている。君を呼んだのは、僕の身体が限界に近く、彼女を守るための『戦力(ツール)』が必要になったからだ」
──《確定未来の選別(ルート・セレクション)》は起動し続けている。
茜は、右手の令呪を少女に見せつけるように持ち上げた。
「一方的な要求だ。君の願いは叶えられない。それでも僕の道具として戦うか。……もし拒否するなら、今この場で令呪を使って君を自害させ、その霊核の魔力だけを僕のシステムに組み込む。……どうする?」
(……裏切りの魔女(メディア)なら、ここで確実に、僕を殺そうとするか、あるいは嘘をついて隙を窺うか。どちらにしてもその瞬間、僕は迷わず彼女の因果を断つ)
茜の心の中には、明確な殺意とシステム的な冷酷さが満ちていた。
沈黙が、廃倉庫の冷たい空気の中に落ちる。
メディア・リリィは、うつむき、手にした杖をぎゅっと握りしめていた。
やがて。
彼女はゆっくりと顔を上げ、茜を見つめた。
その瞳には、怒りも、絶望もなかった。ただ、痛ましいものを見るような、深く、狂気的なまでの『純粋な慈愛』が宿っていた。
「……マスターは、嘘をついていますね」
「何?」
「言葉では冷たいことを言っていますけど、貴方の魂の形……すごく、ボロボロです。自分の痛みを全部隠して、誰かのために自分の存在ごと消してしまおうとしている。……そんなの、あんまりです。可哀想すぎます」
メディア・リリィが、茜に向かってゆっくりと一歩を踏み出した。
「近づくな」
茜の指先がピクリと動き、黄金球体の演算が起動しかける。
だが、少女は歩みを止めず、茜の目の前までやってくると、その血に塗れ、土気色になった茜の頬に、白く柔らかな両手をそっと添えた。
「……ッ」
茜は、その予想外の行動と、彼女の手のひらから伝わる圧倒的な温かさに、システムのエラーを起こしたかのように硬直してしまった。
「……私は、聖杯なんていりません。ただ、私を必要としてくれる人のために、全てを捧げたい。それが私の願いです」
メディア・リリィは、茜の目を真っ直ぐに見つめ、花がほころぶように笑った。
「貴方は、とても不器用で、悲しい人。……でも、だからこそ、私は貴方のために戦いたい。貴方が守りたいものを、私も一緒に守ります。……道具でもなんでも、好きに使ってくださいね、マスター」
それは、神代の魔女が持つ、打算のない、純度一〇〇パーセントの献身。
だが、そのあまりにも行き過ぎた「誰かのために全てを投げ出す」という純粋さは、茜自身の持つ「遠坂凛のために全てを背景として捧げる」という歪みと、まるで鏡合わせのようにそっくりだった。
(……この英霊も、僕と同じだ。自分自身というものが、致命的に欠落している)
茜は、彼女の柔らかな手からゆっくりと逃れるように一歩下がり、深い、深いため息をついた。
右手の令呪に込めていた魔力を、ゆっくりと解除する。
「……君のその純粋さは、いつか君自身を壊すよ」
「ふふっ。それは、マスターも同じではないですか?」
メディア・リリィの言葉に、茜は返す言葉を持たなかった。
ボロボロの肉体。軋む黄金球体。そして、自分の存在意義を他者に丸投げしているという空虚さ。
似た者同士の、歪な主従関係が、今ここに結ばれた。
「……わかった。君の力、借りるよ。キャスター」
「はいっ! メディアとお呼びください、マスター!」
満面の笑みを浮かべる少女の背後で、気絶したままのアトラムが静かに横たわっている。
茜は、自らの血で汚れた手をポケットに突っ込み、倉庫の出口へと向かって歩き出した。
「行くよ、メディア。夜明けまでに、僕の痕跡を完全に消去(クリア)しなければならない。……僕はあくまで、背景なんだから」
「はい、マスター! 私の魔術で、綺麗に隠蔽してみせますね!」
冬の夜空には、凍てつくような星が瞬いている。
聖杯戦争という巨大な狂気のシステムの中で、竜胆茜という孤独な観測者は、自らと同じほどに歪んだ「純真な魔女」を手札に加え、さらなる深淵へと足を踏み入れていくのだった。
あとがき
裏設定的なの、書くか迷ったけど適当に羅列しますね。
読まなくても大丈夫です!!
