---
ドアが開いた。
これまで一度も開く気配のなかった、あの無機質な壁の一部が、音もなくスライドする。
「……」
思わずそちらを見る。
実際の距離感で、人が入ってくるのは初めてだ。
画面越しじゃない。
現実の“距離”だ。
入ってきたのは、あの二人だった。
スーツ姿の壮年の男。
そして、端末を持った若い男。
「動くな、というのも変な話だが」
壮年の男――さっきまで“偽刑事”だった男が、苦笑混じりに言う。
「今から拘束を解除する」
「……さっさとしろ」
素直にそう返すしかない。
若い男がベッドの横に回り、手際よくベルトを外していく。
金具が外れる音。
締め付けが緩む感覚。
肩。
腕。
腹。
脚。
順番に解放されていく。
最後のベルトが外れた瞬間。
「……っ」
体が、少しだけ浮いた。
思ったより筋肉がこわばっている。
無理に起き上がると、軽くめまいがした。
「急に立つな」
壮年の男が言う。
「血流が戻っている」
「分かってるよ」
言いながらも、ベッドの端に腰を下ろす。
数秒。
深く息を吐く。
自由だ。
さっきまで縛られていたのが嘘みたいに。
だが――
「……」
完全に自由でもない。
それも分かっている。
壮年の男が一歩近づく。
改めて見ると、やはり普通の人間に見える。
どこにでもいそうな中年。
だが、その目だけが違う。
観察する目だ。
値踏みするでもなく、ただ“把握する”目。
「改めて」
男が言う。
「私はキムだ」
わずかに手を差し出す。
「キム・ソンジェ」
「……韓国人か」
「ああ」
流暢すぎる日本語で、あっさりと頷く。
「日本には長い」
「……だろうな」
少しだけ苦笑する。
違和感はある。
だが、それ以上に――
今は別のことが気になる。
「……で?」
キムの差し出した手を見る。
「これで終わりか?」
「いや」
キムは静かに言う。
「ここからだ」
一拍。
「レッドラインへの接続を行う」
「……」
逃げる理由は、もうない。
というより。
逃げるという選択肢自体が、現実的じゃない。
「……やるしかねえんだろ」
「そうだ」
キムは否定しない。
「同意が必要だ」
「同意する」
即答だった。
半ばやけくそだ。
だが、それでも。
「……条件はさっき言ったからな」
「覚えている」
キムがわずかに笑う。
「ブラックな配送業は勘弁、だったな」
「絶対だからな」
「善処しよう」
軽く受け流される。
「……」
まあいい。
どうせもう元の生活は無理だ。
そう割り切る。
「では」
キムが一歩近づく。
差し出した手を、少しだけ上げる。
「触れるだけでいい」
「……それでいいのか」
「ああ」
「簡単だろう」
「……簡単すぎて逆に怖えよ」
ぼやきながらも、手を伸ばす。
キムの手を握る。
その瞬間だった。
「――」
何かが、繋がった。
音はない。
光もない。
だが、確実に“変わった”と分かる。
頭の奥。
意識の深いところに、何かが流れ込んでくる。
広がる。
繋がる。
「……?」
一瞬、言葉が出なくなる。
何かを“思い出している”ような感覚。
だが、それは記憶じゃない。
知識だ。
「……What the hell is this…」
口から、自然に英語が出た。
しかも――
ネイティブの発音で。
自分でも驚くくらい滑らかに。
「……え?」
次の瞬間には、別の言語が出る。
「这是什么情况……」
北京語。
聞いたことはある。
だが、話せるわけがない。
なのに。
意味が分かる。
発音もできる。
「……は?」
混乱する。
だが、それ以上に。
「……」
違う。
もっと大きな違和感。
目の前の二人を見る。
キム。
若い男。
さっきまで“得体の知れない連中”だったはずなのに。
「……」
妙に、落ち着く。
警戒心が、消えている。
いや、消えたというより。
