いつだって、あなたと話すときはあたしが見上げていて。
いつだって、あたしと話すあなたの視線は下を向いて微笑んでいた。
当たり前だと思っていた、あたしとトレーナーさんの距離。
あたしが求めていた距離はそうじゃないと気づいたのは、いつだっけ?
「……だいぶキタサンに追いつかれてきたな」
「……何が、ですか?」
もう何度目か、数えることもなくなったお出かけの帰り道。
少し上の方から降ってきたのは、いつもより少し感慨深そうな声。導かれるままに視線を上げると、同じように少しだけ見下ろしている優しい瞳と、ばっちり目が合った。
トレーナーさんはあたしを見つめたまま、いつもの温かい微笑みを浮かべる。
「背丈だよ。ほら、もう少しで君と肩が並びそうだろ?」
ほら、こんな感じに。
あたしより大きな手のひらで、身長を測るような仕草をする。
大人のトレーナーさんがふと見せた、少年のような態度。なんだか微笑ましくて、何度見ても胸の奥が温かくなる。
「ふふ、それはそうですよ。出会ってからもう何年も経つんですから、背くらい伸びますよ」
「だけどなー……出会った頃はあんなに小さかったのになー」
「むぅ! そんなに小さくなかったです! あたし一六二センチもあったんですから!」
「はは、そうだったかな?」
「むぅ……」
あたしの軽口なんてなんのその。
いつだって、からかいながらも優しく、余裕のある態度で躱されてしまう。
そう、いつだってそうだ。
いつだってあたしは子供っぽくて。
いつだってトレーナーさんが余裕たっぷりに受け止める。
――だけど、そんな日々も、もう少しで終わる。
「……なんてな、からかってごめん」
「ううん、いいんです。あたしの方も少しムキになっちゃいましたし」
「……そっか」
もう一度だけ浮かべた微笑みに、一瞬だけ見えた寂しそうな表情。
トレーナーさんも同じ気持ちなんだと、なんとなく分かってしまった。
何度目かの春、夏、秋を越えて。
気づけば、もう少しで冬を越えようとしている。
そして何度目かの春を迎える頃には、あたしはトレセン学園から去る。
だから、こんな風にお出かけするのも、たわいないお話をするのも、もう少しでおしまいだ。
「……トレーナーさんの背に届かなかったな……」
「……はは。キタサン、もしかして俺の背を抜きたかったのか?」
「う〜ん……ちょっと違いますね」
「そうなのか?」
「はい、そうなのです」
いつからだろう。あたしを見下ろす微笑みだけじゃ、物足りなくなったのは。
いつからだろう。あなたの背に並びたいって、思うようになったのは。
「それなら、どうなりたかったんだ?」
「そうですね……」
だけど今のままでは、背丈も想いも届かない。
きっとこのまま、残り僅かな日々を過ごして、何も変わらないまま終わってしまう。
だから、あたしは『背伸び』する。
届かない分を補って、今だけでも並び立つために。
あたしはつま先立ちをして、そして――
「――ん」
「…………え?」
頬に触れた唇から、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。
負けないように、できるだけ長く……。
一秒。二秒。……三秒。
「――っ、はぁ……っ」
もっと長く触れていたかったのに、全身から込み上げる熱のせいで限界だった。
重力に引かれるように踵が地面に落ち、倒れそうになる体をなんとか踏みとどまる。さっきまであなたの頬に触れていた唇が、燃えるように熱い。手で押さえておかないと、耐えられそうにない。
これがあたしの精一杯。身の丈に合わない無理な背伸びをした結果だ。
――でも。
無理をしたからこそ、あたしはあなたに消えない『証』を刻み込めたんだ。
「き、キタサン……?」
呆気にとられたように見下ろすトレーナーさん。
いつもの余裕はどこにもなく、頬を赤らめて視線を泳がせている。
