ウマ娘キタサンブラック短編集   作:大典74

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pixivにある同名の作品を手直ししております


夜のちょっとした一時

 太陽が空を赤く染めていたのも数時間前のこと。空はすでに暗闇へ沈み、窓の外にはただ濃い夜が広がっている。

 

「ふぅ……」

 

 書類から視線を外し、ゆっくりと両腕を伸ばす。

 こわばっていた体がほぐれていくのを感じながら、俺は帰宅の準備を始めた。

 机の上の片付けを終わらせようとしていた、ちょうどその時のことだ。

 

 トントン……。

 

「うん?」

 

 扉が弱々しく叩かれた。

 こんな時間に誰だろう、たづなさんかな?

 

「はい、どなたですか?」

 

 扉へ声を掛ける。

 

 ………………。

 

 数秒待っても、返事はない。

 不思議に思って首を傾げる。

 すると。

 

「と、とれーなーさぁん……」

 

 扉の奥から、微かに震える声が聞こえた。……って、この声は。

 

「き、キタサン?」

 

 目を丸くして、思わず聞き返してしまう。

 聞き間違いでなければ、今の声はキタサンのはずだ。

 だが、いつも元気な彼女が、あんな弱々しい声を出すだろうか……?

 困惑したまま扉の向こうからの反応を待つこと数秒。

 

「う、うう……」

 

 先ほどと変わらない声とともに、ゆっくりと扉が開く。

 隙間から姿を見せたのはキタサンだった。

 その表情はどこか暗く、今にも泣き出してしまいそうに見える。

 

「ど、どうしたんだキタサン……?」

 

 動揺のあまり、そんな単純な言葉しか出てこない。

 しかしキタサンは何も答えず、ただふるふると震えるばかりだった。

 こんな夜遅くに、一体何が起きたというのか。

 

「……うう……」

「えっ?」

 

 不意に聞こえた、微かに震える声。

 しかしそれはあまりにも小さく、何と言ったのかまでは分からない。

 

「うう……トレーナーさーん!!!」

「ぐぅ!?」

 

 思わず聞き返した、その一瞬。

 キタサンが弾かれたように俺の方へと飛びついてくる。

 あまりの勢いに、俺はただうめき声を漏らすことしかできなかった。

 

………………

…………

……

 

「……ぐす」

「なるほど」

 

 キタサンの一撃から何とか立ち直り、涙目になっている彼女から事情を聞き終えた。

 どうやらキタサンは忘れ物をしてしまったらしく、それを取りに学園に入っていたとのこと。

 言ってしまえばただの忘れ物だが、キタサンにとってはそうもいかない。彼女は幽霊が大の苦手なのだ。

 そんなキタサンが夜の学園に入るのが、どれほど不安だったかは想像に難くない。

 

「い、今……ダイヤちゃんいなくて……それで……」

 

 頼れる同室の親友はあいにく遠征中だ。交友関係の広い彼女だが、幽霊に怯える姿など、他の友達には見せたくないに決まっている。

 そうした事情もあって、なんとか勇気を振り絞ってここへ来たのだろうが。

 

「ひとりで帰るの、怖くなっちゃったか」

「はい……」

 

 だが、その勇気も長くは続かなかったようだ。

 なんとか目的のものは回収したものの、そこでついに恐怖が限界に達し、すがるような思いで歩き回るうちにここへ辿り着いたらしい。

 

「その……迷惑……でしたか……?」

 

 こちらの顔色をうかがうように、キタサンがたどたどしく問いかけてくる。

 不安に揺れるその瞳には、申し訳なさが色濃く滲んでいた。

 普段は誰かの世話を焼いてばかりの彼女は、滅多に人に頼ろうとしない。

 そんなキタサンが、今夜は自分にだけ弱みを見せて頼ってくれている。

 こんな時に不謹慎かもしれないが、確かな信頼を感じて胸の奥が温かくなった。

 

「いや、そんなことないよ」

「っ……! ありがとうございます……」

 

 とはいえ、そんな下心を悟られるわけにはいかない。

 自分の気持ちを胸の奥に押し込め、キタサンを安心させるように、ただ静かに微笑みかけた。

 すると、目を丸くしていたキタサンの顔にも、少しぎこちないながらも笑顔が浮かぶ。

 やっぱり、彼女には笑顔が一番似合う。釣られるように、俺の口元も自然と綻んでいた。

 

