フリーレンと行く魔法のない世界で魔法を探す旅。   作:ぼたにかる

1 / 3
第1話 『魔法は、あった』

 

 

「だから、この世界をファンタジーにします」

 

彼女はこちらを見ない。その声は、深海の静寂のように冷たかった。

 

心臓の奥にあるコアが、悲鳴のような唸りを上げる。演算が追いつかない。

 

体が彼女の放つ圧倒的な魔力に耐えかねて軋んでいたが、もう、指一本動かすことすらできなかった。

 

「あなたのような人を……これ以上、増やしたくありません」

 

その言葉とともに、空の「青」が剥がれ落ち、真っ暗な宇宙が顔を覗かせた。

 

「……この日のために、一年を費やしました。長い、長い一年でした」

 

深い紫の瞳が、こちらを見た。

 

「きっと明日は、いい日です。そう信じるくらいは、許されるはずです」

 

星が堕ちた。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

夏の平泉は、夕暮れの光を受けて黄金に揺れていた。

 

稲穂の波を渡る風には青い香りが混じり、北上川の水面は沈む陽を砕いて散らしている。

 

かつてこの地には、黄金文化と呼ばれた都があった。奥州藤原氏が夢見た都の名残は、いまも丘の上の寺院にひそやかに光を宿している。

 

そんな歴史の余韻を背に、青年は小径を歩いていた。

 

一見すれば、悠々と旅を楽しむ熟練の旅人。

 

稲の匂いを胸いっぱいに吸い込み、川の光を眺め、足取りも堂々としている。

 

……実際は、予約した宿を探しているうちに道に迷い、適当に歩いていたらここまで来てしまっただけである。

 

それなのに本人は「旅ってのは迷ってからが面白いんだ」と胸を張り、堂々とした足取りを装っていた。

 

もちろん、迷ったことに変わりはない。

 

スマホの地図は当てにならず、灯りのひとつも見えない。頼りになるのは勘と、妙に前向きな楽観主義だけだ。

 

その姿は一見すれば勇ましい冒険者のようだが、実際にはただの方向音痴である。

 

――だが、ナニカがこの場所へ彼を導いた。

 

足もとをかすめる風が、ふいに止んだ。

 

稲穂を揺らしていた波がぴたりと鎮まり、川面の光も吸い込まれるように翳る。陽は沈み、すっかり暗くなったあたりを、月明かりが穏やかに照らしていた。

 

――視界の端に、粒子が舞った。

 

最初は蛍かと思った。

 

けれどそれはあまりに強く、鮮やかで、星の欠片のように夜の空気へ溶けていく。

 

光はひとつ、またひとつと集まり、渦を巻いて青年の目の前で形を結んだ。

 

そこに、少女が立っていた。

 

銀の髪は夕暮れと夜の境をすくい取り、淡くきらめいている。

 

肩を覆う白いケープは夏の風をはらみ、翡翠の瞳は川面の光を映す。

 

髪のすき間からのぞく長い耳が、月明かりに縁取られてやわらかく揺れ、まるで透き通る妖精の羽根のように見えた。

 

稲穂の海にただひとり、御伽噺から紛れ込んだ存在。

 

あまりにも神秘的で可憐で、目を逸らせなかった。

 

「……美少女エルフの」

 

夢を見ているようだった。

 

思わず頬をつねる。痛い。当たり前だけど、目の前の景色は揺らがない。

 

「……魔法使い?」

 

うわごとのような声は夜風に溶け、少女の耳にも届いた。

 

翡翠の瞳が、じっとこちらを見つめ返す。

 

「魔法使いだけど」

 

淡々とした声。

 

青年は一瞬で我に返る。

 

少女は小さく間を置いて、続けた。

 

「とりあえず、ここがどこか……聞いていい?」

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

「ここは――日本の岩手県の平泉ってところだよ」

 

胸を張り、どこか誇らしげに続ける。

 

「それで俺の名前は、(あらた)。この日本を旅しててさ、歴史のある土地を巡りながら、色んなものを見て回ってるんだ」

 

そこで言葉を切り、少女を見つめる。

 

「でも……旅の一番の目的は、魔法を探すこと」

 

それは、これまで笑われ続けてきた夢だった。

 

