神様とかムカつくんで斬っていいですか? 作:一般通過小説好キー
黒の咆哮が、半壊した家の空気を震わせた。
壁に残っていた窓ガラスの破片が一斉に鳴り、天井から雪混じりの埃が降ってくる。血と獣臭と、アラガミ特有の濁ったオラクル細胞の匂いが混ざり合い、肺の奥を焼くような不快感になって押し寄せた。
けれど、そんなものはどうでもよかった。
目の前にいる。
あの日、義父さんを殺した怪物が。
僕から、凛という名前をくれた人を奪ったアラガミが。
今度は、何も知らない小さな女の子から両親を奪って、血に濡れた白髭を揺らしながら、そこにいる。
正直、怒りという感情は、もっと熱いものだと思っていた。
胸の奥で炎が燃え上がって、頭の中まで真っ赤に染め上げるものだと。
でも、違った。
本当に憎いものを前にした時、心は熱くならない。
むしろ、何もかもが冷たく澄み渡っていく。皮膚の下を流れる血液だけが煮えたぎるように熱いのに、思考は凍りついた刃のように研ぎ澄まされ、目の前の敵をどう斬れば苦しませられるのかだけを、やけに鮮明に理解してしまう。
──イッシン、コロシタ。
頭の奥で、声がした。
──コイツ、コロシタ。
うん、知ってる。
分かってるよ。
だから、こいつはここで殺す。
「……お前は」
喉の奥から漏れた声は、自分のものとは思えないほど低かった。
「ここで、刻んで、削いで、潰して、殺す」
ディアウス・ピターが低く唸る。
その赤い瞳に、怒りの色が灯った気がした。
ボクが顔面を斬ったことで、ヤツの人面には深い亀裂が走っている。けれど、崩壊にはまだ遠い。傷口から赤黒いオラクル細胞が泡立つように蠢き、欠けた組織を無理やり繋ぎ止めようとしていた。
あぁ、そうだよなァ。
お前は硬い。
お前は強い。
今の僕が、たった一太刀で殺せるほど安い相手じゃない。
でも、それでいいんだ。
簡単に終わらせるつもりなんて、最初からない。
ボクは床を蹴った。
半壊した家の床板が、踏み込みの衝撃に耐え切れず砕ける。加速した視界の中で、ディアウス・ピターの巨体がこちらへ前脚を振り下ろすのが見えた。常人なら、ただそれだけで肉塊に変わるような質量の暴力。けれど、ボクの目にはスローモーションのようにゆっくりに見えた。
爪の軌道を見切り、紙一重で身体を滑り込ませる。
黒い前脚が横を通り過ぎた瞬間、巻き起こった風圧だけで頬の皮膚が裂けた。
痛い。
でも、その痛みすら今は遠い。
ボクは前脚の下へ潜り込み、関節のわずかな綻びへ神機を叩き込んだ。硬質化した外殻は刃を弾こうとするが、弾かれるよりも早く角度を変え、刃筋をずらし、同じ一点へ二度、三度と連撃を重ねる。
一心の太刀筋は、余計な力を嫌った。
無駄を削ぎ、敵の動きと呼吸を読み、最も通る場所へ刃を置く、待ちの剣だ。
でも、今のボクの剣は違う。
一心の剣を土台にしながら、オラクル細胞の出力で無理やり押し通す、醜く歪んだ復讐の剣。そこにはボクの憧れた綺麗さはないし、きっと正しくもない。
それでも、この刃は届く。
「ぁあああああああッ!!」
神機の刃が、前脚の外殻を削り取った。
ディアウス・ピターが咆哮し、巨体を振るう。家の壁が紙細工みたいに吹き飛び、雪と瓦礫が混ざった風が雪崩れ込んでくる。これ以上ここで暴れれば、クローゼットごと潰れる。そうすれば、奥にいる小さな熱まで巻き込んでしまう。
その瞬間だけ、冷たい理性が怒りの中から顔を出した。
アリサがいる。
まだ、生きている。
なら、ここでは駄目だ。
「こっちだ、化け物」
ボクはわざと大きく神機を振り、ディアウス・ピターの顔面へ浅く刃を走らせた。殺すためではない。挑発するための傷だ。
「義父さんを喰ったくせに、その程度で怯むなよ」
赤い瞳が、ぎろりとボクを睨む。
理解しているのかどうかなんて分からない。けれど、ヤツの怒りを引き出すには十分だったらしい。ディアウス・ピターは、床を砕く勢いでこちらへ飛びかかった。
ボクは後ろへ跳んだ。
崩れた玄関を抜け、雪に覆われた家の前の広場へ飛び出す。かつては子供たちが遊んでいた場所なのだろう。半分壊れた遊具と、傾いた街灯と、雪に埋もれたベンチがある。
そこへ、ディアウス・ピターの巨体が突っ込んできた。
半壊した家の正面部分が完全に吹き飛び、白い雪の上へ黒い影が躍り出る。衝撃で地面に積もっていた雪が舞い上がり、一瞬だけ視界が白く染まった。
白。
吐き気がするくらい、綺麗な白だった。
その白の中で、黒い帝王が吼える。
ボクは、神機を握り直した。
「いいよ。そこなら、少しは暴れられる」
ディアウス・ピターの背に黄金のマントのような器官が広がる。雷光にも似たオラクル細胞の輝きが空気を灼き、周囲に散らばった瓦礫や雪が細かく震えた。
来る――!
