フリーレンと行く魔法のない世界で魔法を探す旅。   作:ぼたにかる

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第3話 『青』

 

 

 

「だからね、その格好で日本を縦断するのは無理があるんだって」

 

 

「別に困ってないけど」

 

 

「困ってるのは俺だよ。ガソリンスタンドの人にめちゃくちゃ見られたからな、さっき」

 

 

岩手を出るあたりから、この押し問答は続いていた。

 

助手席のフリーレンは、金色の文字で「HIRAIZUMI GOLDEN PARADISE」と書かれた新のTシャツを着たまま、頑として動じない。

 

 

「これ、涼しいよ」

 

 

「涼しさの話はしてない」

 

 

「新がくれたんでしょ」

 

 

「あれは緊急避難だ! 二日も着るもんじゃないの!」

 

 

結局、道中で見つけた店に寄ることになった。

 

新が何枚か手に取って見せると、フリーレンはそれを一瞥して、一番飾り気のない白いワンピースを指差した。

 

 

「これでいい」

 

 

「早いな。もうちょっと選んだら?」

 

 

「服は着られればいいでしょ」

 

 

「そういうところだぞ、フリーレン」

 

 

「フェルンにも同じこと言われた」

 

 

そう言って、彼女は少しだけ心外そうな顔をした。

 

着替えて戻ってきたフリーレンを見て、新は口を開きかけ、閉じた。

 

膝下丈の、簡素な白。

 

銀色の髪と合わさって、着替える前より余程この世界から浮いている。

 

言わないでおこう、と新は思った。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

車は南へ走り続けている。

 

窓の外は、山と、田と、時折現れる集落の連続だった。

 

冒険と呼ぶには退屈すぎる景色だ。

 

それなのに、この数時間、車内はほとんど途切れなく声で満ちていた。

 

 

「――で、その依頼は結局どうなったの」

 

 

「途中で村ごと引っ越しちゃったよ。だから報酬はもらえなかった」

 

 

「ええっ!? あんなに苦労したのに!?」

 

 

「まあ、そういうこともあるよ」

 

 

「納得するんだ……」

 

 

フリーレンは、自分でも少し不思議に思っている。

 

新は、何を話しても面白がる男だった。

 

魔法の分類の話をすれば、系統の名前をひとつずつ確認したがる。

 

昔の依頼の話をすれば、報酬の額まで訊いてくる。

 

失敗した話をすると、いちばん喜ぶ。

 

そして必ず、その先を訊いてくる。

 

それでどうなったの、と。

 

千年生きてきて、こんなに続きを促されたことがあっただろうか、とフリーレンは思う。

 

大抵の人間は、彼女の話が長いと途中で目が曇る。

 

彼女もそれを察して、途中で話をやめる。

 

そういう繰り返しに慣れていたはずだった。

 

なのに今、口が止まらない。

 

 

「じゃあさ、フリーレンが一番苦労した依頼ってなに?」

 

 

「……そういう質問、フェルンもよくするんだよね」

 

 

「だって気になるじゃん」

 

 

ハンドルを握る新の横顔には、心底楽しそうな色がある。

 

演技ではない。

 

フリーレンにはそれが分かる。

 

 

「新は、聞き上手だね」

 

 

「そう?」

 

 

「うん。おかげで喋りすぎた。喉が渇いた」

 

 

「はいはい、後ろのクーラーボックス」

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

逆に、フリーレンが訊く側に回ることもあった。

 

窓の外を流れていく風景は、彼女にとってはことごとく異物だ。

 

 

「ねえ。この国、山ばっかりだよね」

 

 

「そうだよ。国土の七割くらい山」

 

 

「なのに、道がまっすぐ通ってる。おかしくない? この地形なら、道は谷に沿って曲がるはずでしょ」

 

 

「お、いいところに気づいたな」

 

 

新は嬉しそうに笑った。

 

 

「山、掘ったんだよ」

 

 

「掘った?」

 

 