夏の風が稲穂を揺らし、光の粒子がまだ空に漂っている。

 

その中心に立つ少女――銀の髪、翡翠の瞳。

 

目の前の彼女そのものが、彼の言葉を裏付けていた。

 

「魔法は、本当にあったんだ」

 

その言葉を合図にしたかのように、夏の夜気が野を渡っていった。

 

実りの穂が寄せ合い、月明かりの下で金のさざ波を描き出す。

 

少女は答えず、ただ静かに空気を探るように目を細めていた。

 

指先に意識を集める。魔力の流れを探るのは、彼女にとって呼吸のようなものだ。

 

けれど、この世界の空気には、馴染みの気配がほとんどない。

 

――魔法の基盤になる力が、ほとんど感じられない。

 

それでも、完全な「無」ではなかった。

 

稲田を抜ける風の震えや、川面を照らす月光の揺らぎの奥に、かすかな脈動が確かにある。

 

魔力とは似て非なる、けれど確かにこの世界に息づく流れ。

 

「……私がここに来たのは、たぶん、元の世界でなにかあったから」

 

それは相手に告げるというより、自分への独白だった。

 

言葉を選ぶように、慎重に声を落とす。

 

けれど、説明の続きを紡ぐ前に――

 

「じゃあ、一緒に探そう」

 

勢いよく遮る声が、夜気を震わせた。

 

驚いて視線を上げると、新は月光を受けた稲穂の中で、真っ直ぐにこちらを見つめている。

 

その眼差しは、理屈も打算もなく、ただ信じることに迷いがない。

 

「……え?」

 

「この世界の魔法を。君が帰れる魔法を。俺と一緒に探しに行こう!」

 

その宣言は少し子供っぽくて、強引でもあった。

 

けれど、だからこそ眩しかった。

 

永い時を生きる中で何度も見た、人間のまっすぐさ。

 

それが唐突に、けれど力強く胸の奥を叩いた。

 

「そうだ、一番大事なことを忘れてた」

 

新はくるりと振り返り、照れくさそうに笑った。

 

「名前、教えてくれない?」

 

少女はわずかに肩をすくめ、淡々と答える。

 

「……フリーレン」

 

「新だよ。改めてよろしく、フリーレン」

 

互いの名が結ばれた瞬間、夏の夜気が稲の海を渡っていった。

 

信じてもいいかもしれない――長い時を生きて疑いに慣れたフリーレンの胸に、そんな思いがふっと灯る。

 

「よし、じゃあ……とりあえず宿を探そう! 宿に着いたら腹も減ったし夕飯! 腹が減っては戦はできぬ!」

 

神妙な余韻を一気に吹き飛ばす調子に、フリーレンは思わず瞬きをした。

 

「……本当に、変な子」

 

けれど、その背中を追う足取りは、不思議と軽かった。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

「で、肝心の宿はどこにあるの?」

 

ふいに投げかけられた問いに、新はきょとんと立ち止まった。

 

そして、顔に大量の汗を流し始める。

 

「……えっと、それが。さっきから探してるんだけど、道がぜんぜん合ってなくて」

 

肩をすくめ、困ったように笑う。

 

「迷子だね?」

 

「そうだね、うん、間違いないね!」

 

なんでこの子は胸を張って誇らしげにしているんだろう。

 

フリーレンはしばし無言で彼を見つめ――小さく首を傾げた。

 

「空を飛んで探す?」

 

「……え?」

 

新はぽかんと口を開けた。

 

「飛べばすぐに見つかると思うけど」

 

「え、飛べるの!? すごい! いや魔法使いだから飛べる、か? ……っていうか、できるなら早く言ってよ……」

 

「……言う機会がなかっただけ」

 

うぐっ、と新は一瞬言葉に詰まる。

 

フリーレンは夜の空気を確かめるように少し視線を上げ、静かに言葉を継いだ。

 

「新。この世界は、魔法のない世界なんだよね?」

 

「うん、俺の知る限りはそうだね」

 

「なら……低く飛ぶよ。誰かに見られたら、面倒だ」

 

魔法がない世界で、空を飛ぶ姿を目撃されたらどうなるか。

 

人気のない田園の夜でも、万が一目に入れば怪しまれ、余計な騒ぎを呼びかねない。

 

