フリーレンと行く魔法のない世界で魔法を探す旅。 作:ぼたにかる
「だからね、その格好で日本を縦断するのは無理があるんだって」
「別に困ってないけど」
「困ってるのは俺だよ。ガソリンスタンドの人にめちゃくちゃ見られたからな、さっき」
岩手を出るあたりから、この押し問答は続いていた。
助手席のフリーレンは、金色の文字で「HIRAIZUMI GOLDEN PARADISE」と書かれた新のTシャツを着たまま、頑として動じない。
「これ、涼しいよ」
「涼しさの話はしてない」
「新がくれたんでしょ」
「あれは緊急避難だ! 二日も着るもんじゃないの!」
結局、道中で見つけた店に寄ることになった。
新が何枚か手に取って見せると、フリーレンはそれを一瞥して、一番飾り気のない白いワンピースを指差した。
「これでいい」
「早いな。もうちょっと選んだら?」
「服は着られればいいでしょ」
「そういうところだぞ、フリーレン」
「フェルンにも同じこと言われた」
そう言って、彼女は少しだけ心外そうな顔をした。
着替えて戻ってきたフリーレンを見て、新は口を開きかけ、閉じた。
膝下丈の、簡素な白。
銀色の髪と合わさって、着替える前より余程この世界から浮いている。
言わないでおこう、と新は思った。
◆
車は南へ走り続けている。
窓の外は、山と、田と、時折現れる集落の連続だった。
冒険と呼ぶには退屈すぎる景色だ。
それなのに、この数時間、車内はほとんど途切れなく声で満ちていた。
「――で、その依頼は結局どうなったの」
「途中で村ごと引っ越しちゃったよ。だから報酬はもらえなかった」
「ええっ!? あんなに苦労したのに!?」
「まあ、そういうこともあるよ」
「納得するんだ……」
フリーレンは、自分でも少し不思議に思っている。
新は、何を話しても面白がる男だった。
魔法の分類の話をすれば、系統の名前をひとつずつ確認したがる。
昔の依頼の話をすれば、報酬の額まで訊いてくる。
失敗した話をすると、いちばん喜ぶ。
そして必ず、その先を訊いてくる。
それでどうなったの、と。
千年生きてきて、こんなに続きを促されたことがあっただろうか、とフリーレンは思う。
大抵の人間は、彼女の話が長いと途中で目が曇る。
彼女もそれを察して、途中で話をやめる。
そういう繰り返しに慣れていたはずだった。
なのに今、口が止まらない。
「じゃあさ、フリーレンが一番苦労した依頼ってなに?」
「……そういう質問、フェルンもよくするんだよね」
「だって気になるじゃん」
ハンドルを握る新の横顔には、心底楽しそうな色がある。
演技ではない。
フリーレンにはそれが分かる。
「新は、聞き上手だね」
「そう?」
「うん。おかげで喋りすぎた。喉が渇いた」
「はいはい、後ろのクーラーボックス」
◆
逆に、フリーレンが訊く側に回ることもあった。
窓の外を流れていく風景は、彼女にとってはことごとく異物だ。
「ねえ。この国、山ばっかりだよね」
「そうだよ。国土の七割くらい山」
「なのに、道がまっすぐ通ってる。おかしくない? この地形なら、道は谷に沿って曲がるはずでしょ」
「お、いいところに気づいたな」
新は嬉しそうに笑った。
「山、掘ったんだよ」
「掘った?」
「そう。トンネルって言うんだけどさ。この先にもいくつかあるから見せてやるよ。山の腹に穴を開けて、まっすぐ通す」
「……山に穴を開ける」
「日本はこれが異常に多くてね。何千本ってある。世界的に見てもたぶん最上位クラスだよ。なんでかっていうと、まさにフリーレンが言ったとおり、山を避けてたら道が繋がらない国だから」
「大変だね」
「大変だよ。昔は掘るのに何年もかかった。犠牲者も出た。今でも、山ってのは掘るたびに何が出てくるか分からないんだ。水が出たり、地層が思ってたのと違ったり」
