神様とかムカつくんで斬っていいですか? 作:一般通過小説好キー
それから、どれほどの月日が経っただろう。
施設がアラガミの襲撃を受け、真っ赤な炎と返り血に染まった時、ボクの心にはもう何も残っていなかった。
飢え死に寸前、瓦礫の中で空を仰いでいたボクを拾い上げたのは、不器用なほどに温かい手だった。
「……生きてるか。おい、しっかりしろ」
知らない男の声だった。
低く、少し掠れていて、優しさよりも戸惑いの方が強い声。
けれど、飢餓感以外の何もかもが抜け落ちていた当時のボクにとって、その手の温かさだけが、やけに際立って感じられた。
その男の名は、一心といった。
一心の家で過ごす日々は、音のない世界だった。
食べさせられれば咀嚼し、飲まされれば飲み込む。眠れと言われれば横になり、起きろと言われれば起き上がる。
ボクはただ、壊れた人形のようにそこにいた。
そんなある日、一心が庭で一振りの刀を振るっているのを見た。
鋭く空気を切り裂く音。
淀みのない一閃。
闇の中に細い道を通すような、静かな太刀筋。
(……凄く、綺麗だ)
死と痛みの記憶で塗り潰されていたボクの脳に、初めて『美しい』という感情が火を灯した。
刃は、怖いものだと思っていた。
身体を裂くもの。痛みを与えるもの。ボクを壊すもの。
けれど、一心の刀は違った。
それは、誰かを傷つけるためだけのものではなかった。
暗闇の中で導くような、そんな希望に満ちた剣だった。
吸い寄せられるように刀へ手を伸ばしたボクを見て、一心は驚いたように目を見開き、そして、ほんの少しだけ笑った。
「そうか。お前、これがやりたいのか」
その日、一心は初めてボクに名前を尋ねた。
「お前、名前は」
ボクは答えられなかった。
声が出なかったからではない。名前というものが、自分の中に残っていなかったからだ。
一心はしばらく黙ってボクを見ていたが、やがてボクの首元に残された金属製の識別タグへ視線を落とした。
そこには、かすれた文字でこう刻まれていた。
──被検体零号。
「……零号、か」
低く呟いた一心の声は、少しだけ怒っているように聞こえた。
「こんなもんは名前じゃねえ」
一心は識別タグを外し、土の上へ投げ捨てると、大きな手をボクの頭に置いた。
その手は少し硬くて、剣だこの感触がした。
「凛」
彼は、ボクにそう名付けた。
「凛として立て。泣いても、震えてもいい。だが、自分を物みたいに扱うな」
その瞬間、首元が軽くなった気がした。
本当に外れたのは、金属のタグだけだったはずなのに。
凛として、美しく育つように。
ボクは、その瞬間から、少しずつ『僕』になっていった。
剣を振るうたび、奪われていた感情がひとつ、またひとつと戻ってくる。
朝の冷たさ。
炊き立てとは言えない飯の匂い。
不器用に褒める一心の声。
掌にできる豆の痛み。
失敗して転んだ時に、思わず込み上げる悔しさ。
けれど、それと同時に、心の深淵で、あの実験によって生まれた化け物の声が響き始める。
──オ腹スイタ。
「……煩い」
何がお腹すいただ。
こっちだって、満腹になるまでご飯を食べられやしないんだ。少しくらいは我慢して黙ってろよ。
ずっと聞いていると頭がおかしくなりそうだった。
けれど、刀を振るっていれば。
一心といれば。
その声も、少しだけ遠くなる気がした。
一心に拾われて、五回ほど季節の移り変わりを見た頃。
研究所にいた時よりも健康的な肉付きになり、身長も伸びた。
けれど、このご時世だ。満足にご飯が食べられることなど稀で、特にサテライト拠点なら尚更だった。
健康的な同年代に比べれば、発育は遅いらしい。
それでも一心との生活や、剣を学ぶことは、僕にとってかけがえのない日常になっていた。
いまだに、この世界への異物感は拭えない。
自分が何者なのかも、本当の意味では分からない。
それでも、今の僕には大切だと思えるものができた。
そんなある日、けたたましい警報が鳴り響いた。
アラガミの襲撃を知らせる音。
それ自体は、初めて聞くものではない。
けれど、その日は違った。
肌を刺すような敵意と、腹の奥を掻き回されるようなざわめき。胸の内側で、何かが怯えたように息を呑む。
ここは、サテライト拠点だ。
正規のゴッドイーター支部ではなく、偏食装甲板があるわけでもない貧弱な集落。
ただ、アラガミが寄り付きづらい、自然に形成された不思議な偏食力場を持つ場所だった。アラガミに「食べなくてもいいか」と思わせる程度の、曖昧で頼りない安全圏。
フェンリルの支部では受け入れられなくなった人々が辿り着く、一つのセーフゾーン。派遣された数名のゴッドイーターもいるため、比較的安全だと言われていた。
けれど、それも砂上の楼閣に過ぎない。
あくまで「食べなくてもいいか」と思われているだけで、小型のアラガミが迷い込むこともある。
いつか大型のアラガミが襲ってくることだって、十分にあり得る。
そして、その時が今日だっただけだ。
一心は険しい表情を浮かべながら、僕に大きすぎるリュックと一振りの刀を手渡してきた。
