神様とかムカつくんで斬っていいですか? 作:一般通過小説好キー
白濁した光が、網膜を刺す。
無機質な警告音と、絶えず流れ続ける冷却水の音。
ここには夜も昼もない。
ただ、肉体を壊し、再構築するための『時間』という概念だけが、粘りつくように存在していた。
「──被検体三十四番、先ほど心停止。オラクル細胞の過剰増殖による自己崩壊です」
「廃棄しろ」
厚い強化ガラスの向こう側で、白衣を着た影たちが淡々と声を交わす。
彼らの言葉は、記号のように空虚だった。
「結局、三十四番も駄目でしたか。やはりP60因子の定着率は、常人の神経系では耐えられない」
「次はどうしますか。在庫はもう少ない」
「仕方ない……零号を使え。あいつは別格だ」
零号。
それが、今のボクの名前だった。
「P60を完全に受け入れ、さらにその先──P73。投与実験を開始する」
「P73を、後天投与するおつもりですか? あれは胎児段階での母体からの転写を前提とした因子のはずでは……」
「前回の結果は概ね良好。それにあの体質だ。あいつこそが、フェンリルの一極集中を崩し、我々を真の救世主たらしめる『神殺し』の核となる」
神殺し。
救世主。
言葉だけは立派だった。けれど、そのために壊されているのは、あまりにも小さい子供の身体だ。
ここがゴッドイーターの世界であると認識するのは早かった。研究職員らしき人たちの会話から、偏食因子だの、アラガミだの、フェンリルだのと言われれば、あれだけゲームをしていたボクにはすぐ分かった。
ただ、それが分かったからといって、嬉しさも感動も湧かなかった。
ボクは……誰だっけ。
頭の中に絶えずノイズが走る。
熱い。冷たい。痛い。痒い。
感覚が混濁し、自分の指先がどこにあるのかも分からない。
さっきまで、ボクは『僕』だった気がする。
どこかの部屋で、コントローラーを握って、画面の向こうの絶望に胸を痛め、仲間の絆に感動していた。
けれど、思い出そうとするたびに痛みが来る。
注射器から流し込まれる何かの液体が、記憶という名の細胞を黒く塗りつぶしていく。オラクル細胞という名の怪物が、ボクの中身を少しずつ喰い散らかしていく。
(……助けて)
声は出ない。
出しているのかもしれないけれど、ボクにはもうそれすらもわからない。
(……痛い。ボクを、殺して……)
暗闇の中、ボクは自分という存在がバラバラに砕け散っていく恐怖に震えていた。
ボクはもう、人間じゃない。
ボクはもう、何者でもない。
零号。
番号で呼ばれる、ただの肉の塊。
けれど、その暗黒の海の中で、どうしても消えない光があった。
(……ゴッド……イーター……)
それは、ボクがいたはずの『あっち側』の世界の物語。
雨宮リンドウ。
ツバキ。
サクヤ。
ソーマ。
シオ。
アリサ。
コウタ。
ブラッド隊。
クリサンセマムのみんな。
画面の中で、彼らが泥を啜りながらも笑っていた、あの過酷で気高い物語の記憶。
それだけが、ボクの中に残った唯一の真実だった。
ボクの本当の親の名前は思い出せない。
ボクがどこから来たのかも分からない。
けれど、フェンリルという組織があり、アラガミという絶望が世界を喰らい、その中で戦う者たちがいる。
これだけは、ボクを裏切らない。
ボクは、その物語に縋りついた。
現実の激痛から逃げるために、頭の中で何度も、何度も『ゴッドイーター』をプレイした。
荒廃した世界。
偏食因子。
赤い雨。
灰嵐。
絶望の中で、それでも笑う人たち。
ボクの血管を流れるこの熱い液体は、ボクを壊す薬じゃない。
ボクの肉体を裂くメスは、敵の爪だ。
そう思い込むことでしか、ボクは個を保てなかった。
ボクは、ボクが誰だか分からない。
でも、この世界が『ゴッドイーター』の世界であることだけは、神様がボクに残した唯一の道標だった。
「信じられん……P73の投与から四十八時間が経過したが、拒絶反応や暴走反応も一切見られない」
モニターに映し出される数値は、もはや生物の域を超えていた。
「どころか、被検体零号のオラクル細胞が、投与された因子を捕食し、新たな形を形成している……?」
零号の体細胞は、通常の人間の形態を保ちながらも、その多くがオラクル細胞に近い反応を示していた。
単なる置換ではない。
あらゆる属性、あらゆる偏食因子を喰い合わせ、調和させ、一つの生態系として機能させている。
「まるで……閉じた生態系だ。あらゆる因子を内包し、喰らい合わせ、再構築している」
研究員の声が震える。
「脳波を見ろ。これほどの激痛の中にありながら、驚くほど安定している。いや、これは安定ではない」
「何だ」
「何かに、深く没入している。瞑想……あるいは、強固な仮想現実を脳内に構築し、現実の苦痛を遮断しているのか?」
拘束台の上で、小さな少女──零号は、虚空を見つめていた。
その瞳は、すでに黄金色に染まり、髪からは色素が抜け落ちている。
人の感情を映してはいない。
だが、その唇が、音もなく動いた。
「……ゴッド……イーター……」
「……今、何か言ったか?」
「いえ、うわ言でしょう。自意識はほとんど残っていないはずです」
「ならば次のフェイズだ。偏食場パルスの強制放出実験を行う。出力は最大」
「しかし流石の零号も死ぬ可能性が……」
「いや、死にはせん。これは我々の最高傑作だ。ここを越えてもらわねば、我々の明日もまた、ない」
痛みはやがて、鈍い空腹へと変わった。
何かが足りない。
何かが欲しい。
ボクを壊すこの男たちを。
この部屋を。
この世界を。
残さず喰らい尽くしたい。
胸の奥で、まだ言葉にならない何かが蠢く。
生まれたばかりの飢えが、ボクの輪郭をなぞっていた。
ソーマ。
キミも、こんな苦しみの中にいたの?
