神様とかムカつくんで斬っていいですか?   作:一般通過小説好キー

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5話:増えていく名前、近づく物語

 時間というものは、残酷なほど当たり前に流れていく。

 

 誰かが泣いていても、誰かが死んでも、誰かが取り返しのつかない選択をしてしまっても、時計の針は止まってくれない。昨日が終われば今日が来るし、今日が終われば明日が来る。たとえこちらの準備が何一つ整っていなくても、世界は平然と次のページを捲ってしまう。

 

 旧ロシアでの大規模掃討作戦から、季節はいくつも巡った。

 

 最初の頃は、あの白い雪と、黒い咆哮と、血の匂いが夢に出てくることもあった。目を閉じれば、ディアウス・ピターの姿が浮かび、ようやく見つけた達成感と、あと一歩届かなかった身を焦がす憎悪と後悔が昨日の出来事のように思い出せる。

 

やっと、終われると思ったのに。

 

 けれど、そんなものにいつまでも囚われていられるほど、この世界は優しくない。

 

 朝になれば任務がある。アラガミは使命に駆られ、人間は生きるために壁の内側を守らなければならない。僕がどれだけ過去を睨みつけていても、Nornには新しい討伐依頼が並び、榊ぱっぱは寝癖頭で研究室をうろつき、リンドウさんは煙草を咥えながら「今日も仕事だぞ」と笑う。

 

 だから僕も、いつも通りに戻った。

 

 朝は食堂で甘いものを探し、サクヤさんに「朝からそんなものばっかり食べちゃ駄目よ」と叱られ、リンドウさんに絡み、ツバキさんの書類仕事から逃げる手伝いをし、ソーマにちょっかいをかけて舌打ちされる。そういう毎日を重ねていれば、周りの人たちは()()()()()()()

 

 凛は大丈夫だ。

 凛はいつも通りだ。

 あの子は強いから、心配しなくても大丈夫だ。

 

 そんなふうに思ってくれる。

 

 だって、大丈夫じゃないと口にしてしまえば、きっと誰かが立ち止まってしまう。誰かが僕を心配して、僕のために時間を使ってしまう。僕よりも守られるべき人はたくさんいるのに、僕なんかに手を伸ばしてくれる優しい人たちが、この極東支部には増えてしまった。

 

 だから、笑う。

 

 それが一番簡単で、一番慣れた方法だった。

 

 けれど、どれだけ笑っていても、時間はちゃんと流れていく。

 

 そして、流れた時間の中で、極東支部には少しずつ新しい名前が増えていった。

 

 

 

 2066年。

 

 極東支部は、以前よりも少しだけ賑やかになった。

 

 それは食堂の席が足りなくなったとか、訓練場の予約が取りづらくなったとか、そんな些細な変化から始まった。新しい神機使いが増えれば、当然その分だけ生活音も増える。廊下ですれ違う顔ぶれが変わり、Nornに表示される隊員一覧に見覚えのあるような、けれどまだこの世界では知らない名前が並び始める。

 

 その度に、僕の胸の奥は小さく揺れた。

 

 

 

 ジーナ・ディキンソン。

 

 初めて彼女を見た時、僕は思わず「おぉ……」と声を漏らしそうになった。

 

 長身で、落ち着いた雰囲気を纏う女性。無駄なことはあまり喋らず、視線は静かで鋭い。射撃訓練場で見かけた彼女は、まるで呼吸をするように銃形態の神機を構え、標的を正確に撃ち抜いていた。派手さはない。けれど、弾が放たれるまでの動きには一切の淀みがなく、ああ、この人は本当に狙撃手なんだなと納得させられるものがあった。

 

 僕がこっそり見ていると、彼女はこちらに気づいたのか、ちらりと視線を向けてくる。

 

「何か用?」

「いえ、ジーナさんって綺麗な撃ち方するなぁって」

「……そう。ありがとう」

 

 短い返事。

 けれど、拒絶ではなかった。

 

 僕はそれだけで少し嬉しくなって、「今度、射撃のコツ教えてください!」と言ってみた。すると彼女は少しだけ考えた後、「あなた、近接型だから射撃を教えても意味がないんじゃない?」と真顔で返してきた。

