「ふぁ〜……」
「……キタサン?」
「…………あっ」
担当ウマ娘であるキタサンブラックとのミーティングが終わる直前のこと。
向かいに座る彼女から気の抜けた欠伸が聞こえ、つい声を掛けてしまった。
キタサンは口元に手を当てたまま、耳をピンと立てて硬直してしまう。
しまったな……聞こえないふりをするべきだったか。
大きく見開かれた赤い瞳を見つめ返すことしかできず、暫くの間、お互いに無言の時が流れた。
「き、聞こえちゃいました……?」
窓から吹き込んだ風が通り抜けたのをきっかけにするように、キタサンがこちらを上目遣いで見つめながら口を開いた。
口元に当てていた手を滑らせ、居心地悪そうに頬を掻いている。その頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
どうする、誤魔化したほうがいいだろうか? いや、その段階はとうに過ぎている。ここは正直に言うべきだろう。
「…………すまない」
「……!」
ゆっくりと頷く。だけど、気まずさから視線を泳がせてしまったのは、失敗だったか。
僅かな後悔とともに彼女へ目を向けると、キタサンはもう一度目を丸くし、直後にガクリと肩を落とした。
…………うん、まあこうなってしまうよな。
「で、ですよね〜……。うう……気が抜けすぎてたのかな……」
とはいえ、どこか怪我をしているといった物理的なトラブルではないと分かり、内心でホッと胸を撫で下ろす。
キタサンは肩を落としてはいるものの、深く落ち込む様子はなく、ただバツの悪そうな表情でこちらを見上げていた。
その隙だらけの姿が、なんとも微笑ましい。
「……キタサン、あまり眠れていないのか?」
しかし、今の欠伸が寝不足によるものなら、少し話が変わってくる。
心身への影響を考えれば、早急に解決してやりたいところだが……。
キタサンが寝不足になっている理由には、一つだけ思い当たることがあった。
「……あ、あはは……。じ、実はその通りで……」
「原因はサトノダイヤモンドだよな?」
「うっ……そ、そこまで分かってるんですね……」
「……そうか」
図星を突かれたキタサンは、頬を赤らめたままスッと視線を逸らした。
こちらの予想通りの理由に、俺は深く納得する。
親友であり同室でもあるサトノダイヤモンドが遠征に出て、かれこれもう一週間になる。
彼女を見送る直前、キタサンが少しだけ寂しそうな顔をしていたのが記憶に新しい。
友達が多く、周りには常によく人が集まっているが、流石に一番の親友が近くにいないのは堪えたのだろう。数日前から肩を落としている場面を見かけるようになり、その都度声を掛けてはいたが、彼女は何でもないように振る舞っていた。
だから反動で何かが起こるだろうなとは思っていたが、こういう形で現れるとは……。
もう少し何か出来ることがあったのではないだろうか。そう思うと、己の至らなさがひどく情けなく思えた。
「はい、そうなんですよ……。ダイヤちゃんがいないと寂しくて……もう少しで帰ってくるのは分かってるんですけどね……」
「連絡は取り合ってるんだよな?」
「もちろん! なんですけど、声を聞くと余計寂しくなっちゃうみたいで……。ダイヤちゃんのぬいぐるみを抱いても寂しさが消えてくれないんですよね、あはは……」
「…………ふむ」
力なく笑う彼女を見つめながら、何か良い方法はないかと思案する。
声も駄目、ぬいぐるみも駄目。なら残る方法は……。
「……そうだ! トレーナーさん、良い方法思いつきましたよ!」
「えっ……そ、そうなのか?」
ああでもない、こうでもないと思案していた俺をよそに、先程まで落ち込んでいたはずのキタサンが、急にパッと顔を輝かせてこちらを見ていた。
その赤い瞳はキラキラと輝き、何か名案を思いついたと雄弁に語っている……のだけど。
正直にいえば、あまり期待はできない。
普段ならともかく、今の彼女は寝不足気味だ。とてもじゃないが、深い考えが出来るとは思えなかった。
流石にそれを直接口に出すわけにもいかず、俺は言葉を呑み込んで、一応続きを促す素振りを見せる。
「ふっふっふ……聞いて驚かないでくださいよ!」
あっ……もう駄目な予感がしてきた……。
妙な自信に満ちた笑い声。君の無邪気な目の輝きが、こんなにも不安を煽ることがあるだろうか。
なんとか笑みを作って誤魔化そうとするものの、堪えきれずに口角がピクピクと引きつってしまう。
「今からあたし……ソファーで寝ます!」
おお……もう……。やはりというか……なんというか……。
彼女の一言に、思わず天を仰ぐ。
こんな時間に仮眠をとったら夜の睡眠に響いて、余計に眠れなくなるだけだ。結果的に、睡眠不足を悪化させることになりかねない。
「キタサン、それはちょっと――」
「その時にトレーナーさんに手を繋いでもらいます! これで完璧ですよ! そうと決まれば行きましょう! さぁさぁさぁ!」
「うぉっ!?」
俺の見積もりが甘かった。
いつの間にか横へ移動していたキタサンは、有無を言わさぬ勢いで俺の手を引き、ソファーへと向かう。
ウマ娘の力に敵うはずもなく、俺は為す術なく引きずられていく他なかった。
「で、では……手、手を……握ってください……」
ソファーまで連れて行かれると、キタサンはゆっくりと手を離した。そして妙に緊張した面持ちでソファーに寝転がる。
……今まで普通に手を引いていたのに、何を今更緊張しているんだ……? それにしても、俺は一体何をさせられているんだ……?
