ふふ♪ トレーナーさん喜ぶだろうな〜♪
ぴょこぴょこと揺れる尻尾と一緒に小さく跳ねるように前に進む。
見える景色はいつも通りでも、気持ちが違えば別の景色。広がるのは目的地への花道そのものだ。
今日の目的地はトレーナー室。そこで特製の『キタちゃんスペシャル』をお見舞いする予定だ。
心技体を結集させたこのマッサージ、試しに親友のダイヤちゃんにやってみたら凄く幸せそうな顔をしてたっけ。
『さすが……きたちゃんだね……ふにゅう……』
終わった後に気持ちよさそうに寝てたっけ。ふふ、ダイヤちゃんの寝顔可愛かったなぁ〜♪
……って、それは今はいいよね……。
そんなキタちゃんスペシャルを、トレーナーさんにも味わってもらうんだ!
お仕事沢山頑張ってるし、いつもあたしのサポートをしてくれてるんだもん。これくらい恩返ししなきゃ、女がすたるってやつだよね。
……なんて言ってみたけど。本音を言えば、ちょっとだけ期待してることがある。
『ありがとうキタサン、お陰で元気になれたよ』
こんな風に褒めてくれて〜、優しく微笑んでくれて〜、そして何よりも……頭を撫でてくれること!
えへへ……マッサージなら自信あるし、ダイヤちゃんにもバッチリ効いてたもん。喜んでくれることは間違いなしだよ! それに……それに?
次々と浮かび上がる幸せな光景。だけどその片隅に別の光景も映し出されていた。
その光景の中のあたしは、いつものように頭を撫でてもらっている。だけど何故か顔を赤らめていて、尻尾までトレーナーさんの脚に絡ませていて。
そしてそのままトレーナーさんと……トレーナーさんと……はっ!
「う、ううん! 変なこと考えちゃだめ! あたしはトレーナーさんに褒めてもらいたい……っ、それだけだもん!」
うん、それだけだ。それ以上の光景なんて必要ない。うん、ないはずだ。
止まっていた足を動かし、また一歩一歩と前へ向かう。
だけど、歩めば歩むほどさっきの光景は消えるどころか、むしろ大きくなるばかりだった。
「…………あ」
消えてくれない考えを無理矢理消そうとしていると、いつの間にかトレーナー室の前まで辿り着いていた。
そ、そうだよ。今はそんなことはどうでもいいんだ。まずはキタちゃんスペシャルをしなきゃだよね!
よ、よし……いつも通り、いつも通り……。トントントンと扉をノックして、お邪魔しますって入っていって、自然な感じで話しかけて、キタちゃんスペシャルをお見舞いして、褒めてもらって大団円! って感じになるはずだ、うん。
妙にバクバクしている胸の音を全身に感じながら、震える手でゆっくりと扉を叩いた。
トン……トン……トン……。
「し、失礼します、トレーナーさん。あたしです、キタサンブラックです」
…………。
あれ? 反応が返ってこない? おかしいな、この時間はここにいるはずなのにな。
首を傾げながら扉に手を掛ける……って、あれ? 鍵は閉まってない……。返事はないのに……どういうことなんだろう……?
そんな疑問を思い浮かべながらも、あたしはゆっくりと中に入っていく。……ちょっぴり罪悪感はあるけど、気になるもんね。仕方ないよ、うん。
なるべく足音を立てないように扉を閉めて、周りを見渡しながら歩いてみる。
ソファー……にはいないし、いつも仕事してるデスクにもいない……。
「……うん?」
そう思って視線を変えようとした時、何かが揺れるのが見えた。
も、もしかして……幽霊……!? ど、どうしよう……!?
いつものあたしならパニックになって、なりふり構わず部屋を飛び出していただろう。
そう、いつものあたしなら絶対にそうするはずなのに。
「トレーナーさん?」
さっきの謎の揺れは、きっとトレーナーさんだ。疑問に思うことなんてないくらいの確信が、あたしには何故かあった。
それを確かめるために、あたしは怯えることなく、揺れた場所に向かって進んでいく。
見覚えのある頭、よく見ている服、それに少しだけ散らばった資料。
近づくごとに見えてくるのは、やっぱりそうだと思わせてくれるものばかりで。
そして、その場所に辿り着いたあたしが見たものは。
「……やっぱりトレーナーさんだ」
そこにいたのは、腕を枕にしてデスクに顔を伏せるトレーナーさんの姿だった。
何度か小さく動いているけれど、こちらに気づく様子はない。
どうしたんだろうとは思うけれど、この姿勢にはあたしにも覚えがある。だから理由はすぐに分かった。でも……。
そう思いながら、無防備なトレーナーさんをじっと見つめていると。
「……すぅ」
聞こえてきたのは、小さく規則的な寝息だった。
散らばった資料を見るに、次のレースに向けて色々と準備をしていて、そのまま寝落ちしてしまったみたいだ。
もう……トレーナーさんは仕方ないな……。こうなりそうだからキタちゃんスペシャルをしようと思ったのに……。
自分を大切にしてくれないトレーナーさんにちょっとだけムッとしてしまう……けど。
それ以上に、あたしのことでここまでやってくれているという事実に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「とはいえ……」
せっかくのキタちゃんスペシャルだけど、今日は諦めてまた別の日にしなきゃだよね。疲れているトレーナーさんの邪魔にならないよう、早くここから出なきゃ。
「……出なきゃいけないのに」
そう頭では分かっていても、どうしても寝ているトレーナーさんから視線を外せない。
規則的な寝息、上下する肩、腕枕に隠れた閉じられた瞼。
いつもと少し違う、どこか抜けた姿。……今はあたししか知らない、あたしだけが見ているトレーナーさん。
それがどうしたってあたしの目を釘付けにして、ここから離れるという選択肢を奪ってしまう。
そして何よりも……消えていたはずのあの光景が……また……思い浮かんでしまって……。
「……っ」
気づけば、一歩、また一歩と、トレーナーさんの元に近づいていく。
なんであたしは近づいているの? あたしが今できることなんて何もないのに。
だけど、こんな無防備な姿、滅多に見られない。目に、記憶に、焼き付けておかないと――。
一歩、また一歩近づいていく。
せわしなく動く尻尾が少し煩い。
寝かせてあげるのが一番だよ。でも、寝顔を見るくらいなら何も起こらないよね。
一歩、一歩。
左右に動く耳が煩わしい。
こんなことは駄目だ。だけど、これくらいなら何でもないはずだ。
一歩……一歩……いっ……?