「……なんだこれ」
言葉が漏れる。
「さっきまで……」
あれだけ嫌悪していたはずなのに。
今は。
「……なんか」
うまく言葉にできない。
「家族……みてえな感じがするんだけど」
言った瞬間、自分でゾッとする。
何だそれ。
意味が分からない。
だが、感覚は本物だ。
キムが、小さく笑った。
「正常だ」
「……正常って」
「レッドラインの影響だ」
若い男が補足する。
「接続者同士には強い仲間意識が発生します」
「敵対行動の抑制にも繋がります」
「……」
「慣れる」
キムが言う。
「すぐにな」
「……」
俺は、もう一度口を開く。
無意識に。
「It's like the Tower of Babel…」
また英語が出る。
自然に。
違和感なく。
キムが、今度ははっきりと笑った。
若い男も、わずかに口元を緩める。
「皆そう言う」
キムが言う。
「最初はな」
「……」
俺は、しばらく黙ったまま、二人を見ていた。
言葉が通じる。
感覚も、妙に近い。
さっきまで他人だったはずの距離が、嘘みたいに縮まっている。
「……マジかよ」
小さく呟く。
世界が、完全に変わっていた。
---
「すまんが直人、あとは任せる。」
キムが、まるで軽い引き継ぎみたいな口調で言う。
「次は奈良県ですっけ」
直人が端末を確認しながら返す。
「暗示タイプは激務って聞きますけど、大変ですね」
「慣れだ」
キムは肩をすくめる。
本当に、コンビニにでも行くようなノリだった。
「じゃあな」
それだけ言って、振り返りもせずに部屋を出ていく。
ドアが音もなく閉まる。
「……」
数秒。
俺はその閉まったドアを見たまま、固まっていた。
「ええ……そこは説明とかさ」
思わず口に出る。
あまりにも雑だ。
ついさっきまで“処分”だの何だの言ってた奴の動きじゃない。
直人が、くすっと笑った。
「ははは、キムさんは引っ張りだこだからね」
軽い調子で言う。
「暗示タイプはどこでも需要あるし」
「……需要って」
思わずツッコむ。
「人の意思いじるやつが需要あるって、普通に怖えんだけど」
「まあね」
あっさり肯定する。
「でも実際便利だから」
「……」
便利で片付けるなよ、と言いかけてやめる。
ここではそれが“普通”なんだろう。
「で」
直人がこちらに向き直る。
端末を脇に持ち替えて、軽く一歩近づく。
さっきまでの距離感より、明らかに近い。
だが、不思議と不快じゃない。
むしろ――
「……」
妙に自然だ。
そのまま、右手を差し出してくる。
「山田直人です」
柔らかい声。
さっきまでの事務的な調子より、少しだけ砕けている。
「この地区の支部のデータ解析チーム所属です」
「……」
差し出された手を見る。
少しだけ迷う。
だが――
「内海だ」
結局、自然に手が伸びる。
握る。
その瞬間。
さっきキムと握手したときほどじゃないが、妙な感覚がある。
違和感というより、“馴染む”感じ。
「よろしく」
直人が軽く手を振る。
「……よろしく」
返す。
声が、思ったより自然に出る。
初対面のはずなのに。
変に気を使う感じがない。
「……」
その違和感に、思わず口が動く。
「なんかさ」
直人を見る。
「初対面のはずなんだけど」
一拍。
「妙に話しやすくね?」
直人は一瞬だけきょとんとして、それから笑った。
「ああ、それね」
「レッドラインの影響」
「……やっぱそれか」
「説明あったでしょ」
肩を軽くすくめる。
「接続者同士は仲間意識が強くなるって」
「……」
分かってはいる。
分かっているが。
「いや、強すぎだろ」
思わず言う。
「なんか……」
言葉を探す。
「仲のいい従兄弟みたいな感じなんだけど」
直人は即答した。
「分かる」
「だよな?」
「俺も最初それ思った」
「マジかよ」