リンドウさん。
ボクを、見つけてくれる?
ボクはもう、僕じゃない。
でも、もういいんだ。
ボクがボクであるうちに、こいつらを、この世界を壊して食べられるなら、それでいい。だってお腹すいたんだ。お腹がすいてすいて仕方がない。早く食べたいって、満腹になりたいんだって内側から叫んでいる。
(……あぁ、予感がする)
胸の奥で、飢えが笑った気がした。
(……ほら。お前らを壊すものが、すぐそこにいる)
その瞬間、研究所の外壁を突き破るような轟音が響いた。
アラガミの咆哮。
警報が鳴り響く。
赤い光が白い実験室を染める。
研究員たちが慌てふためき、悲鳴を上げ、何かを叫ぶ。
壁が砕けた。
血と土の匂いが流れ込んでくる。
アラガミは、ボクを見た。
いや、見たはずだった。
黄金色の瞳と、血塗れの白い髪と、拘束台に縫いつけられた小さな身体を。
けれど、次の瞬間。
それは興味を失ったように、ボクから視線を外した。
「零号! おい、零号! 何とかしろ!」
誰かが叫んだ。
知るかよ、今さら、名前みたいに呼ばないで。
あぁ、とっても気分がいい。
研究員の悲鳴が上がる。
肉が潰れる音。
骨が砕ける音。
ボクを壊した手が、ボクの名前を番号で呼んだ口が、次々と喰われていく。
研究員たちが喰われていく姿を見て、まるでボク自身がアラガミとなってその全てを喰らっているような気分になった。
ここに鏡があったならボクは酷く醜い笑みを浮かべながら涎でも垂らしているのだろう。
ひとしきり暴れ、もう喰うものがなくなったアラガミたちは、ばらばらに移動を始めた。そこで次はきっとボクの番でようやくこの地獄から解放してくれるんだと思った。
まだお腹がすいているけれど、多分ボクはこのままじゃボクですらなくなってしまう。だったら、アラガミに喰われて終わってしまった方が、きっと正しいのだと思った。
いや、そんな崇高なもんじゃないな。さっきだって自分をアラガミだと思ったり全部を壊して食べたいなんて人とは思えないような思考をしていたんだ。そんなわけのわからないものになって生きながらえるより、人のまま死んで苦痛からも解放されたいと思った。
でも、アラガミはボクを喰わなかった。
どうして。
どうして、ボクだけ。
絶望の淵にいる時、胸の奥で何かが囁いた。
──タベラレナカッタ。
──ボクハ、タベモノジャナイ。
……は。アラガミにすら喰われないって……じゃあ、ボクは何?
崩れ落ちる研究所の中、ボクは黄金の瞳をゆっくりと見開いた。
瓦礫の向こうから、血と炎と夜の匂いが流れ込んでくる。
まぁ、いいや。永遠とも思える地獄から解放されるんだ。だったらもうどうでもいい。
あの光も凶器も液体も、何もかもがこの騒動で壊れていく。人が作ったものが、一つ、また一つと壊れていく中、ボクは天井の穴から覗く月を見た。
あぁ、とっても綺麗で──。
──オイシソウダナ。
「あは、あはは、ははははっ、ははははははは」
──アハハハハハハハ。
自分の名前すら忘れたまま。
ボクはただ狂ったように笑い続けた。