太陽が徐々に沈み、辺り一面が茜色に染まっている。あたし、キタサンブラックとトレーナーさんは、それぞれ片手に買い物袋を提げて歩いていた。
目的地はトレセン学園。――要するに、帰り道というわけだ。
「悪いな、キタサン。買い物に付き合わせたうえに、荷物まで持たせちゃって」
「気にしないでください、トレーナーさん! 困っている時はあたしにお任せあれです!」
申し訳なさそうにするトレーナーさんに、あたしは何でもないように笑ってみせた。
とはいえ、気にしてしまう気持ちも分かる。
今日は元々オフで、商店街をあてもなく歩いていたら、たまたま買い出し中のトレーナーさんを見かけた。だから、思わず声を掛けて手伝ってしまった――本当にただ、それだけなのだ。
「それでもだよ。何も返さないのは性に合わないからさ……今度、甘いものでも奢るよ」
「ふふっ……本当に気にしなくていいのに。でも――お言葉に甘えちゃいますね♪」
こういう時の好意は、遠慮なく受け取るのがマナー。受け取らないほうが、かえって相手を傷つけちゃうこともあるし。……なんて、ちょっと大人ぶる理由をつけてみたりして。
本当はただ、甘いものの誘惑に勝てないだけなのだ。こういうところが、あたしの幼さなのかもしれない。
それはそれとして。
甘いものが大好きなあたしとしては、楽しみで仕方ない。
何をご馳走してもらおうかな。たい焼き、シュークリーム、それともプリン……♪
――と、そんなふうに幸せな悩みに気を取られていた時だ。
ふたつの小さな風が、あたしたちの横を通り過ぎていった。
タタタッと駆け抜けていった風の正体――それは。
「おっと……ふぅ。袋が当たらなくて良かったです」
「そうだな。あんな元気な子たちに、怪我なんかさせたくないしな」
ふたりして笑いながら、遠ざかっていく風――小さなウマ娘と、少しだけ背の高い男の子の後ろ姿を見送った。
一瞬だけ見えたその子たちの手は、しっかりと握られていた。
「ふふっ、今の子たち見てると、小さい頃を思い出します」
「小さい頃? ……そういえば、確か弟さんがいるんだったな。キタサンが引っ張ってる姿が目に浮かぶよ」
さっきよりもゆっくりと歩きながら、チラリと横顔を盗み見る。トレーナーさんは、小さく笑っていた。
小さい頃を想像されるのはちょっと気恥ずかしいけれど……それ以上に、今の言葉の中に一つ、どうしても引っかかるものがあった。
「むぅ……確かにあたしは弟を引っ張ることも多かったですけどっ。引っ張られる側の可能性もあるじゃないですか!」
「いや、それだけは想像できないかな」
「むぅ! あたしだって引っ張ってもらうことくらい、できますもん! スイープさんとかダイヤちゃんとか!」
「……それは怒りながら言うことなのか?」
失礼な物言いに、思わず袋を持っていない方の手を軽く振り上げてみせる。
トレーナーさんは、少し困った顔をしながらも笑い続けていた。
「それに! あたし、父さんのお弟子さんたちにも凄く可愛がってもらってたんですよ! だから、小さい頃だって引っ張ってもらってますもん!」
「可愛がられることと、引っ張られるのは同じなのかな。……そういえば、キタサンはお弟子さんに『お嬢』って呼ばれてたっけ
「はい! 昔からそう呼ばれてました。父さんの娘だからだとは思うんですけどね」
あははと笑いながら、そう返した。
そうなのだ。父さんのお弟子さんたちも家族みたいなもので、あたしにとっては三十人の大家族も同然だった。
みんな、あたしのことをよく見てくれていて、いっぱい褒めてくれたし、内緒でお菓子をくれたりもした。
「なるほどな。キタサンにとっては、お弟子さんたちがお兄さん代わりだったんだね」
「えっ……? 確かに、そうなるのかな」
お兄さん、か。
確かにお弟子さんたちはあたしよりも年上で、いっぱい可愛がってくれた。間違いなく、あたしにとっての『お兄さん』だったんだ。
「……うん、トレーナーさんの言う通りかも。あたしにとっては、お弟子さんたちがお兄さん代わりだったんですね」
「兄弟がたくさんいるのって、なんだか羨ましいな」
そう言ってトレーナーさんは、何でもない顔で少しだけ遠くを見た。その横顔は、どこか寂しげに見えた。
あれ? この表情は、もしかして。
――すぐにピンときた。
「トレーナーさんには、兄弟はいないんですか?」
「まぁ……そうだな。ひとりっ子だったよ。だから、子供の頃は寂しかったな。……今はもう、そんなことないけど」
はははと笑いながら、トレーナーさんは優しくあたしを見てくれた。
多分、それは本当のことだろう。目の前の嘘のない笑顔が、何よりの証拠だから。だからこの話は、これでおしまい。
――それを聞いたのが、あたしじゃなければ。
ある考えが、頭の中をぐるぐると駆け巡っている。言葉にするのはちょっと勇気がいるけれど……。
うん、何とかなる。あたしはキタサンブラック。やってやれないことはない!
