フリーレンと行く魔法のない世界で魔法を探す旅。 作:ぼたにかる
夜、海沿いの高台に止めた車内は、ランタンの琥珀色の光に満たされ、外界の潮騒を遮断した二人の密室を切り取っている。
弾丸旅行といえるほど急な移動であるために、二日目は宿を取れず車中泊となった。
フリーレンは二日目の午後以降、ウイチグス呪法典の解析を進めていた。
手を書物に当てているだけで会話もできるのだが、脳の活動のリソースを解析に当てているせいか、意識はぼんやりしており口数も少ない。
相変わらず外の世界を跋扈する電気製品や構造物にほとんど関心を示さないが、菓子や珈琲といった嗜好品についてはいたく気に入ったようだった。
トランクから目ざとく見つけた煙草にも興味があるようだったが、魔王を倒した英雄に肺がんのリスクを背負わせることは新としても気が引けたために、今のところは遠ざけられている。
旅程を調え終えた新は、隣のフリーレンへ視線を向けた。
フリーレンは、新が調達した薄手のTシャツとジーパン姿をしている。
髪は暑さゆえか高めの位置で無造作にまとめられており、ポニーテールに変化している。
セットは普段フェルンにやってもらっているから、と訊かれてもないのにフリーレンは言い訳をしていた。
膝の上に乗った書物へ顔を向けているせいで、真っ白なうなじの曲線が新の位置からも見えた。
それだけではなく、瞬きをする度に影を落とす長く繊細な睫毛や、わずかに開いた薄紅色の唇にもつい、目が行ってしまう。
美しいというよりもちょっと整いすぎており、白皙の肌はどこか浮世から離れている。
でも無機質というわけではない。
こうして間近であらためて観察し、新はそう感じた。
「アラタ、さっきから視線が私の口元に集中しているよ。呼吸も少し早い。……それはキスしてみたい、という感じの表情?」
フリーレンは書物を見つめたまま、ただの物理現象を分析するような、半分冗談めかした淡々とした声で言う。
「・・・・・・そんなことまで分かるのか?」
図星を突かれた新が素直に肯定すると、フリーレンはページをめくる手をピタリと止めた。
「……え。本当に?」
彼女は少しだけ目を見開き、心底不思議そうに新の顔を見た。
その表情には「なんで私なんかにそんな気を起こすの?」という純粋な驚きが混じっている。
彼女の指摘はあくまで知識の照らし合わせに過ぎず、本気で自分が口説かれているとは欠片も思っていなかったらしい。
「それで、どうして分かったんだって聞いてるんだけど」
照れから言い方が乱暴になってしまい後悔する。
「……昔、仲間の僧侶に教えられたからね。『人間のオスがそういう視線の動かし方をした時は気をつけろ』って」
「なるほど。随分と生臭い坊主だな」
新はそう言って、苦笑いするしかなかった。
フリーレンは僅かな動揺を隠すように再び視線を魔導書に戻すと、淡々と釘を刺した。
「やめておいた方が良いよ」
横目で新を見つめる。
「双方後悔することになる。たとえそれが一時の気の迷いであっても。人間とエルフでは価値観の尺度があまりに違いすぎる。その結果、私たちの種がどのような顛末を迎えつつあるのかについては、昨日話したよね」
外では夏の波音が心地よく響いていた。カーテンの隙間から差し込む漁火の明かりがフリーレンの半身だけを照らしている。
「千年に及ぶ人生の中で、伴侶を持ったことは?」
「ないよ」
「・・・・・・ヒンメルと君は、恋人関係だった?」
「アラタもそんなことが気になるの?」
と、フリーレンはそこで新に顔を向ける。
冷たい物言いはいつものことだが、蔑みの色がそこに少し混じる。
「……魔王を討伐して百年以上が経った後も、私たちのパーティーの中には隠された色恋沙汰があったんじゃないかって疑う人間は多かったけど。アラタもその一人?」
新は首を横に振る。