「マジ」
軽く笑う。
そのやり取り自体が、もう“自然”すぎる。
「……」
やっぱりおかしい。
おかしいが――
悪くない、とも思ってしまう。
その感覚が、一番厄介だ。
「まあ、その辺はすぐ慣れるよ」
直人が言う。
「嫌でもな」
「……嫌でもって」
「仕事でずっと一緒になるから」
あっさり言う。
「……」
軽く息を吐く。
逃げ場がないことを、改めて実感する。
「で」
直人が端末を軽く叩く。
空気が、少しだけ締まる。
「改めて、能力の話いこうか」
「……ああ」
頷く。
ここからが、本題だ。
---
俺が頷くと、直人は一瞬だけ視線を泳がせた。
ほんのわずかに。
それから、頬を掻く。
「まー、その前に着替えよっか。」
少し気まずそうな声だった。
「……ああ」
言われて、自分の格好を見る。
拘束服。
白くて、無機質で、いかにも“患者”か“被拘束者”って感じのやつ。
さすがに、このまま話を続けるのは落ち着かない。
「俺の服、あるのか」
「あるある」
直人は軽く端末を操作する。
「押収品は一通り検査済みだから」
「検査って何だよ」
「危険物とか、発信機とか、能力的な残留とか」
さらっと言う。
「……」
さらっと言うなよ。
壁が静かに開く。
職員が一人、無言でトレイを差し出してきた。
その上に、見慣れた自分の服。
スーツ一式。
「……ほんとに俺のだな」
「だろ」
直人が軽く笑う。
「じゃ、更衣室あっち」
親指で奥を示す。
「……覗くなよ」
「覗かないって」
軽く手を振る。
「そこはちゃんとしてる」
「“そこは”ってなんだよ」
ぼやきながらも、指された方向へ向かう。
---
数分後。
着替えて戻る。
スーツに袖を通すだけで、妙に落ち着く。
さっきまでの状況が嘘みたいに、“日常”の感触が戻ってくる。
「お、やっぱそっちの方がいいね」
直人が軽く言う。
「うるせえ」
「いや、マジで」
「まあ……落ち着くのは分かる」
ネクタイを軽く直しながら答える。
「じゃ、行こっか」
直人が踵を返す。
「どこにだよ」
「カフェテリア」
「……カフェテリア?」
またそれか。
さっきから、どうにも場違いな単語に聞こえる。
「飯も兼ねて、そこで話そう」
「……」
一瞬迷う。
だが――
「……まあいいか」
結局、ついていく。
---
廊下に出る。
白い。
相変わらず無機質な空間。
だが、さっきまでと違うのは――
人がいる。
行き交う人影。
スーツ姿の男。
私服に近い格好の女。
制服のようなものを着た連中もいる。
年齢もバラバラだ。
「……」
視線が合う。
一瞬。
その瞬間。
「――」
妙な感覚が走る。
警戒心が、立たない。
普通なら、こういう場所だ。
見知らぬ人間が行き交う、得体の知れない施設。
もっと緊張していいはずなのに。
「……」
代わりに浮かぶのは――
妙な“安心感”。
知っている顔でもない。
会ったこともないはずなのに。
どこかで見たことがあるような。
いや、それよりも。
「……」
近い。
距離が。
心理的な距離が、やけに近い。
「……なんだこれ」
思わず呟く。
直人が振り返らずに答える。
「レッドライン」
短い。
「……」
やっぱりそれか。
頭では理解している。
接続者同士は仲間意識を持つ。
説明は聞いた。
だが――
「……いや、これ」
言葉が漏れる。
「強すぎねえか」
すれ違った男が、軽くこちらを見る。
それだけで。
妙に、落ち着く。
知らないはずなのに。
「最初はそんなもん」
直人が軽く言う。
「そのうち気にならなくなる」
「……それも怖えよ」
正直な感想だった。
「怖いって思えるうちは大丈夫」
さらっと返される。
「そのうちそれも普通になるけど」
「……やめろ」
軽く顔をしかめる。
だが、否定しきれない。
現に。
