フリーレンと行く魔法のない世界で魔法を探す旅。   作:ぼたにかる

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第2話 『さぁ行こう』

 

 

畳の上に射し込んでいる光は、もう夜のものではなかった。

 

障子越しの陽は白く強く、夏の熱を含んだ光がゆっくりと部屋に満ちていく。

 

畳の匂いと、わずかに湿った風の匂いが混ざる。

 

外では、蝉がもう鳴き始めていて、その声が空気をじんわり震わせていた。

 

新は座布団に正座しながら、静かにフリーレンを見つめている。

 

フリーレンは布団からゆっくり身体を起こし、寝起き特有のぼんやりした瞳で周囲を見回した。

 

銀の髪が寝返りの跡で少し乱れていて、光がその髪を透かし、淡い色に染めている。

 

長い耳は、昨夜と変わらず人間のそれと同じ形をしていた。

 

魔力が乏しくても、こういう常時発動の細工くらいは保っていられるらしい。

 

「……おはよぅ、あらた。早起きなんだね?」

 

「違うよ、昼。フリーレン、いまはこれ以上ないくらいに昼」

 

新は真顔で二度言った。

 

「……じゃあもう少し寝ようかな」

 

「なんでだよ寝ぼすけエルフさん。早く起きないと、その可愛い耳にちゅーするぞおい」

 

焦点の合っていない“寝起きのきょとん顔”があまりにも無防備で、新は思わず苦笑する。

 

その笑いをごまかすように、右手の指に車のキーをひっかけ、くるくると回した。

 

金属のキーが光を弾き、チャリチャリと小さな音を立てる。

 

「で、だ。フリーレンが寝てる間に……俺、すごく頑張ったんだよ」

 

軽い口調でそう言いながら、新はゆっくりと立ち上がり、障子へ手をかけた。

 

フリーレンも少し遅れて布団から抜け出し、ゆったりと畳を歩き、外の光へ視線を向ける。

 

――宿の空いた敷地に、銀色の箱のような車が一台、静かに停まっていた。

 

車体にはまだ仮ナンバーの紙。

 

側面には太陽光を受ける黒いパネル。

 

後部には小さな梯子とキャリア。窓には遮光シェード。

 

完全に旅仕様の軽バン。

 

「移動する小さな拠点」と言っていい見た目だった。

 

フリーレンはしばらく黙ってそれを見つめ、ぽつりと言う。

 

「……鉄の体躯の、馬無き馬車」

 

新は胸を張り、親指を立てた。

 

「そう! 現代版の馬車。自動車って言うんだ。俺たちの拠点で、旅の相棒だよ」

 

「じどうしゃ。……味気ない名前だね」

 

馬がいるなら、馬で走ればいいのに。

 

そう思ったが、口には出さなかった。

 

ソーラーパネルで電源確保。

 

ベッド展開、収納スペース、ランタンフック、サブバッテリー、簡易水道。

 

必要なものを全部詰め込んだ、小さな旅の家。

 

フリーレンは車内を興味深そうに見回し、静かに言った。

 

「便利そうだね」

 

「でしょ? フリーレンが寝てる間に、俺めっちゃ頑張って調達したんだよ……褒めてくれてもいいんだよ? ご褒美があるならほっぺにチューとかでも――」

 

フリーレンは、無表情のまま首だけこちらに向けた。

 

「……新は、私とキスしたいの?」

 

「したいっていうか……あれ? え?」

 

「したいの?」

 

世界が、時間が、一瞬だけ止まったように感じた。

 

蝉の声、遠くの風鈴の音。

 

すべてが、少し遠くなる。

 

フリーレンの白い肌に、夏の日差しが柔らかく落ちていた。

 

うっすら浮いた汗が光を弾き、首筋を一筋の雫がゆっくり滑り落ちる。

 

……綺麗だ、と思った。

 

息をすることすら、一瞬忘れる。

 

「…………」

 

「…………」

 

新はてっきり、フリーレンはいつものように淡々と流すと思っていた。

 

軽くため息をついて、「……くだらない」で終わり。

 

もしくは完全に無視して、そのまま車内の観察を続けるだろうと。

 

だからこそ、真正面から、表情ひとつ変えずに「キスをしたいのか」と確認されるとは思っていなかった。

 

意識した瞬間、終わった。

 