◆アトラムの遅延と、触媒のバタフライ・エフェクト
原作において、アトラムは開戦の約1ヶ月前に冬木入りし、周到に工房を構えてたんですけど、本作の時系列では、遠坂凛がアーチャーを召喚する「わずか数日前」のギリギリの到着になっています。
その理由としては、彼が神代の魔女の確実な触媒(ゆかりの文献)の入手に手間取ったからです。結果として別の触媒を探す余計なプロセスが発生し、大幅なタイムロスが生じました。この小さなエラーが、結果的に「巡回中の竜胆茜」との致命的な遭遇を招くことになります。
◆なぜ「リリィ」が喚ばれたのか?
アトラムが妥協して手に入れた代替触媒「小さな祭器」は、メディアがアフロディーテの呪いで狂わされる前、純粋に月の女神ヘカテーの神官として信仰に身を捧げていた少女時代に使われていた品なので、この祭器には後の「裏切りの血」とか「怨念」が一切染み付いていないので、大人の魔女だけでなく「メディア・リリィ」を引き当てる可能性がわずかに内包されてる状態になります。
アトラムがそのまま召喚を完遂してた場合は、彼の野心や他者を利用する強欲さが大人の「裏切りの魔女」の側面を強引に引きずり出していた可能性の方が高いと思います。
でも召喚するのが竜胆茜だった場合は「自身を空っぽの器と定義する性質」と「他者のために己の命を躊躇なく投げ出す自己犠牲」。この打算のない、しかし致命的に歪んだ献身の精神が、祭器に眠る無垢な祈りの波長と完全に結びつき、
本来なら極小の確率であった「リリィの顕現」は、こうして必然の最適解として盤面に引きずり出されたのでしたーーって感じ。
◆【IFルート】もし「大人のメディア」が喚ばれていたら?
もし大人のメディアさんが召喚されていた場合、茜の「君にも聖杯を取らせる気はない」という不器用で誠実な宣告は、故郷への帰還を願う彼女への決定的な敵対行為となり、その瞬間に主従は決裂。0.1秒の死闘が始まります。
勝率は「茜が8割、メディアが2割」。
茜は事前に魔力パスを極限まで絞り込み、未来演算で彼女の殺意(敵対行為)を完封する準備を整えていたので、大半は茜が令呪で彼女を自害させ、その霊核を強引に引きちぎって自身の礼装の魔力炉心として組み込む「生存ルート」に突入します。
逆にメディアが予想外の神代の魔術で茜を最速で殺しきった、あるいは令呪いよりも早くルールブレイカーを自身に突き立てた場合は2割の確率で、彼女が葛木宗一郎に拾われる「原作回帰ルート」もしくはそのまま、マスターが見つからずの消滅ルートに入るかもしれん。
◆嘘と誠実さが分かつ運命
最後に、なぜ茜の冷酷な言葉がリリィに刺さったのか。
「君の願いは叶えない」「君は誰かを守るための道具だ」——普通の英霊なら激怒するこの宣告は、「甘い言葉で隠蔽され、一方的に利用された」というトラウマの記憶を持つメディアにとって、逆説的に「自分を騙そうとしない絶対的な誠実さの証明」となりました。
もし茜が魔術師としての合理性を優先し、「君の願い(聖杯)を叶えよう」と嘘をついて彼女を都合よく利用しようとしていれば、リリィは必ずその思惑に気づくことになる。最終的な茜バットエンドルートまっしぐら
計算機みたいな無機質で、一切のオブラートに包まない不器用な誠実さが、純真な魔女の心を救う鍵になったとさ、
茜の最低限の誠実さによるカミングアウトで激昂する通常メディアさんと、逆に信頼を得るメディアリリィさんの対比ですね。
そんな感じです。