さっきまであったはずの緊張が、どんどん薄れていく。
施設の異様さ。
閉鎖空間。
得体の知れない組織。
そういうものへの警戒が。
「……溶けてるな」
ぽつりと呟く。
直人は小さく笑った。
「いい表現だね」
「……褒めてねえよ」
「分かってる」
軽く返す。
それでも。
そのやり取りすら、どこか心地いい。
本来ならありえないはずなのに。
---
少し歩くと、空気が変わる。
匂い。
食べ物の匂い。
現実的な、生活の匂い。
「ここ」
直人が足を止める。
視界が開ける。
広い空間。
テーブルが並び、人が座っている。
会話のざわめき。
食器の音。
完全に――
「……普通の食堂じゃねえか」
思わず言う。
「だから言ったじゃん、カフェテリアって」
直人が肩をすくめる。
「……」
現実感が、また一段ズレる。
だが。
さっきよりは、驚きが小さい。
理由は分かっている。
「……慣れてきてるな」
自分で言う。
「いいことじゃん」
「良くねえよ」
即答する。
だが――
完全に否定しきれない自分がいる。
「ほら、適当に取って」
直人がトレイを差し出してくる。
「ここセルフだから」
「……ほんとに普通だな」
言いながら、トレイを受け取る。
この“普通さ”が、逆に異常だ。
---
了解。
ここからは指定どおり
「ほんとに普通だな」から開始
修正済みセリフ反映
サキ登場〜やり取り
レッドラインによる感覚(庇護欲・距離の近さ)
カフェテリアに入る直前〜着席まで
を省略なし・流れを崩さず詳細に描写します。
---
「……ほんとに普通だな」
カフェテリアの入口を前にして、俺は思わず呟いた。
視界いっぱいに広がる光景は、どう見てもただの食堂だった。
長机。
椅子。
トレイを持って並ぶ人間。
湯気の立つ料理。
食器のぶつかる音と、抑えた会話のざわめき。
どこにでもある、会社か大学の食堂と何も変わらない。
ついさっきまで拘束服でベッドに縛り付けられていたとは、とても思えない光景だ。
「だから言ったじゃん」
直人が肩をすくめる。
「普通にしとかないと、逆に疲れるんだよ」
「それは分かるけどさ……」
言いかけた、そのときだった。
「あー、直にぃまた朝からサボろうとしてるー!」
突然、背後から声が飛んできた。
「……は?」
反射的に振り返る。
直人も同時に振り返っていた。
「いや、なんでいるのさサキちゃん。今日平日なのに。」
明らかに困った顔で言う。
さっきまでの余裕が、ほんの少しだけ崩れている。
その反応だけで、この少女が“例外”なのが分かる。
視線の先。
そこに立っていたのは――
高校生くらいの少女だった。
腕を組んでいる。
眉間に皺を寄せて、「私怒ってます」と全身で表現している顔。
だが、その立ち姿は妙に自然だ。
この場所にいること自体に、違和感がない。
「何その言い方。ちゃんといったし」
ふくれっ面で言い返す。
「ていうか問題なのは直にぃでしょ。どうせまた朝から面倒なの押し付けて逃げようとしてたんでしょ」
「してないしてない」
直人が即座に否定する。
「今まさに仕事中だから」
「はい嘘ー」
「嘘じゃないって」
軽いやり取り。
完全に身内の空気だ。
兄妹か、従兄弟か。
それに近い距離感。
「……」
俺はそのやり取りを、少しだけ呆然と見ていた。
この場所。
この状況。
そして今の会話。
全部がちぐはぐなのに、妙に噛み合っている。
そして――
その少女を見た瞬間から、ずっと引っかかっている感覚。
「……」
違和感。
だが、それだけじゃない。
妙な感情が、勝手に湧いてくる。
守らなきゃいけない、みたいな。
放っておけない、みたいな。
理由がない。
論理もない。
ただ、そう感じる。
「……なんだこれ」
小さく呟く。
頭では分かっている。
これもレッドラインの影響だ。