 

 正論すぎて何も言えなかった。

 

 

 

 カレル・シュナイダー。

 

 彼は第一印象からして実に分かりやすかった。

 

「仕事には見合った報酬が必要だ。命を懸けるなら、なおさらな」

 

 初対面の挨拶でそんなことを言われた時は、僕も思わず目を瞬かせてしまった。

 

 この世界で金の話をするのは、別に不謹慎なことではない。むしろ、生きるためには必要不可欠だ。アナグラの内側で暮らせる者と、外壁付近で今日を凌ぐ者とでは、命の重さまで違って見えることがある。神機使いだって慈善事業ではない。命を懸けてアラガミを狩る以上、それに見合う対価が必要だというカレルさんの考え方は、ある意味ではとても真っ当だった。

 

 ただ、その真っ当さを真正面から口に出せる人は、そう多くない。

 

「カレルさんって、すごく現実主義ですよね」

「現実を見ない奴から死んでいく。お前も覚えておくといい」

「うわぁ、正論が鋭い」

「褒め言葉として受け取っておく」

 

 そんなやり取りをした後、彼は僕が任務報酬の一部を高価な甘味に突っ込んでいることを知ると、心底呆れた顔をした。

 

「お前、金の使い方が下手だな」

「失礼な。心の栄養に投資してるんです」

「その心の栄養とやらは、非常時に弾薬や薬品に変わるのか?」

「……変わらないけど、元気にはなります」

「なら半分にしろ」

 

 それ以来、カレルさんは僕を見るとたまに「無駄遣いしてないだろうな」と聞いてくるようになった。正直、ちょっとお小遣い帳をチェックされている気分になる。

 

 

 

 小川シュン。

 

 彼は、なんというか、()()()()()()()に調子のいい人だった。

 元々は、原作でソーマのことを死神呼ばわりして、主人公にも悪評を垂れ流す害悪としてあまり良い感情は持っていなかった。

 

 しかし、実際に会ってみると、よく喋り、よく笑い、少しばかり見栄っ張りで、口も悪いけれど、どこか憎めない。訓練場で初めて組んだ時も、「よっしゃ、俺の華麗な立ち回り見せてやるぜ!」と意気込んだ数分後に、ツバキさんから容赦なく駄目出しを受けて床に沈んでいた。

 

「お前、先に口を動かすな。足を動かせ」

「ぐはっ、ツバキさんの正論が重い……!」

「分かります。ツバキさんの正論は重いです。たまに神機より重い」

「お、分かってくれるか凛!」

「凛、何か言ったか?」

「いえ、今日もご指導ありがとうございます!」

 

 僕とシュンさんはその日、訓練メニューを少しだけ増やされた。

 

 理不尽だと思う。

 いや、口を滑らせた僕が悪いんだけど。

 

 

 

 ジーナさん、カレルさん、シュンさん。

 

 知っている名前が、支部の中で日常になっていく。

 

 ゲームの画面で見た人たちが、今は同じ食堂でご飯を食べている。訓練場で汗を流し、任務に出て、怪我をして、笑って、怒られて、また次の日には同じ場所に立っている。

 

 それは不思議な感覚だった。

 

 嬉しいのに、怖い。

 

 名前が増えるたびに、世界が豊かになっていく。僕の知っている極東支部に近づいていく。けれど同時に、それは僕が知っている未来へ近づいているということでもあった。

 

 新しい人が来る。

 新しい関係が生まれる。

 そして、僕の知らないところで、僕が知っている悲劇への道も少しずつ舗装されていく。

 

 それがたまらなく怖かった。

 

 けれど、それを誰かに言うことはできなかった。

 

 だから僕は、今日も笑っていた。

 

 

 

 2067年。

 

 極東支部はさらに騒がしくなった。

 

 ブレンダン・バーデル。

 