それを見て、あたしはもう一度だけ背伸びする。
今なら、あなたと対等な距離になれるから。
「……ずっとこうしたかったんです」
いつからかなんて覚えてない。
一目惚れだったのかもしれないし、いつの間にか惹かれていたのかもしれない。
「だけど、あなたとあたしは担当トレーナーとウマ娘でしかなかったから……できなかった」
いつだってあなたはあたしを子供のように見ていた。
あたしもあなたを大人として見ていたし、それ以上なんて求めなかった。
――ううん、そんなの嘘だ。
「本当はもっと早くにこうしたかった。トレセン学園を卒業する前に」
あたしは怖かっただけだ。
本当は肩を並べて歩きたかったのに。頬じゃなくて、唇同士でしたかったのに。
それを望んだら、もう一緒に歩くこともできなくなるんじゃないかって。
その先に進むのが怖かっただけだ。
「…………これが、今のあたしの精一杯です」
だからあたしは『背伸び』した。
あたしが踏み込まなければ、『大人』と『子供』のままだったから。
臆病なあたしでは、肩を並べて歩くことなんてできないから。
「キタサン――」
「だから!」
無理矢理に言葉を遮る。
きっとその先の答えは、トレーナーさんが浮かべている優しい微笑みが示しているから。
だから、あたしは言葉を続ける。
「次はもっと! もっ……と! 凄い口づけをしてみせます! あなたがあたしを意識してくれるような、とってもすごいやつをやりますよっ!」
今、『背伸び』をしたからこそ言える無理難題を。
未来の、きっと成長しているあたしに想いを託して。
まだここで、あたしの『背伸び』を終わらせたくないから。
「だから! ……その先の答えはまだ言わないでください。きっとあたし、素敵な大人になりますから! あなたと肩を並べられる、立派なウマ娘になりますから……っ!」
目の奥がツンと熱くて、胸が突き刺さるほど痛い。
揺れる視界の中で、それでも言葉を紡ぎ続ける。
「――そうか」
「……っ……えっ?」
涙で滲んだ視界の先に、静かな声が降ってくる。
ゆっくりと落ちていく雫が、その表情をハッキリと映し出した。
「うん、君のことを待ってみることにするよ。そこまで想ってくれる君のことを、俺は忘れられそうにないから」
悲しいくらいに残酷で、それでも温かい微笑み。
あたしはゆっくりと瞳を閉じる。
これであたしの『背伸び』はおしまい。結局、思った通りに想いは届かなかった。
――だけど。
それでもあたしは確かに聞いた。
『待ってる』の一言を。
その言葉だけで、あたしの『背伸び』は間違いじゃなかったって信じられた。
胸が高鳴る。抑えられない衝動があたしを駆り立てる。
「……覚悟してくださいね! あたしは……キタサンブラックは! 絶対、トレーナーさんよりも素敵な大人になってみせますから!」
「ああ、楽しみに待ってるよ」
あたしの叫びを、トレーナーさんは優しく包み込む。
分かっていた。こうなることは予想していた。
そしてあたしは並べないまま、卒業する日を迎えて離れてしまうのだろう。
――だけど、それは今の話だ。
頬に残した『証』は、きっといつか芽吹く。
諦めの悪さがあたしの持ち味で、そう鍛え上げたのは他ならぬトレーナーさんなのだから。
いつかきっと、肩を並べられるくらい大きくなるはずだ。
いつかきっと、唇に口づけできるくらい強くなれるはずだ。
確かに今はまだ『背伸び』だけど、いつかは当たり前の姿になれると信じている。
だから。
だから、トレーナーさん。覚悟していてください。
待つと言ったのはあなたなのだから、絶対に逃げないでくださいよ。
「約束……ですからね」
「うん、約束だ」
「……ふふ、絶対ですよ!」
相変わらず優しげに微笑むトレーナーさんに、宣戦布告するように、あたしも笑顔を作ってみせる。
『背伸び』したせいでぎこちなく、だけど精一杯の『大人』な笑顔を。