「そう。トンネルって言うんだけどさ。この先にもいくつかあるから見せてやるよ。山の腹に穴を開けて、まっすぐ通す」

 

 

「……山に穴を開ける」

 

 

「日本はこれが異常に多くてね。何千本ってある。世界的に見てもたぶん最上位クラスだよ。なんでかっていうと、まさにフリーレンが言ったとおり、山を避けてたら道が繋がらない国だから」

 

 

「大変だね」

 

 

「大変だよ。昔は掘るのに何年もかかった。犠牲者も出た。今でも、山ってのは掘るたびに何が出てくるか分からないんだ。水が出たり、地層が思ってたのと違ったり」

 

 

「……新、そういうの詳しいんだね」

 

 

「まあ、あちこち走ってると自然に色んな知識を覚えるからね」

 

 

フリーレンは相槌を打ちながら、内心で少し感心していた。

 

彼は、訊けば大抵のことを答える。

 

しかも、ただ答えるのではない。

 

数字を出し、理由を添え、こちらの言ったことを拾って組み立て直す。

 

魔法学の講義をする教師のような手つきだ。

 

正直なところ、意外だった。

 

初めて会った夜、稲穂の中で自分を見つけて騒いでいた男の印象は、もっと単純なものだったから。

 

 

「新って、学者か何かなの?」

 

 

「ただの旅人だよ」

 

 

「ふうん」

 

 

それ以上、彼女は訊かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

県境を越えたあたりで、風の匂いが変わった。

 

濃密な緑と土の湿った匂いが退き、代わりに鼻孔をくすぐったのは、鋭く、どこか懐かしい塩の香りだ。

 

 

「――来るぞ、フリーレン」

 

 

ハンドルを握る新の声が弾む。

 

軽バンは、木漏れ日が踊る山間のトンネルを抜け、緩やかなカーブを滑るように下っていく。

 

視界が開けた。

 

海だった。

 

けれど、フリーレンが思い描いていた「海」とは、少し違っていた。

 

まっすぐな水平線が広がっているのではない。

 

深い緑の岬が幾重にも折り重なり、その隙間を縫うように、細く長く入り込んだ湾がある。

 

湾の内側の水面は風を知らないかのように穏やかで、そこに白い浮きが規則正しく並んでいた。

 

無数の点が、真珠を撒いたように陽を弾いている。

 

岸に近い場所では、色の褪せた漁船が舳先を揃えて眠っていた。

 

 

「海だっ」

 

 

新が少年のように叫ぶ。

 

 

「ここが気仙沼だよ。俺、この景色を見せたかったんだ」

 

 

「……あの白いのは?」

 

 

「牡蠣とか、帆立の養殖いかだ。ここらの海は入り組んでて波が穏やかだから、ああいうのに向いてるんだってさ」

 

 

「へえ」

 

 

フリーレンは窓枠に肘をつき、その光景をじっと見つめた。

 

 

「人の手が入ってるんだね。海なのに」

 

 

「畑みたいなもんかな」

 

 

「……いいね、そういうの」

 

 

短い言葉だったが、退屈しているときの相槌とは明らかに違う調子だった。

 

車は海沿いを走り抜ける。

 

窓を開けると、轟音とともに熱を帯びた潮風が車内に雪崩れ込んできた。

 

魚と、潮と、乾いたロープの匂いが混ざっている。

 

銀色の髪が激しく舞うが、フリーレンはただ目を細めて、風の感触を楽しんでいるようだった。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

やがて、彼女は目を細めたまま、指先で小さく円を描いた。

 

視界を遠くへ伸ばす、ごく簡単な魔法だ。

 

魔力の乏しいこの世界でも、これくらいは崩れずに保っていられる。

 

水平線の手前、外海のあたりに、ひとつだけ船が見えた。

 

湾の中の漁船とは形が違う。

 

けれど、それが何なのかまでは分からない。

 

 

「ねえ、新」

 

 

「ん?」

 

 

「あの船、何の船?」

 

 

「あの船って、どれ」

 

 

「沖のほう」

 

 