そう思った瞬間、無数の雷撃が広場を薙ぎ払った。
黒い体躯から放たれた紫紺の雷光が、雪を蒸発させ、地面を抉り、遊具を飴細工みたいに溶かしていく。広範囲を焼き払う、回避の余地を奪うための攻撃。まともに受ければ、いくら今のボクでも無事では済まない。
けれど、見える。
雷撃の流れる方向。
発生する直前に膨れ上がるオラクル細胞の偏り。
攻撃と攻撃の間に生まれる、ほんのわずかな空白。
ボクはその隙間を縫うように走った。
雷が頬を掠め、髪の先を焦がす。足元の雪が爆ぜ、熱せられた水蒸気が視界を曇らせる。けれど、止まらない。止まれば焼かれる。止まれば逃げられる。止まれば、あの黒を殺せない。
だから走る。
雷の雨の中を、刃を低く構えて。
──ハヤク。
はやく。
──モット、ハヤク。
もっと。
──タベチャエ。
ボクの内の声が言うこと、それはただの戯言じゃない。
足りないんだ。
今のままでは足りないものを補う必要がある。
この怪物を殺すには、もっと速く、もっと深く、もっと強く踏み込まなければ届かない。顔面を斬り、前脚を削り、怒りで出力を引き上げてもなお、ヤツの生命にはまだ刃が届いていない。
なら、使うしかない。
神機使いがアラガミを喰らい、その力を一時的に引き出す戦闘状態。
バースト。
これまでは必要なかった。
小型種も中型種も、動きを読んで、綻びを斬ればそれで終わった。わざわざ神機に捕食させて出力を上げるまでもなく、ボクは十分すぎるほど戦えていた。
それに、怖かったんだ。
コアを収集する捕食は後で技術部に提出するもので正確には取り込んでいない。けれどバーストはオラクル細胞を取り込み力とする行為だ。
既に人の身から外れている自分が、より人外によってしまうのではないか、人ではなくなってしまうのではないかという恐れがどこかにあった。
だから、使わない理由を見つけていた。
でも、こいつは違う。
一心を殺した怪物。
ボクが何年も探し続けた仇。
今ここで殺さなければならない、黒い帝王。
こいつを前にして手札を惜しむ理由なんて、どこにもない。
例え、戻れなくなったとしても。
「……喰らえ」
ボクは雷撃が途切れる一瞬へ身体を滑り込ませた。
狙うのは、先ほど何度も削った右前脚。硬質化した外殻の隙間、ひび割れた結合の奥へ、神機を突き立てるように叩き込む。
直後、神機が獣のように開いた。
黒い牙がディアウス・ピターの肉を抉り、赤黒いオラクル細胞を喰い千切る。ヤツが悲鳴を上げるより早く、喰らった力が腕輪を通してボクの中へ流れ込んできた。
熱い。
痛い。
気持ち悪い。
けれど、それ以上に、力が満ちる。
──ゴハンダ。
心臓が跳ねた。
血管の奥で眠っていた怪物が、歓喜するように吼える。視界が黄金に染まり、世界の輪郭が一段深く、鮮明に浮かび上がった。
神機から流れ込んできたオラクル細胞は、本来なら外から借りる力のはずだった。けれど、ボクにとってそれは少し違う。
これは、外の力じゃない。
元々ボクの中にいた怪物へ、ようやく餌を与えたような感覚だった。
ボクの中のオラクル細胞が歓喜している。
神機が喰ったはずの力を、ボクの身体が当然のように受け入れ、噛み砕き、血肉へ変えていく。
怖い。
気持ち悪い。
でも、今はどうでもいい。
「……あは」
口元が、勝手に歪む。
「やっと、届く」
そこから先は、斬撃ではなく蹂躙だった。