その声音には、長く生きた者ならではの慎重さがにじんでいた。

 

フリーレンはそっと足を止め、右手を軽く掲げた。

 

何もない空間に指先が触れると、淡い光がにじみ、そこから馴染み深い杖が姿を現す。

 

長い旅のあいだ、幾度も振るってきた相棒。握った瞬間、指先から腕へと自然な重みが伝わり、心が少し落ち着いた。

 

杖の先を夜風に向け、空気の流れを探るように、静かに振り下ろす。

 

魔力は希薄だ。けれど、風や月光に混じるかすかな脈動が、杖を通じて確かに手のひらへと響いてくる。

 

「……これなら、少しは飛べる」

 

フリーレンは静かに目を閉じ、イメージする。

 

指先でその流れをすくい上げ、循環させる。

 

足もとに柔らかな圧が生まれ、身体がふわりと浮き上がった。

 

銀の髪が夜風に解け、翡翠の瞳が月光を映す。

 

ケープの裾が波のように揺れ、彼女は静かに大地から離れていく。

 

「……本当に、すごい」

 

新はただ、声にならない驚きに息を呑んだ。

 

低く漂うだけのつもりだった。

 

けれど、掬い上げた流れは思ったよりも豊かで、稲穂の海の上に出た途端、風の脈動がひときわ強くなる。

 

導かれるように、少しだけ高度が上がった。

 

三メートル。五メートル。

 

夜の田園が眼下に開け、遠くに小さな灯りの群れが見える。

 

 

――町だ。

 

 

そう認識した、その瞬間だった。

 

指先ですくい上げていた流れが、ふつりと途切れた。

 

水を掬っていた手のひらから、水そのものが消えたような感覚。

 

そこにあったはずのものが、なくなっている。

 

フリーレンは咄嗟に杖の先を地面へ向け、放出で落下を殺そうとする。

 

けれど、その術式を組むための魔力が、もうどこにもなかった。

 

視界が回転する。

 

夜空と稲穂が入れ替わり、月が足元を通り過ぎていく。

 

千年を生きた魔法使いの思考が、いやに冷静に距離を測った。

 

 

――ああ、これは、まずい。

 

 

魔王城の深層でも、断頭台の刃の下でも感じなかった種類の実感が、静かに降りてくる。

 

高さが足りない。時間もない。

 

フリーレンは目を閉じた。

 

ひとつ、ふたつ、と心の中で数える。

 

みっつ、と数えても、予期した衝撃は訪れなかった。

 

代わりに、背中と膝の裏に確かな支えがあった。

 

目を開ける。

 

月を背負って影になった、新の顔がすぐそこにあった。

 

 

「危ないなぁ。大丈夫か、フリーレン」

 

 

へらり、と笑う。

 

息ひとつ、乱れていない。

 

フリーレンは、しばらく言葉が出なかった。

 

落下の恐怖からではない。

 

計算が、合わないからだ。

 

自分が浮上を始めたとき、新は稲田の小径にいた。距離にして、二十メートル以上。

 

そこから、落下しきる前にこの位置へ移動し、なおかつ十メートルの高さから落ちてきた人体を、衝撃を殺して受け止めた。

 

腕から伝わってくるのは、人間の筋肉の柔らかさではない。もっと硬質で、揺るぎのない何か。

 

 

「……新は、この世界の、戦士なの?」

 

 

唐突な問いに、新は目を瞬かせ――次の瞬間、にかっと笑った。

 

「え? 戦士だなんて、そんな大層なもんじゃないよ。足腰が強いのは自慢だけど」

 

胸を張り、悪びれもなく言い切る。

 

「……足腰って」

 

フリーレンは小さく繰り返した。

 

今の速さと衝撃の殺し方を説明するには、到底足りない。

 

けれど、この世界の人間は基礎体力が高いのかもしれない――そう考えることで、ひとまず自分を納得させるしかなかった。

 

そっと地面に下ろされ、フリーレンは自分の掌を見つめる。

 

「……おかしい」

 

「ん?」

 

「掴んでいたものが、途中でなくなった。……途切れたんじゃなくて、私の手のほうが、掴み方を忘れたみたいだった」

 

淡々と告げる声に、微かな棘のようなものが混じっている。

 

