太陽が空を赤く染めていたのも数時間前のこと。空はすでに暗闇へ沈み、窓の外にはただ濃い夜が広がっている。
「ふぅ……」
書類から視線を外し、ゆっくりと両腕を伸ばす。
こわばっていた体がほぐれていくのを感じながら、俺は帰宅の準備を始めた。
机の上の片付けを終わらせようとしていた、ちょうどその時のことだ。
トントン……。
「うん?」
扉が弱々しく叩かれた。
こんな時間に誰だろう、たづなさんかな?
「はい、どなたですか?」
扉へ声を掛ける。
………………。
数秒待っても、返事はない。
不思議に思って首を傾げる。
すると。
「と、とれーなーさぁん……」
扉の奥から、微かに震える声が聞こえた。……って、この声は。
「き、キタサン?」
目を丸くして、思わず聞き返してしまう。
聞き間違いでなければ、今の声はキタサンのはずだ。
だが、いつも元気な彼女が、あんな弱々しい声を出すだろうか……?
困惑したまま扉の向こうからの反応を待つこと数秒。
「う、うう……」
先ほどと変わらない声とともに、ゆっくりと扉が開く。
隙間から姿を見せたのはキタサンだった。
その表情はどこか暗く、今にも泣き出してしまいそうに見える。
「ど、どうしたんだキタサン……?」
動揺のあまり、そんな単純な言葉しか出てこない。
しかしキタサンは何も答えず、ただふるふると震えるばかりだった。
こんな夜遅くに、一体何が起きたというのか。
「……うう……」
「えっ?」
不意に聞こえた、微かに震える声。
しかしそれはあまりにも小さく、何と言ったのかまでは分からない。
「うう……トレーナーさーん!!!」
「ぐぅ!?」
思わず聞き返した、その一瞬。
キタサンが弾かれたように俺の方へと飛びついてくる。
あまりの勢いに、俺はただうめき声を漏らすことしかできなかった。
………………
…………
……
「……ぐす」
「なるほど」
キタサンの一撃から何とか立ち直り、涙目になっている彼女から事情を聞き終えた。
どうやらキタサンは忘れ物をしてしまったらしく、それを取りに学園に入っていたとのこと。
言ってしまえばただの忘れ物だが、キタサンにとってはそうもいかない。彼女は幽霊が大の苦手なのだ。
そんなキタサンが夜の学園に入るのが、どれほど不安だったかは想像に難くない。
「い、今……ダイヤちゃんいなくて……それで……」
頼れる同室の親友はあいにく遠征中だ。交友関係の広い彼女だが、幽霊に怯える姿など、他の友達には見せたくないに決まっている。
そうした事情もあって、なんとか勇気を振り絞ってここへ来たのだろうが。
「ひとりで帰るの、怖くなっちゃったか」
「はい……」
だが、その勇気も長くは続かなかったようだ。
なんとか目的のものは回収したものの、そこでついに恐怖が限界に達し、すがるような思いで歩き回るうちにここへ辿り着いたらしい。
「その……迷惑……でしたか……?」
こちらの顔色をうかがうように、キタサンがたどたどしく問いかけてくる。
不安に揺れるその瞳には、申し訳なさが色濃く滲んでいた。
普段は誰かの世話を焼いてばかりの彼女は、滅多に人に頼ろうとしない。
そんなキタサンが、今夜は自分にだけ弱みを見せて頼ってくれている。
こんな時に不謹慎かもしれないが、確かな信頼を感じて胸の奥が温かくなった。
「いや、そんなことないよ」
「っ……! ありがとうございます……」
とはいえ、そんな下心を悟られるわけにはいかない。
自分の気持ちを胸の奥に押し込め、キタサンを安心させるように、ただ静かに微笑みかけた。
すると、目を丸くしていたキタサンの顔にも、少しぎこちないながらも笑顔が浮かぶ。