「う、うう……」

 

 あの後、俺たちはすぐにトレーナー室を後にした。

 しかし、ひとりがふたりになっても怖いものは怖いらしい。隣を歩くキタサンは、俺と手を繋いでいるというのに小刻みに震えている。

 ここまで来るの、本当に心細かったんだろうな……。

 俺は何も言わず、繋いだ手を優しく、きゅっと強く握りしめた。

 

「! ……♪」

 

 こちらに伝わっていた震えが、徐々に弱まっていく。やがて、彼女の方からも俺の手をぎゅっと握り返してくれた。

 手のひらが、じんわりと温かくなる。

 安心したのか、キタサンの歩みが少しだけ速くなった。

 

「ふふ……」

 

 思わずこぼれた笑みのまま、俺も彼女に合わせて足を速めた。

 

………………

 

「……っと、もう着いたな」

 

 足を速めて学園を通り抜けると、あっという間に目的地が見えてきた。

 気づけば、寮はもう目と鼻の先だ。さて、ここまで来たら今日はもうお別れだな。

 俺は名残惜しさを覚えながら、キタサンの方へと視線を向けた。

 

「……」

 

 キタサンは下を向いたまま、繋いだ手を強く握りしめて離そうとしない。

 どうしたんだ、と口にしかけて、すぐに止めた。

 当たり前だ。幽霊に怯えきった後で、親友のいない部屋にひとり帰るのが怖いのは当然だろう。

 もし俺がここでお別れを口にしたらどうなるか。心優しい彼女のことだ、きっと無理にでも笑って、気を遣わせないように離れようとするに違いない。

 

「……っ」

 

 だから俺は何も言わず、彼女が落ち着くまで側にいようと決めた。

 キタサンは強い子だ。時間が経てば、きっと自分の意志で手を離せる。そう信じているから。

 

「……よ、よし!」

 

 繋いだ手が少し痛くなってきた、その時。

 キタサンが小さく声を上げ、自らパッと手を離した。

 そのまま帰るのかと思ったが、彼女は俺と向かい合うようにして立ち止まる。

 

「え、えっと……その……」

 

 キョロキョロと辺りを見回すキタサン。

 妙に落ち着きがない。だが、怯えや不安とは違うような?

 よく分からない事態に、ただ首を傾げることしかできない。

 そんな時間がしばらく続くと思っていた――

 

「……っ!」

「ぐぅ!?」

 

――のだが。

 

 突如として腹部を襲った、覚えのある衝撃。

 思わず情けないうめき声を漏らしながら、俺はゆっくりと視線を落とした。

 

「き、キタサン?」

 

 彼女は俺のお腹に顔をうずめたまま、背中に回した腕をギュッと力強く引き寄せてくる。

 ……ううむ?

 無言で抱きついてくる彼女の意図が読めず、俺はただ首を傾げた。

 

「……っ!」

 

 無意識のうちに俺の手は彼女の頭に伸び、ゆっくりとその髪を撫でていた。

 ふふ、少し跳ねた毛先がこそばゆいな。

 そんな心地よい感触を手のひらに味わいながら、俺は静かに手を動かし続けた。

 

「……えへへ♪ よし!」

 

 嬉しそうな声の直後、キタサンは名残惜しさを断ち切るように俺から離れた。

 そのまま背を向けて帰るかと思ったが、彼女は立ち止まり、こちらをじっと見つめてくる。

 

「トレーナーさん、ありがとうございました! もう大丈夫ですから……では、また明日!」

 

 大きく尻尾を揺らし、弾けるような笑顔を残して、彼女は早足で駆けていく。

 ……やっぱり、気づかれていたか。

 俺は少し熱くなった頬を掻きながら、小さくなっていくその背中を見送った。

 

「……ああ、また明日な」

 

 照れくささを隠すように小さく手を振り返し、夜道に溶けていく背中を見送る。

 彼女と繋いでいた手のひらをギュッと握りしめると、いまだに残る温もりが、じんわりと心の奥まで広がっていった。

 自然と緩んでしまう頬そのままに、俺も帰路へと歩みを進めた。

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