新は前方から視線を外し、ほんの一瞬だけ、右手の海へ目をやった。

 

一瞬だった。

 

数えるほどの時間もない。

 

 

「ああ、あれか。旋網だな。あの上に見えてるのが探照灯で、後ろに小型の運搬船引っ張ってるだろ。夜に灯りで魚を寄せて獲るんだよ。カツオとかサバとか」

 

 

「…………」

 

 

「気仙沼はカツオの水揚げが日本一なんだ。何十年も連続で。たぶん今日の飯にも出てくるぞ」

 

 

返事がないことに気づいて、新は横を見た。

 

フリーレンは、まっすぐに彼を見ている。

 

いつもの淡々とした表情だった。

 

だからこそ、その静けさが妙に重い。

 

 

「……なに?」

 

 

「新」

 

 

「うん」

 

 

「あそこまで、たぶん八キロくらいあるよ」

 

 

新の口が、開いたまま止まった。

 

 

「私は魔法を使って、やっと船があるって分かった。形も、灯りも、後ろに何か引いてることも分からなかった」

 

 

「…………」

 

 

「新は、一瞬見ただけだったね」

 

 

車内に、エンジンの音だけが残った。

 

新は前を向いたまま、しばらく黙っていた。

 

それから、努めて軽く言った。

 

 

「……いや、俺は前にもここ来たことあるからさ。だいたいこの時間にあの辺走ってる船って決まってて」

 

 

「ふうん」

 

 

「本当だって」

 

 

「そう」

 

 

フリーレンはあっさりと引いて、また窓の外へ視線を戻した。

 

追及されなかったことに、新は安堵し、同時に落ち着かなくなる。

 

 

 

翡翠の瞳は、遠ざかっていく船を最後まで見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

二人が最初に目指したのは、本土と離島を結ぶ白い橋、「気仙沼大島大橋」だった。

 

巨大なアーチが、湾の上を跨いでいる。

 

車でそこを渡る瞬間は、まるで海の上を飛んでいるような浮遊感があった。

 

 

「この橋、つい数年前に架かったばかりなんだ。それまでは船でしか渡れなかった」

 

 

「ふうん。橋がなかった頃のほうが、この島は遠かったんだ」

 

 

「まあ、そうなるな」

 

 

「なら、私は運がいいね」

 

 

眼下を流れていく海面を目で追いながら、彼女は言った。

 

橋を渡りきり、島の道を登る。

 

リフトに揺られて辿り着いた「亀山」の頂上は、島と湾を一度に見下ろせる場所だった。

 

 

「……高いね」

 

 

「怖い?」

 

 

「飛べる私に何を言ってるの」

 

 

「今は飛べないだろ」

 

 

「…………」

 

 

「ごめん」

 

 

「……別に。事実だし」

 

 

フリーレンは翡翠の瞳を細めて、眼下を眺める。

 

入り組んだ入り江の連なりと、その先の外海。

 

湾の内側は静かな翡翠色で、湾を出た先が濃い群青に変わっている。

 

境目のあたりで、小さな漁船が一艘、白い筋を引いていた。

 

 

「あそこ、色が違う」

 

 

「深さが違うんだと思う。あと、湾の中と外だからかな」

 

 

「同じ海なのにね」

 

 

フリーレンは足元へ視線を落とす。

 

島は深い緑に覆われていて、その縁を白い波が縁取っていた。

 

 

「ここはね、『緑の真珠』って呼ばれてるらしいよ」

 

 

「誰が言い出したの、それ」

 

 

「知らん。ガイドブックに書いてあった」

 

 

「新が考えたのかと思った」

 

 

「そんな詩人みたいなこと言わないよ、俺は」

 

 

「そう? 昨日の夜、稲穂がどうとか言ってた気がするけど」

 

 

「言ってない!」

 

 

フリーレンは、ほんの少しだけ口の端を上げた。

 

それから、また海のほうへ顔を戻す。

 

しばらく黙って、彼女は言った。

 

 

「……前に一度、海岸を掃除したことがあってね」

 

 