 大柄で、真面目で、見るからに誠実そうな人だった。初めて会った時、僕が何気なく「大きいですね」と口にすると、彼は少し困ったように笑って「よく言われる」と返した。その笑い方があまりにも穏やかだったので、僕は一瞬、戦場よりも畑とか牧場の方が似合いそうだなと思ってしまった。

 

 もちろん、そんな見た目に反して、彼はきちんと強い。

 

 むやみに前に出るわけではないけれど、どちらかというと敵に張り付き、積極的に攻撃していくスタイル。ソーマと同じでバスター系統の神機だからか、一撃に重きを置いている。

 かと言って脳筋スタイルで考え無しかというとそうではなく、任務が終わる度に反省会をしており、常に改善と試行錯誤を重ねている印象だ。

 

「ブレンダンさんって、なんかこう、壁みたいですよね」

「壁?」

「あ、悪い意味じゃなくて。頼れる防壁というか、一緒にいると安心するっていうか」

「……そうか。なら、そうであれるよう努力しよう」

 

 うん、真面目だ。

 

 この人は、たぶん僕のふざけた言葉も真っ直ぐ受け取って、自分の中でちゃんと意味を持たせるタイプだ。だから、あんまり変なことを言うのはやめようと思った。思っただけで、実際にやめられたかは別問題だけど。

 

 

 

 同じ頃、オペレーターとしてヒバリさんも支部に入った。

 

 竹田ヒバリ。

 

 初めて声を聞いた時、ゲーム内で聞き慣れた声で少し感動した。

 

『こちらオペレーター、竹田ヒバリです。以後、任務支援を担当します。よろしくお願いします』

 

 通信越しの声は、まだ少し硬かった。緊張しているのが分かる。けれど言葉は丁寧で、必要な情報を正確に伝えようとする意志があった。

 

 サクヤさんとはまた違う声。

 

()()()聞く声にはまだ慣れていないけれど、これから何度も聞くことになる声。

 

 僕は通信機に向かって「よろしくお願いします、ヒバリさん!」と元気よく返した。すると少しだけ間があって、『こちらこそ、よろしくお願いします、榊さん』と返ってくる。その一瞬の間が、何だか初々しくて、僕は少しだけ頬が緩んだ。

 

 

 

 また一つ、名前が増える。

 

 また一つ、物語が近づいていく。

 

 

 

 そんな中で、支部の外でも大きな動きがあった。

 

 エイジス計画。

 

 ヨハネス・フォン・シックザール支部長主導の下、海上に巨大な人工島を建設する計画が本格的に動き出した。

 

 表向きには、人類の新たな希望。

 

 アラガミの脅威から隔絶された、安全な居住区。ギリシャ神話における最強の盾を冠する、人類が再び未来を取り戻すための拠点。そう説明されれば、誰だって期待するだろう。実際、アナグラの中でもエイジスの話題はよく耳にするようになった。

 

 エイジスが完成すれば、もっと安全な暮らしができるかもしれない。

 外壁の外で怯える人たちを、少しでも多く救えるかもしれない。

 子供たちが、アラガミに怯えず眠れる場所ができるかもしれない。

 

 そういう希望の言葉が、あちこちで囁かれる。

 

 僕はその言葉を聞くたびに、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。

 

 希望。

 

 確かに、エイジスは希望なのだろう。少なくとも、その言葉を信じている人たちにとっては。

 

 けれど、僕は知っている。

 

 あの人工島が、ただの希望で終わらないことを。

 シックザール支部長の計画が、そこに何を重ねているのかを。

 

 もちろん、今の僕にそれを証明する手段はない。何の根拠もなく「危険です」と叫んだところで、誰が信じるというのか。仮に信じてくれたとして、何を止められるというのか。

 

 世界は大きい。

 

 僕一人の腕では、届かないものが多すぎる。

 

 だから僕は、Nornの資料を読み、公開されている計画概要を確認し、任務の合間にエイジスに関するニュースを追いかけた。何か見落としていないか。何か変化はないか。僕が介入したことで、ほんの少しでも未来がずれているところはないか。

 

 祈るような気持ちで確認したけれど、流れは変わらなかった。

 