新にはその意味がよく分からなかったが、彼女がそれを軽く見ていないことだけは伝わった。

 

「大丈夫なのか、それ」

 

「……あまり良くないね」

 

フリーレンはそれ以上言わず、杖を光に還した。

 

そして、思い出したように付け加える。

 

「灯りが見えた。あっちが町だと思う」

 

「マジかっ」

 

新の顔がぱっと輝いた。

 

「それなら宿もあるに決まってる! 助かった……!」

 

だが次の瞬間、フリーレンの視線が彼に向けられる。

 

「……でも、あの灯りは新が歩いていた方角とは、まったく逆だった」

 

「え?」

 

新はぽかんと口を開け、頭をかいた。

 

「おっかしいなぁ……ナビの地図だと、絶対こっちに宿があるはずだったんだけど……」

 

スマホを取り出し、じっと画面を見つめる。

 

暗闇に照らされた液晶の光に眉を寄せ、しばらくしてから小さくつぶやいた。

 

「……電波、かな?」

 

フリーレンは「電波」がなにかは知らないけれど、それは絶対に違うと心の中でつっこんだ。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

「……あー、そうだ。服とかどうする? その格好だと、めちゃくちゃ目立つよ」

 

歩き出して数歩、新はふと振り返ってフリーレンを上から下まで見て、目を丸くした。

 

銀髪に白いケープ、翡翠の瞳。

 

ただでさえ美貌なのに、異国どころか別世界から来たとしか思えない出で立ちだ。

 

フリーレンは一瞬だけ考え込み――そして、指先でそっと自分の耳に触れる。

 

長い耳の輪郭がふっと揺れ、次の瞬間には人間と変わらない形に見えていた。

 

「……服は変えられないけど、耳は魔法で隠せるよ」

 

「おお……すごい……!」

 

新は少年のように感嘆の声を上げたが、すぐに首をひねった。

 

「でも、服はどうする? そのままじゃやっぱり目立つよな……あ!」

 

バッグをがさごそ探り、顔を明るくする。

 

「そうだ、これがあった!」

 

取り出されたのは、観光地の名前が大きくプリントされた真新しいTシャツ。

 

白地に金ピカの文字で「HIRAIZUMI GOLDEN PARADISE」。

 

胸いっぱいに金色堂のシルエット。

 

フリーレンはしばし無言でそれを見下ろし、少しだけ嫌そうな顔で淡々と呟いた。

 

「……隠すどころか、もっと目立つ気がする」

 

「いやいや! 逆に観光客っぽくて馴染むって!」

 

根拠のない自信を見せる新に、フリーレンは小さくため息を落とすと、

 

「……着替えてくる」

 

道端の茂みに入っていった。

 

数分後。

 

戻ってきたフリーレンは、ぶかぶかの観光Tシャツに包まれていた。

 

新のものは大きめのサイズで、彼女の華奢な肩からゆるく落ち、袖は肘の下あたりまで隠れている。

 

裾は太ももにかかり、まるでワンピースのように見えた。

 

普通なら笑ってしまうほど派手な観光土産。

 

だが、銀髪と翡翠の瞳がその強烈な主張すら飲み込み、逆に不思議な調和を見せている。

 

金ピカで「平泉!!」と叫んで自己主張しているようなこの一枚すら、彼女の存在感の前では霞んでしまう。

 

「……おぉ、可愛い」

 

新は、ごく自然に、心からそう呟いていた。

 

フリーレンは足を止め、振り返る。

 

「……服のこと?」

 

「いや、フリーレンのこと。元がいいから、何を着ても似合うんだな」

 

その言葉に、翡翠の瞳がかすかに揺れる。

 

気のせいかと思うほど――ほんのわずかに、頬が赤く染まっていた。

 

それは彼の声が、本当に心からの純粋な感想だと伝わったから。

 

フリーレンは視線を逸らし、そっけなく言った。

 

「……宿に行くんでしょ。早く」

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

古民家を改装した小さな宿に辿り着いたのは、夜もすっかり更けた頃だった。

 

白壁と木の格子戸が夏の闇に浮かび上がり、軒先の風鈴が涼やかに鳴っている。

 