ボクは捕食した勢いのまま、右前脚の外殻へ神機を振り下ろした。さっきまで刃を弾いていた硬質化の膜が、今は薄皮一枚のように感じられる。神機の刃が深く食い込み、黒い血が雪原へ飛び散った。
ディアウス・ピターが怒り狂ったように身を捻る。
尻尾が鞭のようにしなり、空気を叩き割って迫る。けれど、バースト状態の身体はそれを見てからでも十分に反応できた。膝を落とし、尾の下を潜り抜け、そのまま左前脚の関節へ刃を滑り込ませる。
一撃。
さらに半歩踏み込み、同じ箇所へ二撃目。
ディアウス・ピターの巨体が大きく傾ぐ。
そこへ、顔面。
砕けかけた人面の亀裂へ、神機を横薙ぎに叩き込む。抵抗は凄まじかった。まるで厚い鋼を無理やり割っているような感触が腕に返ってくる。それでも、バーストによって跳ね上がった出力がそれを押し潰し、神機が獲物を喰らうように傷口へ食い込んでいく。
ベキリ、と嫌な音がした。
ディアウス・ピターの顔面外殻が、大きく割れた。
「まだだ」
ボクは地面を蹴り、宙に浮いた身体を回転させる。その勢いを乗せて、今度は右前脚へ斬撃を落とす。先ほど捕食し、何度も刻んだ場所。結合が弱り、外殻の防御がわずかに乱れている一点。
そこへ、全体重と神機の重さを叩きつける。
白い広場に、黒い血が飛び散った。
右前脚の外殻が完全に砕け、ディアウス・ピターの巨体が大きく崩れる。けれど、ヤツは倒れきる寸前でマント状の器官を広げ、至近距離から雷撃を撒き散らした。
回避しきれない。
なら、受け流す。
ボクは神機を斜めに構え、雷撃の奔流を刃で逸らしながら身体を捻った。腕が焼ける。皮膚が焦げる臭いがする。けれど、直撃は避けた。逸れた雷撃が背後の建物を吹き飛ばし、壁が崩落して雪煙が舞い上がる。
痛い。
でも、立てる、構えることができる。
なら、問題ない。
ボクは体の中の熱を逃がすように息を吐き出し、再び加速した。ディアウス・ピターは追撃のために跳躍し、こちらへ巨体を落としてくる。その影が白い雪原を覆った。
ボクは半歩だけ身をずらし、落下の直撃を避ける。同時に、着地の衝撃で生まれた一瞬の硬直へ刃を滑り込ませた。
左前脚。
顔面。
胸部。
もう一度、右前脚。
連撃に次ぐ連撃。
斬って、躱して、潜って、削る。
ディアウス・ピターの攻撃は派手で、重く、一撃ごとに広場の形を変えていく。雷撃は建物の壁を焼き、爪は地面を抉り、咆哮は残っていた窓を全て砕いた。
けれど、ボクはその全部の内側へ入り込む。
大きすぎる力には、必ず隙がある。
振り下ろした前脚は、戻るまでに時間がいる。
雷を放つ直前には、必ず顔面とマント状の器官にオラクル細胞が集まる。
跳躍後の着地には、僅かでも重心の乱れが生まれる。
分かる。
見える。
どこを斬ればいいのか。
どこを壊せば苦しむのか。
どこを削れば、逃げ足を奪えるのか。
全部、見えてしまう。
「ねぇ、痛い?」
ボクは笑っていた。
「痛いよな。苦しいよな。怖いよな。だったら、もっと鳴けよ」
神機の刃が、ディアウス・ピターの左前脚を深々と裂いた。
「義父さんは、もっと苦しかったはずなんだ」
続けて顔面を斬る。
「あの人は、ボクを逃がすために、お前みたいな化け物を相手にして」
雷撃を紙一重で潜り抜け、胸部へ斬撃を叩き込む。
「それでも最後まで、ボクに生きろって言ってくれたんだ」
ディアウス・ピターが大きく仰け反った。
その姿に、胸の奥で燃えていたものがさらに大きくなる。
──コロセ。
あぁ。
──コロセ、コロセ、コロセ。
そうだね。
──コロセ!!