 多少の違いはあっても、大筋は僕の知っている未来へ向かって進んでいる。そう実感するたび、胸の内側に冷たいものが落ちていった。

 

 そして、その年。

 

 ある名前がKIAとして登録された。

 

 香月ヨシノ。

 

 まだ出会ったことのない少女の母親。

 僕はその名前を見た時、しばらく端末の画面から目を離せなかった。

 

 最初は、すぐに思い出せなかった。

 

 香月。

 

 その名字に引っかかりを覚えた。どこかで見た名前だと思った。けれど、すぐには結びつかなかった。任務報告の一覧に並んだKIAの文字と、香月ヨシノという名前。その二つを眺めながら、周りの景色が引き延ばされていくような感覚に陥った。

 

 遅れて思い出した。

 

 香月ナナ。

 

 GE2に登場する、明るくて、おでんパンという変わった食べ物が好きで、そして、仲間思いの女の子。

 

 その母親の名前が、香月ヨシノだった。

 

 思い出した瞬間、心臓のあたりがキュッと締め付けられるように痛くなる。

 

 ああ、そうだ。

 

 あった。

 

 そういう出来事が確かにあったが、この瞬間まで忘れていた。

 

 いや、言い訳をするなら、思い出せなかったのだ。僕が極東支部に保護されてから、このKIAという表示を見るまで、一度たりとも香月ヨシノの話題は聞かなかった。つまり、僕が保護された時点ですでにMIAとなっていたはずで、極東支部に来る前の僕にはどうすることもできない出来事だった。仮に全てを正確に覚えていたとしても、僕が助けに行ける場所にはいなかった。僕が介入できる時系列ではなかった。

 

 だから、「仕方ない」そう言い聞かせることはできる。

 

 実際、理屈の上ではその通りだ。何をどうしようが僕には何もできなかったんだ。できない、できなかったんだから、仕方ない、仕方ないはず。

 

 でも、それでも、端末に表示されたKIAの文字は、僕の胸を深く抉った。

 

 景色が歪んでいくようで気持ち悪い。

 僕は咄嗟にターミナルの手摺に掴まり、体を支える。

 

 忘れていたんだ。

 

 一人の少女の不幸に繋がる出来事を。

 物語に関わる名前を。

 それを、僕は、忘れていた。

 

 アリサの時と違って、目の前で起きたわけではない。ディアウス・ピターのように、憎悪を叩きつける相手がいるわけでもない。誰かを責めることもできない。自分が間に合わなかったと叫ぶことすら、少し違う。

 

 だって、そもそも間に合う場所にいなかったのだから。

 

 それでも、苦しかった。

 

 もし覚えていたら。

 もしもっと早く思い出していたら。

 もし何かできることがあったなら。

 

 そんな意味のない仮定が、頭の中に次々と浮かんでは消えていく。

 

 この世界は、僕の記憶よりもずっと広い。

 

 ゲームの中では、語られた出来事しか見えなかった。画面の向こうにいるキャラクターたちの背景を、設定資料や台詞から知った気になっていた。けれど、この世界では違う。語られていない場所にも人がいて、知らないところで誰かが死んで、名前だけが記録に残る。

 

『香月ヨシノ』という名前がKIAとして登録された日、僕は自分がどれだけ多くのものを取りこぼしているのかを、改めて思い知らされた。

 

 僕は、全てを救えるわけじゃない。

 

 そんなことは分かっていたはずだ。

 

 分かっていたはずなのに、また突きつけられた。

 

 その日は、食堂の味がよく分からなかった。

 

 ソーマに「食わないなら寄越せ」と言われて、反射的に皿を抱え込んだことだけは覚えている。サクヤさんに心配され、リンドウさんには何か言いたげな目を向けられた。僕はいつものように笑って、「ちょっと考え事してただけです」と誤魔化した。

 

 たぶん、上手く笑えていなかったと思う。

 

 それでも、誰も深くは聞いてこなかった。

 

 2068年から2069年にかけて、極東支部はまた少し形を変えた。

 