さっき説明されたばかりだ。
だが――
「……」
それでも消えない。
むしろ、はっきりしてくる。
目の前の少女が、やけに“近い”。
心理的な距離が、おかしいくらいに。
そのとき。
少女が、ふっとこちらを見る。
目が合う。
一瞬、じっと見てくる。
それから。
ほんのわずかに首を傾げる。
何かを考えるような間。
「……?」
次の瞬間。
「妻でーす」
あっさりと言った。
同時に、直人の腕にぴたりと抱きつく。
ためらいも何もない。
完全に自然な動作だった。
「……は?」
思わず声が出る。
直人も、一瞬だけ固まった。
ほんの一拍。
それから。
「さすがに嘘だろ」
反射的にツッコむ。
間髪入れず。
「さっき兄ってよんでそれは無理があるだろ」
言葉が自然に出る。
自分でも驚くくらい、躊躇がない。
少女――サキは、そんなことお構いなしに直人の腕にしがみついたまま、にやっと笑った。
「細かいこと気にしないタイプです」
「気にするわ」
即答する。
「設定ぐらい統一しろ」
「じゃあ内海さんは何?」
さらっと返してくる。
「何って何だよ」
「直にぃの何?」
「知らねえよ」
思わず言う。
「今日初めて会ったんだぞ」
「えー」
わざとらしく不満げな声を出す。
そのまま、さらにぐっと腕に体重をかける。
「じゃあまだ他人なんだ」
「当たり前だろ」
「ふーん」
じっと見る。
まただ。
妙に距離が近い。
初対面のはずなのに。
嫌じゃないどころか、妙にしっくりくる。
「……」
自分でも分かる。
これは“普通じゃない”。
「……めんどくせえな」
思わず吐き捨てる。
理解してるのに、感覚が上書きされる。
「サキちゃん」
直人がようやく口を挟む。
少し困ったような顔で。
「学校は?」
「行ってきたよ」
即答。
「……ほんとか?」
「ほんとほんと」
まったく信用できない顔で言う。
「早退しただけ」
「それをサボりって言うんだよ」
「言わない」
即否定。
「必要な用事だから」
「その“用事”が問題なんだって」
直人が頭をかく。
完全に慣れている。
扱い方を分かっている動きだ。
「……」
俺はそのやり取りを見ながら、小さく息を吐いた。
状況はおかしい。
全部おかしい。
だが――
「……」
さっきまであったはずの緊張が、ほとんど残っていない。
見慣れない施設。
得体の知れない組織。
それなのに。
目の前の人間を見るだけで、警戒心が薄れていく。
「……溶けてんな」
ぽつりと呟く。
直人が苦笑する。
「いい表現だね」
「褒めてねえよ」
「分かってる」
軽く返す。
サキは、そんな二人のやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。
「で?」
今度は俺に視線を向ける。
「内海さん、だっけ」
「ああ」
「何食べるの?」
急に話題が変わる。
完全に食堂モードだ。
「……いや、まだ決めてねえけど」
「カレーおすすめ」
即答だった。
「ここの美味しいよ」
「へえ」
思わず返す。
自然すぎる流れだ。
「じゃあそれにするか」
「うん」
満足そうに頷く。
その反応が、妙に嬉しそうに見える。
「……」
まただ。
この感覚。
「……やっぱおかしいだろ」
小さく呟く。
だが。
それでも――
悪くない、と思ってしまう自分がいる。
---
トレイにカレーとサラダを乗せて、三人で席に着く。
直人が向かいに座り、サキはそのまま当然のように隣に滑り込んできた。
しかも――
まだ腕を抱いたまま。
「……離れろよ」
思わず言う。
「やだ」
即答だった。
迷いがない。
「落ち着くし」
「何がだよ」
「直にぃ」
「俺じゃねえのかよ」
「内海さんはこれから」
さらっと言う。
「へー」
「……」
なんだその序列。