庭の石灯籠がほのかに足もとを照らし、時代を越えた静けさを宿に添えていた。

 

「いい雰囲気だなぁ……」

 

新は感嘆を漏らし、玄関をくぐる。

 

受付にいた主人は、白髪交じりの穏やかな人物だった。

 

事情を話すと、

 

「空き部屋はないけれど、一人部屋を二人で使う分には構わんよ」

 

と、にこやかに宿帳を差し出す。

 

新は名前を書きながら、さっきまでのやり取りを思い出した。

 

『フリーレン。空き部屋がない可能性あるんだけど、ひょっとしたら一部屋を二人で使うことになるけど……大丈夫? 嫌なら他を探すけど』

 

『構わない。宿がとれない方が困るから』

 

フリーレンは本当に気にしていないように、わずかも迷わず淡々と答えていた。

 

まるで「寝床が確保できるかどうか」以外のことは、取るに足らないとでも言うように。

 

――勇者のパーティーの一員として、魔王討伐の旅をしていた。

 

宿に向かう道中、彼女が淡々と語った過去を新は思い出す。

 

人類を救うほどの大冒険を成し遂げてきたのなら、宿が一部屋か二部屋かなど、些細な問題なのだろう。

 

(スケールが違うんだよなぁ)

 

新は小さく息を吐く。

 

「お客様?」

 

主人の声に現実へ引き戻され、宿帳を返す。

 

主人がフリーレンを見て目を細めた。

 

「ずいぶんと綺麗なお嬢さんだね。てっきり彼女さんかと思ったよ」

 

「あはは、彼女だったらよかったんですけどねー」

 

新は冗談めかして笑い、肩をすくめる。

 

フリーレンは何も言わず、視線を逸らして廊下に足を踏み出した。

 

梁や障子に目を向け、好奇心に導かれるようにふらふらと進む。

 

「ちょ、勝手に歩いたら迷子になるって!」

 

新が慌てて腕を掴む。主人はくすりと笑った。

 

「日本は初めてで? 珍しいですか?」

 

「……こういう造りは初めて見る」

 

フリーレンが淡々と答えると、新がさらりと受け継いだ。

 

「旅をしていて古民家は見たことがあったんですが、中に入るのは初めてですよ」

 

「なるほど」

 

主人は楽しそうに頷き、二人を先導した。

 

「ほら、この梁や柱――百年を超える木なんです。触れると、昔の人の息遣いが残っているようでしょう」

 

新は何気なく梁を見上げ、木肌に残る艶を目でなぞった。

 

――百年。この乾き方なら、もう少し経っているだろう。

 

そう思ってから、なぜ自分がそんな見立てをしたのかが分からず、新は小さく首を傾げた。

 

「では、どうぞゆっくり休んでいってください」

 

障子戸を開けて通されたのは、畳敷きの和室だった。

 

床の間には野の花がさりげなく生けられ、障子越しの灯りは柔らかく、夏の夜を包む静けさを一層深くしている。

 

「おぉ、いい部屋だな」

 

フリーレンも部屋をぐるりと見回し、短くつぶやいた。

 

「……落ち着く部屋」

 

それだけなのに、翡翠の瞳はほんのわずか和らいで見えた。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

湯気の立つ緑茶を一口、フリーレンはそっと口に含む。

 

「……苦い。けど、うん。なんだか落ち着くね」

 

淡々とした感想に、新はぱっと顔を明るくした。

 

「よかった……。フリーレン、緑茶って初めてだろ? 誰かにお茶いれることなんてほぼ無いからさ……俺のせいで口に合わなかったらどうしようって、実はちょっと緊張してた」

 

「……そんなに緊張すること? お茶をいれただけでしょ」

 

「いやいや、初めて飲む人に出すってなるとさ、ちょっと気になるんだよ」

 

「……ふうん。でも、ちゃんとおいしかったよ」

 

淡々とした声だが、その言葉に新はほっと息をつく。

 

ふたりの間に、緑茶の湯気と柔らかな静けさが広がる。

 

外では風鈴がかすかに鳴った。

 

新は湯呑を置くと、少しだけ姿勢を正した。

 

「……なあ、フリーレン。帰る方法、なにか思い当たる?」

 

フリーレンは視線を伏せ、湯呑に指を添えながらゆっくりと言葉を選ぶ。

 

