これを投稿するのは少し季節外れですね
長く続いていた肌寒さがようやく和らぎ、春らしい暖かい風が髪と耳を優しく撫でていく。見上げれば、天高く昇る太陽がぽかぽかと辺りを照らしていて気持ちがいい。
この季節にしか味わえない穏やかな陽気に包まれながら、あたしとトレーナーさんはふたり並んで歩いていた。
「トレーナーさん、早く早く! こっちに来てください!」
後ろを振り向き、ゆっくりとこちらへ歩いてくるトレーナーさんに呼びかける。
それに気づいたトレーナーさんは、すぐに早足になってくれた。
普段のあたしなら、相手を急かすような真似はあんまりしない……よね? ……いや、もしかしたら――
「ふぅっ……ようやく着いたっ……」
――っと、いけない、いけない。つい変なことを考えてしまった。
さっきまでの考えを春風に乗せて振り切り、慌ててトレーナーさんへと視線を向ける。
彼は少しだけ息を切らせながら、苦笑いでこちらを見ていた。
「ごめん、キタサン。やっぱり、俺の足じゃ君には追いつけないや」
「あはは……ごめんなさい……」
図星を突かれた一言に、あたしは頭をかいて誤魔化す。
だけど、急かしたのには理由がある。
息を整えたトレーナーさんはあたしの隣に並び、そのまま前方に視線を向けた。
「でも、君が急かすのも分かる気がするよ」
「……えへへ、ですよね」
隣を見ると、そこに広がる光景――大きな桜の木に、トレーナーさんは目を丸くして見入っていた。
春風に揺れる枝葉に誘われるように、一枚、また一枚と桜が舞い散る。
それは、この時期にしか出会えない特別な光景だった。
「綺麗だな……」
ボソリと聞こえた声は、きっと無意識に出たものだろう。だけど、あたしの耳はそれを聞き逃すことはなかった。
チラリと見えた横顔は、何処か少年のような面影を残していて、声と同じように嬉しさで輝いて見えた。
あたしはその横顔をこっそりと瞳に焼き付けてから、視線を桜へと戻す。
うん……やっぱり綺麗だな……。
「こんな場所を知ってるなんて、さすがキタサンだな」
思いがけない褒め言葉に、ほっぺたがカッと熱くなる。
「そんなことないですよ。……本当に、偶然見つけただけですから」
ほっぺたの熱さに負けないように言葉を返した。
とはいえ、この場所を見つけたのは本当に偶然だ。
もうかれこれ、数ヶ月前になるだろうか。お助け活動が終わった後のことだ。
何となく体を動かしたくなって少し遠くまで走っていると、たまたま見かけたのがこの丘だった。
ここから見える景色はきっと綺麗なんだろうな……。
そんな単純な理由で、あたしは丘の上まで全速力で駆け上がったっけ。
確かにそこからの眺めは、辺り一面が鮮やかな茜色に染まっていて息を呑むほどだった。
だけどそれ以上に、あたしの目を引いたのはこの大きな桜の木だ。
ポツンと一本立っているだけにも関わらず、その姿は威風堂々としていて、ただただ目を奪われてしまった。
「その時はまだ花も咲いていなかったんですけど、気になって丘の下の方に聞いてみたんです。そこで初めて、これが桜の木だって知りました」
お花のことに、そんなに詳しいわけじゃない。
あたしひとりで出来たことなんて、それこそ、この場所を見つけたことくらいだ。
「あたしは偶然見つけただけなのに……そんな風に褒められると、照れてしまいますよっ……」
うう……駄目だ……。
ほっぺたが、太陽みたいに熱い。
そわそわと揺れる尻尾を抑えきれないまま、あたしは指でほっぺたをかいて誤魔化すしかなかった。
「……だけど、君が見つけてくれたから、俺はここに来られたんだよ。ありがとう、キタサン」
トレーナーさんはゆっくりと手を伸ばし、あたしの頭を撫で始めた。
むぅ……撫でられて喜ぶような、子供じゃないんだけどな……。
「……えへへ♪」
だから今の声は、何かの間違いだ。
何故か耳がピョコピョコしてるし。
尻尾はトレーナーさんの足に巻き付いちゃってるし。
ほっぺたも緩みっぱなしな気がするけど。
全然、喜んでなんかいない。
もっとして欲しいな……なんて、勿論思ってもいない。
いないったらいないのだ。うん。
「……って、あんまり撫ですぎるのも良くないよな。ごめん、キタサン」
内心ではそう強がっていたけれど、トレーナーさんの手はゆっくりと離れてしまう。
ま、まあ……トレーナーさんの言う通りだよね……。あたしは子供じゃないんだし……。
そうそう……ほどほどが良いんだよね……絶対……。
「あっ……」
だから今出ちゃった声も、多分気のせいだ……。
巻き付いていた尻尾は力なくほどけてしまったし、耳もしょぼんとしてる気がするけど……全部、気のせいだ……。
「そうですね……今はあたしより桜を見ましょう」
「お、おう。なんかテンション下がってないか?」
「気のせいです」
心配そうにあたしを見るトレーナーさん。
少しの申し訳なさを抱えつつ、あたしは桜の方へ視線を移した。
ごめんなさい、トレーナーさんと桜の木……ちょっとだけ誤魔化してしまうのをお許しください……。
静かに揺れる桜の美しさに、あたしは嘘をついた心を慰めてもらう。
そんな気持ちで見てはみたものの、やはり桜は良いもので、自然と気持ちは上向いていく。
風に合わせてゆったりと揺れる木。そして舞い散る花びら。ひらりひらりと地面に落ち、散らばる薄紅もまた風情がある。
「……キタサン」
……とと。桜に見入っていたら、不意に声がかかった。
だけどもう、さっきみたいに慌てることはない。
一つ息を吐いてから、トレーナーさんの方へと振り返る。
「どうかしましたか?」
「……一つ、聞いてもいいかな」
聞きたいこと? なんだろうか?