「トレーナーさん!」
「どうしたんだ、キタサン?」
「トレーナーさんのこと、お兄さんって呼んでいいですか?」
「……本当にどうしたんだ、キタサン?」
トレーナーさんは、まじまじとあたしの顔を何度も見返している。
あたしの考えを、ちゃんと伝えなきゃ。――力強く、トレーナーさんに向き直った。
「さっきのトレーナーさんの顔、何だか寂しそうでした」
「そっか……そんなつもりじゃなかったけど、やっぱり思うところがあったのかな。気を遣わせてゴメンな」
「謝らないでください! その気持ちを解決するための『お兄さん呼び』なんですから!」
「やっぱり意味が分からない……」
頭の上にハテナを浮かべたままのトレーナーさん。
しまった、全然伝わってない……! えっと……うーん……。
「ご、ごめんなさいっ、これじゃダメですよね……。その、トレーナーさんがあたしを妹みたいに接してくれたら、兄弟がいる気持ちが味わえるかなって……」
「あ、あー……なるほど。兄妹みたいに接したいってことか」
トレーナーさんのその言葉に、あたしはピタリと足を止めた。
驚いたからじゃない。嬉しくて――。
だって……あたしの言いたいことがちゃんと伝わったのだから!
その勢いのまま、ぐるっとトレーナーさんに向き直る。何故かトレーナーさんは、ビクッとして後ずさった。
「そう! それです、流石トレーナーさん! では……どうぞ!」
「いや、どうぞと言われても……」
「あたしを妹だと思って……さぁさぁ!」
「勢い! 勢いが凄いから! 分かった、分かったから!」
じりじりとトレーナーさんへと近づいていく。
そんなあたしを、片手で何とか止めようとするトレーナーさん。
その制止でハッとした。気づけば、鼻と鼻がぶつかりそうなくらい顔が近い。……いや、近すぎだよあたし!
いけないいけない! 落ち着かなきゃ。とりあえず深呼吸!
すぅ……はぁ……よし! オッケー!
「ごめんなさい、トレーナーさん。つい、嬉しくて……」
「気にしないで。キタサンにそういうところがあるのは知ってたから、大丈夫だ」
「良かったぁ……って、えっ? トレーナーさん、それって一体どういう意味ですか!?」
あたしって普段どう思われてるんだろう……。ちょっとだけ怖くなってきた。
いやいや! 今はそんなことよりもお兄さんだ。
両頬をパンッと叩いて、気合を入れ直す。
「いきますよっ!」
「よし、どんとこい」
「――お兄さん!」
口にするまではあんなに緊張していたのに、言ってみると案外、すんなりと音になった。
普段から使い慣れている言葉のはずなのに、なんだか少しだけ、くすぐったい。
「どうですか、お兄さん! 結構いい感じですよね、お兄さん!」
「……」
「お兄さん! ……お兄さん?」
あれ? 反応がない。もしかして照れてるとか?
……ううん、ほっぺたは赤くない。というか……これ、ちょっと困ってる顔?
「……思ったんだけどさ」
「……はい?」
「これ、言い方が違うだけでいつものキタサンと何が違うんだろう?」
「……確かに」
――ぐうの音も出ない。
うん、その通りだ。呼び方を変えただけで、態度はいつものあたしのまま。『妹』になりきれていなかったのだ。
そうだよ、やるなら徹底的に……だよね!
ギュッと両拳を握り込む。ふつふつと、持ち前の負けん気が湧き上がってきた。
「ごめんなさい、トレ……お兄さん! あたし、心構えが足りませんでした!」
「……心構え?」
「次はちゃんとするよっ! だから、トレ……お兄さんも、あたしを妹として見てほしいの!」
「なるほど……なるほど?」
困惑顔のトレーナーさんだけど、とりあえず納得はしてくれた……みたい?