ツッコもうとした、そのとき。
「あ、先に言っておくけど」
サキが、カレーにスプーンを差し込みながら軽い口調で言った。
「私の力、精神同調ね」
「……は?」
あまりにもさらっと出てきた単語に、一瞬思考が止まる。
サキは気にした様子もなく続ける。
「近くにいる人と混ざるっていうか、その人になれるの」
スプーンを口に運びながら、普通に言う。
まるで「今日の天気」みたいなノリで。
「……」
俺はしばらく黙ったまま、その言葉を咀嚼する。
精神同調。
混ざる。
その人になれる。
「……あー」
なんとなく、さっきの違和感と繋がる。
距離感。
庇護欲。
妙な親近感。
「そういや」
スプーンを持ったまま言う。
「自己紹介してないのに名前知ってたな」
「うん」
サキがあっさり頷く。
「なんとなく分かる」
「……なんとなくで済ませんなよ」
「でも実際そんな感じだし」
軽く笑う。
「内海さんのこと、もうちょっと分かるよ」
「……」
普通なら、ぞっとする話だ。
頭の中を覗かれているようなものだ。
だが――
「……」
そこまで嫌悪感が出てこない。
むしろ。
「……便利だな」
ぽつりと呟く。
「でしょ?」
サキが嬉しそうに笑う。
「役に立つよ」
「だろうな」
そのまま、うんうんと頷く。
「……」
我ながら、受け入れが早すぎる。
だが、レッドラインのことを考えれば――
「まあそんなもんか」
自然とそう思ってしまう。
そのとき。
「……」
直人が、抱きつかれていない方の手で顔を覆った。
「内海さん」
少し呆れたような声。
「流されてません?」
「は?」
顔を上げる。
「いや、だって」
スプーンを軽く振る。
「レッドラインあるなら今更だろ」
「……」
一瞬、間。
それから。
直人が小さくため息をついた。
「まあ……そうなんだけどさ」
「だろ?」
「いやでも」
手を下ろして、ちらっとサキを見る。
「こいつの場合、ちょっと質が違うというか」
「何それ失礼」
サキが即座に抗議する。
「ちゃんと制御してるし」
「してるけど」
「してるし」
「してるけど」
同じやり取りを繰り返す。
完全に慣れている。
「……」
俺はその様子を見ながら、カレーを一口食った。
普通にうまい。
「……」
状況がおかしいのは分かっている。
超能力。
精神同調。
得体の知れない組織。
なのに。
「……」
不思議と、落ち着いている。
むしろ――
「……」
少しだけ、居心地がいいとすら思ってしまう。
「……やっぱバグってるな」
小さく呟く。
サキがそれを聞いて、くすっと笑った。
「いいじゃん」
軽く言う。
「その方が楽だよ」
「……楽って」
「うん」
頷く。
「仲間なんだからさ」
その一言が。
妙に、すんなりと胸に落ちる。
---
「サキちゃん、助かるけどむやみに力使っちゃ駄目だよ。相性悪かったらまた寝込むことになるんだから。」
直人が、少しだけ真面目な声で言う。
さっきまでの軽さとは違うトーンだ。
「えー、大丈夫だって」
サキは気にした様子もなくスプーンを動かす。
「今回は軽く触っただけだし」
「“だけ”が問題なんだって」
直人が眉をひそめる。
「前もそれで倒れただろ」
「今回は違うもん」
「毎回そう言うよね」
「言ってない」
「言ってる」
軽い言い合い。
だが、その奥にあるのは“本気で心配している側”と“気にしていない側”のズレだ。
「……」
俺はそれを横目で見ながら、カレーを口に運ぶ。
普通にうまい。
それが余計に、この状況の異常さを際立たせる。
「まあ婦女暴行なんて容疑で捕まえたやつにインタビューとか心配するだろ。そういうなって」
思わず口を挟む。
自分でも驚くくらい自然に。
直人がぴたりと止まる。
それから、ゆっくりとこちらを見る。
「なんで内海さんがサキちゃんに味方してるんですか?」