「……新、そういうの詳しいんだね」
「まあ、あちこち走ってると自然に色んな知識を覚えるからね」
フリーレンは相槌を打ちながら、内心で少し感心していた。
彼は、訊けば大抵のことを答える。
しかも、ただ答えるのではない。
数字を出し、理由を添え、こちらの言ったことを拾って組み立て直す。
魔法学の講義をする教師のような手つきだ。
正直なところ、意外だった。
初めて会った夜、稲穂の中で自分を見つけて騒いでいた男の印象は、もっと単純なものだったから。
「新って、学者か何かなの?」
「ただの旅人だよ」
「ふうん」
それ以上、彼女は訊かなかった。
◆
県境を越えたあたりで、風の匂いが変わった。
濃密な緑と土の湿った匂いが退き、代わりに鼻孔をくすぐったのは、鋭く、どこか懐かしい塩の香りだ。
「――来るぞ、フリーレン」
ハンドルを握る新の声が弾む。
軽バンは、木漏れ日が踊る山間のトンネルを抜け、緩やかなカーブを滑るように下っていく。
視界が開けた。
海だった。
けれど、フリーレンが思い描いていた「海」とは、少し違っていた。
まっすぐな水平線が広がっているのではない。
深い緑の岬が幾重にも折り重なり、その隙間を縫うように、細く長く入り込んだ湾がある。
湾の内側の水面は風を知らないかのように穏やかで、そこに白い浮きが規則正しく並んでいた。
無数の点が、真珠を撒いたように陽を弾いている。
岸に近い場所では、色の褪せた漁船が舳先を揃えて眠っていた。
「海だっ」
新が少年のように叫ぶ。
「ここが気仙沼だよ。俺、この景色を見せたかったんだ」
「……あの白いのは?」
「牡蠣とか、帆立の養殖いかだ。ここらの海は入り組んでて波が穏やかだから、ああいうのに向いてるんだってさ」
「へえ」
フリーレンは窓枠に肘をつき、その光景をじっと見つめた。
「人の手が入ってるんだね。海なのに」
「畑みたいなもんかな」
「……いいね、そういうの」
短い言葉だったが、退屈しているときの相槌とは明らかに違う調子だった。
車は海沿いを走り抜ける。
窓を開けると、轟音とともに熱を帯びた潮風が車内に雪崩れ込んできた。
魚と、潮と、乾いたロープの匂いが混ざっている。
銀色の髪が激しく舞うが、フリーレンはただ目を細めて、風の感触を楽しんでいるようだった。
◆
やがて、彼女は目を細めたまま、指先で小さく円を描いた。
視界を遠くへ伸ばす、ごく簡単な魔法だ。
魔力の乏しいこの世界でも、これくらいは崩れずに保っていられる。
水平線の手前、外海のあたりに、ひとつだけ船が見えた。
湾の中の漁船とは形が違う。
けれど、それが何なのかまでは分からない。
「ねえ、新」
「ん?」
「あの船、何の船?」
「あの船って、どれ」
「沖のほう」
新は前方から視線を外し、ほんの一瞬だけ、右手の海へ目をやった。
一瞬だった。
数えるほどの時間もない。
「ああ、あれか。旋網だな。あの上に見えてるのが探照灯で、後ろに小型の運搬船引っ張ってるだろ。夜に灯りで魚を寄せて獲るんだよ。カツオとかサバとか」
「…………」
「気仙沼はカツオの水揚げが日本一なんだ。何十年も連続で。たぶん今日の飯にも出てくるぞ」
返事がないことに気づいて、新は横を見た。
フリーレンは、まっすぐに彼を見ている。
いつもの淡々とした表情だった。
だからこそ、その静けさが妙に重い。
「……なに?」
「新」
「うん」
「あそこまで、たぶん八キロくらいあるよ」
新の口が、開いたまま止まった。
「私は魔法を使って、やっと船があるって分かった。形も、灯りも、後ろに何か引いてることも分からなかった」
「…………」
「新は、一瞬見ただけだったね」
車内に、エンジンの音だけが残った。