うん、細かいことは気にしない! いざ、実践あるのみ!
「お兄さん、いつもありがとう! これもお兄さんのお陰だよ!」
「あ、ああ……ありがとう……キタサン」
「むぅ……もっとあたしに気安く話してほしいな」
「難しいなこれ……。俺の方は、『君』じゃなくて……『お前』への接し方に急に変わるわけじゃないからな」
「あっ、それだよそれ! そんな感じだよ、お兄さん!」
「な、なるほど。こんな感じか……!」
うん、いい感じ! よーしっ、このまま突き進もう!
「その感じのまま、あたしの頭、撫でてみて!」
「……よし、任せろ!」
あたしはそのまま、頭をトレーナーさんの方へ突き出した。
……別に下心があるわけじゃない。兄妹って多分こういうことするよね? ……よく知らないけど!
トレーナーさんもその勢いのまま、あたしの頭へと手を伸ばしてくれた。
「えっと……こんな感じかな?」
「あっ……えへへ♪」
トレーナーさんは、少しだけガシガシと乱暴な感じであたしを撫でてくれた。
うん……これ、いいな……。
ぴょこぴょこと耳が動き、ブンブンと尻尾が揺れてしまう。
少し乱暴なのに、全然痛くない。不器用な気遣いが伝わってきて、何だか心がふわふわする……。もっと、もっと欲しい……。
「お兄さん、お願い……。もう少し、ちょうだい……?」
「――いくらでもやってやるからな」
本当は「お兄さんらしくないですよ」なんて憎まれ口を叩きたかったのに、とろけた思考のせいで言葉にならない。
――不意に、頭を撫でる手が止まった。
さっきまでのふわふわとした熱がスッと消えて、頭の上がやけに涼しい。なんだか、急に心細くなってしまった。
「あっ……なんで、やめるの……?」
「ごめんな。これ以上やってると、帰りが遅くなる」
「えっ?」
トレーナーさんの言葉で、ふっと意識が引き戻される。
頭に置かれた手をそっと押さえたまま空を見上げると、茜色だった空は、いつの間にか深い闇に染まり始めていた。
心地よさに夢中で、すっかり時間を忘れてしまっていた。
そっか……。それじゃあ、帰らなきゃだよね。
「ご、ごめんなさい、お兄……っ、トレーナーさん! あたし、なりきり過ぎてました……っ」
「……いや、俺もやり過ぎた。お互い様だな」
ふふっ、と少しだけ気まずい笑いが落ちて、ふたたび静かな時間が戻る。
――だけど、一つだけ。どうしても聞いておきたいことがあった。
ふるふると首を振って照れを追い出し、まっすぐにトレーナーさんを見上げる。
「トレーナーさん。……その、分かりましたか?」
「えっ?」
「その……『妹』のこと、とか」
「あ、ああ……。そういえば、それがきっかけだったな」
トレーナーさんはあたしの頭に手を置いたまま、目を瞑って考え込んでいる。
――だけど、その結論は、何となく分かっていた。
やがて、ゆっくりとその目が開かれる。
「……ごめん。よく分からなかったよ」
「そうですか……」
だよね……。あんな短い時間で分かることなんて、あんまりないよね……。
内心で小さく肩を落とす。
けれど、トレーナーさんはなぜか、どこか晴れ晴れとした表情をしていた。
「だけど、楽しかったよ。本当にありがとう、キタサン」
「あっ……ふふっ♪」
「君のような妹がいたら、きっと甘やかすんだろうな」
「この感じだと、そうだと思いますよ♪ ふふ……また妹キタちゃんやりますね、お兄さん」
「あはは……その時はよろしくな、妹さん!」
「うわわっ! やめてよ、お兄さんっ!」
髪が乱れるくらいに強くなる、トレーナーさんの手。言葉遣いは元に戻ったけれど、その撫で方は、少しだけぶっきらぼうなまま。
口ではそんな文句を言いながらも、無意識のうちに、あたしはぐりぐりと頭を押し付けてしまっていた。
――今のあたしにとって、それが一番欲しいもの。
今日はもうあんまり時間がないけれど、また今度やってもらおっと。
今はただ、この温かい心地よさに流されていたいから。