「お疲れ様、キタサン」
「トレーナーさんもお疲れ様です!」
お互いの労いの声が重なり合い、気づけばふたりして微笑んでいた。
ミーティングの資料を片付けると、いつものトレーナー室に茜色の夕陽が差し込んでいる。
徐々に色を失っていく光は一日の終わりを告げているようで、少しだけ切ない。普通なら、夕陽に急かされるまま帰路につくのだろう。
だけど、そうはならない。何故ならば。
「ふふ……♪ トレーナーさん!」
あたしは勢いよく立ち上がり、小走りでトレーナーさんに近づいていく。
そして、座っている彼の前に、そのままポスッと頭を差し出した。
「えへへ……♪ 今日もお願いしますね!」
「ああ、分かったよ」
期待で、あたしの耳は勝手にぴょこぴょこと動いてしまう。
まだかな……まだかな……?
そんな気持ちで待っていると、ガタリと椅子が鳴った。
そしてそのまま、あたしの頭にぽんと温かい手が置かれた。
「いつも良く頑張っているな。偉いぞ、キタサン」
優しい声と一緒に、トレーナーさんが頭を撫でてくれる。
そう、これが一日の終わりの、あたしへの最高のご褒美だ。
始まりは、何ヶ月も前のこと。
レースで勝てるようになってきたご褒美にと、トレーナーさんが何かプレゼントをしたいと言ってくれたんだ。
『俺に出来る範囲なら何でもいいよ』
優しく微笑んでくれたトレーナーさんの顔は、今でもはっきりと思い出せるくらい嬉しかった。
でも、いざプレゼントと言われても、すぐには思い浮かばない。
甘いもの?……せっかくだから違うものがいいかも。
一緒にカラオケ!……も楽しいけど、なるべく長く続くものが嬉しい。
一日の終わりにハグとか!?……いやいや、あたしにはそんな大胆なことは無理だ。スイッチの入ったダイヤちゃんなら出来るんだろうけど。
悩みに悩んで、ふと思いついた。
ハグよりも恥ずかしくなくて、カラオケと同じくらい嬉しいこと。それは……。
『トレーナーさん、思い浮かびました!』
『お! 何だ?』
『あたし……頭撫でてほしいです! 毎日!』
『なるほど!……なるほど? えっ? 毎日? えっ?』
そうだそうだ。あのキョトンとした顔、今思い出しても笑えちゃうな。
それからだ。一日の終わりに、二人きりのこの部屋で撫でてもらうようになったのは。
最初はたどたどしかった手つきも、今ではすっかりプロ級。
時には優しく……時には力強く。寄せては返す波のような絶妙なナデナデに、あたしはすっかり感心してしまう。
喜びで大きく揺れる尻尾をごまかしながら、その心地よさをたっぷりと味わっていった。
「よしよし……キタサン……」
サラリ……サラリ……と髪に沿って滑る手のひら。その優しい温もりを、頭全体で受け止める。
うん……これがいいんだよね……。
穏やかな波のように流れていく心地よさに、あたしは少しだけ頭を揺らしてしまう。
「えへへ……もっと……♪」
思わず声が漏れ、耳が勝手にぴょこぴょこと動いてしまう。
何度かトレーナーさんの手に当たっても、彼は気にすることなく優しく撫で続けてくれた。
ふわふわする……しあわせ……もっと……。
まるで空に浮かんでいるみたい。気づけばあたしは瞳を閉じて、その心地よさにすっかり身を委ねていた。
気づけばあたしは瞳を閉じて、その感覚に身を委ねつつあった。
「どうかなキタサン、これで大丈夫かな?」
「勿論ですよ……♪ ふふ♪ 本当に幸せです……」
「それなら良かった。よしよし……」
「えへへ! もっともっとです!」
あたしの一言で、撫でる力がさらに強くなった。
髪が少し乱れるくらいに、くしゃくしゃにされる。だけど決して痛くはなくて、不器用な優しさだけが伝わってくる。
圧倒的な心地よさに、思わずふるふると体が震えてしまった。
「ふへへ……」
あっ……いけない……。変な声が出てる……。
急いで口をぎゅっと結んで我慢する。……でも、いつまで耐えられるか分からない。