新は前を向いたまま、しばらく黙っていた。
それから、努めて軽く言った。
「……いや、俺は前にもここ来たことあるからさ。だいたいこの時間にあの辺走ってる船って決まってて」
「ふうん」
「本当だって」
「そう」
フリーレンはあっさりと引いて、また窓の外へ視線を戻した。
追及されなかったことに、新は安堵し、同時に落ち着かなくなる。
翡翠の瞳は、遠ざかっていく船を最後まで見ていた。
◆
二人が最初に目指したのは、本土と離島を結ぶ白い橋、「気仙沼大島大橋」だった。
巨大なアーチが、湾の上を跨いでいる。
車でそこを渡る瞬間は、まるで海の上を飛んでいるような浮遊感があった。
「この橋、つい数年前に架かったばかりなんだ。それまでは船でしか渡れなかった」
「ふうん。橋がなかった頃のほうが、この島は遠かったんだ」
「まあ、そうなるな」
「なら、私は運がいいね」
眼下を流れていく海面を目で追いながら、彼女は言った。
橋を渡りきり、島の道を登る。
リフトに揺られて辿り着いた「亀山」の頂上は、島と湾を一度に見下ろせる場所だった。
「……高いね」
「怖い?」
「飛べる私に何を言ってるの」
「今は飛べないだろ」
「…………」
「ごめん」
「……別に。事実だし」
フリーレンは翡翠の瞳を細めて、眼下を眺める。
入り組んだ入り江の連なりと、その先の外海。
湾の内側は静かな翡翠色で、湾を出た先が濃い群青に変わっている。
境目のあたりで、小さな漁船が一艘、白い筋を引いていた。
「あそこ、色が違う」
「深さが違うんだと思う。あと、湾の中と外だからかな」
「同じ海なのにね」
フリーレンは足元へ視線を落とす。
島は深い緑に覆われていて、その縁を白い波が縁取っていた。
「ここはね、『緑の真珠』って呼ばれてるらしいよ」
「誰が言い出したの、それ」
「知らん。ガイドブックに書いてあった」
「新が考えたのかと思った」
「そんな詩人みたいなこと言わないよ、俺は」
「そう? 昨日の夜、稲穂がどうとか言ってた気がするけど」
「言ってない!」
フリーレンは、ほんの少しだけ口の端を上げた。
それから、また海のほうへ顔を戻す。
しばらく黙って、彼女は言った。
「……前に一度、海岸を掃除したことがあってね」
「掃除?」
「うん。新年祭の準備で、依頼を受けたんだ。海岸が汚れてるから片付けてくれって」
「魔王倒した人がやる仕事か、それ」
「報酬が出るなら何でもやるよ。魔法が手に入るなら、もっと何でもやる」
「ブレないなあ」
「それにね、あの依頼はゴミがすごくて、日が暮れるまでかかった」
「うわ」
「フェルンと二人でずっと拾ってたよ。あの子、途中から一言も喋らなくなってさ」
「……怒ってた?」
「怒ってた」
あっさりと彼女は認めた。
「でも、次の日の朝、そこで日の出を見たんだ。掃除したのはそのためだったから」
「なるほどな」
「フェルンは何も言わなかったけどね。ずっと見てた」
新は隣の横顔を見た。
淡々としている。
けれど、その淡々の内側に、彼女がその朝のことを何度も反芻してきた気配がある。
「フリーレンって、意外と面倒見いいんだな」
「そう?」
「だって、日の出見せるために一日ゴミ拾いだろ」
「ついでだよ」
「ついでにしては手間がかかってる」
「…………」
フリーレンは答えず、風に流れる髪を耳にかけた。
「……もっと昔にも、似たような海を歩いたよ。ヒンメルたちと」
「へえ」
「あのときは掃除しなかった。誰も片付けようなんて言い出さなかったし、私も思わなかった」
彼女はそこで、少しだけ間を置いた。
「今のほうが、面倒なことが増えたのかもね」
「悪いことみたいに言うなよ」
「悪いとは言ってないよ」
潮風が、ワンピースの裾を揺らしていく。
「新。……いいところだね、ここ」
「だろ?」
