叩きつけるような雨をかき分け、無我夢中で駆け出す。
足元で跳ねる水しぶきにも構わず、ただ、繋いだ右手の熱を強く握りしめた。
後ろを振り向く余裕なんてない。暗闇に浮かぶ微かな光だけを目指して走った。
「トレーナーさん、とりあえずあそこ!」
「わ、わかった」
左手で明かりを指さしながら、雨音にかき消されないように声を張る。
握り返された右手が合図だ。あたしは少しだけ強引にその手を引いて、さらに駆け進んだ。
微かな光の正体はやがて鮮明になり、街灯が小さな屋根とベンチのある休憩所を照らし出していた。
足を止めることなく、あたしたちはその屋根の下へと飛び込んだ。
「はぁ……」
心の底からこぼれたため息は、髪の先から落ちる雫と一緒に、地面へと溶けて消えていく。
せっかくのお出かけだったのに……。
皆と話しながら選んだ服も、いつもと違う髪飾りも。全部が濡れてしまって、気分まで霞んでいくみたいだった。
なんて、やめやめ! あたしはお祭り娘なんだよ!
雨水に濡れた両手で、パチンとほっぺたを叩く。気合いを込めたその音さえ、雨音にかき消されてしまうのがどこか恨めしい。
「あはは……災難でしたね、トレーナーさ――」
引きつるように笑いながら、彼の方へと顔を向ける。
顔を向けた、のだけど。
「……はは、だな」
穏やかで温かい声は、いつも通りのトレーナーさんのはずなのに。
髪の水滴を拭うようにかき上げたその姿が、いつもとは全然違って見えた。
あたしは彼から視線を外すことができず、ただ黙り込んでしまった。
「……キタサン?」
いつもはペタリとした髪型で、落ち着いた印象なのに。
かき上げたせいか、ピンと跳ねた髪がほんの少しだけやんちゃに見える。
知っているヒトの知らない部分。よく分からないけど、胸の奥がムズムズして尻尾の先まで痺れてしまいそうだ。
「……ふむ」
首を傾げながら、あたしの方を見ている。
その視線が妙に鋭い気がして、胸がドキリと跳ねてしまう。
ぴちょり……
小さな雫が落ちると同時に、濡れた地面を踏む音が響いた。
その音に合わせるように胸の鼓動が速くなり――気づけばもう、彼は目と鼻の先まで迫っていた。
「トレーナー……さん……?」
唇からこぼれた微かな声。
びしょ濡れの服を両手でギュッと握りしめ、彼の動きを見守る。
彼は何も言わず、眉間にシワを寄せてこちらを見下ろしていた。
ゆっくりと伸ばされた彼の手は、真っ直ぐにあたしの顔へと向かってくる。
パタパタと揺れる尻尾。体全体が熱を帯びていく。
あたしはそのまま、ゆっくりと瞳を閉じた。
ピトリ……
一瞬だけひんやりとした感触が額に伝わる。それが徐々に人肌の温度へと変わっていく。
胸の鼓動はとっくに騒音級で、彼にも聞こえてしまいそうだ。このままあたしは、きっと……。
なんて、思っていたのに。
待てども待てども状況は変わらず、彼の手はあたしの額にぴたりと止まったままだ。
「…………体温は高いけど、風邪の熱ではないよな?」
その言葉と一緒に、額から彼の手が離れていった。
えっ、なんで?
ゆっくりとまぶたを開くと、不思議そうに首を傾げる彼と目が合った。
「トレーナーさん?」
「ああ、急に触ってごめんよ」
「い、いえ! か、風邪じゃないですからね!?」
「いや、急に黙り込むから、体調崩したのかなって。ほら、こんな雨だし」
「そ、そうですよね! あはは、はは……」
「?」
そうだよ。髪型が変わって見えても、トレーナーさんはトレーナーさん。普通は心配が先に来るに決まってる。あんなこと、起こるはずないよ。うんうん。
頭が沸騰しそうなほど熱くなり、体ごと彼とは違う方向を向く。パタパタと尻尾を振ってなんとか風を送るけど、全然冷める気配はない。
雨音は変わることなく、頭上でずっと鳴り続けていた。
着ている服のようにジメッとした雰囲気に耐えられず、つい口を開いてしまう。
「あ、雨、やまないですね」
「だな」
返ってきたのは、少しだけ沈んだトレーナーさんの声。
「晴れのはずだったのにな」
特別な熱がこもっているわけでもない。ただ純粋に、今の状況を残念がっているだけだった。
変な雰囲気に呑まれてるのは、あたしだけ……うう……ほっぺたが熱い……。
今なら、あたしの体温だけで服が乾いてしまいそうだ。
「は、早くやまないですかね!」
何か言えば言うほど、空回りしているのは分かっている。
それでも無理にでも声に出さないと、この熱に飲み込まれてしまいそうだった。
「……クシュン!」
すぐ近くで聞こえた、間違いなくトレーナーさんの小さなくしゃみ。
その音を聞いた瞬間、あれほどパニックになっていた頭の熱が、案外あっさりと引いていく。
「……はは、ちょっと寒くなってきたな」
ほんの少しだけ震えた声が聞こえたから、すぐに彼の方へと体を向ける。
目に飛び込んできたのは、自分の肩を抱きながらふるふると震えているトレーナーさんの姿だった。
「トレーナーさん!」
このままじゃ風邪を引いちゃう!