「掃除?」

 

 

「うん。新年祭の準備で、依頼を受けたんだ。海岸が汚れてるから片付けてくれって」

 

 

「魔王倒した人がやる仕事か、それ」

 

 

「報酬が出るなら何でもやるよ。魔法が手に入るなら、もっと何でもやる」

 

 

「ブレないなあ」

 

 

「それにね、あの依頼はゴミがすごくて、日が暮れるまでかかった」

 

 

「うわ」

 

 

「フェルンと二人でずっと拾ってたよ。あの子、途中から一言も喋らなくなってさ」

 

 

「……怒ってた?」

 

 

「怒ってた」

 

 

あっさりと彼女は認めた。

 

 

「でも、次の日の朝、そこで日の出を見たんだ。掃除したのはそのためだったから」

 

 

「なるほどな」

 

 

「フェルンは何も言わなかったけどね。ずっと見てた」

 

 

新は隣の横顔を見た。

 

淡々としている。

 

けれど、その淡々の内側に、彼女がその朝のことを何度も反芻してきた気配がある。

 

 

「フリーレンって、意外と面倒見いいんだな」

 

 

「そう?」

 

 

「だって、日の出見せるために一日ゴミ拾いだろ」

 

 

「ついでだよ」

 

 

「ついでにしては手間がかかってる」

 

 

「…………」

 

 

フリーレンは答えず、風に流れる髪を耳にかけた。

 

 

「……もっと昔にも、似たような海を歩いたよ。ヒンメルたちと」

 

 

「へえ」

 

 

「あのときは掃除しなかった。誰も片付けようなんて言い出さなかったし、私も思わなかった」

 

 

彼女はそこで、少しだけ間を置いた。

 

 

「今のほうが、面倒なことが増えたのかもね」

 

 

「悪いことみたいに言うなよ」

 

 

「悪いとは言ってないよ」

 

 

潮風が、ワンピースの裾を揺らしていく。

 

 

「新。……いいところだね、ここ」

 

 

「だろ?」

 

 

「うん。……でも」

 

 

フリーレンはふと、視線を島から本土のほうへと向けた。

 

眉が、わずかに寄る。

 

 

「あっちに、変なところがある」

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

島を下りて橋を戻り、二人はフリーレンの導きに従い、港沿いの「内湾地区」へと向かった。

 

車を降りた瞬間、熱が足元から立ち上ってくる。

 

日に灼けたアスファルトの上を、氷の溶けた水が細く流れていた。

 

積み上げられた発泡スチロールの箱、干された網、フォークリフトの走る音。

 

魚市場の裏手は、観光の顔をした表通りとは別の生き物のようだった。

 

フリーレンは迷いのない足取りで、その隙間を歩いていく。

 

 

「フリーレン、そっち行き止まりじゃ――」

 

 

「こっち」

 

 

彼女が辿り着いたのは、建物に挟まれた、少し薄暗い路地裏だった。

 

 

「……ここだね」

 

 

フリーレンが立ち止まった先、新の視界の端で、空間の一部が「ノイズ」のように激しく波打った。

 

まるで古いテレビの映像が乱れるような、生理的な嫌悪感を伴う空間の歪み。

 

 

「なんだ、あれ……? 景色が、焼けて溶けてるみたいだ」

 

 

「新にも見えるんだね」

 

 

フリーレンは眉をひそめたまま言う。

 

 

「あそこだけ、ピントが合ってない。下手な細工だよ」

 

 

「下手ってことは、上手いのもあるのか」

 

 

「あるよ。上手いのは、こんなふうには見えない」

 

 

二人の視線の先。

 

錆びついた鉄箱の影に、一枚の紙片が、まるで空間そのものに突き刺さるようにして留まっていた。

 

フリーレンがそっと手をかざすと、紙片は引き剥がされるように剥落し、彼女の掌へと吸い込まれるように収まる。

 

 

「……これは」

 

 

フリーレンが珍しく、驚きで目を見開いた。

 

 

「どうしたんだ? それは……ただの紙じゃないんだろう?」

 