「うん。……でも」
フリーレンはふと、視線を島から本土のほうへと向けた。
眉が、わずかに寄る。
「あっちに、変なところがある」
◆
島を下りて橋を戻り、二人はフリーレンの導きに従い、港沿いの「内湾地区」へと向かった。
車を降りた瞬間、熱が足元から立ち上ってくる。
日に灼けたアスファルトの上を、氷の溶けた水が細く流れていた。
積み上げられた発泡スチロールの箱、干された網、フォークリフトの走る音。
魚市場の裏手は、観光の顔をした表通りとは別の生き物のようだった。
フリーレンは迷いのない足取りで、その隙間を歩いていく。
「フリーレン、そっち行き止まりじゃ――」
「こっち」
彼女が辿り着いたのは、建物に挟まれた、少し薄暗い路地裏だった。
「……ここだね」
フリーレンが立ち止まった先、新の視界の端で、空間の一部が「ノイズ」のように激しく波打った。
まるで古いテレビの映像が乱れるような、生理的な嫌悪感を伴う空間の歪み。
「なんだ、あれ……? 景色が、焼けて溶けてるみたいだ」
「新にも見えるんだね」
フリーレンは眉をひそめたまま言う。
「あそこだけ、ピントが合ってない。下手な細工だよ」
「下手ってことは、上手いのもあるのか」
「あるよ。上手いのは、こんなふうには見えない」
二人の視線の先。
錆びついた鉄箱の影に、一枚の紙片が、まるで空間そのものに突き刺さるようにして留まっていた。
フリーレンがそっと手をかざすと、紙片は引き剥がされるように剥落し、彼女の掌へと吸い込まれるように収まる。
「……これは」
フリーレンが珍しく、驚きで目を見開いた。
「どうしたんだ? それは……ただの紙じゃないんだろう?」
「魔導書の、一ページだね」
「魔導書」
「魔法が書いてある本。……そこから破られてる」
フリーレンは紙片を、透かすようにして陽に当てた。
その指先は、まるで未知の劇物を扱うかのように慎重で、かつ忌々しげだった。
「世界を跨ぐ魔法だ。……私を運んだものと、同じ匂いがする」
「じゃあ、それがあれば帰れるってことか?」
「一ページで帰れたら苦労しないよ」
「あ、はい」
「でも、こういう魔法がこの世界にあるって分かった。それは大きい」
「よかったじゃん!」
「うん。……ただ、変だよ、これ」
「変? 何が」
「私の世界の魔法は、この世界だとうまく動かない。魔力の質が違うから。……でもこれは、この世界に合わせて作り替えてある」
フリーレンは空中に複雑な魔法陣を指で描き始めた。
浮き上がる光の粒子が、手元のページと共鳴して不気味に明滅する。
「なあ、それって難しいことなのか?」
「難しいよ」
「どのくらい」
「新が、明日から突然この国の言葉じゃなくて、私の世界の言葉で詩を書けって言われるくらい」
「無理じゃん」
「無理でしょ。でも、これを作った誰かはやってる」
フリーレンは鼻に皺を寄せた。
「私の世界のことも、この世界のことも知ってる。そういう相手だよ。……しかもわざわざ、私たちに使いやすい形にして、こんなところに隠して、見つけさせた」
「親切……ってわけじゃないよな」
「餌に親切な釣り人はいないよ」
「うわ、嫌な言い方するな」
「事実だからね」
そう言いながらも、彼女の目はすでに手の中のページに釘付けになっている。
「フリーレンなら、同じもの作れるのか?」
「……昔の私なら、時間さえかければ作れたと思う」
少しだけ、間があった。
「今は、どうかな」
その一言の重さに、新は口を噤む。
フリーレンはすぐに調子を戻して続けた。
「まあ、無視はできないよ。この術式、見たこともないほど複雑で、合理的なんだ。組み方が綺麗すぎる。早く車に戻ろう。すぐに解析を始めたい。この魔力変換の構造、どうなってるのか――」