小さく首を傾げつつも、あたしの答えは決まっていた。
「はい、あたしに答えられることなら何でも聞いてください!」
「……そうか。ありがとう」
そう言った後、少しだけ考え込むようなトレーナーさん。
うーん……そんなに聞きにくいことなのかな?
不思議に思っていると、彼は真っ直ぐにあたしへ視線を向け、ゆっくりと口を開いた。
「もしかしてなんだけどさ、俺と一緒にここへ来たのには、何か理由があるんじゃないか?」
「!」
あたし達の間を強い風が吹き抜け、無数の花びらが空へと舞い上がった。
しばらくの間、ただ無言の時間だけが流れたけれど。
「……あはは、分かっちゃいますか?」
「ああ。君は分かりやすいからね」
何度目か分からない照れ隠し。それを見たトレーナーさんが柔らかく微笑んでくれる。
あたしはゆっくりと深呼吸をしてから、しっかりとトレーナーさんを見つめ返した。
「……ここにトレーナーさんと来たのは、あなたへの決意表明……みたいなものがしたかったんです」
「決意表明?」
「はい。この綺麗な桜の前で、トレーナーさんに誓いたくて。……あたし、キタサンブラックは、どんなことがあっても堂々と、真っ直ぐな走りをしてみせますって!」
桜の花言葉には、『精神の美』というものがあるらしい。
どんな時でも正直なことが美しい、という意味だそうだ。
あたしは走ることで、みんなを笑顔にしたい。
そのためには、この桜に負けないくらい真っ直ぐに、あたしらしく走り抜かなきゃいけないんだ。
「そのためには、トレーナーさんの力が必要なんです。これからも、あたしと一緒に走り抜いてくれますか?」
そう言って、あたしは真っ直ぐにトレーナーさんへと手を伸ばす。
言葉はもう必要ない。トレーナーさんなら、きっと分かってくれるから。
「……当たり前だよ。これからも君の隣で一緒に走り抜けると、この桜に誓うよ」
トレーナーさんも手を伸ばし、あたしの手を強く握りしめる。
重なり合った手から、言葉以上の確かな誓いが伝わってきた。
あたし達を祝福するかのように、舞い上がっていた花びらがゆっくりと降り注いだ。
誓いを交わしてから、どれくらいの時間が経っただろう。
木の下で並んで座り、穏やかな風に体を預けていると、不意にトレーナーさんが口を開いた。
「そういえば……さ。もう一つ、気になってたことがあるんだけど、いいかな?」
「なんですか?」
気になっていたこと? まだ何かあったのかな。
あたしは心地よい風を感じながら、不思議に思って小さく首を傾げた。
「桜の前で誓うだけなら、ここじゃなくても良かったんじゃないか?」
むぅ……。トレーナーさんはたまーに、そういうことを言っちゃいますよね……。
確かに、誓いを立てるだけなら他の桜でもよかったのかもしれない。
だけど、あたしにはここじゃなきゃダメな理由がある。
「……そんなの決まってるじゃないですか」
「……それは?」
あたしはきょとんとするトレーナーさんに向き直り、とびきりの笑顔を向けた。
「ここなら、あなたとふたりきりになれるから。……それ以外にありませんよ♪」
不意打ちの本音に、トレーナーさんは少しだけ困ったように眉を下げた。
けれど、すぐにいつもの、世界で一番優しい微笑みをあたしに返してくれる。
春の柔らかな風が吹き抜け、大きな桜の木が、ただ静かに揺れていた。