 

「魔導書の、一ページだね」

 

 

「魔導書」

 

 

「魔法が書いてある本。……そこから破られてる」

 

 

フリーレンは紙片を、透かすようにして陽に当てた。

 

その指先は、まるで未知の劇物を扱うかのように慎重で、かつ忌々しげだった。

 

 

「世界を跨ぐ魔法だ。……私を運んだものと、同じ匂いがする」

 

 

「じゃあ、それがあれば帰れるってことか?」

 

 

「一ページで帰れたら苦労しないよ」

 

 

「あ、はい」

 

 

「でも、こういう魔法がこの世界にあるって分かった。それは大きい」

 

 

「よかったじゃん!」

 

 

「うん。……ただ、変だよ、これ」

 

 

「変? 何が」

 

 

「私の世界の魔法は、この世界だとうまく動かない。魔力の質が違うから。……でもこれは、この世界に合わせて作り替えてある」

 

 

フリーレンは空中に複雑な魔法陣を指で描き始めた。

 

浮き上がる光の粒子が、手元のページと共鳴して不気味に明滅する。

 

 

「なあ、それって難しいことなのか?」

 

 

「難しいよ」

 

 

「どのくらい」

 

 

「新が、明日から突然この国の言葉じゃなくて、私の世界の言葉で詩を書けって言われるくらい」

 

 

「無理じゃん」

 

 

「無理でしょ。でも、これを作った誰かはやってる」

 

 

フリーレンは鼻に皺を寄せた。

 

 

「私の世界のことも、この世界のことも知ってる。そういう相手だよ。……しかもわざわざ、私たちに使いやすい形にして、こんなところに隠して、見つけさせた」

 

 

「親切……ってわけじゃないよな」

 

 

「餌に親切な釣り人はいないよ」

 

 

「うわ、嫌な言い方するな」

 

 

「事実だからね」

 

 

そう言いながらも、彼女の目はすでに手の中のページに釘付けになっている。

 

 

「フリーレンなら、同じもの作れるのか?」

 

 

「……昔の私なら、時間さえかければ作れたと思う」

 

 

少しだけ、間があった。

 

 

「今は、どうかな」

 

 

その一言の重さに、新は口を噤む。

 

フリーレンはすぐに調子を戻して続けた。

 

 

「まあ、無視はできないよ。この術式、見たこともないほど複雑で、合理的なんだ。組み方が綺麗すぎる。早く車に戻ろう。すぐに解析を始めたい。この魔力変換の構造、どうなってるのか――」

 

 

不快感よりも、未知の魔法に対する底知れない知的好奇心が上回ったらしい。

 

フリーレンの足取りは、先程とはまた別の意味で急ぎ足になっていた。

 

そんな彼女の肩を、新がひょいと軽く叩いて制する。

 

 

「……とりあえず、飯食って落ち着いてから読みなさい」

 

 

「えっ。でも、これは一刻を争う解析だよ?」

 

 

「そんな簡単に消えるようなもんじゃないだろ。ほら、あそこに美味そうな店があるんだ。気仙沼に来て『メカジキのステーキ』や『マグロのから揚げ』を食べない手はないだろ?」

 

 

「……まぐろの、からあげ」

 

 

フリーレンの足がぴたりと止まった。

 

 

「新は、時々すごく狡いことを言うね」

 

 

「そうか?」

 

 

「魔法の解析と、マグロのから揚げ。……どっちが優先かなんて、考えるまでもないのに」

 

 

「だろう? 飯が優先だ」

 

 

「違うよ。解析が優先だって言おうとしたんだよ」

 

 

「じゃあ後でいいのか?」

 

 

「……新がそこまで言うなら、まずはその魚を攻略してからでもいいけど」

 

 

「素直じゃないなあ」

 

 

「お腹が空いてると、解析の精度も落ちるからね。合理的な判断だよ」

 

 

「はいはい」

 

 

結局、お気に入りの誘惑に負けたらしい。

 