 新しい顔ぶれは支部に馴染み、任務の割り振りも以前より少しだけ安定してきた。もちろん、アラガミが減ったわけではない。むしろ、年々厄介な個体は増えている気がするし、外の世界が優しくなったわけでもない。

 

 それでも、人は慣れる。

 

 ジーナさんの狙撃が当たり前になり、カレルさんが報酬の話をするのが当たり前になり、シュンさんが調子に乗って怒られるのが当たり前になり、ブレンダンさんが無言で味方の前に立つのが当たり前になり、ヒバリさんの声が任務中に聞こえるのも当たり前になっていった。

 

 当たり前が増えるのは、良いことだと思う。人がそこにいることが、特別な奇跡ではなく、日常になっていく。

 

 けれど僕は、その日常を見ながら、どこかでいつも数を数えていた。

 

 2071年──原作開始まで、あと何年。

 

 リンドウさんのKIAまで、あとどれくらい。

 

 エイジス計画が本格的に動き出すまで、あとどれくらい。

 

 シオと出会うまで、あとどれくらい。

 

 そして、ディアウス・ピターに再び届くまで、あとどれくらい。

 

 チクタク、チクタクと秒針は刻んでいき、止まることなく、時間は進む。

 

 

 

 そんな中で、サクヤさんが神機使いに転属になった。

 

 オペレーター業務は、比較的落ち着いていて真面目なヒバリさんへ引き継がれ、サクヤさんは今、第一部隊で一緒に戦っている。

 サクヤさんはオペレーター時の騒がしい感じから一転し、冷静で周りをしっかりと見て行動できるスナイパーだった。サクヤさんが見てくれていると思うだけで安心できると感じるほどに、遠距離型神機使いとしてのお手本のようだった。

 

 ただ、これまでは通信越しに流していたお小言は面と向かって言われるようになってしまったり、任務終わりによく世話を焼かれるようになってしまった。

 けれど不思議と嫌な気持ちはしないし、これも彼女の優しさなんだなって分かった。

 

 

 

 そして、入れ替わるようにして、ツバキさんが前線を退くことになった。

 

 神機使いには活動限界と呼ばれるものが存在する。人によってその限界値はそれぞれだが、ツバキさんはそれがもう間近に迫っていた。

 

 また、指揮能力の高さや現場を俯瞰する目を持っており、サクヤさんが神機使いとして戦えることを判断した今、丁度良いと今後は現場指揮官として、これまで以上に作戦全体を見ていく立場になった。リンドウさんも「姉貴なら当然だろ」と笑っていたし、支部内でも大きな混乱はなかった。

 

 むしろ、喜ばしいことだ。

 

 最前線で神機を振るい続けることだけが、ゴッドイーターの役割ではない。誰かが全体を見て、誰かが判断し、誰かが戻る場所を守らなければならない。ツバキさんがその立場になることは、極東支部にとって間違いなくプラスだ。

 

 だから僕も、お祝いをした。

 

「ツバキさん、現場指揮官就任おめでとうございます!」

 

 そう言って差し出したのは、食堂のおばちゃんに頼み込んで作ってもらった、豪華なチョコチップクッキーの詰め合わせだった。

 このご時世、甘味の材料集めは中々骨が折れるものがあったけれど、僕の大好きなものを贈りたかった。

 

 ツバキさんはそれを見て、ほんの少しだけ目を瞬かせた。

 

「……なぜクッキーなんだ」

「僕が嬉しい時はクッキーなので」

「それはお前の基準だろう」

「あはは、でも甘いものは正義ですよ」

 

 呆れたような顔をされるかと思ったけれど、ツバキさんは小さく息を吐いただけで、クッキーの箱を受け取ってくれた。

 

「ありがとう。大事に食べるとしよう」

 

 その言葉が思ったよりも優しくて、僕は自然と口角が上がってしまった。けれど同時に寂しさも湧いてくる。

 

 ツバキさんが前線から退く。

 

 それは、頭では理解できている。

 

 支部に残るのだから、会えなくなるわけじゃない。むしろ、指揮官としてなら任務中に声を聞く機会は増えるかもしれない。僕たちを見ていてくれる場所が、前線の隣から少し後ろに変わるだけ。物語のあるべき姿へ落ち着いていくだけだ。