不快感よりも、未知の魔法に対する底知れない知的好奇心が上回ったらしい。
フリーレンの足取りは、先程とはまた別の意味で急ぎ足になっていた。
そんな彼女の肩を、新がひょいと軽く叩いて制する。
「……とりあえず、飯食って落ち着いてから読みなさい」
「えっ。でも、これは一刻を争う解析だよ?」
「そんな簡単に消えるようなもんじゃないだろ。ほら、あそこに美味そうな店があるんだ。気仙沼に来て『メカジキのステーキ』や『マグロのから揚げ』を食べない手はないだろ?」
「……まぐろの、からあげ」
フリーレンの足がぴたりと止まった。
「新は、時々すごく狡いことを言うね」
「そうか?」
「魔法の解析と、マグロのから揚げ。……どっちが優先かなんて、考えるまでもないのに」
「だろう? 飯が優先だ」
「違うよ。解析が優先だって言おうとしたんだよ」
「じゃあ後でいいのか?」
「……新がそこまで言うなら、まずはその魚を攻略してからでもいいけど」
「素直じゃないなあ」
「お腹が空いてると、解析の精度も落ちるからね。合理的な判断だよ」
「はいはい」
結局、お気に入りの誘惑に負けたらしい。
フリーレンは未練がましそうにページを懐にしまいながらも、新の指差す市場の方へと、とぼとぼと付いて歩き始めた。
「食べ終わったら、飽きるまで読んでいいから」
「……本当?」
「ああ。その代わり、今は飯だ」
◆
市場の軒先を歩きながら、新はふと足を止めた。
隣を歩くフリーレンが、強い日差しを避けるように、時折白い手で庇を作っていたからだ。
「フリーレン、ちょっと待ってて」
新はそう言って、店先に並んでいた淡い水色のレースの日傘を買い、手渡した。
「ほら、これ。さすがに今日の日差しは、肌に毒だろ」
「……ありがとう。可愛いね、これ」
「だろ。似合うと思ったんだよ」
「新、こういうのすぐ買うよね」
「文句あるか?」
「ないよ。もらえるものはもらう」
フリーレンは日傘を広げ、その小さな影の中に収まると、ふふ、と満足げに目を細めた。
白いワンピースに、淡い水色の円。
この世界の夏に、彼女はもうすっかり収まって見える。
そのことに新は少しだけ安堵し、同時に、ほんの少しだけ寂しくなった。
◆
サクッ、という心地よい音が、店内の喧騒に混じって響いた。
フリーレンは、揚げたてのマグロのから揚げを頬張りながら、満足げに喉を鳴らす。
対面に座る新も、肉厚なメカジキのステーキを口に運んでいた。
醤油の焦げた香ばしい匂いが、二人の間に漂っている。
「うまい?」
「うん。……この魚、私の世界にはいないと思う」
「へえ」
「こんなに脂があって、揚げても崩れない魚は珍しいよ」
「感想が漁師なんだよなあ」
窓の外を、カモメが低く滑っていく。
「すごいな、ここのカモメ。あんな低く飛んでる。手が届きそうだ」
「観光客が餌をやるからでしょ?」
「夢がないな」
「事実だよ」
フリーレンは、呑気に窓の外を指差す新の横顔を眺めながら、手元でそっと紙コップを弄んでいた。
新の意識は完全に頭上のカモメに向いている。
その時、フリーレンは無造作に指先でコップをテーブルの外へと弾き出した。
――パシッ。
新は、カモメを見上げたまま、視線を一ミリも動かさず、吸い付くような動きで空中のコップを掴んだ。
テーブルの端を越え、真っ逆さまに落ちるはずだったコップが、テーブルの高さそのままの位置でピタリと止まる。
重力が働く暇さえ与えない、水平のキャッチ。
溢れそうになった水面は、波紋ひとつ立てずに静止していた。
新は何事もなかったかのように、カモメを見上げたままコップを元の位置に置く。
「ねえ、俺で遊ぶのやめてくれない?」
視線だけをこちらに戻し、新は苦笑した。
「……良い反応だね」
フリーレンは表情を変えずに言う。