フリーレンは未練がましそうにページを懐にしまいながらも、新の指差す市場の方へと、とぼとぼと付いて歩き始めた。

 

 

「食べ終わったら、飽きるまで読んでいいから」

 

 

「……本当?」

 

 

「ああ。その代わり、今は飯だ」

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

市場の軒先を歩きながら、新はふと足を止めた。

 

隣を歩くフリーレンが、強い日差しを避けるように、時折白い手で庇を作っていたからだ。

 

 

「フリーレン、ちょっと待ってて」

 

 

新はそう言って、店先に並んでいた淡い水色のレースの日傘を買い、手渡した。

 

 

「ほら、これ。さすがに今日の日差しは、肌に毒だろ」

 

 

「……ありがとう。可愛いね、これ」

 

 

「だろ。似合うと思ったんだよ」

 

 

「新、こういうのすぐ買うよね」

 

 

「文句あるか?」

 

 

「ないよ。もらえるものはもらう」

 

 

フリーレンは日傘を広げ、その小さな影の中に収まると、ふふ、と満足げに目を細めた。

 

白いワンピースに、淡い水色の円。

 

この世界の夏に、彼女はもうすっかり収まって見える。

 

そのことに新は少しだけ安堵し、同時に、ほんの少しだけ寂しくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

サクッ、という心地よい音が、店内の喧騒に混じって響いた。

 

フリーレンは、揚げたてのマグロのから揚げを頬張りながら、満足げに喉を鳴らす。

 

対面に座る新も、肉厚なメカジキのステーキを口に運んでいた。

 

醤油の焦げた香ばしい匂いが、二人の間に漂っている。

 

 

「うまい?」

 

 

「うん。……この魚、私の世界にはいないと思う」

 

 

「へえ」

 

 

「こんなに脂があって、揚げても崩れない魚は珍しいよ」

 

 

「感想が漁師なんだよなあ」

 

 

窓の外を、カモメが低く滑っていく。

 

 

「すごいな、ここのカモメ。あんな低く飛んでる。手が届きそうだ」

 

 

「観光客が餌をやるからでしょ?」

 

 

「夢がないな」

 

 

「事実だよ」

 

 

フリーレンは、呑気に窓の外を指差す新の横顔を眺めながら、手元でそっと紙コップを弄んでいた。

 

新の意識は完全に頭上のカモメに向いている。

 

その時、フリーレンは無造作に指先でコップをテーブルの外へと弾き出した。

 

 

――パシッ。

 

 

新は、カモメを見上げたまま、視線を一ミリも動かさず、吸い付くような動きで空中のコップを掴んだ。

 

テーブルの端を越え、真っ逆さまに落ちるはずだったコップが、テーブルの高さそのままの位置でピタリと止まる。

 

重力が働く暇さえ与えない、水平のキャッチ。

 

溢れそうになった水面は、波紋ひとつ立てずに静止していた。

 

新は何事もなかったかのように、カモメを見上げたままコップを元の位置に置く。

 

 

「ねえ、俺で遊ぶのやめてくれない?」

 

 

視線だけをこちらに戻し、新は苦笑した。

 

 

「……良い反応だね」

 

 

フリーレンは表情を変えずに言う。

 

 

「新はきっと、私の世界でもやっていけると思うよ。前衛としてね」

 

 

「……まさか、ありえない」

 

 

「アイゼンやシュタルクほどじゃないけど、並の冒険者よりはずっといい」

 

 

「」

 

 

「褒めてるよ。……というのが、昨日までの私の見立てだった」

 

 

「昨日まで?」

 

 

「昨日は、この世界の人間は基礎体力が高いのかもしれないと思ってたんだ。宿の主人も、道行く人も、あなたと同じ種族だからね」

 

 

フリーレンの翡翠の瞳が、静かに新を見つめる。

 

 

「でも、二日も見てれば分かるよ。新は変だ」

 

 

新の掌が、嫌な汗で湿っていく。

 

 

「そう? 足腰が強いだけだって」

 

 

「あの高さから落ちてきた私を受け止めるのは無理だよ」

 

