「キタサン、そろそろ満足した?」
「むぅ……っ!」
「うーん……やっぱりそうだよな……」
やんわりと聞いてはみたものの、返ってきたのは想像した通りの反応だった。
俺の腰に巻き付く彼女の腕は、さっきよりもぎゅっと力を増している。……それと、俺の胸にぐりぐりと押し付けられる頭。加減はしてくれているが少しだけ痛い。
俺はどうすることもできず、苦笑いしながらその抱擁を受け止めるしかなかった。
最近、担当ウマ娘であるキタサンブラックとの距離がさらに近くなった気がしている。元から距離感の近い子ではあったが、今はそれ以上だ。
一緒に歩けば手が触れそうになり、頭を撫でてほしいと激しく尻尾を振ってアピールしてくる。果ては、その尻尾で俺を持ち上げようとさえしてきた。……いや、尻尾でのリフトアップは前から言っていた気がするから、これは除外するか。
ともかく、最も大きな変化が、今まさに俺が直面しているこれだ。キタサンは事あるごとに抱きついてくるようになった。……まあ、場所を問わずやるのではなく、トレーナー室に限定されているのだけがせめてもの救いだろうか。
始まりがいつ頃だったのかは覚えていない。少なくとも契約期間の三年間ではなく、それからの彼女との歩みの中でのことだ。
ただ一つ確かなのは、この行為に及ぶ時、彼女が頬を膨らませて少し強引に抱きついてくるということだ。
俺に何か思うところがあるのは分かる。分かるのだが……。
どんなに理由を聞いても、顔を背けるだけで何も言ってはくれない。
ただ、その時に見える真っ赤に染まった頬が、なぜか俺の頭に焼き付いて離れなかった。
…………
……
あれからどれだけの時間が経ったのだろうか?
少しだけ視線を時計に向けてみると、すでに30分ほどが過ぎていた。
キタサンに視線を戻すが、彼女は相も変わらず、無言のまま俺の胸に頭をこすり続けている。
そういえばこの姿って、どことなく子犬が甘えているみたいだよな……。
この「引き算」のバランスで、ご自身の思い描くゆったりとした時間に近づきましたでしょうか?
「……! えへへ……♪」
無意識に手を伸ばし、彼女の頭を撫でていた。
驚いたように尻尾をピンと立てたが、すぐに嬉しげな声とともにそれを揺らし始める。
その姿を見て、つい頬が緩んでしまう。
うん、やっぱり──
「──子犬みたいだな……」
……あれ? 今、俺何か口に出していなかったか?
咄嗟に空いている手で口を押さえるが、もう手遅れな気がしてならない。
すっと血の気が引くのを感じながら、ゆっくりと下を向く。
「……」
キタサンが、不思議そうな顔をしてこっちを見ている……!
や、やはり口に出ていたのか? いや、違うかもしれない。きっと別の理由で見ているんだ。撫でる手が止まっているとか、そういうやつだ。
全く止まっていない手を見ないふりをして、俺は縋るような視線をキタサンに向け続ける。
頼む……違っていてくれ!
「と、トレーナーさん……。こ、子犬みたいって……もしかして、あたしのこと……ですか?」
祈りは届かず、返ってきた言葉は予想通りの悲しい現実だった。
左右に揺れる尻尾と赤い瞳が、言葉以上に彼女の動揺を物語っている。
そうか……そうだよな……。口に出ていた以上、聞こえていないわけがないよな……。うん、なってしまったものは仕方ない。
撫でる手を静かに止め、俺はありのままの事実を伝えることを決めた。
「……ごめん、キタサン」
「……っ!?」
「本当にごめん」
俺の言葉に息を呑むキタサン。
重い沈黙が落ち、ただ時間だけが過ぎていく。
不意に、妙な震えが全身に伝わってきた。あんな失言をしたのだから、自分が震えるのも無理はない。
そう思っていたのだが。
──違う。震えているのは、俺じゃない。
「あ、あああ……」
すぐ近くから声が聞こえ、同時に、さっきよりも強い震えが伝わってきた。
やはり、震えているのはキタサンだったのだ。
ガクガクと左右に揺れ……揺れ……。け、結構揺れるな……これ……。
ウマ娘特有のパワーのせいか、全身が激しく揺さぶられる。頭の先までシェイクされているせいで視界がブレて、け、結構、辛い……。
「──さい」
耳元で、微かな声がした。
す、少し……気分が……悪い……けど……まだ……大丈夫……。そ、それに……この声は……絶対……。
限界間近の体に鞭を打ち、揺れに逆らうように下を見る。
視界に映っていたのは──。
「ごめんなさいトレーナーさ〜ん!」
頬を真っ赤に染め、涙目でこちらを見つめるキタサンだった。
何に対する謝罪なのか、さっぱり分からない。
だが、それよりもまずは。
「き、キタサン……ゆ、揺れを……止めてくれ……。き、気分が……うう……」
「うわ~ん、トレーナーさ〜ん!」
と、とにかく……彼女を止めなくては……話は……それからだ……。
………………