やっぱり、彼女には笑顔が一番似合う。釣られるように、俺の口元も自然と綻んでいた。
「う、うう……」
あの後、俺たちはすぐにトレーナー室を後にした。
しかし、ひとりがふたりになっても怖いものは怖いらしい。隣を歩くキタサンは、俺と手を繋いでいるというのに小刻みに震えている。
ここまで来るの、本当に心細かったんだろうな……。
俺は何も言わず、繋いだ手を優しく、きゅっと強く握りしめた。
「! ……♪」
こちらに伝わっていた震えが、徐々に弱まっていく。やがて、彼女の方からも俺の手をぎゅっと握り返してくれた。
手のひらが、じんわりと温かくなる。
安心したのか、キタサンの歩みが少しだけ速くなった。
「ふふ……」
思わずこぼれた笑みのまま、俺も彼女に合わせて足を速めた。
………………
「……っと、もう着いたな」
足を速めて学園を通り抜けると、あっという間に目的地が見えてきた。
気づけば、寮はもう目と鼻の先だ。さて、ここまで来たら今日はもうお別れだな。
俺は名残惜しさを覚えながら、キタサンの方へと視線を向けた。
「……」
キタサンは下を向いたまま、繋いだ手を強く握りしめて離そうとしない。
どうしたんだ、と口にしかけて、すぐに止めた。
当たり前だ。幽霊に怯えきった後で、親友のいない部屋にひとり帰るのが怖いのは当然だろう。
もし俺がここでお別れを口にしたらどうなるか。心優しい彼女のことだ、きっと無理にでも笑って、気を遣わせないように離れようとするに違いない。
「……っ」
だから俺は何も言わず、彼女が落ち着くまで側にいようと決めた。
キタサンは強い子だ。時間が経てば、きっと自分の意志で手を離せる。そう信じているから。
「……よ、よし!」
繋いだ手が少し痛くなってきた、その時。
キタサンが小さく声を上げ、自らパッと手を離した。
そのまま帰るのかと思ったが、彼女は俺と向かい合うようにして立ち止まる。
「え、えっと……その……」
キョロキョロと辺りを見回すキタサン。
妙に落ち着きがない。だが、怯えや不安とは違うような?
よく分からない事態に、ただ首を傾げることしかできない。
そんな時間がしばらく続くと思っていた――
「……っ!」
「ぐぅ!?」
――のだが。
突如として腹部を襲った、覚えのある衝撃。
思わず情けないうめき声を漏らしながら、俺はゆっくりと視線を落とした。
「き、キタサン?」
彼女は俺のお腹に顔をうずめたまま、背中に回した腕をギュッと力強く引き寄せてくる。
……ううむ?
無言で抱きついてくる彼女の意図が読めず、俺はただ首を傾げた。
「……っ!」
無意識のうちに俺の手は彼女の頭に伸び、ゆっくりとその髪を撫でていた。
ふふ、少し跳ねた毛先がこそばゆいな。
そんな心地よい感触を手のひらに味わいながら、俺は静かに手を動かし続けた。
「……えへへ♪ よし!」
嬉しそうな声の直後、キタサンは名残惜しさを断ち切るように俺から離れた。
そのまま背を向けて帰るかと思ったが、彼女は立ち止まり、こちらをじっと見つめてくる。
「トレーナーさん、ありがとうございました! もう大丈夫ですから……では、また明日!」
大きく尻尾を揺らし、弾けるような笑顔を残して、彼女は早足で駆けていく。
……やっぱり、気づかれていたか。
俺は少し熱くなった頬を掻きながら、小さくなっていくその背中を見送った。
「……ああ、また明日な」
照れくささを隠すように小さく手を振り返し、夜道に溶けていく背中を見送る。
彼女と繋いでいた手のひらをギュッと握りしめると、いまだに残る温もりが、じんわりと心の奥まで広がっていった。
自然と緩んでしまう頬そのままに、俺も帰路へと歩みを進めた。