 

「……」

 

 

「あと、船」

 

 

「……船」

 

 

「八キロ先の船の、灯りの位置まで見えていたね、魔法も使ってないのに」

 

 

フリーレンは、指を二本立てた。

 

 

「これで二つ。足腰では説明できないことが」

 

 

「…………」

 

 

「三つ目」

 

 

彼女は、懐のあたりを指先で軽く叩いた。

 

そこには、あの紙片が入っている。

 

 

「これを置いた誰かがいて、私はそれに釣られてる。ここまでは分かった。……で、この世界に不釣り合いなくらい変な人間が、たまたま隣にいる」

 

 

「……」

 

 

「新が仕掛けた側でも、私は驚かないよ」

 

 

新の手から、箸が滑り落ちた。

 

 

「い、いやいやいやいや、待って待って!」

 

 

「うるさいなあ」

 

 

「待ってくれ! それは、その、いや確かに俺は色々隠してるけどな!? でもフリーレンを騙して連れ回してるとか、そういうのでは断じて――」

 

 

「冗談だよ」

 

 

「冗談!?」

 

 

「冗談。声が大きいよ」

 

 

フリーレンは、から揚げの最後の一切れを口に放り込んだ。

 

店員が「お下げしまーす!」と隣の席の皿を回収し、二人の間の空気を切り裂くように通り抜ける。

 

新は、まだ動悸の収まらない胸を押さえていた。

 

 

「……心臓に悪い」

 

 

「そういう疑い方をするのが普通だ、って話をしただけ」

 

 

フリーレンはそう言って、湯呑に手を伸ばす。

 

それから、少しだけ声の調子を落とした。

 

 

「疑ってないよ、新のことは」

 

 

あっさりと、彼女は言った。

 

 

「……なんでだよ。今ので疑う理由、全部揃ってただろ」

 

 

「揃ってたね」

 

 

「なのに?」

 

 

「うん」

 

 

フリーレンは湯呑を両手で包んだ。

 

 

「今日、車の中でずっと喋ってたでしょ。私、あんなに喋ったの久しぶりなんだよ」

 

 

「……そう?」

 

 

「うん。だいたいの人はね、私の話が長いと目が死ぬから。途中でやめるんだ、いつも」

 

 

新は言葉に詰まった。

 

 

「新は、続きを訊いてきた。何回も」

 

 

「そりゃ、気になるし」

 

 

「そういうものは、理屈じゃないでしょ」

 

 

フリーレンは湯呑を置いた。

 

 

「料理、冷めちゃうよ。食べちゃおうか。新の隠し事は、冷めても味は落ちないだろうし」

 

 

新は一瞬だけ呆然としたように目を見開いた。

 

彼女は、疑う理由を全部並べたうえで、疑わないと言ったのだ。

 

 

「……そうだな。せっかくの料理が冷めたらもったいない」

 

 

新はどこか救われたような顔をして、自分の皿へと向き直った。

 

香ばしい湯気が二人の間に立ち上る。

 

 

 

「待ってるよ」

 

 

 

フリーレンが、ぽつりと呟いた。

 

 

「……うん」

 

 

「新が話してくれるまで。エルフは、気が長いからね」

 

 

「どのくらい?」

 

 

「そうだね。……八十年くらいなら、待てるかな」

 

 

「それ、俺が死んでるんだよ」

 

 

「じゃあ急いでね」

 

 

新は思わず吹き出した。

 

それから、小さく「ありがとう」と呟き、大きくメカジキの身を頬張る。

 

溢れ出す脂の甘さと、濃い醤油の味。

 

熱い塊が喉を通るたび、胸の奥に固まっていた「冷たい何か」が、ゆっくりと溶けていくような気がした。

 

 

「……うん、美味い」

 

 

「でしょ」

 

 

「きっと今日も、明日もいい日だな」

 

 

「気が早いよ。まだ昼だよ」

 

 

そう言いながらも、フリーレンは新の皿から、メカジキを一切れ攫っていった。

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