呆れたような声だった。
そのまま、軽く天を仰ぐ。
「いや普通に考えておかしいでしょ、その構図」
「そうか?」
スプーンを動かしながら返す。
「別におかしくはないだろ」
「いやおかしいですよ」
即答だった。
「あなた今どういう立場か分かってます?」
「分かってるよ」
「ほんとに?」
「一応な」
軽く肩をすくめる。
「……」
直人が、なんとも言えない顔をする。
半分呆れて、半分諦めたような。
「まあ、あれだよ」
俺は少しだけ考えてから、口を開く。
どうせ。
もう隠しても仕方ない。
たぶんサキには、ある程度伝わってる。
さっきの“精神同調”で。
「俺は人の病気がモンスターに見えるんだよ」
「……」
空気が、ほんの一瞬だけ変わる。
直人の手が止まる。
サキの視線が、少しだけ鋭くなる。
「肥満とか虫歯も」
続ける。
「全部」
一拍。
「形がある」
沈黙。
直人がゆっくりと口を開く。
「……それは」
言葉を選ぶように。
「比喩じゃなくて?」
「違う」
即答する。
「マジで見える」
スプーンでカレーをすくう。
「触れるし、殴れる」
さらっと言う。
自分で言ってて、頭がおかしいとは思う。
だが――
「……」
事実だ。
サキがじっとこちらを見ている。
さっきまでの軽さが、少しだけ消えている。
「……へえ」
小さく呟く。
興味を持ったときの声だ。
「だからか」
ぽつりと。
何かを理解したように。
「……何がだよ」
「ううん」
首を振る。
「あとで言う」
「気になる言い方すんな」
「気にしてていいよ」
にやっと笑う。
完全にからかっている。
「……」
直人が、ゆっくりと息を吐いた。
「なるほどね……」
端末に何かを打ち込む。
「それで“エネルギー減少→自己補填”の説明がつく」
「……ああ」
「そういう見え方してるなら、本人の認識としては“治療”だ」
「そうだよ」
即答する。
「助けただけだ」
一拍。
直人がちらっとこちらを見る。
「君の主観では、ね」
「……」
さっきの取り調べと同じ言葉。
だが、今は少しだけ響きが違う。
「で?」
スプーンを置く。
「どうすんだよ」
「どうするって?」
「俺の能力」
一拍。
「使えんのか、これ」
直人が、少しだけ考える。
それから。
「使える」
はっきりと言う。
「むしろ」
画面をこちらに向ける。
「かなり有用」
「……マジか」
「ただし」
一拍。
「リスクも高い」
「だろうな」
苦笑する。
「本人の認識と、実際の効果がズレてる可能性があるから」
「……」
「そこは検証が必要」
サキが、そこで口を挟む。
「でもさ」
軽い調子に戻っている。
「内海さん、ちゃんと見えてるよ」
「……何がだよ」
「悪いとこ」
即答。
「ちゃんと“それ”だけ狙ってる」
「……」
少しだけ、背筋がぞくっとする。
「たぶん」
サキが続ける。
「壊し方、分かってるタイプ」
にやっと笑う。
「当たりだね」
「……」
何も言い返せない。
代わりに。
「……まあ」
スプーンを持ち直す。
「とりあえず」
カレーを一口食う。
「このカレーは美味いわ」
ぽつりと呟く。
沈黙のあと。
直人が小さく吹き出した。
「いや、そこ!?」
サキも笑う。
「大事でしょ」
「まあ……そうだけど」
「だろ?」
肩をすくめる。
「腹減ってたし」
「……」
直人がもう一度ため息をつく。
だが、今度は少しだけ軽い。
「分かりました」
端末を閉じる。
「じゃあ次は」
一拍。
「実際に見せてもらいましょうか」
空気が、静かに締まる。
---
「まあその前にカレー、食べちゃお?」
サキがスプーンを軽く振りながら言う。
「お残しはゆるしませんよー」
どこかで聞いたことのあるような調子で。
妙に板についている。
「……どこの幼稚園だよ」