 

 でも、それでも。

 

 今後は神機を構えている姿も、後ろから正確無比な射撃による援護も、任務終わりのヘリの中での綺麗な横顔も、見られないんだ。

 そう思うと、まるで自分の一部を切り取られたような、そんな言いようもない息苦しさがあった。

 

 顔に出したつもりはなかった。けれど、僕のそんな自分勝手な思いをツバキさんは見抜いてしまったのだろう。

 

 その日の夜、訓練場で一人、日課の素振りをしていた僕のところへ、ツバキさんがやってきた。

 

「まだやっているのか」

「ちょっとだけですよ。ほら、最近ちょっと動きが鈍ってる気がして」

「お前の『ちょっと』は信用ならない」

「ひどい」

 

 ヒュンッと風を斬る音を鳴らす。

 

 いまいち、理想の形からずれている型に眉を顰めながらも、いつものように軽口を返す。

 

 ツバキさんは訓練場の壁際に立ち、腕を組むと、しばらく僕の動きを見ていた。何も言わない。ただ、静かに見ている。その視線は厳しいけれど、不思議と嫌ではなかった。

 

 僕は何度か刀を振り、それから手を止めた。

 

「……ツバキさん」

「なんだ」

「現場から離れるの、寂しくないですか?」

 

 口に出してから、これは僕が言いたかったことではないことに気付いた。だって「寂しい」と感じているのは他でもない、僕自身だったからだ。

 

 けれど、そんなことを真正面から言えるほど、僕は素直ではない。

 

 いまさら、言った言葉を撤回するわけにもいかないし、他に何かいい質問はないだろうかと逡巡していると、ツバキさんはゆっくりと口を開いた。

 

「寂しくない、と言えば嘘になるな」

 

 意外だった。

 

 ツバキさんなら、もっときっぱりと「必要な判断だ」とか「感傷に浸る暇はない」とか言うと思っていた。

 

 けれど彼女は、そうは言わなかった。

 

「だが、前線に立つだけが役目ではない。私はこれから、別の形でお前たちを守る。現場で隣に立つ機会は減るだろう──が、目を離すつもりはない」

 

 その言葉と、僕を射抜くような視線に、喉の奥がきゅっと狭くなった。

 

「……僕、そんなに心配ですか?」

「心配だ」

 

 僕が何とか絞り出した言葉に対し、ツバキさんは即答した。

 

 あまりにも迷いがなくて、僕は思わず変な声を出しそうになった。

 

「そ、即答は酷くないですか?」

「酷くない。事実だ」

「僕、結構優秀なゴッドイーターですよ?」

「優秀だから心配なんだ」

 

 ツバキさんは真っ直ぐに僕を見る。

 

 思わず後ずさりしそうになるが、それすらも許さないような逃げ道のない視線だった。

 

「お前は強い。任務では頼りになる。だが、自分のことになると途端に扱いが雑になる。危険な場所へ平気で踏み込み、必要だと思えば自分が傷つくことを計算に入れない。そういうところは、見ていて肝が冷える」

「あはは……そんなことないですよ?」

 

 笑って誤魔化そうとした。

 

 けれど、ツバキさんは誤魔化されてくれなかった。

 

「凛」

 

 名前を呼ばれる。

 

 ただそれだけで、背筋が伸びた。

 

「私は、お前を戦力として見ている。部下としても信頼している。だが、それ以前に、お前はまだ子供だ。辛いなら辛いと言っていい。怖いなら怖いと言っていい。できないことをできないということは、恥ではない」

 

 心臓が、嫌な音を立てた気がした。

 

 優しい言葉だった。

 それはとても甘美で、この地獄のような世界で伸びた蜘蛛の糸のようだ。きっとそれに縋って、泣き叫び、心の内を全てぶちまけられればとてもスッキリするのだろう。

 

 でも、だからこそ、無理なんだ。

 異物である僕が甘えることは許されない。元々存在しないやつが好き勝手していいものじゃない。以前の決意に対しとんでもない矛盾だけれど、でも、少なくとも僕は許されてはいけない。楽になってはいけない。