急なことに目を白黒させているうちに、古ぼけた地図と、表面のひび割れたコンパスまで押しつけられる。
「ここより東にずっと進め」
「え?」
「東だ。ずっと進むと、アナグラと呼ばれるフェンリル極東支部に辿り着く。そこには大勢のゴッドイーターがいる。あの高名な博士も在中していると聞く」
まくし立てるような声だった。
いつもの一心らしくない、余裕のない声。
「いいか、ここからずっと東だ。他には何も考えるな。ひたすら進め」
まるで、ここで別れを告げているようだった。
「ま、待ってよ。分かんない、分かんないよ、義父さん!」
今まで一心のことは、一心や師匠と呼んでいた。
なのに、その時だけは咄嗟にそう口走っていた。
一心は珍しく虚を突かれたように、ぽかんとした表情を浮かべる。
次の瞬間、強く抱きしめられた。
「ぐぇ……っ」
強すぎる力に変な声が出る。
でも、一心から伝わる熱は、ひどく心地よかった。
「俺は、お前に飯の食い方と剣の振り方くらいしか教えてやれなかった」
耳元で、一心の声が震えていた。
「親らしいことなんざ、何ひとつできちゃいない」
そんなことない。
言いたいのに、喉が詰まって言葉にならない。
「それでも……そう呼んでくれるのか」
一心の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「ありがとう、凛」
まだ混乱の中にいる僕を離し、一心は立ち上がった。
彼の腰には刀が一振り。
神機ではない。
オラクル細胞など関与していない、少し丈夫なだけのただの刀。
それでも一心は、その刀で何度も人を逃がしてきた。
「行け、凛」
一心が笑う。
見たことがないくらい、穏やかな顔だった。
「我が愛娘よ。東へ向かえ。アナグラへ向かえ」
激しい揺れが地面を突き上げた。
家が軋み、壁が砕け、砂埃が視界を覆う。
その向こうで、一心の声だけがはっきりと響いた。
「お前の未来は、この俺が斬り開く」
次の瞬間、僕たちの住んでいた家が何者かに破壊された。
咳き込みながら顔を上げる。
強い風が砂埃を払い、視界が開けた。
そこにいたのは、ヴァジュラだった。
ゲームの画面越しに何度も見たはずの、見慣れた敵。
新しい神機の試し斬りの相手にしていた、何度も見たはずの敵。
けれど、実物を初めて目にした瞬間、僕の本能は理解した。
これは雑魚敵なんかじゃない。
圧倒的な捕食者だ。
冷や汗が噴き出る。
ジリジリと後退る。足が震えて、喉が引きつって、息がうまく吸えない。
ヴァジュラが、こちらを見た。
あの大きな口で噛みつかれでもしたら、肉体は簡単に砕けるだろう。
あの鋭い爪を振り回されでもしたら、四肢が離れ離れになることは想像に難くない。
神機も無しにアラガミと対峙するというのは、ただの自殺行為だ。走って逃げようにも、この大きさの差では、すぐに追いつかれる。
あぁ、ここが僕の終着点なんだな。
そう思った瞬間だった。
その首が、落ちた。
何が起きたのか、一瞬分からなかった。
崩れ落ちるヴァジュラのすぐ側に、抜刀した一心の姿があった。
「行け!」
普段叫ぶことのない一心の声が、空気を裂く。
「振り返らず走れ! 東へ向かえ!」
体がびくりと震えた。
そのおかげで、ようやく全身の筋肉が動き出す。
僕は、言葉に従って駆け出した。
何だあれ。
何だあれ。
何だあれ。
この世界に来てから、アラガミは何度か見た。
でも、中型とされるアラガミをこの目で見たのは初めてだった。
圧倒的な威圧感。
呼び起こされる恐怖。
肉食獣を前にした草食獣の気分。
それだけじゃない。
そもそも何が起こっているんだ。
ただ稽古していただけだったはずなのに。
どうしてアラガミが。
あれ?
一心は。
一心はどうするんだ。
必死に走りながらも、僕は一心の言葉に逆らって、つい振り向いてしまった。
角度が悪く、完全には見えなかった。
それでも、視界の端に一心の背中が映る。
そのさらに向こう。
大きな黒い影が、雷光を纏っていた。
ディアウス・ピター。
名前だけは知っている。
画面の向こうで何度も戦った、インド神話の天空神を冠するアラガミ。
けれど、その瞬間の僕には、そんな知識を整理する余裕なんてなかった。
黒い雷が落ちる。
人には知覚することも難しい、絶死の雷。
しかし、一心が踏み込む。
刃が、閃いた。
一瞬だけ、ピターの角が宙を舞ったのが見えた。
神機でもない、ただの刀で。
一心が、神の角を斬った。
けれど、次の瞬間。
黒い何かが、一心の身体を呑み込むように振り下ろされた。
金属が砕ける音。
肉が裂ける音。
一心の声は、聞こえなかった。
助けを呼ぶ声も、苦しむ声も、何も。
ただ、赤いものが風に散った。
「あ……」
足がもつれる。
けれど、止まれない。
「あぁ……あ、あぁぁぁあぁぁあぁあああ!!!!」
意味が分からない。
何がどうなって。
どうして。
なんで。
僕は何一つ整理がつかないまま、ただただ走り続けた。
──東へ。
──アナグラへ。
一心が最後にくれた言葉だけを握りしめて。
僕は、泣きながら走り続けた。