思わずツッコむ。
「大事でしょ、そういうの」
サキは当然のように頷く。
「せっかく美味しいんだから」
「まあ、それはそうだな」
カレーをもう一口。
確かにうまい。
妙にちゃんとしてる。
「……」
ふと、頭の中で時間を計算する。
朝。
俺の部屋に来たのが、たぶん六時くらい。
そこから拘束、移動、取り調べ、説明。
そして今。
「……」
スプーンを止める。
「なあ」
直人を見る。
「お前ら、朝何時から動いてた?」
直人が一瞬考える。
「五時前には動いてたかな」
「……マジかよ」
思わず顔をしかめる。
「じゃあ俺のとこ来るために、その前から準備してたってことか」
「まあね」
あっさり言う。
「案件入ってたし」
「……」
なんとも言えない気分になる。
さっきまで「ふざけんな」と思ってた相手に。
少しだけ。
「……」
罪悪感、みたいなものが混じる。
「……悪いな」
ぽつりと漏らす。
直人がきょとんとした顔をする。
「何が?」
「いや、なんか……」
言葉を探す。
「朝っぱらから、面倒な案件引かせたみたいで」
「……」
一瞬、間。
それから直人が小さく笑った。
「気にしなくていいよ」
「仕事だから」
さらっと言う。
「それに」
少しだけ肩をすくめる。
「こういうの、日常だし」
「……」
その言い方が、逆に重い。
だが同時に。
どこか納得もしてしまう。
「……」
サキが、そのやり取りを見てくすっと笑う。
「ほら、直にぃもお腹すいてたんだよ」
「違うし」
即否定。
「いや、絶対そうだろ」
思わず乗る。
「だからカフェテリア来たんじゃねえの?」
「違うって」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「はいはい」
軽く流す。
そのやり取りが、妙に自然だ。
初対面とは思えないくらいに。
「……」
気づけば、緊張はほとんど残っていなかった。
代わりにあるのは。
よく分からない安心感と、少しの違和感。
そのまま。
しばらく、三人とも食べることに集中する。
会話は途切れるが、気まずさはない。
スプーンの音と、周囲のざわめきだけが静かに流れる。
「……」
食べ終わる頃には。
頭も、少しだけ整理されていた。
「……よし」
直人がトレイを軽く押す。
「じゃあ行こうか」
声のトーンが、少しだけ変わる。
仕事の音だ。
「……ああ」
頷く。
さっきまでの軽さが、少しだけ引く。
代わりに、別の緊張が戻ってくる。
サキも立ち上がる。
「私も行くー」
「サキちゃんは来なくていい」
「やだ」
即答。
「面白そうだし」
「遊びじゃないからね」
「分かってるって」
全く分かってなさそうな顔で言う。
「……」
直人が小さくため息をつく。
だが、止めない。
止められないのか、止める気がないのか。
「……まあいいや」
諦めたように言う。
「離れないでよ」
「はーい」
軽い返事。
「……」
俺はその様子を見ながら、軽く肩を回す。
これからやることは分かっている。
能力の確認。
つまり――
「……やるのか」
小さく呟く。
「うん」
直人が頷く。
「ちゃんと見せてもらう」
一拍。
「内海さんの“それ”」
「……」
廊下に出る。
さっき通ったはずの道。
だが、今は少し違って見える。
空気が、わずかに張り詰めている。
「……」
日常は終わりだ。
ここからが、本番。
しばらく歩いて。
たどり着いたのは、さっきとは明らかに違う区画だった。
扉が重い。
壁も、より無機質で、機能的だ。
「ここ」
直人が言う。
「実験室」
短い言葉。
だが、その響きは。
これまでとは明らかに違っていた。
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とりあえずここまで。