 

 僕は何かを言おうとした。

 だってここですぐに調子の良いこと言えないと、「僕は無理しているんです!」と言っているのと同じだから。けど、喉の奥に言葉が詰まって結局何も言えない。

 だから代わりに笑おうとする。いつものように「大丈夫ですよ」とたった6文字を言葉にして言えばいい。そうすれば、この場は丸く収まる。ツバキさんもそれ以上は踏み込まない。僕もいつも通りに戻れる。

 

 けれど、なぜだろう。

 

 その時だけは、どうしても、いつもの言葉も、笑顔もできなかった。

 

「……努力、します」

 

 たっぷり時間を使って、ようやく出たのは、そんな曖昧な返事だった。

 

 ツバキさんは少しだけ目を細める。

 

「今はそれでいい」

 

 それだけ言って、彼女は僕の頭に手を置いた。

 

 リンドウさんのように雑ではなく、ハルさんのように軽くもなく、ソーマのようにぎこちなくもない。静かで、割れ物を扱うように丁寧で、それでいて不器用で。それでも確かに温かい手だった。

 

「だが、忘れるな。お前が帰ってくる場所はここにある。どこにいようと、それは変わらない」

 

 僕は、これ以上何も言えなかった。だって言えば、きっと何かが零れてしまいそうだと思ったから。

 だから、ただ小さく頷いた。

 

 ツバキさんはそれ以上何も言わず、クッキーの箱を片手に、訓練場を出ていった。

 

 その背中を見送りしばらくしてから、僕は大きく息を吐いた。手にはじっとりと汗が滲んでいて、変な動悸もする。

 だから、僕の体には少し大きい刀を強く握り直し、型の通りに振る。

 

 増えていく名前。

 近づいていく物語。

 変わらない未来。

 変わるかもしれない未来。

 

 その全部が怖い。

 怖くて、怖くて仕方がないから、ホントは逃げ出したい。

 

 大好きなゲームをして、美味しいものを好きな時に好きなだけ食べ、温かいお風呂に入って、温かな布団に包まれ眠りたい。

 命の駆け引きとか運命だとか、誰かの不幸だとか──そんなことは考えずに気楽に、背負わずに生きたい。

 

 けれど、お前のその命はお前が好きに使っていいものなんかじゃない。

 尊い犠牲を踏みしだいて立っている以上、その命はこの世界に生きる人のために使い果たすべきだ。

 

 でも、逃げられない。

 

 僕は、力の限り刀を振った。

 

 夜の訓練場に、不格好な刃が空を切る情けない音だけが響く。

 

 考えろ。僕がすべきことを。僕が成すべきことを考えるんだ。

 

 恐怖も、後悔も、憎悪も、希望も

 

 そんなものは置いておいて。

 

 ただ、ボクという存在ができることを。

 

 

 

 いつか来る2071年へ向けて。

 

 僕はまだ、傷一つない足で、歩き続けている。

 

 

 

 

 

──ボクタチ ハ マダ オナカイッパイニ ナッテナイ。

──ボクタチ ハ ナニヲ タベタインダロウ。

──ボクタチ ハ ドコヘ イキタインダロウ。

──オトウサン ナラ シッテルノカナ。




ちなみに私はカレルのことがあまり好きではありませんでした。
が、歳を重ねていくうちに、ある意味現実主義なんだろうなと思うようになりました。

あの世界だと物資が高騰しお金の価値が低すぎて、ちょっとしたお金ではお小遣いにもならないのだろうな、と。
そうするとカレルのような守銭奴って凄く現実を見て、いかなる時にも対応できるようにお金を荒稼ぎだぜ、金にならないなら知らんってドライになるのもわかる故。

こんな世界ですからね、人もポコポコ天国に昇っていくような環境で、極力ドライに考えるっていうのは心を守る一つの手段なのでしょう。

ということで、カレルは原作よりもマイルドです。
もっと嫌な奴でいて欲しかった人はごめんなさい。
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