「言われなくても……!」
ボクは神機を逆手に持ち替え、ディアウス・ピターの顔面へ飛び乗った。
割れた人面に刃を突き立て、そのまま体重をかけて抉る。ヤツは狂ったように頭を振り回し、ボクを振り落とそうとした。視界が回る。雪と空と黒い体がぐちゃぐちゃに混ざる。
それでも離さない。
離してなるものか。
「お前だけは……!」
神機が深く食い込む。
「お前だけは、絶対にッ!!」
刃を引き抜き、もう一度突き刺す。
ディアウス・ピターの咆哮が、悲鳴に変わった。
その瞬間、ヤツの顔面外殻が完全に崩壊した。
赤黒い血とオラクル細胞が噴き上がり、ボクの視界を濡らす。熱い。臭い。最低な感触だ。けれど、その全てが復讐の実感として身体の中へ流れ込んでくる。
ボクは、さらに斬ろうとした。
その首を落とすために。
その命を、今ここで終わらせるために。
けれど、ディアウス・ピターもただの獲物ではなかった。
顔面を砕かれ、両前脚を刻まれ、全身に無数の裂傷を負いながら、それでもヤツは帝王の名に相応しい凶暴さで身体を跳ね上げた。マント状の器官が大きく広がり、これまでとは比べ物にならないほど濃密なオラクル細胞が周囲へ拡散する。
まずい。
直感した瞬間、ボクは飛び退こうとした。
けれど、一歩遅かった。
ディアウス・ピターが、天へ向かって吼えた。
ただの咆哮ではない。
空気を震わせる音ではなく、オラクル細胞そのものに命令を刻み込むような、悍ましい波だった。
広場に積もった雪が、円形に吹き飛ぶ。
近くの建物が軋み、割れた窓枠が一斉に外へ弾ける。
そして、その声は耳ではなく、ボクの血管の内側を直接震わせた。
「っ、が……!?」
全身の力が抜けた。
神機を握る指が痙攣し、膝が勝手に折れる。視界が黄金のノイズで埋め尽くされ、耳の奥で無数の声が重なった。
──アツマレ。
──ココニ、エサガイル。
──ココニ、テキガイル。
──ココニ、オナジモノガイル。
違う。
ボクは、お前たちと同じじゃない。
違う、違う、違う!
そう叫ぼうとしたのに、声が出ない。
オラクル細胞が、体内で暴れているのが分かった。
ディアウス・ピターの咆哮はおそらく周囲のアラガミを呼び寄せるためのものだ。アラガミの本能へ直接働きかける、王の号令にも似た声。
そして、ボクの身体は限りなくアラガミに近い。
だから、その声に反応した。
けれど同時に、ボクのオラクル細胞はこの環境へ適応しようとした。呼び寄せる命令に従うのではなく、逆にそれを遮断し、無効化し、ボクをボクのまま保とうとした。
従おうとする本能。
抗おうとする因子。
その二つが体内で衝突し、神経を焼き切るような痛みとなって全身を駆け巡る。
「が、ぁ、あ……!」
身体が動かない。
指一本、まともに言うことを聞かない。
ディアウス・ピターは、よろめきながらもこちらを見下ろしていた。顔面は砕け、血に濡れ、もはや帝王というよりは手負いの獣そのものだ。それでも、赤い瞳だけは醜悪な光を失っていない。
ヤツは、ゆっくりと後退した。
逃げるつもりだ。
「ま、て……」
声にならない声が漏れる。
待て。
逃げるな。
まだ、終わっていない。
ボクはまだ、お前を殺していない。
ディアウス・ピターは大きく身を屈め、半壊した建物の屋根へ跳び上がった。瓦礫が崩れ、屋根が悲鳴を上げる。その先、いくつもの建物を飛び越えれば、すぐに吹雪の向こうへ姿を隠せるだろう。
ふざけるな。
逃がすな。
追え。
今すぐ、追え。
立ち上がれ。
ボクは歯を食いしばり、痙攣する膝に無理やり力を込めた。全身の筋肉が悲鳴を上げる。内臓を握り潰されるような痛みの中で、それでも神機を支えに立ち上がろうとする。