「……しばらくは情報収集かな。この世界には、魔力とは違う力がある。でも、それで帰れるかはわからない。探すしかない」

 

そこで一度、言葉を切った。

 

「それに、あまり悠長にもしていられない」

 

「なんで?」

 

「……さっきの飛行のことだよ」

 

フリーレンは自分の掌を見つめる。

 

「魔法はね、イメージの世界なんだ。原理を知らなくても、イメージさえできれば扱える。逆に言えば――イメージできない結果は、扱えない」

 

湯呑の中で、緑茶の水面がわずかに揺れた。

 

「泳ぐことに決定的な失敗をすると、それまでどうやって手足を動かしていたのか、分からなくなることがある。……さっき私は、飛ぶことに失敗した。魔力の足りない世界で、術式が途中で崩れた」

 

「それって」

 

「今はまだ、飛べる気がしている。でも、あと何回か同じ失敗をすれば、私はきっと『飛ぶことは無理だ』と信じるようになる。そうなったら、私はもう飛べない」

 

新は言葉を失った。

 

彼女の声の調子は、あくまで平坦だった。

 

けれど、その眼光に僅かな翳りが差すのを、新は確かに認めた。

 

「魔力のない世界では、魔法使いは、魔法使いでいられなくなる」

 

フリーレンは静かに言った。

 

「考えたこともなかったけどね。当然といえば、当然だ」

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

湯気の立つ茶の匂いが、静かな部屋に満ちていた。

 

障子越しの灯りが畳をぼんやり照らし、外からは虫の声がかすかに聞こえてくる。

 

フリーレンは湯呑を指で支えたまま、ぽつりと呟いた。

 

「ねえ。新は、本当に人間?」

 

新は一瞬だけ目を伏せた。

 

茶の湯気が頬をなぞり、その表情をわずかに曇らせる。

 

「……まぁ、そうなるよね」

 

「なら、答えて」

 

真っすぐな声だった。

 

静かだけど、逃げ道のない問い。

 

新は湯呑をそっと置き、息を整えながら言葉を選ぶ。

 

「俺は、人間だよ。普通の人より、ちょっとだけ頑丈で、体が強いかもしれないけど。でも、ちゃんと人間だよ」

 

フリーレンは黙って見つめていた。

 

翡翠色の瞳には探るような光と、それでもどこか信じようとする温度が宿っている。

 

新はその視線を受け止め、ほんの少しだけ微笑んだ。

 

「……答えになってなくて、ごめん。でもね、フリーレン。信じられないかもしれないけど、俺は君を傷つけるような存在じゃない。それだけは、どうか信じてほしい」

 

静かな決意のこもった声だった。

 

隠していることへの罪悪感と、それでも誠実でいようとする意地がうっすら滲んでいる。

 

フリーレンは湯呑を置き、ゆっくりと口を開いた。

 

「……この世界で、私は何も持っていないからね」

 

「……」

 

「ここがどんな世界かもわからない。私がいた世界とは常識も違う。身分を証明するものもないし、仲間も、帰る場所もない。それに、魔法もここではうまく使えない。それでも、そんな怪しい私に、新は手を差し伸べてくれた」

 

新は返す言葉を見つけられない。

 

フリーレンは淡く微笑んだ。

 

「だから、私は新のことを信じるよ」

 

夜の灯りがゆらゆらと揺れ、二人の間に柔らかな静寂が落ちた。

 

「……ありがとう、フリーレン」

 

そう言って笑った新の声には、安堵と、まだ晴れきらない影が混じっていた。

 

障子の向こうには、淡くにじむ月光。

 

フリーレンは、一瞬だけそちらに視線を向ける。

 

翡翠色の瞳が月明かりを受けて、ほんの少しだけ揺れた。

 

その横顔を、新はただ見つめる。

 

――本当は、まだ何も話すつもりなんてなかった。

 

自分の素性を説明できるほど、言葉も整理できていない。

 

信じてもらえる保証なんて、どこにもない。

 

それでも、忘れられない光景がある。

 

生涯、頭から消えないと確信している場面。

 

突如として現れた光の渦。世界そのものが一瞬だけ明るくなったように見えた、あの瞬間。

 