「…………えっ? なんであたし……こんな近くに……?」
正気を取り戻した時にはもう遅くて、いつの間にかトレーナーさんの顔を間近で覗き込んでいた。
吐息がかかるほど、ほんの僅かな距離。少しでも動けば、そのまま顔がくっついてしまいそうで。
「……っ!」
その瞬間、体全体が熱くなっていく感覚に襲われた。
は、離れないと! こ、このままじゃあたし……あたし……!
そう必死に念じているのに、どうしても離れることができない。
間近で感じるトレーナーさんの匂いが。その温もりが。余りにも心地よくて……。
あたしはどうすることもできないまま、ただその寝顔を見つめていた。
だからだろうか?
「……うぅん」
微かな声と共に、トレーナーさんの顔が不意にこちらへと傾いて。
「……えっ?」
あたしは声も出せず、ただその場で固まってしまう。
そのまま、ゆっくりと降りてくる影。
それが……あたしの唇に……。
そして――あの時に思い描いた光景と、今が、重なって。
「……っ」
感じたのは小さな温かさ。それに、少しだけチクリとする感触。
トレーナーさんの唇、少し荒れてるのかな。ちゃんと大事にしなきゃ駄目ですよ……。
現実離れした状況のせいで、頭の中にはそんな呑気な言葉しか浮かんでこない。
いや、違う。本当は分かってしまうのが怖いんだ。だって……あたしは今……トレーナーさんと……。
ぐらりと視界が揺れて、ようやく固まっていた体が動かせるようになった。
離れなきゃと、立ち上が……って……?
足にはまったく力が入っていなくて。あたしの体は糸が切れたように、ゆっくりと床へ倒れ込んでしまった。
ストン……。
とっさに尻尾が受け身を取ってくれたおかげか、思ったよりも大きな音は立たなかった。
へたり込んだ姿勢のまま。あたしはゆっくりと、自分の唇へ手を伸ばす。
「……なんで、こんなに熱いの……?」
震える指先で触れた唇。
先ほどの小さな温もりは、あっという間に燃えるような熱へと変わっていて。
だけど、その感覚が嫌じゃなくて……なくて?
「……そうだ。あたし、いやじゃないんだ……」
むしろ、もっと触れてほしいとすら願っている。あの光景は、紛れもなくあたし自身が望んだものだから。
そっか。あたしは……本当は、トレーナーさんのことが……。
胸の奥から熱いものが込み上げてくる。ただ想うだけで、心臓の鼓動がとめどなく速くなっていく。
本当なら嬉しくて、幸せで、何物にも代えがたいはずの感情なのに。
「だけどそれって、許されるものなの?」
不意にこぼれ落ちたのはそんな呟き。だけど、決して目を背けてはいけない事実だった。
あたしとあのヒトは、ただの担当ウマ娘とトレーナー。あたしは子どもで、あのヒトは大人だ。
どれだけ好きだと叫んでも、本気だと伝えても、きっとこの気持ちは正しく受け取ってもらえない。
いや、違う。そうじゃない。
「あたしは……怖いんだ……」
そうだ、あたしは怖い。
今の関係が壊れてしまうことも、これ以上の幸せを受け取ってしまうことも。何もかも。
トレーナーさんの笑顔があって、あたしも幸せで。それが全てだったはずなのに。
どうしてあたしは……あんな光景を、望むはずのない光景を、思い浮かべてしまったんだろう。
その先へ進む勇気なんて、どこにもないくせに。
「……」
ゆっくりと立ち上がり、もう一度だけトレーナーさんを見下ろす。腕に顔を埋めたままのあのヒトが、今どんな夢を見ているのかなんて分からない。
だけど……ううん。むしろ、それで良かった。
この気持ちを知られてしまったら、きっと二度と元には戻れない。
今はまだ、あなたと一緒にいたいから。ただ傍にいるだけの関係でも、十分に幸せなはずだから。
だけど。
「……あなたのことが好き、好きなんです」
それでも、この言葉だけは許してほしい。どんなに消そうとしても消えることのない、あたしの本当の気持ちだから。
あのヒトが寝ている今だけは、口に出すことを許して。こんな思いはもう二度と見せないから。今以上なんて望まないから。唇に残ったあの熱だけで、あたしは十分だから。
紡がれた言葉はそのまま、誰に聞かれることもなく、静かに天井へと消えていった。
震えるほどに悲しくて、だけど泣きたくなるほど温かい気持ちだけを残して。