「新はきっと、私の世界でもやっていけると思うよ。前衛としてね」
「……まさか、ありえない」
「アイゼンやシュタルクほどじゃないけど、並の冒険者よりはずっといい」
「」
「褒めてるよ。……というのが、昨日までの私の見立てだった」
「昨日まで?」
「昨日は、この世界の人間は基礎体力が高いのかもしれないと思ってたんだ。宿の主人も、道行く人も、あなたと同じ種族だからね」
フリーレンの翡翠の瞳が、静かに新を見つめる。
「でも、二日も見てれば分かるよ。新は変だ」
新の掌が、嫌な汗で湿っていく。
「そう? 足腰が強いだけだって」
「あの高さから落ちてきた私を受け止めるのは無理だよ」
「……」
「あと、船」
「……船」
「八キロ先の船の、灯りの位置まで見えていたね、魔法も使ってないのに」
フリーレンは、指を二本立てた。
「これで二つ。足腰では説明できないことが」
「…………」
「三つ目」
彼女は、懐のあたりを指先で軽く叩いた。
そこには、あの紙片が入っている。
「これを置いた誰かがいて、私はそれに釣られてる。ここまでは分かった。……で、この世界に不釣り合いなくらい変な人間が、たまたま隣にいる」
「……」
「新が仕掛けた側でも、私は驚かないよ」
新の手から、箸が滑り落ちた。
「い、いやいやいやいや、待って待って!」
「うるさいなあ」
「待ってくれ! それは、その、いや確かに俺は色々隠してるけどな!? でもフリーレンを騙して連れ回してるとか、そういうのでは断じて――」
「冗談だよ」
「冗談!?」
「冗談。声が大きいよ」
フリーレンは、から揚げの最後の一切れを口に放り込んだ。
店員が「お下げしまーす!」と隣の席の皿を回収し、二人の間の空気を切り裂くように通り抜ける。
新は、まだ動悸の収まらない胸を押さえていた。
「……心臓に悪い」
「そういう疑い方をするのが普通だ、って話をしただけ」
フリーレンはそう言って、湯呑に手を伸ばす。
それから、少しだけ声の調子を落とした。
「疑ってないよ、新のことは」
あっさりと、彼女は言った。
「……なんでだよ。今ので疑う理由、全部揃ってただろ」
「揃ってたね」
「なのに?」
「うん」
フリーレンは湯呑を両手で包んだ。
「今日、車の中でずっと喋ってたでしょ。私、あんなに喋ったの久しぶりなんだよ」
「……そう?」
「うん。だいたいの人はね、私の話が長いと目が死ぬから。途中でやめるんだ、いつも」
新は言葉に詰まった。
「新は、続きを訊いてきた。何回も」
「そりゃ、気になるし」
「そういうものは、理屈じゃないでしょ」
フリーレンは湯呑を置いた。
「料理、冷めちゃうよ。食べちゃおうか。新の隠し事は、冷めても味は落ちないだろうし」
新は一瞬だけ呆然としたように目を見開いた。
彼女は、疑う理由を全部並べたうえで、疑わないと言ったのだ。
「……そうだな。せっかくの料理が冷めたらもったいない」
新はどこか救われたような顔をして、自分の皿へと向き直った。
香ばしい湯気が二人の間に立ち上る。
「待ってるよ」
フリーレンが、ぽつりと呟いた。
「……うん」
「新が話してくれるまで。エルフは、気が長いからね」
「どのくらい?」
「そうだね。……八十年くらいなら、待てるかな」
「それ、俺が死んでるんだよ」
「じゃあ急いでね」
新は思わず吹き出した。
それから、小さく「ありがとう」と呟き、大きくメカジキの身を頬張る。
溢れ出す脂の甘さと、濃い醤油の味。
熱い塊が喉を通るたび、胸の奥に固まっていた「冷たい何か」が、ゆっくりと溶けていくような気がした。
「……うん、美味い」
「でしょ」
「きっと今日も、明日もいい日だな」
「気が早いよ。まだ昼だよ」
そう言いながらも、フリーレンは新の皿から、メカジキを一切れ攫っていった。