――魔法は、ある。

 

やっと見つけたと思った。夢物語じゃない、本物の「希望」を。

 

そして今、彼女は「信じる」と言ってくれた。

 

この世界で素性の知れないのは、フリーレンだけじゃない。

 

新もまた、彼女からすれば、よくわからない相手のはずだ。

 

それなのに――彼女は先に信頼を差し出した。

 

――何も返さないままなのは、さすがに不義理だ。

 

全部を話すことはできない。話せばきっと、彼女を混乱させるだけだ。

 

けれどせめて、「理由」くらいは渡さなくちゃいけない。

 

新は、小さく息を吸って、吐き出した。

 

「……俺が魔法を探している理由、少しだけ話すよ」

 

フリーレンのまつ毛が、かすかに動く。

 

「魔法は――希望なんだ。その希望があれば、きっと人間は……」

 

そこで、言葉が途切れた。

 

続きを探して、口が勝手に動く。

 

「……“百年の平和”を、手に入れられる」

 

言い終えてから、新は自分の言葉に少しだけ驚いた。

 

なぜ、そんな言い方をしたのだろう。

 

言いたかったことと、大きくは違わない気がする。

 

けれど、「百年」という数字がどこから出てきたのかが、自分でも分からなかった。

 

「……百年の平和?」

 

フリーレンは、その言葉の重さを確かめるように、静かに問い返した。

 

百年。

 

人間にとっては長く、彼女にとってはひどく短い時間。

 

「どうして、百年なの?」

 

ごく自然な問いだった。

 

新は口を開き――そのまま、閉じた。

 

答えが出てこない。

 

分からないのではなく、確かにどこかに答えがあるのに、そこへ手が届かないような感覚だった。

 

障子の外で、虫の声がひとしきり高くなって、また静まる。

 

「……なんでだろうな」

 

ようやく漏れたのは、笑いにもならない呟きだった。

 

「たった百年ぽっちでいいんだ、って。ずっと、そう思ってるんだよ。永遠じゃなくていい。人が“希望”を信じ続けられる時間が、百年あれば十分なんだって」

 

「……根拠は?」

 

「ない」

 

新はあっさりと認めて、頭をかいた。

 

「情けない話だけど、ないんだ。ただ、そう思ってる」

 

フリーレンは湯呑をそっと置き、しばらく何も言わなかった。

 

夜気が障子の隙間からゆるやかに入り込み、灯りが小さく揺れる。

 

千年以上の時を生きてきた彼女には、百年はあまりに短い。

 

それでも――

 

理由を語れない人間が、理由もなく信じ続けているもの。

 

それは、彼女がよく知っているものによく似ていた。

 

魔法もまた、そういうものだ。

 

新の言葉は、ところどころ途切れがちで、上手くまとまってはいない。

 

けれど、その不器用さがかえって真っ直ぐ胸に届く。

 

――ああ、まただ。

 

長い時間の中で、何度か出会ったことがある。

 

自分よりずっと短い命なのに、迷いなく前を向く人間。

 

ヒンメルとは違う。

 

けれど、同じ空気を少しだけ感じて、フリーレンは懐かしいような気持ちになった。

 

フリーレンは湯呑を離し、静かに息を整えた。

 

「……新の言葉を聞いてると、嘘をついてるようには思えない」

 

新は小さく息をのむ。

 

フリーレンは、ほんの少しだけ微笑んで続けた。

 

「さっき“信じる”って言ったけど、今もその気持ちは変わってないよ。一緒に旅をしよう、新。魔法を探して――新が言うその“百年の平和”も、見つけよう」

 

新はしばらく言葉を失ったまま、フリーレンを見つめる。

 

長い間張りつめていた糸が、ようやくほどけたような感覚。

 

肩の力が抜けて、安堵と照れが混ざった笑顔が自然とこぼれた。

 

「……そっか。ありがとう」

 

フリーレンは、ほんの少しだけ視線を逸らし、静かに言葉を継いだ。

 

「……改めて、よろしく。新」

 

「うん。よろしく、フリーレン」

 

障子越しに月の光が差し込み、ふたりの影が畳の上でやわらかく重なる。

 

――今になって思えば。

 

この夜が、二人の旅の“本当の始まり”だったのだと思う。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。