「・・・・・・不快にさせてしまったなら、申し訳ない。ただ、ヒンメルの名を出したのは今、俺が見ている光景はヒンメルもまた見たはずの光景だと思ったから」
「どういうこと?」
フリーレンは首を傾げる。
「単に、『綺麗だ』と感じたってことだよ。ヒンメルもそう思ったはずだ」
「なにが?」
「フリーレンのことだよ」
「......私? それは、どうだろうね」
フリーレンは再び顔の向きを魔導書に戻す。
「私はそうは思わない。実際、別に告白もされなかったよ。ヒンメルは生涯未婚のままだった」
「それはたぶん、君が言ったとおり、尺度が違うと感じたからだろう」
「尺度が同じなら、告白していたと」
「うん。俺もそうしていただろう」
フリーレンは魔導書に当てていた手の力をふっと弱める。
濁りなきエメラルドを思わせる目がほんの少しだけ見開かれる。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも新からは見えた。
「私は人を知りたいと思うけど、人にはなれない。アラタやヒンメルが私にはなれないように」
その言葉は新ではなく、自分自身に向けられているようでもあった。
「……試してみる?」
「なにを?」
ふいに、フリーレンが視線を魔導書に戻したまま言った。
「さっき、そういう顔してたでしょ。……まぁ、私なんかじゃ本気でそういう気にはならないだろうけど」
どこか高を括ったような、無防備で淡々とした言葉だった。
どうせ一時の気の迷いか何かだろうと処理しているようで。
だからこそ、新は静かに、けれど真っ直ぐに彼女を見据えて返す。
「……本当にいいのか?」
冗談やからかいではない、静かな熱を帯びた声。
その響きに、フリーレンは再び顔を上げた。
胸を鳴らすような劇的な動揺はない。
けれど、それでも完全に予想外の反応を向けられたことで、彼女の翡翠の瞳がほんの少しだけ見開かれ、明らかな驚きの色が浮かんでいた。
そんなフリーレンの顔を見て、新はふっと目元を緩める。
それは、思いがけず可愛いものを見てしまったような悪戯っぽさと、どこか相手を愛おしむような熱が混ざった、大人びた微笑みだった。
「……でも今日は、やめておくよ」
「どうして?」
「せっかくなら、次の機会にとっておきたいからかな? フリーレンが気まぐれじゃなく、少しでもそういう気分になってくれた時のために」
「……永遠に来ないかもよ?」
フリーレンは呆れたように、けれどどこか試すような響きで返す。
何せ相手は、人間とは生きる尺度が違うエルフなのだ。
だが、新は困ったように、それでいて大人の余裕を含んだ声で笑った。
「そこは俺の頑張り次第ってことだな」
過去の記憶の綻びを確かめる旅だったはずが、気づけば隣にいるこの不器用で美しいエルフのことを、改めて好きになってしまったのだから仕方がない。
「……本気なの、それ」
疑わしげに目を細めるフリーレンに、新は迷いなく頷く。
「いつでも本気のつもりだよ、俺は」
新はそう言って、そっとシートに背を預けて目を閉じた。
明日も車を走らせるために体力を回復させておく必要があった、というのも理由の一つだが――これ以上、彼女の無自覚で無防備な姿を至近距離で見つめていると、本当に大人の理性が危うくなりそうだったからだ。
「……そう」
フリーレンは少しだけ調子を狂わされたように、短く応じた。
そうして静かにまた本の解析に戻った。
窓の外では、夏の重い湿り気を帯びた波音が、絶え間なく砂浜を洗っている。
カーテンの隙間から差し込む漁火の明かりが、車内の狭い空間を淡く青く縁取っていた。
フリーレンは思う。
自分に異性として好意を正面から伝える人間は、これまでの長い年月の中でも、数えるほどもいなかった気がすると。
膝の上の魔導書に視線を落としていたが、どうにも先ほどから進んでいない。
ふいに、フリーレンが動いた。