顔に熱がこみ上げる。

 

新は慌てて顔を逸らした。

 

「違う! いや違くはないけど!」

 

声が見事に裏返る。

 

フリーレンは少しだけ首を傾げた。

 

「……要するに、したいの?」

 

「色々誤解を招きそうだから、その聞き方やめようね?」

 

夏の空気が、笑いと熱を含んで揺れる。

 

勘違いするな、と新は心の中で自分に言い聞かせた。

 

出会ってまだ一日だ。

 

彼女のことは、まだほとんど知らないと言っていい。

 

わかったような顔をするのは、ただの傲慢だ。

 

そう自分に悪態をつきながら、新は無理やり笑いに変えた。

 

「……じゃあ、いつか本当に頑張った時のご褒美にしておいてよ」

 

軽口混じりに言うと、フリーレンはわずかに瞬きをして――

 

「……わかった」

 

短く、あっさりとそう返した。

 

その素直さのほうが、むしろ心臓に悪い。

 

分からない。何を考えているのか。

 

だからこそ、新はフリーレンをもっと知りたいと思う。

 

知って、ちゃんと隣に並べる自分でいたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

宿を出る準備を整え、二人は玄関へ向かった。

 

土間には、朝と昼の間みたいな、湿り気を含んだ夏の空気が漂っている。

 

梁は静かに軋み、風鈴が、風もないのに小さく鳴った。

 

「お世話になりました」

 

新が頭を下げると、宿の主は目を細めて笑った。

 

「――道中、どうか良い景色に出会えますように。またいつでもいらっしゃい」

 

フリーレンも、それにならって小さく頭を下げる。

 

まだぎこちない所作なのに、不思議と様になっていた。

 

そして、二人が車へ向かって歩き出したところで。

 

「手がかりなら、見つけたかもしれない」

 

フリーレンがそう告げた瞬間、新の顔が一気に明るくなる。

 

「マジ!?」

 

「まだ、かもしれない、の段階だけどね」

 

フリーレンは指先を軽く上げ、空気をなぞるような仕草をした。

 

「昨日の夜、飛んだときにね。この世界の“流れ”は、どこにでも均一に漂っているわけじゃないみたいなんだ。濃いところと、薄いところがある」

 

「川みたいな感じか?」

 

「近いかもね。それで――昨日、上から見たときに、南のほうが少しだけ濃かった」

 

「南……」

 

新は少し考え込んでから、頷いた。

 

「まあ、南って言われても日本は縦に長いからな。とりあえず走りながら詰めていくか」

 

「そうだね。近づけば、もっと分かるようになると思う」

 

旅は、ここから本当に動き始める――

 

そう思えるには、十分な言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

二人は車に乗り込む。

 

カチリ、とエンジンが静かにかかり、ダッシュボードのLEDが淡く光る。

 

「了解。じゃあナビは任せた! 俺は運転に集中する!」

 

新は笑ってハンドルを握り、軽く咳払いをした。

 

「――と、その前に。シートベルトの付け方教えるよ」

 

「……?」

 

フリーレンは素直に首を傾げる。

 

「命綱。馬車で言うと――」

 

「……手綱?」

 

「そう!! その感覚で合ってる!! ……ごめん、たぶん違う。安全装置的なやつだね、うん」

 

新はシートベルトの金具を取り、フリーレンの肩の方へ手を伸ばした。

 

「ここに通して、こうやって――」

 

その瞬間、腕が柔らかな弾力をかすめた。

 

「っあ」

 

フリーレンの体が一瞬びくりと跳ね、目がわずかに揺れる。

 

「…………」

 

短い沈黙が落ちた。

 

車内には、蝉の声とエンジンのアイドリングだけが微かに漂っている。

 

触れた感触を、頭が勝手にリピートしてくる。

 

やめろ、落ち着け。

 

フリーレンが、ほんのわずかに視線を落とし、呼吸を一つ挟んでから、ぽつりと言った。

 

「……さっきの、ちゅーの話」

 

声が小さい。

 

普段より、少しだけ柔らかい。

 

「やっぱり、したいんだ?」

 

新は反射的に顔を上げる。

 

「いやちが、ちが、ちがっ……いや本当に違うとは言い切れないけど違うというか!?」

 

フリーレンは、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。

 

怒っているわけでも、照れているわけでもない。

 

……ただ、少しだけ拗ねたような、不思議な顔。

 

――え? ひょっとして、本当に……キス、できたの?