「うう……」
あの後、何とかパニック状態のキタサンをなだめ、激しい揺れを止めることに成功した。
俺から離れた彼女は、すぐさま床に正座しようとしたので慌てて止める。
あの様子だと土下座までいきそうな勢いだったからな……。それだけは大人としてさせてはいけない。
とりあえずソファーに座らせて、詳しい事情を聞いてみたのだが……。
「えっと……それは本当なのか?」
「……はい」
「そ、そうか……」
もう一度確認してみたが、結果は変わらない。キタサンの重苦しい一言が、それが紛れもない事実だと物語っている。
俺は言葉を詰まらせ、ただその重い現実を飲み込むしかなかった。
「きっかけは……ちょっとしたことだったんです。トレーナーさんが……女の人と、話しているのを見ちゃって……」
そう言われてみれば、初めて抱きつかれた日、俺は確かに先輩トレーナーと立ち話をしていた。トレーニングやレースについて意見交換をしていたはずだ。
それからトレーナー室に戻った後、無言で入ってきた彼女に不意に抱きつかれた……ということか。
「よくわからないんですけど、トレーナーさんにあたしの匂いを付けなきゃって思っちゃって……」
だから、あんなに胸に頭を押し付けていたのか。
俺を誰かに取られたくないという、無意識のマーキング。その不器用でいじらしい理由に、胸の奥がギュッと締め付けられる。
「終わった後、あたし何してたんだろうって思っていたんですけど……。また似たような光景を見ちゃったら、止められなくなってました……」
自分でも制御できなくなって、今に至るというわけか。
だから抱きつく前の彼女は、あんなに頬を膨らませて強引だったのだ。俺にしがみつくことで、必死に不安を打ち消そうとしていたのだろう。
「あたし、トレーナーさんの優しさに甘えてました……。でも理由を知ったら怒られるって思って……だから……」
「……それで、俺のあの一言が刺さっちゃったんだな」
「はい……」
ずっと罪悪感を抱えていた彼女にとって、俺のあの軽率な一言がトドメになってしまったというわけか。
すべてを話し終えたキタサンは、顔と耳を弱々しく伏せている。
彼女の抱えていた思いも、俺の疑問も、これでようやく理解できた。
だが、俺にはまだやらなければならないことがある。
キタサンの目の前まで歩み寄る。下を向いたままの彼女は、視線を合わせてはくれない。
それでも言わなければならない。彼女にとって、恐らく残酷な真実を伝えるために。
「キタサン、まずは謝らせてほしい」
「……トレーナーさん?」
彼女はゆっくりと顔を上げ、俺を見つめた。その表情は罪悪感に苛まれ、本来の明るさを失っている。
そんな彼女を前に、俺の胸は締め付けられるようだった。
これ以上痛む胸を押さえつけるようにして、俺は静かに口を開いた。
「さっきの発言なんだけど、あれは君の意図に気づいて言ったわけじゃないんだ」
「……へ?」
「ただ子犬みたいに甘えてると思っただけで、マーキングだなんて思ってもみなかったんだ」
「え……えっ……?」
彼女の顔は、みるみるうちに青ざめていく。
そして、さっき俺を抱きしめていた時と同じように、体全体が激しく震えだした。
心が痛む。これ以上言葉を紡ぐのは苦しい。
だが、失礼なことを言ってしまった以上、絶対に謝らなければならない。
「失礼なことを言ってしまって、本当にごめん」
「そ、それじゃあ……あたしの意図に気づいて、諭そうとした……わけじゃなくて……?」
「……本当にごめん」
「ぜ、全部……あたしの……自爆……?」
俺は深く、深く、頭を下げる。
今はそうすることしかできないからだ。
この後に降り注ぐであろう嵐を、ただじっと待ち構えるしかなかった。
「あ……」
絶望に染まった小さな唸り声が、耳を刺す。
だが、俺は顔を上げられない。いや、上げてはいけない。
自分の鈍感さで担当ウマ娘をここまで辱めてしまった俺に、彼女を見る資格などないのだ。
「あたしやっちゃった!?」
「……キタサン、俺を許してくれるか?」
「えっ!? なんでトレーナーさんの方が苦しそうなんですか!?」
「俺は君を辱めた。担当トレーナー失格だ……」
「そんなことはないですよ!? お、落ち着いてくださいトレーナーさん!」
「君に許されるならなんでもする」
「ふぇ!? な、なんでも!? そ、それなら今まで通り……じゃなくて! トレーナーさん、トレーナーさんっ!?」
「本当にすまなかった……」
「もうあんな我儘なことしませんから! トレーナーさん元に戻って! トレーナーさぁん!」
ガクガクと体を揺らされながら、俺は静かに目を瞑った。
これもきっと、俺への罰なのだ。
「うわ~ん、どうすればいいの〜! 助けてダイヤちゃ〜ん!」
彼女の半泣きの声をどこか遠くに聞きながら、俺はただ、為す術もなく揺られ続けていた。