頭のなかがどんどんふわふわしてきて、もう、どうにもならなくなってきた。
そもそもこの力強いナデナデは、あたしからお願いしてやってもらうようになったもの。
最初は力の加減が分からなくて何度も謝っていたトレーナーさんも、今やこの腕前だ。
ふふ……トレーナーさんのナデナデ技術はあたしが育てた!……なんて言ってみたりして。
そんな変なことを考えちゃうくらい、もう頭の中は気持ちよさでとろけきっている。
「ふふ……」
「トレーナーさん?」
夢うつつのあたしの耳に、小さな笑い声が届く。
そっとまぶたを持ち上げると、優しげに微笑むトレーナーさんの顔があった。
その穏やかな表情に目を奪われて、あたしは思わずぱちっと目を丸くしてしまう。
そんなあたしの不思議そうな視線に、トレーナーさんも気づいたみたいだった。
「ああ、ごめんなキタサン。今のキタサンを見てたら、ある動画のことを思い出してね」
「動画……? あっ、もしかしてさっきトレーナーさんが見てた、犬のやつですか?」
ミーティングの前に、トレーナーさんがスマホを見て微笑んでいたのを思い出す。
チラリとしか見えなかったけれど、確か大きな犬が映っていたような……。
お願い、当たってますように!
祈るような気持ちで見つめると、トレーナーさんは優しく頷いてくれた。
良かった。どうやら正解だったみたい。
「うん。撫でられてる時のキタサンと、その子が本当にそっくりでね……すごく可愛かったなぁ……」
「そっくり……? どんな感じなんですか?」
へぇ〜、あたしとその子ってそんなに似てるんだ。「観たい観たい!」と期待の視線を送ると、トレーナーさんはすぐにスマホで動画を見せてくれた。
映し出された画面には、ご主人様のナデナデを顔全体で受け止め、だらしなく顔を緩ませている大きな犬がいる。
うん、確かに可愛くて幸せそうだ。画面の中のその子につられて、あたしのほっぺたもさらに緩んでしまう。
「わぁ! 本当に幸せそうな……幸せ、そう……」
言葉の途中で、ふと気づいてしまった。
確かにこの子は可愛い。でもそれ以上に、とんでもなくだらしなく顔が緩みきっている。
犬なら愛嬌で許されるけど、もしも女の子がこんな顔をしていたら、それは……。
あたしだって一応、年頃の女の子だ。ダイヤちゃんほど完璧じゃなくても、見せちゃいけない顔くらいは分かっている。
だから……えっと……もしも今、あたしがこんな表情をしていたんだとしたら……?
サーッと血の気が引いていくのを感じながら、恐る恐るトレーナーさんを見上げた。
「と、トレーナーさん……。あ、あたしってあんな顔してるんですか?」
「ああ。凄く幸せそうで見てて和むだろう?」
トレーナーさんの屈託のない肯定が、とどめだった。
嘘……。あたし、あんなに緩みきった顔をいつも見せてたの!? それってつまり……あ、ああああ……っ!
考えれば考えるほど、羞恥心で頭がどうにかなりそうだった。
「ゃぁ……」
「キタサン? って、顔が真っ赤だぞ!? どうしたんだキタサン!?」
「みないで……いまのあたしのかおみないで……」
「えっ? キタサン? 大丈夫かキタサン!?」
焦るトレーナーさんから逃げるように、あたしは両手で顔を覆い隠した。
絶対に見られたくない。恥ずかしくて、全身が燃え上がるみたいに熱い。
「ごめんなさいゆるして……」
「お、俺の方も悪かった! 何が悪いかわからないけど多分俺が悪い気がする! だから落ち着いてくれキタサン!」
「やぁぁ……」
落ち着かせようとしてくれているのか、トレーナーさんの手は止まらない。
やめて、やめないで。恥ずかしいのに、嬉しい。
ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた頭で、あたしが出せた結論はただ一つ。
――次は絶対に、マスクをしてから撫でてもらおう。
そんな些細な抵抗を考えるのが、今のあたしには精一杯だった。