魔導書から目を離さぬまま、けれど僅かに首を傾け、隣で目を閉じている新の方を横目で見やる。
「……ねぇ、アラタ」
「ん?」
「……なんでなの? まだ出会って、一日かそこらなのに」
あまりに何気ない、けれど確かな好奇心が含まれた問い。
新は目を開けぬまま、夜の静寂に溶け込むような声で答えた。
「可愛いし、素敵だから」
「……ふぅん」
フリーレンは少しだけ目を伏せると、本当によく見ないとわからないレベルで、微かに意地悪そうな響きを混ぜて言った。
「奥さんにも、同じ口説き文句使ったの?」
昼間、気仙沼の海で聞いた「妻」という存在。
人間である彼が、妻がいながら自分を口説くような真似をすることへの、彼女なりの純粋な疑問と牽制だった。
「ちがうよ。妻とは……」
そこで新は言葉を切り、ふと眉を寄せて考え込んだ。
「……不思議だな。なんて想いを伝えたんだっけか」
「私に聞かないでよ。……まさか忘れたの?」
呆れたようなフリーレンの声に、新は自嘲するように小さく笑う。
「おかしいよな。フリーレンみたいに長く生きているわけでもないのに、最近どうも、忘れっぽい」
「呆れた。そんなんじゃ、奥さんに愛想を尽かして逃げられちゃうよ」
「妻とは、もう死別してるんだ。もし君の言っていた天国(エンデ)があるなら、俺がこんなところで他の女の子を口説いてるのを見て、きっとおかしくて笑うだろうな」
その言葉に、フリーレンは小さく息を呑んだ。
彼の記憶が不自然に綻び始めている理由はまだ分からない。
けれど、彼が深い喪失を抱えたまま、このあてのない旅を続けていることだけは、その静かな横顔から痛いほどに伝わってきた。
「…………そっか」
フリーレンはそれ以上踏み込むことはせず、ただ短く呟いた。
そして、少しだけ重くなった空気を変えるように、先ほどの問いをもう一度口にする。
「それで、素敵ってなにが?」
「......珍しく気にするんだな」
フリーレンは考える。
魔法が使えることや、エルフである希少性から?
けれど、この世界において魔法使いですらなくなった自分に、一体どんな「素敵」な要素があるというのか。
新はゆっくりと目を開け、窓の外の夜景へと視線を投げた。
「フリーレンのその在り方が素敵だと感じたから、としか言えないかな」
言語学者である彼は、普段ならいくらでも言葉を尽くすことができた。
けれど、今この瞬間の感情だけは、どれほど辞書を引いても、その一言に集約されてしまうようだった。
「……ふぅん。やっぱり、よくわからないね」
フリーレンはそう言って、今度こそ本当に魔導書へと視線を戻した。
それ以上問い返すことはせず、二人はただ夜の波音に耳を澄ませる。
車内には再び、穏やかな静寂が満ちていく。
サブバッテリーで稼働するポータブルクーラーから、涼しい風が静かな駆動音とともに流れ込み、夏の夜の寝苦しさを快適な温度へと中和していた。
運転席のシートを限界まで倒したとはいえ、大人の男が眠るにはやはり窮屈だ。
少し姿勢を変えようと新が身じろぎしたとき、後部座席をフルフラットに展開した広々としたベッドスペースから、不意に声が降ってきた。
「……ねぇ、アラタ」
「ん?」
「そこ、寝づらいなら隣で寝ればいいのに」
あまりにも無防備で、無自覚な提案だった。
彼女にとっては、ただ「自分が寝ているスペースにまだ余裕があるから」という合理的な気遣いに過ぎないのだろう。
先ほど自分がどれほどの理性を働かせて一線を引いたのかなど、この千年以上生きたであろうぽんこつエルフは欠片も分かっていない。
暗がりの中、新は天井を見上げたまま深い苦笑を漏らし、ゆっくりと息を吐き出した。
「……そのうちな」
「そう。じゃあ、おやすみ、アラタ」
「おやすみ、フリーレン」
規則的で小さな寝息が後部から聞こえ始めるまで、新はしばらく、窓の外の青い夜を見つめていた。