「…………分かった」
色々と思うところはあったが、ここまできたら腹を括るしかない。
俺は、微かに震える彼女の手をそっと握り返した。
じんわりと伝わってくる柔らかな熱に、こちらの心まで温められそうだった。
「…………えへへ。トレーナーさんの手、やっぱり温かいですね……♪」
「そうかな? 俺よりも君の手の方が温かいと思うけど」
「あたしも温かいですけど、トレーナーさんも負けてないですよ……!」
「……ふふ、ありがとう。キタサン」
「えへへ……本当のこと、ですから……」
そんな他愛のない言葉を交わして、少し経った頃。
キタサンのまばたきのペースが落ち、うつらうつらし始めていることに気がついた。
「……ふわぁ〜……」
「キタサン、眠たくなっちゃったか?」
「……なんだか、安心したからか……眠たく……」
安心、か。
俺の存在が彼女に安らぎを与えられていることが、ただ無性に嬉しかった。
まあ、根本的な解決にはなっていないため、後でどうにかしなければならないのだが……。
「……トレーナー……さん……いつも……あり……」
「こっちこそ。いつもありがとうな、キタサン」
「……すぅ」
俺の返事が届いていたのかは分からない。
ただ、彼女は安心しきった様子で、穏やかな寝息を立て始めていた。
「…………寝ちゃったか」
これで夜に眠れなくなっても、知らないぞ。
だけど。
「……無理に起こすわけにもいかないしな」
せめて今だけでも、この穏やかな時間を過ごしてほしい。
そう願いながら彼女の頭へと手を伸ばし、ゆっくりと、優しく撫でた。
「…………えへへ」
ふわりとした髪の感触と幸せそうな寝顔に癒されながら。俺は彼女が目を覚ますまで、ずっとその頭を撫で続けた。
………………
…………
……
「トレーナーさん!」
「き、キタサン? 突然やってきてどうしたんだ?」
そんな出来事があった、翌日の朝。
トレーナー室で資料を見つめていた俺の元へ、勢いよく駆け込んできたキタサン。
ビクリと肩を震わせて驚くこちらなど気にする様子もなく、彼女はキラキラと瞳を輝かせている。
「やりました!」
「や、やったって……何を?」
「あの後、夜に寝てみたらですね……なんと! しっかり眠ることが出来たんですよ!」
「…………えぇ?」
キラキラと輝く瞳で告げられた予想外の言葉に、思わず戸惑いの声が漏れる。
確かにあの後、キタサンはスッキリとした笑顔で早々に寮へと戻っていったが……あのお昼寝の後に、夜も熟睡したというのか。
……これが、若さというやつか。
「きっとあの手の温かさを覚えてたからです! 全部、トレーナーさんのおかげですよ!」
困惑する俺を置いてけぼりにしたまま、キタサンはキラキラと嬉しそうに笑っている。
……本当に感謝されるようなことをしたのだろうか? いや、問題が解決したのなら、とりあえずは良しとするべき……なのか?
「ですので! またお願いしますね、トレーナーさん!」
「えっ?」
とびきりの笑顔を向けてくる彼女の前で、俺の思考は完全にショートしていた。
また? またって、あれをやるのか? なんで?
「あの手の温かさがあれば寂しさがなくなりそうなんです! ……だめ、ですか……?」
「……うっ」
自信満々だった表情から一転、不安げに上目遣いをしてくるキタサンに、つい言葉が詰まる。
くっ……君のその表情に俺は弱いんだよなぁ……。無意識なんだろうけど、本当にずるい。
…………そう。仕方ない、よな。
「…………分かったよ」
「……! 本当ですか!」
「ああ。……サトノダイヤモンドが帰ってくるまでだぞ?」
「えへへ♪ やったぁ!」
キタサンは輝かんばかりの笑顔とともに、ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。
まあ、サトノダイヤモンドが帰ってくるまでの間なら、良いよな。
俺はそんなことを考えながら、彼女の姿を微笑ましく見守っていた。
しかし、現実はそんなに甘くはない。
サトノダイヤモンドが帰ってきてからも、この甘い習慣はしばらく続いてしまうのだが。
……それはまた、別の話だ。