 

そんなバカな、と即座に否定する。

 

けれど、一瞬でもそう思ってしまった自分が恥ずかしい。

 

心臓の音が、自分にだけやけに大きく響く。

 

いやいやいや……あるわけないだろ……

 

声には出さず、内心で必死に打ち消しながら、新はわざとらしく咳払いをした。

 

視線の先で、フリーレンは何事もなかったように車内を見回している。

 

その横顔がまた妙に綺麗で、余計に胸が落ち着かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

夏の風が、稲穂の海を渡っていく。

 

小さな車が、ゆっくりと田んぼ道を進んでいた。

 

道は続いている。二人の知らない場所へ。

 

「……お、思ったよりエアコン効くな。最近の軽バンすげぇな」

 

フリーレンはふにゃりとした、気の抜けた表情のまま窓の外を見ている。

 

「……涼しい。車って乗り心地もすごくいいし、優秀だね」

 

新はニヤリと笑って胸を張った。

 

「エンジンかけると、“まだ見てない景色に触れられる”って思うだけで、ちょっと人生がマシに感じるんだよ。……そういうの、俺は好きなんだ」

 

知らない景色を見に行こう。

 

ちょっとだけでいいから、壁を越えてみよう。

 

大きく変わる必要なんてない。英雄にならなくても、旅は始まる。

 

ただ一歩、足を前に出すだけで、人は“旅人”になるのだ。

 

稲の波が風に揺れ、小さな車は夏空へ続く道を走っていく。

 

フリーレンは、流れる景色から視線を外さずに、ぽつりと言った。

 

「……ヒンメルがね。私に旅に出るきっかけをくれたんだ。あの時の言葉がなかったら……私はたぶん、新と旅をしていない」

 

少しだけ言葉を区切って、

 

「……だから、感謝してるんだよ。ヒンメルに」

 

新は驚いたように目を瞬かせて、それから柔らかく笑った。

 

「――そっか。じゃあ……ヒンメルは、俺にも恩人ってことだな。旅の楽しさを知らなかったら、俺とは旅をしてくれなかったかもしれないし。感謝しないと」

 

ぽやっとした優しい笑顔。

 

――その顔、ほんとうによくする。

 

フリーレンは、新の横顔をちらりと見た。

 

なぜかその笑顔を見ると、心のどこかが、ふっと温かくなる。

 

この感覚が何なのか、まだ言葉にはできない。

 

けれど……悪くない。そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

フリーレンは、新の服の裾をそっとつまんで引いた。

 

運転中の新が驚いて視線を向けると、フリーレンの綺麗な顔が思ったより近い。

 

白い肌が光を受けて淡く照り返し、長いまつ毛が影を落とす。

 

普段は淡々としているその瞳が、どこか落ち着かず揺れていた。

 

「……ねぇ、新……」

 

呼びかけは、いつもより小さくて、少しだけ照れているように聞こえる。

 

新はドキッとして、無意識に姿勢を正した。

 

「……ん? どうしたの?」

 

フリーレンは迷うようにまばたきをして、わずかに顔を上げる。

 

新は“これは何か大事な話だ”と勝手に身構えた。

 

そして、フリーレンはぽつりと。

 

「……ごめん。トイレ行きたい」

 

車内の空気が、一拍止まった。

 

新はハンドルを握ったまま、静かに頷いた。

 

「――了解。全力でトイレ見つけます」

 

フリーレンは窓の外を見ながら、淡々と続ける。

 

「……新。あそこで済ませるけど」

 

「――やめて!? ただの林だろ! たしかに人いないけど!! 頑張ってトイレ探そうな!? 俺も全力で探すから!!」

 

アクセルが深く踏み込まれる。

 

エンジンが低く唸り、前方の景色がさらに加速する。

 

小さな車は、真っ直ぐに夏空へ伸びる一本道を駆けだした。

 

窓の外で、稲穂が陽光を弾きながら波を打つ。

 

陽炎の向こうで平泉の緑が滲み、風が銀色の車体を撫でた。

 

その静けさを破るように、車内では相変わらずくだらない声が飛び交っている。

 

ここから始まる長い、本当に長い二人の旅の、最初の一ページ。

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