そう思った時、あたしの体は考えるより先に動いていた。
彼の方へと飛び込み、そのままギュッと抱きついた。
「き、キタサン!?」
聞こえてきた声はさっきよりも裏返っていた。だけど、それがどうしたっていうの。彼の体は雨に濡れて冷え切っていて、そのせいで体温が奪われている。
だったら、あたしにできることは、この体で彼を温めることだけだ。
腕に力を込めて、彼の体をさらに引き寄せる。濡れた服がペチャリと肌に張り付くけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
いくぞ、気合を入れろキタサンブラック!
「っ!」
まるで心を燃やすように。ただひたすらに想いを込めて抱きしめ続ける。
気持ちが体まで伝わったのか、あたしの体温は徐々に上昇していく。
もっと力を込める。腕にまとわりついていた冷たい感触は、次第に消えていった。
弾けるような雨音すら、今はエールを送る太鼓の音のように聞こえる。
ポツリ……
一滴の雫が地面に落ちる音が響いたのと同時に、湿った感触は完全に消え去っていた。
「…………やった」
これならトレーナーさんは風邪を引かない。
嬉しさでパタパタと尻尾を振りながら、彼の方を見上げる。
「…………?」
だけど、彼の様子はあたしが思っていたものとは違った。
何故かあたしから顔を背けていて、チラリと見えるほっぺたが赤らんでいる。
なんでだろう?
首を傾げながら顔を下に向けて――すぐに、その理由に辿り着いた。
「あっ……」
体温が伝わるほどに密着している体。雨のせいで薄くなっていた衣服。
つまりそれは、直接肌が触れ合っているようなもので。
ということは、トレーナーさんはそれをずっと感じていたことに違いなくて。
だから、だから……!
ピンと尻尾が立ち上がる。
「ご、ごめんなさい!」
バッとトレーナーさんから飛び退いた。
勢い余ってつまずきそうになりながらも、なんとか堪える。
「いや、まあ、気にしてないから」
そう言いながらも、トレーナーさんはこっちに視線を向けてはくれなかった。
ああ、なんであたしはあんなことを……。でも、この匂いは……ってそうじゃなくて!
微かに残る彼の匂いが、あたしの心を乱し続ける。
「その、善意なのはわかってるし」
フォローの言葉を重ねられるほど、体の熱は上がっていく一方だ。
うう……こうなったのは全部雨のせいだよ……。
恨めしい気持ちで、外へと視線を向ける。
いつの間にか雨は上がり、憎たらしいほど眩しい日の光がこちらを照らしていた。
「晴れてる……」
「そ、そうだな……」
「あ、あはは……ここから出ますか?」
「ああ、そうしようか」
未だに視線が交わらないまま、二人してそそくさと外へ歩き出す。
「今度は、雨が降らないといいな」
「そう、ですね」
彼とあたしの間に、ひとり分だけ空いた距離。その間から吹く風は少し冷たくて、今だけは心地良い。
ジッとその隙間を見つめていると、不意にトレーナーさんと視線が重なった。
「……ありがとう、キタサン」
「?」
「お礼、言ってなかったからさ」
ほっぺたをかきながら、トレーナーさんは視線をそらした。
その様子をパチパチと瞬きしながら見つめていると、自然とふふっ、と笑みがこぼれる。
なんだ。あたしだけじゃなくて、トレーナーさんも今の空気に照れてたんだ。
「どういたしまして! ……それと、変なことしちゃってごめんなさい!」
「まあ、突拍子もないことするのは慣れてるから大丈夫」
「い、いつもはこんなんじゃないですよ! ……ないですよね?」
「はは、冗談だよ」
「も、もう!」
お互いに笑い合いながら、歩みを進めていく。
変な空気になった時はどうなることかと思ったけど、プラマイゼロならオッケー……かな? だけど、今度は良い天気でありますように。
空を見てそう願いながら、あたしは二人の間の隙間を埋めるように、彼へと近づいた。