その時、広場の端に小型種の影が見えた。
オウガテイル。
ザイゴート。
まだ遠い。
けれど、確実にこちらへ向かってきている。
ディアウス・ピターの咆哮に呼ばれたアラガミたちだ。
そして、半壊した家の奥には。
クローゼットの中には。
アリサがいる。
「……っ」
世界が、残酷なほどはっきりと二つに分かれた。
目の前には、義父さんの仇。
背後には、まだ助けられる子供。
追えば、きっと届く。
今ならまだ、ディアウス・ピターを逃がさずに済むかもしれない。
顔面は砕いた。前脚も壊した。追い詰めている。あと少しだ。あと少しで、一心の仇を討てる。
でも、追えばアリサを置いていくことになる。
呼び寄せられたアラガミがこの場所へ雪崩れ込めば、クローゼットの中で気絶している小さな女の子なんて、一瞬で喰われる。
両親を奪われたばかりのあの子が、今度は誰にも気づかれないまま、暗闇の中で死ぬ。
それだけは。
それだけは、駄目だ。
でも。
でも、義父さん。
ボクは、ようやく見つけたんだ。
あなたを殺したやつを。
あなたから貰ったこの命で。
あなたが繋いでくれたこの身体で。
ようやく、あいつに刃を届かせたんだ。
それなのに。
それなのに、また、逃げられるのか。
「……ぁ、あ」
喉の奥から、壊れた音が漏れた。
ディアウス・ピターが屋根の上からこちらを見下ろしている。
顔面を砕かれ、血に濡れたその醜悪な人面が、笑ったように見えた。
嘲っている。
お前には選べないだろうと。
お前はまた奪われるだけだと。
そんな声が、聞こえた気がした。
「ふざ、けるな……」
神機を握る手が震える。
「ふざけるなよ……!」
声が震える。
怒りだけじゃない。
悔しさも、悲しさも、恐怖も、全部がぐちゃぐちゃに混ざって喉を裂く。
「逃げるな……! 逃げるなよ、クソ野郎!!」
ディアウス・ピターは、踵を返した。
その背中が、吹雪の向こうへ消えようとする。
「義父さんを殺して……! あの子の両親まで喰って……! それで、まだ逃げるのかよ!!」
叫んでも、ヤツは振り返らない。
ボクの脚は、まだ完全には動かない。
追えない。
追ってはいけない。
分かっている。
分かっているのに、心が裂けそうだった。
「覚えてろ……!」
白い雪原に、ボクの声が響く。
「絶対に、覚えてろ!! お前だけは、ボクが殺すっ!! どこに逃げても、何年かかっても、どんな姿になっても、絶対に見つけ出して、殺してやる!!」
喉が焼ける。
涙が出ているのか、雪が溶けて頬を濡らしているのか分からない。
ただ、視界が滲んで、白い世界がぐちゃぐちゃに歪んでいく。
「お前だけは……お前だけはぁぁああああああああああああああッ!!!」
ボクは叫んだ。
それはどうしようもなく惨めで、そして情けない泣き声だったかもしれない。
最低限、アリサだけは、死なせずに済んだ。
けれど、彼女の両親は救えなかった。
彼女に忘れられない傷を刻ませてしまった。
ボクは覚悟したんだ。
物語を壊すことになろうとも、アリサの未来を変えると。
ボクは覚悟したんだ。
アリサの運命を変えられなかったとしても、必ずヤツを殺すと。
涙で歪む視界の中、ディアウス・ピターの影は、建物を飛び越え、吹雪の奥へ消えていった。
ボクは、 覚悟して、
ボクの 大切な ものを壊すと しても、 な のに、
ダメで、 やっと楽になれテ、 せめて、
ドウして、 逃がした、 僕は、 やめろ、
オ願い 、 逃げルな、
義父サん、 ごめん、 アリサ、 ごめんなさい、
ボ クは まだ、 僕は 殺せてナイ、 ナニモ、 救えなイ。
後に残ったのは、崩れた広場と、呼び寄せられたアラガミたちの気配と、胸の奥で何かが決定的に壊れる音だけだった。